古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ 『真田丸』 第32話 「応酬」 感想

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※前回の感想です。↓

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真田丸」第32話『応酬』感想です。32回から新展開となり、人も増えて少しはマシになるかと期待したのですが(期待するなって?)・・・・・・

 

 思っていたのですが、NHKの朝の連続テレビ小説は、現実のモデルの人がいても架空の名前の人にして、「このドラマは実在のモデル・モチーフはいるけど、架空のドラマなんです」としているのに、なんで大河ドラマは同じようにしないんでしょう。これだけ、ファンタジードラマを展開しているのだから、朝の連続テレビ小説みたいに登場人物の名前も架空にすべきでしょう。そうすれば、史実とドラマを混同する人もだいぶ減るでしょう。NHKにおかれましては、是非次回から、そうしていただければと思います。

 

「いや、史実とドラマを混同する奴なんていないよ」という人もいますが、そんなことはないですよ。

 

 例えば朝の連続テレビ小説とと姉ちゃん』。主人公小橋常子さんのモチーフは『暮らしの手帳』を設立した大橋鎭子さんだというのは、NHKでも紹介しているように多くの人が知っているでしょう。そして、全然名前が違うにも関わらず「大橋鎭子さんの人生は、だいたいドラマの小橋常子さんの人生と同じだろう」と思っている人も多いです。かなり重要な部分も含めて、モチーフの方とドラマの主人公とは違う部分が多いのですが、わざわざ名前を変えても「だいたい同じ」と思ってしまう人はそれなりに多いのです。これが、ドラマで同一名にすれば、「だいたい同じ」どころではなく、シームレスに「こういう人物だったのだろう」と頭に刷り込まれてしまうので、本当に影響力はでかいのですよ。

 

 なので、せめて「これはフィクション」ということを示すためにも、NHKは朝の連続テレビ小説の例にならって、登場人物の名前を史実の人物の名前と変えるようにしていただきたいです。

 

 さて、本題に移ります。

 

 このブログでは、ドラマと史実との異同を書きますが、このドラマに史実らしきものは何ひとつないので、もう「全部フィクションです」でいいような気がします。

 

 前から書いていますが、フィクションだから批判している訳ではありません。脚本家が史実をねじまげて(あるいはそもそも史実に無知で)フィクションの筋書きを書いていて、その筋書きが面白くなく、はっきりいって「つまらない」「改悪」だから書いているのです。ただし、「面白い」「つまらない」というのは見る人の主観で、感想人それぞれですので、「いや、面白いよ」という人の感想も排除しません。が、史実とドラマを混同してほしくないな、と思って書いているんですね。

 

 あと、このレビューでこのドラマの人物の名前を史実の名前そのままに書くのも、かえって誤解を広げるので、ここでは略称を使います。略称は以下を参照願います。

 

【凡例】(史実の呼称=このエントリーでのドラマの登場人物の呼称(略称))

石田三成=三谷版石田三成(三三(さんざん))

加藤清正=三谷版加藤清正(三清(さんきよ))

細川忠興=三谷版細川忠興(三忠(さんちゅう))

前田利家=三谷版前田利家(三利(さんとし))

大谷吉継=三谷版大谷吉継(三吉(さんきち))

 

1.さて、史実の三成は8月18日の秀吉の死後に、9月には朝鮮出兵の兵の撤退作業のため博多に向かっています。そして12月24日頃に大坂に戻っています。だから、史実の三成はしばらく博多に行っており、ドラマの三三のように、秀吉死後の多数派工作とかいろいろやっている暇がそもそもないのです。

 

 というか、まさに家康の私婚問題というのは、三成と浅野長政が撤兵作業のため、博多に下向している隙を狙った行動でしょう。前回に三成(及び三三)が博多へ下向する前フリを三谷氏が書いたのは、普通にそういうことだと思ったのですが、おそらく時代考証担当の指摘を受けて脚本に書き足した意図を三谷氏が全く理解できなかったか、理解できても今更書き換えられない事情(役者の手配とか)が三谷氏及びNHKにあったのでしょう。

 

 だから、このドラマの三三が多数派工作のために酒宴をしたけど、ガラガラだったとか、三三が空気を読めず中座したとか、それを見て三忠が愛想をつかしたとかはファンタジーです。

 

 さて、ドラマの三三は、はじめは空気を読めない、頭のおかしいコミュ障キャラクター設定だったのですが、ここ数回は(主に秀吉から)信繫に害が及ばないようにフォローをしたりする普通に空気が読めるキャラクターになっていました。そりゃ、そうですね。空気を読みきれなければ即死の暴君秀吉の御側近くに長く仕えていて、空気が読めないコミュ障キャラクター三三では本当に何度も即死しているでしょう。さすがの三谷氏もドラマの展開上無理があると思ったのでしょう。(なら、そんな無理のある設定にはじめからするなという話ですが・・・・・)それで三三の「空気読めないコミュ障キャラ」はしばらく封印でした。

 

 それが秀吉の死とともに、このキャラクター封印は解除され、三三は、今回再び三谷設定の「空気の読めないコミュ障キャラクター」を演じ切ることになります。つまりは、三谷氏の脚本的には、三三が「空気の読めないコミュ障キャラクター」なので、周りの人望を集められず関ヶ原の戦いは負けた、という従来の俗説をなぞったキャラクター設定にしたということですね。

 

 だから、酒の場で三三が中座して三清と付き合わなかったから、仲が悪化したというファンタジーストーリーも酷過ぎるフィクションですが、そういう三谷設定なのだから、その設定上そうなるでしょう。この三谷ドラマは、三谷設定の非現実的な頭のおかしなキャラクターがたくさん出てきて、頭痛がしてきます。そういうのは現実の登場人物名を使わず、三谷氏のオリジナルフィクションドラマでやっていただきたいです。

 

2.そして三利が、既に死にかけのキャラクターとして、実質的に退場しています。史実では慶長四(1599)年1月、(この頃前田利家は確かに既に病だったようですが)「前田利家を含む」四大老五奉行は家康の私婚問題を詰問しています。このドラマの三吉の忠告の通り、この時点では三成はドラマのように家康の矢面に立っていません。史実では、前田派(家康以外の四大老五奉行)VS家康の対立として展開していきます。

 

 まとめます。三三が「空気の読めないコミュ障キャラクター」で人望がなく、それゆえ必然的に西軍が負けたという三谷さんの設定は、江戸時代に徳川(東軍)派が作った俗説通りですね。東軍の黒田官兵衛が主人公のドラマの『軍師官兵衛』なら、そういう展開でも仕方ないでしょう。しかし、西軍の信繫が主人公でありながら、結局徳川史観の俗説通りのストーリーを作り、更にそれを三谷オリジナル設定で上書きするというのが、三谷さんと時代考証担当さんが、このドラマで目指すところだったのですな。

 

 まあ、関ヶ原の戦いの終わりまでドラマは見届けますが、まあ今までの酷さからいってたいして期待できないでしょう。しかし、なんつーか、失望しました。関ヶ原の戦いの終わりとともに、このドラマの視聴もレビューも終了しようと思います。このドラマが始まった時には、これから『軍師官兵衛』より酷いレベルの戦国ドラマを見ることになるとは思いもよりませんでした。

 

※次回の感想です。↓

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秀吉の三つの遺言状

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 豊臣秀吉の遺言とされるものは「覚書」も含めると3つあります。

 

 ひとつは、浅野家に伝来した「太閤様御覚書」、ひとつは早稲田大学に所蔵されている「豊臣秀吉遺言覚書書案」、ひとつは「豊臣秀吉自筆遺言状案」(山口・毛利博物館蔵)です。それぞれ順に見ていきます。

 

1.「太閤様御覚書」(浅野家文書) 

 

 この覚書は、五奉行のひとりである浅野長政が、秀吉の遺言を聞き取ったものを覚書として残し、代々浅野家に伝えられたものとされます。

 

「太閤様御覚書」の全文については、阿部正則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)から引用しました。

 

「大閣様被成御煩候内二被為 仰置候覚

①一内府久々りちきなる儀を御覧し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼様を孫むこになされ候之間、 秀頼様を御取立候て給候へと、被成 御意候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、 度々被 仰出候事

②一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事

③一江戸中納言殿ハ 秀頼様御しうとになされ候條、 内府御年もよられ 、 御煩気にも御成候者、 内府のことく、 秀頼様之儀 、 被成御肝煎候へと 、 右之衆居申所にて被成 御意候事

④一羽柴肥前殿事ハ、 大納言殿御年もよられ、 御煩気にも候間 、 相不替秀頼様御もりに被為付候篠、 外聞實儀忝と存知、 御身二替り肝を煎可申と被 仰出 、 則中納言二なされ 、 はしたての御つほ、 吉光之御脇指被下 、 役儀をも拾万石被成御許候事

⑤一備前中納言殿事ハ 、 幼少より御取立被成候之間 、 秀頼様之儀ハ御遁有間敷候條 、 御奉行五人にも御成候へ、 又おとな五人之内へも御入候て 、 諸職おとなしく 、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと 、 被成 御意候事

⑥一景勝、輝元御事ハ、 御りちぎに候之間、 秀頼様之儀御取立候て給候へと、 輝元ヘハ直二被成 御意候、 景勝ハ御國二御座候故、 皆々二被為 仰置候事

⑦一年寄共五人之者ハ、 誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、 さけさやの躰にて罷出、 双方へ令異見、 入魂之様二可仕候 、 若不届仁有之而きり候ハゝ 、 おいはらとも可存候、又ハ 上様へきられ候とも可存と、 其外ハつらをはられ、さうりをなをし候共、 上様ヘと存知、秀頼様之儀大切二存知 、肝を煎可申と、 被成 御意候事

⑧一年寄為五人、 御算用聞候共、 相究候て、 内府、大納言殿へ懸御目 、 請取を取候而、 秀頼様被成御成人、 御算用かた御尋之時、 右御両人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事

⑨一何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと、 被成 御意候事

⑩一伏見ニハ内府御座候て、 諸職被成御肝煎候へと 御意候 、 城々留守ハ徳善院、長東大蔵仕、何時も内府てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、 無気遣上可申由、 被成 御意候事

⑪一大坂ハ 秀頼様被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、 御城御番之儀ハ 、 為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可申由、被成 御意候事

右一書之通 、年寄衆、真外御そはに御座候御女房衆達 、御聞被成候 、 以上」(*1)

 


 従来、この覚書で「年寄」とされているのは「五大老」のことを指していると解釈されていました。例えば桑田忠親氏の「太閤の手紙」(1959年初出)では、そのような解釈に基づいた現代語訳になっています。

 

 しかし、近年の研究では、この「年寄」というのは、五大老ではなく、五奉行のことであるとされています。と書くと、半分しか正しくないのですが・・・・・・。(以下参照)

 

真田丸』の時代考証担当である丸島和洋氏は、下記のインタビューで

「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行と呼び、自分たちこそが年寄、おとな(老)だと主張。豊臣政権の家老は自分たちで、家康たちは役人にすぎないという意味を込めて、そういう言葉の使い方をしていた」

と述べています。

 また、

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」

 

とも述べています。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/subject/subject37.html

 

 これは丸島氏の見解というだけでなく、現在の歴史研究者の方達の主流な見方といってよいといえます。

 

 阿部正則氏はこの「太閤様御覚書」(浅野家文書)について前掲の「豊臣五大老五奉行についての一考察」(この論文が、「五奉行=年寄」であるという指摘をした最初の論文だとされています。)で、以下のように指摘しています。

 

「第一条の条文解釈は 、 年寄を大老とした場合には「大納言殿年寄衆五人居申所にて」の部分が「大納言殿と大老衆五人が居るところで」という解釈を余儀なくされ 、不自然な感じを受ける 。 第二条の「内府年寄五人居申所にて」の部分も 、内府と年寄五人は別のものと考えた方が解釈しやすい。内府(徳川家康)・大納言(前田利家)と年寄五人は別の存在と考えられる。

 第六条には「景勝ハ御囲二御座候故」とあることから、景勝が会津に在国中であることが明らかである。 とすれば、通説の場合「年寄五人居申所にて」(①・②)と矛盾する 。上杉景勝と年寄五人は別の存在として考えなければならない。

 第八条では 御算用の事は年寄五人で究めることが記されているが 、 内府・大納言は 、年寄五人の上に位置づけられるべきではないだろうか。」(*2)

 

 

 特に、蔵入の算用は、奉行衆の仕事ですので五大老が行うというのはやはり不自然です。やはり、この「覚書」に関しては少なくとも「年寄=五奉行」とするのが正しい解釈となります。

 

 このように、少なくとも五奉行自身は、自らを「年寄」と称していたことが近年の研究で明らかにされています。この『覚書』は「浅野家文書」であり、五奉行の一人である浅野長政が記したものですので、ここでの「覚書」の「年寄」とは「五奉行」であり、「年寄=五大老」と訳するのは間違いとなります。

 

 この事をふまえると、現代語訳は以下のようになります。(現代語訳は、桑田忠親氏の「太閤の手紙」講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)、p293~295の訳を参考にしていますが、桑田忠親氏は「年寄」は「五大老」と訳していますので、ここでは「年寄」をそのまま「年寄」に直しています。(*原文の「年寄」「おとな」とは「五奉行」のこと、「奉行」は「五大老」のことになります。)


「『太閤様御覚書』

一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。

一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。

一つ、江戸中納言徳川秀忠)殿は、秀頼様の御舅の間柄になったので、親の家康殿が年をとられ、わずらいがちにでもなった時は、家康殿と同様に、秀頼様のことを面倒見て頂きたいと、右之衆(年寄のこと?)のいる所で仰せになった。

一つ、羽柴肥前殿(前田利長)殿は、親の利家殿が年も寄られ、わずらいがちになっても、相変わらず秀頼様のお守役に付けることにしたから、忝く思って、世話をやいてほしいと仰せられ、これを中納言に進め、橋立の茶壷と吉光の脇差を下され、祝儀として十万石も与えられた。

一つ、備前中納言宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。

一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。

一つ、年寄五人は、たとい誰であっても、御法度に背くような事をしでかしたら、さげ鞘の恰好でやって来て、仲違いした双方の者に意見し、仲よくするようにしてほしい。それでも万一不届きな者があったならば、刀を抜いて斬れば、太閤様に対して追腹を切ったと思っている。また、太閤様に斬られたとも思うがよい。たとい秀頼様に面をなぐられ、草履を直しても、それを太閤様のやったことだと思い、大切に扱い、世話をやいてほしいと仰せられた。

一つ、年寄五人で蔵入の御算用を処理することにきめたから、家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をとっておき、秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、御両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。

一つ、どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように、と仰せられた。

一つ、伏見城には家康殿が居られて、庶務を世話やかれたい、と仰せになった。留守役は前田玄以長束正家がつとめるが、家康殿が天守までも上ると云われたら、心配なく上げるようにと、仰せられた。

一つ、大坂城には秀頼様が居られるから、利家殿がお守役として、すべてについてお世話願いたいと仰せられた。御城番のことは、皆で協力して勤めてほしいと仰せになった。そうして、もし利家殿が天守までも上りたいといわれたならば、心配なく上って貰うように仰せになった。

以上十一ヶ条にわたる御遺言は、年寄衆その外、お側にいられる女房衆まで聞き取ったのである。」

 

(追記1:「浅野家文書」の「遺言覚書」は基本的には信用できるものの、残念ながら、もし仮に江戸時代に、部分的に浅野家自身による一部改竄があったとしても、誰にも分かりません。(関ヶ原の戦いの時に東軍についた浅野家が、江戸時代に徳川家に有利になるように覚書の記載を改竄する無言の圧力があったとしても不思議はありませんが、実際に改竄されていても他の文書がない以上、検証しようがないでしょう。ここら辺は確かに今後の課題として残るかと思います。ただし、後述する、遺言の部分的な抜書きに過ぎない「宮部文書」遺言覚書が正しく、全般的な遺言の覚書である「浅野家文書」が間違っているという見解はやはり無理です。)

 

(平成29年5月21日・令和元年9月22日追記)

 上杉景勝は、「3年の間は在国してもよいとの許可を秀吉から得た」と唱えて、慶長5年(1600年)の家康上洛要請を拒みます。

「※ フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」は、景勝が、3年の間は在国してもよいとの許可を秀吉から得たと唱えて、上洛を拒み、家康と対立したと記す(『イエズス会』)。類似した記述は、慶長6年に毛利一門の一人吉川広家が作成した覚書の案文にもみられる。そこには「今度景勝上洛延引之儀者、太閤様依 御諚、国之仕置(被)申付候、〇(三年役儀御免被成候)故、如比候」とある(『吉川』)。三年間は在京を免除されていたということか。」(尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年、p267)

 

 また、宇喜多秀家は、慶長4(1599)年9月に、家康から「太閤様御置目」を根拠に、秀家の大坂から伏見への異動を強制されます。これに対して、宇喜多秀家は、自分は前田利家とともに大坂在留を指示されていたと反論しますが、結局家康の要請を受け伏見に異動します。(大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2010年、p122)

(令和元年9月15日追記)

 姜沆(朴鐘鳴訳注)『看羊録』(平凡社、1984年)には、

「そして〔家康は、〕備前中納言筑前中納言小早川秀秋〕とを伏見に駐留させようとした(筆者注:慶長四(1599)年9月の出来事です)が、備前は拒否し、

「〔なくなられた〕大(太)閤には、肥前守と私の二人で共に秀頼〔公〕を戴き大坂を守れ、と遺言された。そのお声がまだ耳に残っております。どうしても命令は聞けませぬ」

と言った。〔しかし、〕家康が〔彼の主張を〕固く拒んで聴かなかったので、秀家はやむをえず、伏見に移駐した。」(p173~174)

とあります。

 

 これらに関する秀吉の『遺言』は、「浅野家文書」の「遺言覚書」には載っていませんが、上記で書いた通り、関ヶ原以後の浅野家が徳川家康に不利になるような遺言覚書を記載する訳がありませんので、景勝・秀家に対する上記の秀吉の遺言が事実であったとしても、この覚書には省かれていることになります。

 

(令和元年6月2日 追記)

 毛利輝元家臣の内藤隆春の慶長三(1598)年八月十九日付書状には、慶長三(1598)年八月九日に、秀吉が諸大名を集めて「遺言」した様子が詳細に書かれています。ここで、毛利輝元は、「西国の儀を任せ置かれ」た事などが記されていますが、上記の浅野家文書にはその事が書かれていません。この事からも「浅野家文書」には(意図的な)遺言の欠落があるとみてよいでしょう。(下記参照↓) 

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2.早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案

 

 この全文は、清水亮氏の「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』(柏書房)、2011年)にありましたので引用します。

 

「【釈文】

    覚

一、内符(徳川家康

  利家(前田)

  輝元(毛利)

  景勝(上杉)

  秀家(宇喜多)此五人江被仰出通(御脱力)口上、付縁辺之儀

                         互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ

           中納言徳川秀忠)御下候事

一、奉行共五人之内徳善院(前田玄以)・長束大(長束正家)両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、

  内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

 (慶長三年)八月五日

 

【現代語訳(本文のみ)】

    覚

一、内府(徳川家康

  利家(前田利家

  輝元(毛利輝元

  景勝(上杉景勝

  秀家(宇喜多秀家

 

 この五人へ太閤様から仰せ出された通り、太閤様の口頭に従って五大老同士の縁組みのことについては、五大老が互いお申し合せになって行うべきこと。

一、徳川家康殿は三年御在京なさる事。付則。領地でやるべきことが有る時は、徳川秀忠がお下りになること。

一、五奉行の内、前田玄以長束正家を一つの番として、残る三人の内一人ずつ伏見城留守居をすること。

 徳川家康殿が全体の留守居として責任を持つこと。

一、大坂城については、右の奉行の内、残る二人ずつ留守居をすること。

一、秀頼様が大坂城に御入城なさったあとは、諸侍の妻子を大坂へ移すこと。」(*3)

 

 

 時々、この「覚書」を持って「秀吉は家康に死後の体制を全権委任したのだ」と主張する方がいらっしゃって「なんでそんな主張になるんだ」とびっくりすることがあります。どうも詳しく聞いてみると、どうやら①「この『覚書』こそが、秀吉の真の『遺言』であり、浅野家文書の『覚書』は全部デタラメ」、②「この『覚書』の内容が秀吉の『遺言』の全部」という解釈をされているようです。

 

 なるほど、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、かつ、この「覚書」が秀吉の遺言の全部だとするなら、家康のみ「全体の留守居として責任を持つ」という役割を与えられ、他の四大老及び五奉行の役割(五奉行の留守役の当番以外に)には全く触れられていないから、「秀吉は家康に全権委任した」という解釈になるかもしれませんが、そんな訳ないじゃないですか。

 

 清水亮氏の前掲書によりますと、

「「遺言覚書」(筆者注:2.の早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案)のこと」は、秀吉の遺言の全貌を記していません。浅野家に伝来した豊臣秀吉遺言覚書(筆者注:1.の「太閤様御覚書」(浅野家文書)のこと)のは、十一ヶ条にのぼる秀吉の遺言を書き上げており、現存する秀吉の遺言覚書では最も詳細な内容を示しています」(*4)

 

とあります。

 

ここで、清水氏は1.と2.の遺言覚書を比較して、1.と2.には共通の内容の文言の一致(1.の④・⑩・⑪の部分等)があることから

「「遺言覚書」と『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書とが共通の情報源に基づいて作成されたことは明らかです。すなわち『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書の書止文言に書かれた「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」が、双方の情報源であると推測されます。」(*5) 

としています。 

また、

「秀吉の遺言は、相手の構成を変えて度々行われていたのであり、「浅野家文書」の豊臣秀吉遺言覚書の全容は「五大老」を交えず「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」のみに伝えられたと考えられます。文書が浅野家に残っていることからみて、「年寄五人」(「五奉行」)の一員である浅野長政が作成したものと考えてよさそうです。」(*6) 

ということで、浅野家文書の「覚書」が秀吉の遺言の全貌を記しているのに対して、この早稲田大学所蔵の「遺言覚書」は秀吉の遺言のうち主に家康の役割に関する部分を切り出して書いてあるだけで、遺言の全貌は記していないのです。

 

 また、この2.の「覚書」では、「五奉行=奉行共」という呼称になっています。『浅野家文書』の1.の「覚書」のように「五奉行=年寄」という呼称ではありません。

 つまり、丸島氏が前掲のインタビューで

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」 

と述べているように、

「「遺言覚書」を作成者は徳川家康の「五奉行」に対する認識を察知し、それに寄り添おうとしていると考えられます。」(*7)

 

 そして、清水氏は

「以上の検討から、「遺言覚書」は徳川家康に宛てて、彼の職務を知らせるために作成された文書の控えであったことが明らかになります。「遺言覚書」の原本は徳川家康に送付されたとみるべきです。そして、「遺言覚書」の作成者は、秀吉の遺言に立ち会った「年寄衆・其の外御そばに御座候女房衆達」の中で家康と政治的に近い者であることもまた導きだせるのです。」(*8) 

としています。

 

 この2.の「遺言覚書」の作成者についてですが、清水亮氏はこの後、史料の出どころが「宮部文書」であることを確認し、

「宮部長熙もしくは継潤であったことが確実」(*9) 

であるとしています。

 

 ちなみに、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、宮部文書の「覚書」こそが正しいという説は、第一に、(*5)で書かれているように、この宮部文書の「覚書」と浅野家文書の「覚書」とは共通の部分があり、その記述の根拠は同一の「年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候」ものであると考えられることから成り立ちません。(むしろ、「宮部文書」の「覚書」は、「浅野家文書」の「覚書」の信憑性を補強するものになります。)

 

 第二に、基本的に秀吉死後の五大老五奉行の動きは、利家の死まで浅野家文書の「覚書」の通りの体制で動いており、これに対して家康が「聞いていた遺言と違う」と抗議した例も聞きませんので、基本的にやはり「浅野家文書」の「遺言覚書」が秀吉の意思・発言に沿ったものだと思われますし、家康も「宮部文書」の「遺言覚書」が家康宛ての「抜粋」に過ぎないということは承知していたということになります。

 

3.豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)

 

 この豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)とは、

「死期の迫った秀吉が、五大老に対し息子の秀頼の将来を託した遺言。徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家、五人の大老に秀頼の成り立ちを繰り返し頼み、このほかには思い残すことはないと結んでいる。末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする。秀吉は八月十八日、数え年六歳の秀頼を遺して没した。」(*10)

 

というものです。大河ドラマ真田丸』の31回で出てきたのは、この遺言状です。以下が釈文です。(この釈文は、東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年より引用しました。)

 

「[釈文]

返々、秀より(筆者注:秀頼)事、

たのミ申候、五人

のしゆ(筆者注:五人の衆=五大老の事)たのミ申候〱、

いさい五人の物(筆者注;五人の物=五奉行の事)二申

わたし候、なこり

おしく候、以上、

 

秀より事、

なりたち候やうに、

此かきつけ候

しゆとして、たのミ

申し候、なに事も 此ほかにわおもひ

のこす事なく候、

かしく、
八月五日 秀吉御判

いへやす(筆者注:徳川家康

ちくせん(筆者注:前田利家

てるもと(筆者注:毛利輝元

かけかつ(筆者注:上杉景勝

秀いへ (筆者注:宇喜多秀家

 まいる

御自筆御判御うつし」(*11)

 

 

「五人のしゆ=五人の衆=五大老」、「五人の物=五奉行」です。これによって、秀吉自身は「五大老」とも、「五奉行」とも、「五年寄(どちらに対しても)」とも誰に対しても言っていないことが分かります。

 

 簡潔な文なので、現代語訳はいらないかと思います。内容も「秀頼のことを頼む」という一点に絞られています。八月五日とは、秀吉の亡くなる十三日前です。まさに秀吉が最期の力を振り絞って書いたのが、この遺言状です。

 

 大河ドラマ真田丸』はもともとフィクションなので言うまでもないかと思いますが、この遺言状を家康が無理矢理書かせるというのは当然ありえません。また、三成が無理矢理書き換えさせるということもありえません。全てフィクションです。

 

 あと、

「末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする」(*12)

 

とあるので、この(山口・毛利博物館蔵)の遺言書の原本は自筆遺言状だということです。だから、ドラマ『真田丸』においても、無理矢理にでも秀吉自身に書かせているし、秀吉自身が書いたものでないといけないのですね。

 

(追記2:いわゆる「五奉行」の序列は書状の書かれ方から、1.前田玄以(60)、2.浅野長政(52)、3.増田長盛(54)、4.石田三成(39)、5.長束正家(37?諸説あり)(カッコ内は、秀吉没年の年齢(慶長3(1598)年当時、かぞえ年))とされます。ドラマ等では、まるで石田三成五奉行筆頭のように描かれる事が多いですが、年齢からいっても序列4位なのは当然のことです。)

 

 注

(*1)阿部勝則 1989年、p63~64

(*2)阿部勝則 1989年、p64

(*3)清水亮  2011年、p299~303

(*4)清水亮  2011年、p304

(*5)清水亮  2011年、p306

(*6)清水亮  2011年、p308

(*7)清水亮  2011年、p309

(*8)清水亮  2011年、p309

(*9)清水亮  2011年、p310

(*10)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*11)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*12)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

 

参考文献

阿部勝則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年所収)

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1258&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

桑田忠親『太閤の手紙』講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)

清水亮「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』柏書房、2011年所収)

東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年

大河ドラマ 『真田丸』 第31話 「終焉」 感想

(※平成28年8月11日追記しました。)

 

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※前回の感想です。↓

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 大河ドラマ 『真田丸』 第31話 「終焉」 感想を書きます。

 

 今まで見てきて思ったのですが、このドラマは「大河ドラマ」ではないな、と思います。「小川ドラマ」ですね。

 

 五大老五奉行と言いつつ(いや、五大老ではなく五人の老衆(おとなしゅう)か。(五大老というのは江戸時代以降の呼称で、当時はありません。こういう細かいどうでもいい所だけはお金がかからないから、このドラマではこだわります。))、出てくるのは、家康と三成だけ、上杉景勝は史実で会津にいるから仕方ありませんが、前田利家毛利輝元宇喜多秀家慶長の役から帰国しているはず)はどこへ行ったのでしょう。それで、今後の流れをどう描くのでしょう。

 

 今まで「信繫が見ていないことは、描かなくてもよい」というエクスキューズがありました。しかし、官兵衛の小田原開城交渉の不在でこの法則は危うくなり、今回三大老(先程も述べたとおり、景勝は不在なのは史実通りです)及び四奉行の不在はやはりただ単に「省エネ・小川ドラマ」だったに過ぎないというということが分かります。

 

 三成の他の四奉行はどこにいるのでしょう。彼らは、今後も出てこなさそうですが「内府違いの条々」クーデターは一体誰がやるんでしょう?(毛利輝元も出てこないようですし)やっぱり史実を無視して、佐和山城から三成がワープするんですかね?(*追記1参照)

 

 いや、チープなB級ドラマなら、これでいいでしょう。しかし、これが日本の歴史ドラマを代表する「大河ドラマ」なのか?あまりにも「人がいなさすぎる」のです。これは脚本家の責任というより、こんな省エネでしか出演者を揃えられないNHKの責任でしょう。「いや、スタッフも大変なんだよ」と同情している場合ではありません。心あるスタッフだって同じことを思って情けない思いをしているかもしれません。むしろ、視聴者が「人少な過ぎ、手抜き過ぎ」と抗議の声を上げていくことが、予算獲得の道筋につながるのではないでしょうか。

 

(追記1:大河ドラマのNHKのHP

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/index12_05.html#mainContents 

を見ると毛利輝元は今後出演するみたいです。これで、「五人の老衆」はとりあえず全員配役は揃いましたが、出てくるのが遅いですね。前田利家毛利輝元宇喜多秀家はこの時期伏見にいたと思いますので、利家くらいは今回出してもよかったと思います。

 四奉行のうち、長束正家は出演するようです。増田長盛じゃないんだ・・・・・・。「内府違いの条々」クーデターの時は正家が大坂城で条々を発出するのでしょうか。

 島左近出るんだ・・・・・。出ないかと思ってました。(出るならもう少し早く出るだろうと思ってました・・・・・。)

 とりあえず、32話以降は人は揃えてきてますね。もう少し早い回から出て欲しかったキャラクターが色々いますが・・・・・・。)

 

 家康が押し入って秀吉に無理矢理に遺言を書かせるのもフィクション、三成が秀吉に無理矢理書き直させるのもフィクション、三成が真田昌幸に家康に暗殺を依頼するのもフィクション、出浦昌相が常に昌幸の側にべったりいて、思いっきり顔バレしているにも関わらず、素顔を晒して家康を暗殺しようとするのもフィクション、死にかけているのに不寝番する者もいず秀吉が孤独に死んでいくのもフィクション(且元が寝ていたという話にしていますが、且元しかいないというのが不自然)、いや、別にフィクションであったっていいのですよ。しかし、そもそもフィクションとしても現実的に有り得ないだろ、という描写の連続な訳です。これも天下人秀吉のそばに、非現実的にあまりにも人がいなさすぎなのです。これで、何を感じろというのか全く不明です。

 

 遺言状を巡るドタバタ劇は、三谷氏オリジナルのコント(寸劇)なら、まあ面白いです。昌相VS忠勝もゲーム『戦国無双』(昌相は出てきませんが)なら面白いでしょう。ただ、これは「大河ドラマ」なのであって、コントやゲームじゃないんです。「大河ドラマ」という大きな骨太な流れがあって、歴史コントや歴史ゲームも映えるというものでしょう。「大河ドラマ」自体がコントと化したのでは、大河の流れはなくなり、全ての歴史ドラマは小川となってしまいます。

 

 ある意味、今回は「大河ドラマ」が「終焉」し、すべては「小川ドラマ」になった回ということなのかな、と思います。

 

(追記2:追記1で書いたように次回以降は配役は増えるようなので、その点は良かったですが、今回(31回)に関しては、いるべき人がいない、人少なすぎ、非現実的な展開、というのは変わらないので、感想はこのままにしておきます。)

 

(追記3:大河ドラマのNHKのHPで気になるのは、相関図で北政所→家康は「信頼」なんですね。北政所が東軍(家康派)だったというのは昔の俗説で、近年は西軍派だったという見解が主流だと思うのですが、今回のドラマでは昔の俗説通りに書くのかな、と思うとかなり不安です。

 あと、石田三成細川忠興は「連携?不信?」なのがなんか細かいですね。「七将襲撃事件」の中に細川忠興が入っているので、一般的には「連携?」というのはないと思われていますが、実際には、「七将襲撃事件」前まで細川家と石田家が仲が悪かったという事実はなく、前田利家の死後の「七将襲撃事件」に忠興が参加したのは、前田派から徳川派についた方が有利だと政治的に判断したからだと思われます。

 このため、それまでは同じ「前田派」(忠興の息子が利家の娘と婚姻しており、細川家と前田家は縁戚です)といえる忠興と三成が『連携』してもおかしくない、というか利家の死までは連携していたというのが自然の流れだと思いますが、そんな細かいことを今回の大河ドラマで本当にやるのかな?という気がします。

 石田三成細川忠興については、過去に以下のエントリーで書きましたので参照願います。↓)(下のエントリーにも書きましたが『細川家譜』の記載も、あまり信用できるものではありません。)

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※秀吉の三つの遺言状について書きましたので、よろしければご覧ください。↓

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※次回の感想です。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第30話 「黄昏」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回で節目の30話の感想を書きます。

 

 秀吉の認知症が続き、信繫と視聴者の不安を引っ張り続けますが、前回と今回と次回とで3回続けるのはあまりにも引っ張り過ぎで冗長ですね。小日向さんの演技は良いのですが、あまりにもドラマとしては小日向さんの演技に頼り過ぎではないでしょうか。(前回で書いた通り、史料的には晩年の秀吉が認知症であった証拠はなく、死の直前(1~2ヶ月前くらい)まで意識は明晰だったと思われます。が、ドラマなのでこうした脚色自体は別に構わないでしょう。)

 

 また、そろそろ関ヶ原の戦いに近付いている訳ですが、これまでのあまりの布石のなさに正直がっくりしています。

 

 第一に、ここまで前田利家が出てきません。出演者は決定していますので、今後出てくるのでしょうけど、『軍師官兵衛』みたいに、いきなり秀吉の死後にぽっと出て、出てきた回の中であっという間に亡くなってしまう展開なのでしょうかね。

 

 前田利家は、秀吉の晩年からその自身の死まで豊臣体制の浮沈の鍵を握った重要人物な訳です。これは秀吉が一番信頼できる親友として、利家に秀頼の後見を託しており、意図的に家康の対抗馬となるように官位等も引き上げて処遇しているためです。五大老五奉行体制といいますが、その中で家康と利家は突出した地位にあり、二大巨頭体制ともいえます。秀吉死後、家康を警戒する豊臣家臣達が利家の下に集うのは自然な流れでした。

 

 ところが、この利家が早くに亡くなってしまうことによって、家康警戒派は結集軸を失って、その死の直後から家康派の怒涛の反撃(七将襲撃事件、前田利長の家康暗殺未遂疑惑事件、上杉征伐・・・)を受けて反家康派は一旦瓦解していく訳です。

 

 関ヶ原の戦いは、この反家康派が再結集した戦いといえますが、この間の家康派の反撃が効いており、西軍はまとまりを欠いて(利家の息子利長は、家康暗殺未遂疑惑事件の際に母まつを家康に人質として差し出しており、東軍につきました。)結局、関ヶ原の戦いの前に崩壊します。(関ヶ原の戦いの前日に、西軍の総大将毛利輝元は家康に密かに降服しており、関ヶ原の戦いとは「既に負けている戦い」なのでした。)

 

 また、毛利輝元五大老の一人ではありますが、結局は、豊臣家にとっては織田時代からの「昔の敵」なのであり、いわゆる「外様」といってよい大名です。(それを言うと家康も同じなのですが、少なくとも家康は秀吉の妹を妻に迎え(関ヶ原の戦いの前には亡くなっていますが)形としては秀吉の義弟です。)このため、輝元を主軸・総大将とする豊臣政権というのも、外見的にいまいち正統性を欠いているように見えるというのも、東軍から西軍に流れる武将がほとんどいなかった理由となっているでしょう。

 

 これに対して利家は、織田時代からの秀吉の親友であり、自分の娘(豪姫)を秀吉の養女としており(この婿が宇喜多秀家)、直接秀吉から遺言として秀頼の後見を頼まれているので立場が全然違います。

 

 ということで、利家が秀吉晩年から死後までの時代の鍵を握る重要人物であることは自明のことで、この時期の豊臣政権を描くならば普通に描写しなければいけないところです。その利家がいまだに現れず、延々と秀吉の認知症シーンで引っ張るというのは、力の配分を間違えているのではないかと思いますし、どうせ秀吉の死後いきなり現れて、あっという間に亡くなり、「誰、あのおじさん?」状態の書き方になるのでしょう。現時点の利家抜きの晩年の秀吉描写で、関ヶ原の戦いに至る流れが非常に薄っぺらいものになる可能性が極めて高いと思われるので、今からがっくりしてしまいます。

 

 第二に、結局これまで、真田家と石田三成との親密さを示す、取次関係や縁戚関係、三成と信幸(信之)の友誼を示す書状などは一切触れられませんでした。(時代考証担当の先生方の著作に詳細に書かれているにも関わらず、です。)多分、今後も描かれることはないでしょう。

 

 1年も尺がある大河ドラマで、これまでこうした真田家と石田家の昵懇な関係を描く機会がいくらでもあり、それを普通に描けば、なぜ真田昌幸・信繁が西軍につき、東軍についた信幸(信之)が三成からの書状を破棄せず、現代に残したか普通に分かるのに、そうした描写は一切描かれませんでした。

真田昌幸・信繁と石田三成大谷吉継については下記をご覧ください。↓

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石田三成真田信之(信幸)の友誼については下記をご覧ください。↓

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 ここまで見てきて思うのは、これは、三谷氏はそういった史実を分かっていてあえて書いていないのではなく、おそらく時代考証担当の先生の本を事前に読まないで脚本を書いているのではないかと思うのですね。

 

 いや、そんな訳ないだろ、でなければ時々妙に(時には最新の学説を反映した)史実の描写が出るんだ、というツッコミがありそうなんですけど、三谷氏のコラムなどを読むと、だいたいこの大河ドラマの脚本のできあがり方が分かります。

 

 まず初稿で三谷氏が脚本を書く→その初稿を、時代考証担当を含めたスタッフが見て直しを入れる→その直しを受けて三谷氏が書き直す(の繰り返し)・・・・・みたいな流れのようです。

 以上の流れは、もしかして脚本の書き方としては普通の流れなのかもしれませんが、これを見て気が付くのは元々脚本家に歴史知識がなければ、時代考証担当やスタッフは、大枠としては直しようがないということです。後から、スタッフ・時代考証担当が細かい直しを入れても、それは細部の部分であり、大枠を直すのは、要は脚本を一から書き直すということになってしまい、そんな暇はないでしょう。

 

 つまり、時代考証担当の手が入るのは、細部で手直しできる部分に限られるのであり、そのため大枠としては史実としてはありえない展開なのに、細かい部分では史実に忠実な妙な脚本ができてしまうのですね。

 

 大枠については、三谷氏が時代考証担当の先生の本を事前に読んで、初稿の段階から脚本に入れないと反映させようがありません。やはり、今までの脚本を見ると三谷氏の資料の読み込み不足(あえて自由に書くために読んでないということも考えられますが)が感じられます。

 

 第三に、最近とってつけたように細川ガラシャの描写がでてきますが、最期はどう描くのでしょう。細川ガラシャの最期の描写を描くには、三成以外の他の三奉行の動きを描かないとよく分からないことになるかと思いますが、このドラマは五奉行のうち、三成の他の奉行は存在しません(出演予定もなさそう)ので、描きようがないと思います。まさか且元にやらせる気じゃないでしょうね?どちらにしても史実と大きくかけ離れた描写になりそうで、今から不安です。ちなみに細川ガラシャの最期の考察については以下に書きました。↓

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 さて、今回(30回)についての感想というか、史実との異同についてです。

 

1.慶長伏見大地震における、「地震加藤」は近年の研究ではフィクションとされていますので、その描写がなかったのは良かったです。

(「地震加藤」・・・(石田三成の讒言で当時謹慎していた加藤清正が、慶長伏見大地震で真っ先に秀吉の元に駆けつけ、感激した秀吉から謹慎を解かれるという逸話)は、近年の研究ではフィクションとされています(謹慎そのものの史実がない(当然、三成の讒言もない))。またその日は、清正は伏見にはいなかったので「真っ先に」というのはちょっと疑問ですし、「地震加藤」のように軍勢を率いて駆けつけるのは反乱とみなされかねず、ありえません。ただ、「真っ先に駆けつけたという」のはドラマとしては許されるでしょう。)

 

2.サン・フェリペ号事件については、以下のエントリーで書きました。キリシタンの被害者を減らすために尽力する三成が描かれなかったのは残念ですが仕方ありません。

 サン・フェリペ号事件及び日本26聖人殉教事件については下記を是非ご覧ください。↓

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3.上杉景勝会津転封の処理に伴い、石田三成は慶長3(1598)年1月会津へ向かっています。そして、5月3日に佐和山へ戻っています。つまり、3月15日の醍醐の花見の時に三成はいません。まあ、細かいことなのでどうでもいいといえば、どうでもいいのですし、別にドラマで三成が醍醐の花見に列席しようとしまいと、ドラマの描写的にはどうでもいい話です。

 

 しかし、この時の三成の「不在」は、いろいろ三成にとっての後の歴史にとって大きいのではないかと思うのですね。後から振り返ってみれば秀吉の最期の年の1月から5月まで京に不在だったというのは、三成にとって不幸だったのではないかと思うのです。

 

 慶長の役(このドラマではほとんど描写がありませんが)の際に、三成がそこから遠い奥州の出張を命じられたのは、三成が慶長の役に関する役目を外されたことを示しています。人によっては、これを「左遷」とみなす人もいるかもしれませんが、左遷ならそもそも五奉行の列から外されてしまっていたでしょうから、左遷という訳ではないでしょう。むしろ、三成を直々に派遣させる必要があると考えるほど、秀吉が上杉景勝の奥州転封をそれほど重視していたことが分かります。(当時の奥州は反乱・一揆の相次ぐ危険地帯で、それを陰で炊きつけているのでないかと疑惑をもたれている伊達政宗の存在があり、その抑えとして期待されたのが上杉転封でした。増封とはいえ、上杉家にとってはあえて火中の栗を拾いに行くに等しく、この転封は豊臣政権にとっては絶対に成功させなければならない大事業だったのです。)

 

 このドラマでは、上杉の会津転封の理由は「家康の抑え」と秀吉が言っていますが、どこまで秀吉にその意図があったのか不明です。(秀吉は遺言で徳川家と上杉家の縁組を指示しています。結局実現しませんでしたが。)

 

 ともかく、三成はこの時期、慶長の役に関する役目を外されています。そして、1月から5月まで奥州へ行っているのです。そして、4月に慶長の役の軍目付が帰国します。

 これについては以下に書きました。↓

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以下、再掲します。

「 慶長の役のときに明・朝鮮連合軍に攻められ、加藤清正蔚山城に籠城します。清正を救援するため、毛利秀元、鍋島直茂黒田長政蜂須賀家政らの軍が救援に向かい、明・朝鮮連合軍を打ち破り、追撃しました。この時の追撃戦(追記:どうも、追撃戦ではなく、その前日(?)の戦いの先手当番だったにも関わらず二人は戦わなかったようです。あと追撃戦そのものが無かったように誤解している書籍もありましたが、追撃戦はありました。)に黒田長政蜂須賀家政が参加しなかったことを軍目付の福原長蕘(石田三成の妹婿)らが秀吉に報告し、長政・家政は秀吉から叱責を受けます。

 

 この事で長政、家政は三成を恨みに思い、後の三成に対する七将襲撃事件の原因のひとつに発展にします。(当時の常識からいえば、「身内の不始末(ではないのですが・・・)は自分の不始末」ですので、妹婿の行いは「石田三成がやった事と同じ」と思われても仕方ありません。)

 

 これが4月の時であり、繰り返しになりますが、この報告を受けた秀吉が長政・家政を叱責したことを、長政・家政が恨みに思ったことが、後の三成に対する七将襲撃事件の原因とされます。(もっとも筆者的には、七将襲撃事件は、徳川派と反徳川派の対立の延長で起こった事件ととらえるべきであり、この叱責事件は七将襲撃事件の「口実」であって「原因」とするのは過大な扱いであると考えていますが。)

 

 この時、「軍目付の報告を受けた三成が、秀吉に報告し」みたいな記載がある著作がありますが、4月に三成は奥州にいますので、三成が秀吉に報告できるわけがありません。福原長蕘らは三成不在の中、自分達の判断(まさか奥州にいる三成に書状を送って、その返事を待つまで秀吉に報告を待ってもらう訳にもいきません)で報告をしないといけませんでした。

 

 そして、彼らは1月に起こった戦を、4月に帰国して秀吉に報告しているのです。つまり、彼らが黒田長政蜂須賀家政をかばって、虚偽の報告をしても既に秀吉には別ルートで戦の状況が伝わっている可能性が高いです。彼らとしては、虚偽報告をしてもばれる可能性が高く、そうなれば秀吉から処罰を受けるだけでなく、縁戚の三成も連坐して処罰を受けかねないような虚偽報告はできなかったでしょう。

 

 この時三成が京にいれば、彼らは三成に相談してもう少し事態が悪化しないように対処をはかることができたかもしれませんが、そのような暇もなく彼らは事実をありのままに秀吉に報告するしかなかったのです。(彼らの報告を、「讒言」と言う人が現代でもいますが、日本語で「事実を報告すること」を「讒言」とは言いません。まあ、「事実を報告すること」を「讒言」と呼ばれる狂った時代なのだとはいえます。事実を報告するのも地獄、虚偽を報告するのも地獄、ということです。)

大河ドラマ 『真田丸』 第29話 「異変」 感想

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※前回の感想です。↓

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 29話の感想を書きます。

 

 今回は、秀吉が認知症になったという展開でした。このドラマはフィクションですので、突っ込んでも仕方ありませんが、ネットで過去の回を見た時の感想を見ると、「従来のドラマのように、晩年の秀吉を『耄碌』したように描いていないから、このドラマは斬新」と評価する意見も多かったので、なんだよ、結局従来よく描かれた路線と今更同じ路線に戻るのかよ、という気分になってしまいます。

 

 今回のドラマの時系列は、秀次の死(文禄4(1595)年7月15日)の後、慶長伏見大地震(文禄5(1596)年閏7月13日)までですので、その間に秀吉の(病状的な)「耄碌」は始まったことになります。

 

 慶長伏見大地震以後も、明使節の来日(文禄5(1596)年9月)、慶長の役(慶長2(1597)年2月(陣立書)~)、死後の体制の指示(慶長3(1598)年5月)などいろいろ豊臣政権には重要なイベントがありますが、ここら辺は認知症の秀吉が指示したのでしょうか。(秀吉の死は、慶長3(1598)年8月18日。)そのような史料があるのでしょうか?(いや、ないでしょうし、三谷氏に聞くのも野暮というものです。)

 

 よく晩年の秀吉が「耄碌」したという俗書は確かにいろいろ見かけますが、それは千利休切腹天正19(1591)年2月)、唐入り(文禄の役(文禄元(1592)年3月)、秀次切腹(文禄4(1595)年7月)あたりまで遡って「耄碌」していたというのが従来の見方ですので、三谷氏の説はそれとは違います。

 

 筆者の考えでは、秀吉の意識は(むしろ残念ながらと言うべきか)その死の直前まで明晰だったのではないかと思われます。でないと、慶長の役を強行することもできなかったでしょうし、また、秀吉の明確な意思が反映された遺言体制はできないでしょう。

 

 この遺言体制(豊臣政権にとって秀吉死後に一番警戒すべき最大の外様大名徳川家康を最優遇する五大老体制)は、いわゆる五(四?)奉行の意思に、まっこうから反するものでしたので(五奉行のうち浅野長政は家康に近く、奉行衆の中ですら信用されていませんでした。)、彼らが「耄碌」した秀吉に代わってこのような体制を指示することはありえません。

 

 仮に、晩年に秀吉が比喩的な意味ではなく病状として「耄碌」していて、代わりに秀吉死後の豊臣政権体制の具体的な指示を奉行衆から出すことができていれば、家康が豊臣政権に参画する道を実質的に排除して、直臣の奉行衆が政権を仕切りやすい体制にしていたはずです。(家康は、外様大大名(家康自身)が豊臣政権に参画した事により豊臣政権が崩壊したことの反省を踏まえ、徳川幕府に対する外様大名の政権参画を排除しました。)

 

 ということで、その死の1~2ヶ月前くらいまで、秀吉は残念ながら明晰な頭脳を持っていて、その明確な指示によって豊臣政権は動いていたといえるでしょう。

大河ドラマ 『真田丸』 第28話 「受難」 感想

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※前回の感想です。↓

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 このところ私事で忙しく、『真田丸』の感想も追いついていません。第28話、第29話も録画でまとめて見ました。まず、28話の感想を書きます。

 

 今回は、秀次役の新納慎也さんの演技がよかったです。ただ、このブログは歴史考察ブログなので他の感想のようにドラマの感想を書いても仕方ありませんので、史実との異同について書こうかと思いましたが、結局は秀次切腹の真相についての考察の話になってしまいます。この事件の考察については長くなりますので、別のエントリーで書きたいと思います。

 

 前回の感想で、「このドラマの秀次切腹(ってネタバレ?)の顛末は、現在の最新説である矢部健太郎氏の説を反映したものではないかと思われます。」と書きましたが、三谷氏自身もコラムで言及していたように、やはり矢部健太郎氏の説をベースに書いたようです。しかし、矢部氏の説そのままかというと、そのままでもなく、史実のいろいろな部分が省略されています。この省略により、ドラマの筋としてはすっきりしましたが、まあ、やはり厳密には史実通りではない(歴史ドキュメンタリーではなくドラマなので、いろいろはしょる必要がありますし、その批判ではありません)ですね。

 

 じゃあ、実際どうだったのか?というのを書いていくと非常に長くなる訳です。秀次切腹の真相についての考察を書こう、書こうと思いつつ、なかなか書く暇がありませんが、豊臣政権の崩壊の重大な要因とされる事件ですので、後で改めて書きたいと思います。

※(平成28年10月30日)豊臣秀次切腹事件の真相について(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です。)のエントリーを書きましたので、よろしくお願いします。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第27話 「不信」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回の予告編まで見ると、おそらく、このドラマの秀次切腹(ってネタバレ?)の顛末は、現在の最新説である矢部健太郎氏の説を反映したものではないかと思われます。矢部氏の説については私も概ね(全てではありませんが)賛同しています。しかし、まさかNHKの大河ドラマで最新説が使われるとは思いませんでした。矢部説は賛否両論あり、必ずしも定説ではないからです。普通、大河ドラマではあまりこうした(賛否両論ある)新説は使われません。(これは、なかなか挑戦的な試みで、個人的にはこういう展開は好きです。)

 

 矢部氏の説については、次回(次回書かなければいけないことが多過ぎ)に紹介したいと思います。(すいません、まだ書けてません・・・・・・。)

 

※次回の感想です。↓

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※矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想等です。↓

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