古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次事切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

 前回の話の続きです。

(前回のエントリーです。↓)

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3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

 この論点が、矢部健太郎氏の新説の核心かと思われます。

「秀次の自発的な意思にせよ、命令にせよ、秀次が自害したことに変わりはないのだから検討することに意味はあるのか?」という意見もあるかもしれません。

 しかし、秀次切腹が秀吉の命令だとすると、秀次切腹は秀吉政権の予定通りの行動であることになります。

 つまり、秀次切腹は秀吉政権の規定通りの行動の一つということになり、これ以後に豊臣政権の運営のあり方に大幅な変更があったとしても、これも想定内・計画通りの行動だったということになります。

 

 これに対して、秀次切腹は秀次自身の意思によるものであるとすると、これは秀吉政権にとって想定外の重大危機が発生したことになり、秀吉政権はこの危機に対して事態を収拾するために急遽迅速な対応を取ることが迫られることになります。

 また、この事件によって当初想定していた豊臣政権の運営のあり方から、想定外に大幅な変更を余儀なくされたことになります。

 

 さて、従来の通説は「秀次切腹は秀吉の命令である」説な訳ですが、矢部健太郎氏は新説として「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」説を唱えます。

 矢部氏の新説を以下要約します。

 

五奉行の「秀次切腹命令」書状が小瀬甫庵『甫庵太閤記』にあり、これが「秀次切腹は秀吉の命令である」説の根拠となっています。

 しかし、この『甫庵太閤記』の五奉行の「秀次切腹命令」書状に対して矢部氏は以下の疑問を呈しています。

a.通常は年号がないはずの「書状」なのに、年号が書いてある。

b.前田玄以を「徳善院」と記しているが、この時期玄以はまだ「徳善院」とは名乗っていない。

c.連署状の署名の格付け(奥に向かって高くなる)が逆になっている。

d.浅野長吉は当時東北におり、発給文書に署名があることが疑問。そもそも、この時点で「五奉行」は成立していない。

e.『甫庵太閤記』以外に、この書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない。

f.奉行衆の書く文書にしては、装飾性に富み文体として不自然。

g.『甫庵太閤記』では、七月十三日に伏見を発った「切腹命令」が、十四日夕刻に高野山に到着したとあるが、三千もの武装した兵が伏見→高野山間の距離は約130キロ強で、加えて麓から800メートルの高低差がある峻険の地である高野山に一昼夜で到着するのは非常に難しい。(*1)

 

 上記についての、個人的な感想を述べます。まず、そもそも『甫庵太閤記』の記載は虚飾も多く史料としては信憑性が低いと評価されています。a.~f.の点を考えても、この切腹命令書は甫庵の(特にモデルとなった原本すらない)ゼロから作った創作だと思われます。このため、e.で述べられているように、『甫庵太閤記』の他にこの書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない以上、「五奉行の『秀次切腹命令』」なるものは実在しないということになります。

 

g.の論点については、「強行軍で行けばなんとか可能だろ」、という反論が予想されますが(これに対して矢部氏は具体的に反論していますが(*2))、そもそも『甫庵太閤記』の記載自体が甫庵の創作だと思われますので、『甫庵太閤記』の記載を元に細かく検討してもあまり意味はないかと思います。(まあ、創作だからこんな無理な日程になるのだ、という補強証拠にはなりますが。)

 

 ②「秀次高野住山令」という史料の「写し」が『佐竹家旧記』及び『南行雑録』(『南行雑録』とは、徳川光圀が『大日本史』の編纂のために部下に諸国の史料を閲覧させて写し取った史料集。「秀次高野住山令」は高野山蓮華定院に所蔵されていたと書かれています。)に残っているということです。矢部氏は史料の由来等を検討した結果、史料としての信憑性は高いとしています。(*3)

 

a.この「秀次高野住山令」は、高野山側に秀次の住山(高野山で生活する)について命じた法令で、発出されたのは文禄四年七月十二日付になっています。「自敬表現」が使われていること等から作成主体は秀吉だと考えられます。

 

b.条文の口語訳を以下に引用します。

「一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、出家の身となり袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。加えて、奉公する者の親類を召し置いてはならない。)(下線引用者)(*4)

 「一、高野山全山として、番人を昼夜問わず堅く申し付けるように。もし(秀次らを)下山させるようなことがあれば、高野山全山に成敗を加える。

 一、高野山の出入口ごとに番人を置き、秀次を見舞う者は固く停止させること。」(*5)

 

 以上を見ると、この「秀次高野住山令」は一定期間秀次が住山することを前提としたものであり(当然切腹させる意図はない)、また秀吉の許可なく下山することを認めない内容になっています。前の論点で高野山行きが秀次の自発的な出奔か、秀吉の命令かという論点がありましたが、どちらの場合であっても、今回の秀吉の許可なく下山を禁じる命令によって、秀次の高野住山は秀吉の命令として上書きされたことになります。

                                                                   

 特に注目する箇所は「刀・脇差を携帯してはならない。」という命令で、これは自害の防止・禁止のための措置ともいえます。このような命令を秀吉が発しているにも関わらず、秀吉が秀次の切腹を命令していたというのは矛盾していることになり、やはり秀吉(あるいは五奉行の)の切腹命令など存在しなかったということになります。

 

 ということで、矢部氏の説のとおり、「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」という見解が妥当だと思われます。

 

3´.秀次はいつ自殺したのか?三使はその場にいたのか?

 秀次はいつ自殺したのかは七月十五日と明らかになっています。そして、前述の「秀次高野住山令」が高野山に伝達されたのは七月十四日夕刻です。すぐにその内容は高野山から秀次に伝えられたでしょう。その一日の間に秀次は自害を決意したことになります。

 

 これは、「秀次高野住山令」が秀次にとっては思いの他厳しいものだったため、絶望したことによるかと思われます。秀次としては高野山に「自発的に」向かい、謹慎して秀吉に対する謝罪の意を示すことによって、秀吉の赦免があることをおそらく期待していました。あるいは、高野山に謹慎しても比較的短い間で謹慎が解けるかもしれないと思っていました。

 しかし、実際に発された「秀次高野住山令」を見ると、住山し続けなければいけない期限が一切書かれておらず、もしかしたら残る一生をこのまま高野山に謹慎したまま暮らすことになるのではないかとも思ったのかもしれません。

 

 深く絶望した秀次は切腹を決意します。そして、「秀次高野住山令」には「刀・脇差を携帯してはならない。」とあり切腹を決行する猶予の期間はほとんどありません。刀と脇差を取り上げられる前に秀次は切腹をする必要があり、そして明日(15日)の朝、秀次は切腹を決行することになりました。

 

 この時、高野山に「秀次高野住山令」を伝えに行った使者は福島正則、福原長堯、池田秀雄の3名。

 このうち、だれが秀次の切腹に立ち会ったのか、あるいは誰も立ち会わなかったのかは信頼できる史料がないとされます。ただし、二次史料の『川角太閤記』には、三使のうち福島正則、池田秀雄の二人だけが秀次の元に現れて、秀吉の真の御意は「切腹」である、と伝えたといいます。

(とすると、『川角太閤記』の記述は、矢部氏の説に反することになりますが。

 ただし、正則・秀雄が秀吉の意思に反して、秀吉の真の御意は「切腹」だと嘘をついたとすると悪質ですが、『川角太閤記』の記述とはつじつまが合います。

 しかし、そのような嘘を正則・秀雄が秀次に対して言う意図が(現在残っている史料からは)全く不明です。やはり他の二次史料と同じく『川角太閤記』の記述も著者の想像が多く混じっていて、これをそのまま史実として確定できないということになるかと思います。)

 

 矢部氏は、

 ①十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

 ②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

 ③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

の3つのケースを上げ、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*6)としています。

 

 上記の3ケースのどれが正しいかで、色々な説が考えられますが、一次史料の根拠がない以上、あまり推測してもきりがないので、私も推測は述べません。

 

※次回のエントリーです。(「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」については、次々回に検討します。)↓

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  注

(*1)矢部健太郎 2016年、p153~162

(*2)矢部健太郎 2016年、p156~161

(*3)矢部健太郎 2016年、p162~167

(*4)矢部健太郎 2016年、p170~171

(*5)矢部健太郎 2016年、p175

(*6)矢部健太郎 2016年、p222~226

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り

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※以前のエントリーです。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2) 

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

 

 文禄4(1595)年7月に豊臣政権を揺るがす豊臣秀次切腹事件が起こります。諸大名にも動揺が広がっており、大名達は事態の詳細を把握するために、秀吉の奉行衆に照会をして情報収集に努めます。

 

 このうち、伊達政宗の家臣針生盛信も、三成に詳細を問い合わせる書状を発し、書状に対する三成の返書が『伊達家文書』に残っています。以下、引用します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民舞太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*1)

 

 針生盛信という人物は、「蘆名一門であり、蘆名義広の家老を勤めた人物である。これが奥羽仕置ののち、伊達家に転任するという経緯をもつ。したがって、政宗家中の中では三成と昵懇の間にあった。こうした関係を前提とした文書のやりとりであろう。」(*2)

 

とあります。前述した通り、以前に伊達政宗と対立していた佐竹義宣及びその弟である芦名義広を三成は秀吉政権の取次として支援していましたので、当時義広の家臣であった針生盛信とはその頃からの旧知の仲なのでしょう。

 

 上記の書状は、秀次切腹事件に対する文禄4(1595)年7月25日時点における豊臣政権の「公式見解」として注目されることが多い書状ですが、一方で、この書状が誰に送られた書状なのか注目されることが少ないと思われます。

 

 この書状を見て分かるのは、家臣の針生盛信を通じて、以前より伊達政宗石田三成は交流があり、秀次切腹事件という重大事態に対して、伊達政宗が情報と対処方法を頼ったのは石田三成だったという事です。

 

 よくドラマなどでは、「石田三成が以前から伊達政宗を敵視しており(これも上記で書いた通り、以前に伊達政宗vs蘆名・佐竹連合の戦いで、三成は秀吉政権として蘆名・佐竹連合を支援する立場であったということで、政宗を個人的に敵視していたわけではありません。)、秀次事件を契機として(政宗は秀次の反乱に与していたという理由をつけて)政宗を除こうと画策し、政宗は堂々と反論してあやうく難を逃れた」ような話が描かれます。

 

 しかし、この書状を見ると、現実には伊達政宗は三成にこの事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたことが分かるのです。また、この書状は以前から三成と政宗との間に交流があったことをうかがわせます。

 

 

 結局、秀次事件において政宗連座させられるような事はありませんでした。その時に三成の取り成しがあったという史料はなかったかと思いますが、少なくとも三成がこの事件で政宗を陥れようとした史実はありません。むしろ、三成は政宗を擁護する立場にあったのではないかと、この書状から推測されます。

 それは前にも紹介しましたが、慶長三年七月一日の政宗の三成宛書状「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」(*3)という記述からもうかがえます。(もし、三成が秀次事件で政宗陥れようとした史実が本当にあるなら、こんな書状が書かれることはありえません。)

 

 今回の書状や、前回のエントリー

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

で紹介した書状などを見ると、従来の見方とは違って三成と政宗は互いに敵視したわけではなく交流もあり、またある意味互いに信頼できる関係でもあったのではないかと思われます。

 

関連エントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2017年、p259~260

(*2)中野等 2017年、p260

(*3)福田千鶴 2014年、p57~58

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う

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※前回、前々回のエントリーです。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2)

 

 天正十九(1591)年、奥州で起こった大崎・葛西の一揆の始末をするために六月、石田三成は奥州への派遣を命じられます。そして、

 

「八月上旬には一揆も壊滅し、九月に入ると、出羽米沢の伊達政宗が、一揆を起こした大崎・葛西の旧領への転封を命じられる。結果的に政宗は、米沢や奥州の伊達・信夫郡など父祖伝来の地を没収されたのであり、そこに懲罰的な意味合いがなかったとは言えまい。」(*1)

 

「懲罰的な意味合い」とは伊達政宗が大崎・葛西の一揆に加担していたのではないかという疑惑に対することです。

 

「三成は、九月二十二付日付で伊達政宗に書状を発し、気仙・大原両城の修築を終え、それらを伊達政宗の家中に引き渡すことを告げた。

   猶以、家幷矢倉之儀、念を入、不損様申付候、此方より可相届との、御内々候

   者、無御隔心、御報二可承候、以上

内々此方より可申入処、御折帋本望之至候、御所労如何無御心元候折節、預恩問候、仍拙者儀、気仙・大原両城之儀普請出来、則任御理、最前より被付置両人二相渡、彼地在陣之衆、明日辺可罷出之旨申付、拙者迄爰元へ今日罷出候、最前より度々雖御理候、彼両城御留守居少二付而者、何迄成共、不寄五百・千、人数可残置之旨申付候、但御手前より被差置候物主衆被申様次第、可随其之旨堅申付候、随而当地家共、岩手沢之地へ可有御引之由、尤候、当地之儀者令破脚之旨、従中納言殿(豊臣秀次)任御理之旨、立木・壁儀者拂申候、於家之儀者不損様可申付候、御手前御普請人遣於無之者、彼家之事こほち、何之地迄成共、為此方人数相届可進候、無御隔心可承候、猶御使迄申含候間、可為演説候、恐惶謹言、

              石田治部少補

天正十九年)九月廿二日       三成(花押)

          政宗

            御報

◇実はこちらからご連絡をしようと思っていましたが、御手紙(御折紙)を頂き本望です。いかばかりかお疲れだろうと心配しておりましたが、御手紙ありがとうございました。拙者は気仙・大原の普請を終え、(秀吉の)指示に任せ、先般来付置された両名に引き渡しました。彼の地に在陣していた軍勢も、明日あたり(気仙・大原から)移動するように命じ、私も今日この地まで出張ってきました。先般来たびたび説明しておりますが、彼の両城の守備に当たる兵力が少ないようでしたら、いつまでも五〇〇・一〇〇〇に限らず兵力を残し置くようにします。ただし、伊達家から派遣される大将の意向に従うべき旨を申し付けます。また、当地にある家(屋敷)を岩手沢に引き移されるとのこと、尤もに思います。当地(の城)は破却すべしとの秀次(中納言)殿の命に従い、立ち木や壁は取り払います。家(屋敷に)ついては、損なわないように配慮します。伊達家として普請にあたる手勢が足りないようでしたら、家の破却・どこまででも、こちらの手勢を廻しますので遠慮なく、(用務を)承ります。なお、御使者にお話ししておきますので、説明をお聞きください。

   さらに申し上げますが、家(屋敷)・矢倉などは入念に損なわないように

   いたします。こちらの手勢で運ぶようにと密かにお考えなら、遠慮なく返

   信でご連絡ください。」(*2)

 

 以前のエントリー↓で

伊達政宗と石田三成について(1)

書いた通り、三成は佐竹・芦名氏(芦名当主となった芦名義広は佐竹義宣の弟です)の取次として、佐竹氏と対立する伊達氏との戦いを支援する立場にあり、伊達氏との関係は敵対的でした。そして伊達対芦名・佐竹連合軍による摺上原の芦名・佐竹連合軍の敗北、芦名氏の滅亡で取次先の面目を潰された三成は伊達氏を憎む理由があり、それは政宗も分かっていました。

 

 しかし、政宗一揆との共謀を疑われ苦しい立場にあったこの時期に、三成は「岩手沢(大崎岩出山)への居城を移そうとする政宗の立場を考え、ここでは積極的な協力を申し出ている。気仙・大原両城に駐留する伊達勢の人数に不安があれば、三成管下の兵を充当するとし、」(*3)しかもその兵は伊達氏から派遣される大将の意向に従うとします。

 城の破却についても家(屋敷)が損なわないように配慮し、岩手沢に家(屋敷)を移設したいという政宗の意向を聞いて、「また、豊臣秀次中納言殿)の指示で破却される城に、まわすべき普請衆が不足するおそれがあれば、これまた三成が管下の兵に銘じて、家々を損ぜないように分解してどこまでも運ばせよう、と述べ」(*4)移設についても積極的な協力を申し出ています。

 

 このような私的な遺恨を捨て去り、苦境にある政宗に対して「気遣う」三成の態度に、政宗は胸を打たれたのではないでしょうか。こうしたことが、(以前のエントリーを書いた時にはきっかけが良くわからなかったのですが)三成と政宗が懇意(後に「奥底懇に可得貴意候」(*5)政宗が書状に書くような)になったきっかけになったのかもしれません。

 

↓続きです。

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 注

(*1)中野等 2017年、p144

(*2)中野等 2017年、p146~147

(*3)中野等 2017年、p146

(*4)中野等 2017年、p146

(*5)福田千鶴 2014年、p57~58

 

 

参考文献

中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年

「三成は「関ヶ原」で軍陣を指揮するために生まれてきたわけではない」~中野等『石田三成伝』感想

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 中野等氏の『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)を読了しました。印象に残った箇所はいくつもありますが、エピローグの以下の記述が、とりわけ印象に残りました。(中野等氏は九州大学院比較社会文化研究院教授で、日本近世史を専門とされている方です。)

 

「関連して、これまでの三成評伝の多くは「関ヶ原」合戦に大きな比重をおいて記述されてきたように見受けられる。しかしながら、改めて言うまでもないことであるが、三成は「関ヶ原」で軍陣を指揮するために生まれてきたわけではないし、それを見越してそこに至る人生を費やしたわけではない。また本編で明らかにしたように、三成は「単独」で家康に抗ったわけでもない。」(前掲書 p542~543)

 

 三成をめぐる言説・小説・ドラマなどは現在でも「それ(「関ヶ原」)を見越してそこに至る人生を費やした」かのような解釈に基づくものが多いのですね。「関ヶ原」という宿命的な結末が三成にあり、その結末に向けて生きてきた、家康と対決するという結末が三成の人生であるという、結末から逆算したようなストーリーが多い。

 

 これは、江戸時代の史書、軍記物、物語がほとんどそのようなストーリーで書かれたためです。良きにつけ悪しきにつけ(もちろん、「悪しきにつけ」の方が圧倒的に多いのですが)、石田三成が神君家康公に刃向かった人間として描かれ、そして三成が家康を敵視したのは昔からという話になっています。こうした、江戸時代の史書、軍記物、物語の影響によって、石田三成のイメージは定着し、三成の人物像の見直しが進む現在においてすら、「それ(「関ヶ原」)を見越してそこに至る人生を費やした」三成像が多いのです。

 

 しかし、別に三成は昔から家康を個人的に敵視していた訳ではありませんし、

(これについては下記で言及したように、三成は真田信幸や伊達政宗を通じて家康との交流ルートを図っていました。↓)

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(しかし、(おそらくは秀吉によって)三成は家康との公的な交流を実質阻まれていた史実もあります。↓)

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 また、そもそも関ヶ原の戦いの総大将は石田三成ではありません。

(これについては、下記で言及しました。↓) 

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 良きにつけ悪しきにつけ定着している三成の虚像から離れて、同時代の史料によって三成の実像を洗い出す作業が今後進んでいくかと思います。

 

 中野等氏の『石田三成伝』は、同時代の史料が豊富に紹介されており、同時代の史料によって三成の実像を洗い出そうとしている書籍です。石田三成の実像を知る上で必読の書籍といえるでしょう。

関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?

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 関ヶ原の戦いが起こった慶長5(1600)年の7月15日付島津義弘(惟新)の上杉景勝宛て書状(現存するのは控えです)というのがあります。

 7月17日に三奉行による「内府(徳川家康)違いの条々」が発出する直前の書状であり、関ヶ原の戦いの西軍の首謀者を考える上で貴重な資料といえます。以下引用します。

 

「雖未申通候、令啓候、今度内府貴国ヘ出張二付、輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談、秀頼様御為二候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治 ゟ 可被申候、以上、

 

               羽兵入

(慶長五年)七月十五日     惟新

         景勝 人々御中 (『薩摩旧記雑記後編』三-一一二六号)

 

◇いまだ書信のやりとりはございませんが、ご連絡いたします。このたび内府(徳川家康)が会津へ出陣された件で、毛利輝元宇喜多秀家を筆頭に大坂の御年寄衆小西行長大谷吉継石田三成らで御談合なされ、秀頼様の御為には(家康ではなく)あなた様との連携こそがとるべき途との結果に至りました。拙者もその通りと考えます。委しいことは、石田三成から連絡があると存します。」(*1)

 

 上記の書状の内容が正しいとすると、以下のことが分かります。

 

 1.関ヶ原の戦いの西軍決起直前の7月15日時点での首謀者は、毛利輝元宇喜多秀家御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)、小西行長大谷吉継石田三成島津義弘であるということです。

 ここで、「首謀者」と書いたのは、上記の人物達は西軍決起の事前謀議に加わった人物であり、毛利輝元の上坂クーデターや、「内府違いの条々」発出に引き摺られて、事後的・受動的に西軍に加わったわけでないという意味です。

 三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)、島津義弘、あるいは毛利輝元が事後的・受動的に西軍に加わったような説がたまに見受けられますが、それは史実に反します。彼らも西軍決起の事前謀議を行った首謀者なのです。

 

 2.特に「島津義弘は、はじめは西軍につく気はなく、事前の家康の要請で伏見城に入ろうとしたが、城番をしていた徳川家康家臣の鳥居元忠に断られ、(周りは西軍だらけなので)やむを得ず西軍についた。」という話がありますが、これは島津家が江戸時代に作った徳川家向けの言い訳です。

 実際には上記の書状の通り、島津義弘は西軍の事前謀議に加わっており、西軍の首謀者のひとりとなっています。家康の義弘への伏見城入城への事前要請は、口頭のものであり、また別に義弘を信頼したためというよりは、

 

① 島津は西国の大名であり、遠国である会津征伐に従軍するに及ばない(この時代の戦役は戦地に近い大名ほど軍役の義務が高くなります)

② 九州の大名でも黒田長政のように自発的に会津征伐に従軍した大名もいますが、家康は黒田家ほど島津家を信頼していない(島津家は三成と取次関係にあり、特に義弘は三成と昵懇の仲です)ため、やんわりと会津征伐の従軍を不要とした。

という理由によるものかと思われます。

 

 鳥居元忠は家康の義弘に対する伏見入城要請の話は聞いていない、といって義弘の入城を断りますが、仮に家康の要請の話を前に聞いていたとしても、その頃は二大老・三奉行等による西軍決起など想像もしていない時点の話ですので、事情が全然違います。

 上記のように義弘はすでに西軍に加わっていますので、元忠が義弘の話を信じて、島津軍を伏見城に入城させていたら、あっという間に伏見城は陥落していたでしょう。元忠が義弘の入城を断ったのは、賢明な判断であったといえます。

 

3.7月15日付の時点ではじめて書信のやり取りをしていることから、上杉景勝が西軍決起の事前謀議に加わっていないことが、この書状からも裏付けられます。

 

 *ちなみに、上杉景勝の事前謀議がなかったことについて、渡邊大門氏の『謎解き 東北の関ヶ原 上杉景勝伊達政宗』には以下のように記載されています。

 

「事前盟約がなかったことを明快に論じたのが、宮本義己氏である(「内府(家康)東征の真相と直江状」)。宮本氏は三成が真田昌幸に宛てた二通の書状を根拠にして、兼続と三成の事前盟約説を否定している。

 まず、(慶長五年)七月晦日石田三成書状(真田昌幸宛)を掲出することにしよう。(「真田家文書」)。

 

 私(三成)から使者を三人遣わしました。そのうち一人は昌幸が返事を書き次第、案内者を添えて私(三成)のほうへ下してください。残りの二人は、会津(景勝・兼続)への書状とともに遣わしているので、昌幸のほうからたしかな人物を添えて、沼田(群馬県沼田市)を越えて会津へ向かわせてください。昌幸のところに返事を持って帰ってきたら、案内者を一人添えて、私(三成)まで遣わしてください。

 

 この書状の冒頭の部分では、三成が挙兵する計画を事前に知らせていなかったことを昌幸に詫びている。このような事情を看取すると、この時点で、昌幸にさえ西軍決起の情報が届いていなかった様子がうかがえる。

 そして、この書状を見ると、昌幸を通して景勝のもとに使者を向かわせていることが判明する。文中の案内者とは、土地の事情に詳しい者という意味である。つまり、宮本氏が指摘するように、これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられるのである。(後略)」(*2)

 

 上記の「これより以前に三成は、景勝との交渉ルートを持たなかったと考えられる」の意味が判然としませんが、三成は七将襲撃事件で佐和山城に隠遁するまで、ずっと上杉家との取次を務めていますので、文字通りの意味(三成は、景勝との交渉ルートを持たなかった)ならば単純に間違いです。

「三成が七将襲撃事件で佐和山城に隠遁した以降に、内密に上杉家と交渉するルートを(物理的、地理的に)持たなかった」という意味であれば正しいといえます。

 

(令和2年5月30日追記)

 

 呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』(角川新書、2018年、p287・305)に、上記の七月十五日付上上杉景勝宛て島津義弘書状について、これは(真書であるか)「軽々には信用はできない。」「偽文書の疑いがある。」としています。

 

 その理由として、

 

①「そもそも右の文書は写しであ」ること。(p287)

②「前日の十四日島津義弘が本国(薩摩)にいる島津忠恒(義弘の息子で島津家当主)に宛てた書状には「爰元乱劇」としか記されておらず、義弘が西軍の構成を知悉していとは思えない。」(p287)

をあげ、③「西軍に属して敗者となった島津氏としては、徳川の天下においては、「上方で西軍が成立していたので、仕方なく参加した」と正当化する必要があったのではないだろうか。」(p287)

と記述されています。

 

 上記の記述について下記に検討します。

 

 ①「そもそも右の文書は写しであ」ることについては、一般的に歴史上「写し」である全ての書状に疑義があることになりますし、写しである書状全てについて、これが「真書」であることの証明は原本がない限り不可能です。

 このため、この指摘については全ての「写し」書状についてあてはまる話ですので、これについては反論しようがありません。(どこまでいっても全ての原本のない「写し」は真書ではない可能性がつきまとうことです。)

 

②「前日の十四日島津義弘が本国(薩摩)にいる島津忠恒(義弘の息子で島津家当主)に宛てた書状には「爰元乱劇」としか記されておらず、義弘が西軍の構成を知悉していとは思えない。」

 についてですが、国元の忠恒に今回の陰謀の詳細を知らせていない事については、特に不審な点はありません。この書状の日付は慶長五年七月十五日であり、三奉行による『内府違いの条々』が発出され、世間に公表された七月十七日以前のものです。七月十五日の段階では、西軍決起の陰謀はまだ秘すべき機密情報な訳で、息子の忠恒といえども軽々に漏洩するような情報ではありません。国元の忠恒に伝えるということは、国元家中にもすべて伝わるということであり、これでは機密でもなんでもなくなります。

 特に、その後の動向をみると、忠恒は(おそらく龍伯及び国元家臣達の意向で)「内府違いの条々」が発出されても、挙兵にまったく非協力的であり、事前の陰謀の段階では協力を求めても拒否され、むしろ止められることが義弘には分かり切っていたので、陰謀の話は忠恒には伝えなかった可能性が高いと考えられます。

 

③「西軍に属して敗者となった島津氏としては、徳川の天下においては、「上方で西軍が成立していたので、仕方なく参加した」と正当化する必要があったのではないだろうか。」

についてですが、そもそもこの書状は、(1)島津義弘は「内府違いの条々」が発出される以前の七月十五日に島津義弘が西軍諸将と事前通謀していた、(2)この書状の文面を読む限りでは島津義弘は事前通謀に参加することに積極的な意思があった、という内容でしかありません。

「仕方なく参加した」という言い訳をむしろ否定する内容であり、江戸時代の島津家が自分の立場をわざわざ危うくするような書状を偽造する意味がありません。(私も、島津氏は西軍決起の通謀に積極的な意思があったとは現在考えていませんが、この書状とは関係なく、他の状況を勘案してのことです。)

 

 以上から、この書状が「写し」であることから、書状が真書であることは確定できませんが、少なくとも呉座氏が考える理由からは、この文書が「偽造」と疑う理由にはならないと考えます。

 また、この書状から西軍諸将と上杉景勝が以前から連携していたと考える方もいるかもしれませんが、この書状を見れば分かる通り「いまだ書信のやりとりはございませんが」とあり、むしろ七月十五日以前には、西軍諸将は上杉景勝と連携してはいなかったということを証明する書状になります。

 七月十七日以降も、西軍は上杉景勝との連絡ルートを確立することに苦慮しており(間に東軍方の大名を挟んでいるため)、七月十五日に書かれた書状が即日上杉景勝に送られたとは考えられません。どちらかといえば、この書状は島津義弘を西軍決起の事前通謀に巻き込むための「念書」的意味合いが強いのでしょう。(島津義弘にこの書状を自発的・積極的に書く意思はなく、「書かされた」感のあるものだったのではないでしょうか。)

 

※参考エントリー↓

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(令和2年8月1日 追記)

 

 谷徹也氏が、「総論 石田三成論」(谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成戎光祥出版、2018年所収)で以下のように述べています。(p62~64)

 

「では、三成やその他の諸将の動向がどのようなものであったか、家康への宣戦布告である「内府ちがいの条々」が出される七月十七日までの経過を整理してみよう。

 七月十二日、増田長盛は家康家臣の永井直勝に対して書状を送る。その内容は、樽井で大谷吉継が病気となり、二日ほど留まっていること、三成の出陣に対して不穏な動きがあることが大坂で噂になっているというものであった。この書状は①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもの、③三成らとは共謀がなされておらず、家康に不審な動向を報告したもの、という三つの捉え方できよう。また、同日付で大坂の三奉行(玄以・増田・長束)が毛利輝元に出した連署状についても、④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したもの、⑤三成らの不審な動向による混乱を治めるための上坂要請、という二つの考え方がありうる。

 事前の謀議の存否については、七月十五日付の島津義弘書状が重要な手がかりを与えてくれる。義弘は、毛利輝元宇喜多秀家・三奉行・小西行長大谷吉継石田三成らが共同戦線を張っていることを上杉景勝に伝えるべく書状を記してる。この時点でも共謀がない場合、三成が義弘に虚勢を張ったことになるが、関ヶ原で「西軍」に属したのと同じ面々が挙げられていることや、嘘であれば、当時は反家康の行動を起こす主犯格と見られていた加藤清正の名前がないことも不審であり、義弘が伝えた情報は事実である可能性が高い。

 A七月十五日の時点で輝元や三奉行が三成に与同していたのであれば、輝元の居所が広島であることから、光成準治氏も指摘する通り、少なくとも七月十二日以前に彼らの内で共謀が成立していたと考えるべきであろうBよって増田書状は①か②C三奉行書状は④と解釈するのが妥当である。①か②かは決め難いが、もし①であるとすれば、その目的はいかなるものだったのだろうか。

 同書状の記す三成と吉継の不穏な挙動は七月十一日前後の出来事であろう。佐々正孝の得た情報によれば、三成側から吉継に使者を派遣して談合が行われたようであり、三成の主体性が認められる。江戸と上方の距離を勘案すれば、三成の挙兵は、七月十二日家康の江戸到着の報せを受けたものと考えられられよう。当時、会津攻めの後発隊として、彼らの他、安国寺恵瓊や玄以の子である茂勝らが東へ向かって進軍中であった。しかし、彼らの行軍は緩慢であり、一部が三成らに同調して戻っていったのである。三成らは挙兵後に自らの領国に留まるように伝言を送ったとされ、上記のタイミングを考慮すると、D家康を会津へは向かわせず、江戸に釘付けにすることが彼らの狙いだった可能性がある。」(下線・アルファベット記号は筆者)

 谷徹也氏の論考をまとめると、以下のようになります。

 

A 慶長五年七月十二日以前に、毛利輝元・三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)・石田三成らの内で西軍決起の共謀が成立していたと考えるべきであろう。

B 慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状は、①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもののいずれかと考えるのが妥当な解釈であり、①か②かは決め難い。

C 慶長五年七月十二日付毛利輝元宛三奉行(玄以・増田・長束)連署状は、④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したものと考えるのが妥当な解釈である。

D 慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状の狙いが、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの」だった場合、家康を会津へは向かわせず、江戸に釘付けにすることが彼らの狙いだった可能性がある。

 筆者も概ねこの論考が妥当と考えます。

 

(「慶長五年七月十二日付永井通勝(徳川家康家臣)宛増田長盛書状」及び「慶長五年七月十二日付毛利輝元宛三奉行(玄以・増田・長束)連署状」の書状の内容については、下記のエントリーに掲載しています。↓)

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※ 関ヶ原の戦いにおける西軍決起計画の「主導者」について検討しました。↓

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 注

(*1)中野 等 2017年、p416~417

(*2)渡邊 大門 2014年、p138~139

 

 参考文献

中野 等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

渡邊 大門『謎解き 東北の関ヶ原 上杉景勝伊達政宗光文社新書、2014年

なぜ、徳川家康・秀忠は豊臣家を滅ぼし、豊臣秀頼を殺したのか?

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 よく、「なぜ、豊臣家は滅んだのか?」という問いが立てられ、当時の豊臣家の内情を調べてその原因を探ろうとすることがたまに見受けられるが、実際にはこの問いの立て方自体が誤りである。別に豊臣家は自壊したのではなく、徳川家康・秀忠親子が、その意思と行動によって豊臣家を滅ぼしたのである。だから、この問いは「なぜ、徳川家康・秀忠は豊臣家を滅ぼしたのか?」に変えられるべきである。この問いの主語はあくまで、徳川家康・秀忠親子であり、「なぜ?」を問いたいなら、徳川家康・秀忠親子の内心を探るしかない。問いかけの対象を主体ではない豊臣家の人々に向けても不毛である。

 

 戦争になったから、というのも無意味である。戦争になって負けても、領地が(減封されるかもしれないが)安堵されることもあるし、領地を失って大名としては滅んでも命だけは助けてもらえることもあるし、逆に一族皆殺しにされることもある。その判断の主体はあくまで勝者側の判断であり、勝者側の責任であり、その判断に対する「なぜ?」は、勝者に向けられるものである。

 

 戦に敗北すれば、必ず殺されるというものでもない。思えば、織田信長は将軍足利義昭を追放したが、殺しはしなかった。豊臣秀吉は主家である織田信雄を最終的に改易にしたが、殺しはしなかった。これらと比べるとき、残虐といわれる織田信長豊臣秀吉に比して、徳川家康・秀忠親子の人格がどういうものか分かる。残虐といわれる織田信長豊臣秀吉よりも、更に劣ると言わざるを得まい。戦いに完全に勝利し、敗者に対する生殺与奪の権を握った時に、その人間の本当の人格がにじみ出るといえるだろう。

 

 さて、徳川家康・秀忠親子の内心などは分からないが、なぜ家康・秀忠は豊臣家を滅ぼすという判断に至ったかについては、似たようなケースである「なぜ、豊臣秀吉は北条家を滅ぼしたのか?」への回答から類推することが可能である。その理由は、要は「次の大きな敵がいない」からである。

 

 長宗我部家や島津家など、秀吉との戦に敗れた他の大名は減封されながらも所領を安堵されたのに対して、北条家のみは所領をすべて取り上げられ滅亡したことを疑問に思うむきもあるが、四国攻めや九州攻めと、関東の北条攻めは事情が違う。四国攻めや九州攻めは、まだ他に片づけなければいけない次の敵がいたので、完全に滅ぼすことにこだわって時間を無駄に費やすより、早く降服してくれれば条件付きでも秀吉は許したのである。

 

 しかし、北条攻めでは、奥州の伊達政宗も降参してしまい、日本国内に「次の大きな敵」はいない。だから、秀吉はじっくり北条を滅ぼすことができた。つまり、伊達政宗が秀吉に降参したことが「北条家を滅ぼしてよい」と秀吉に判断させた大きな理由だろう。逆に政宗が降参せず秀吉と戦おうとしていたら、秀吉は次の戦に備えるために、北条家と早期に講和して、いくらかの所領を安堵した可能性が高い。

 

 このケースから類推するに、徳川家康・秀忠が豊臣家を滅ぼそうと判断したのは「豊臣家の他に次の敵は出てこない」と考えたからであろう。実際に、秀吉の従兄弟の福島正則も含め、他の大名で豊臣家の味方をした大名はひとりもいなかった。味方をしないまでも「この期に反乱を起こそう」という勢力はいなかった。(たとえば、島原の乱のような反乱が大坂の陣の時と同時期に起これば、それは家康・秀忠の判断に影響を与えただろう。)この時点で豊臣家の滅亡は決まってしまったといってよい。

 

 その後に、豊臣家が善戦しようが、真田幸村が言ったとされる策を取ろうが、家中が一致団結しようが、秀頼殿が自ら出馬しようが、徳川家の圧倒的物量の前にいずれは負ける。「次の敵はいない」と徳川家康・秀忠が判断し、豊臣家は滅ぼすと決断した以上、その後に、豊臣家がどんな行動をしても無駄である。それを、豊臣家が他に何か「より良い」行動をすればもしかしたら豊臣家は滅びなかったかもしれない、と思うのは幻想である。

 敗者をどう処遇するかは、あくまで勝者の判断にゆだねられ、勝者の判断は外的な要因に左右される。

 

(「豊臣秀頼は自刃したのであって、殺されたのではない」とかいうツッコミはなしでお願いします。)

豊臣秀次事切腹事件の真相について③~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

 

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※前回のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

 

 秀吉の使者が文禄四年(一五九五)七月三日に秀次を詰問した後、秀次は八日に高野山に向かいます。

 

 矢部健太郎氏は『関白秀次の切腹』において、この秀次の高野山行は出奔(自発的)か、秀吉による追放(強制的)か再検討を行っており、結論としては、高野山行は秀次の自発的な出奔であるとしています。

 その理由としては、当時の一次史料(『兼見卿記』、『言経卿記』、『御湯殿上日記』、『大外記中原師生母記』)には、秀次が(自発的に)高野山に向かった記述はあるが、秀吉側の命令で追放されたとの記述はないためだとされます。(*1)

 

 上記についての感想を以下に書きます。

 

 これまで見てきたとおり、秀吉のこれまでの意思は「(秀次を後継者から降りさせるための)秀次の自発的な関白辞任」であったと推定され、そして結局、秀次からの自発的な関白辞任はなされなかったが故に、今度の秀次詰問事件が起こった訳です。

 秀吉の詰問を受け、(秀次自身の内心はともかくとして)秀次が秀吉の意思に逆らわず、反省した態度を公に見せる行為として、剃髪して高野山へ行くというのは、当時の「自ら反省の意を示す」態度として代表的なものといえます。

 

 つまり、七月三日の秀次詰問に対して、秀次が反省の意を秀吉に向けて見せる行動として高野山行は最も予想される行動のひとつである訳で、秀次の高野山行は秀吉政権側にとっても想定内の行動であり、秀吉の意図に反した行動ではなかったといえます。というより、秀吉が期待した(と少なくとも秀次はそのように解釈しています)行動であったとも言えるでしょう。

 

 結局、秀次は詰問を受けたことによって、なんらかの行動で秀吉の怒りを避けるために反省の意を示さないといけない立場に追い込まれたといえます。つまり、秀次の高野山行という選択は秀次自身の意思によるものとはいえ、それはあくまで秀吉の意思を受けて行ったものであり、これを単純に「秀次の自発的な出奔」とするのは、引っ掛かりを感じます。

 

 ただし、現代でもある人物に対して組織内のなんらかの不祥事の責任をとらせなければいけない場合、事実上の解雇であっても、外見的には自発的な辞任とさせる場合があります。こうした場合、組織の命令として明確に解雇した形が「処罰」としては重くなりますので、処罰としてそれでは重すぎるとした場合に(実際にはほぼ強制的ですが)自発的な辞任という行動で責任を取ったという形を取る訳です。

 

 秀次の高野山行が、外見的にも「秀吉の命令による追放・配流処分」によるものということになってしまうと、秀次に対する処分としては重すぎる処分になってしまい、その後の赦免・復帰等の処遇も難しくなってしまうと秀吉政権(の中の主に奉行衆の考えということになりますが)は考えたため、「秀次の自発的な出奔」という形を取りたかったのだと思われます。

 

 結局この後、秀次切腹という最悪の結末を迎えてしまうため、あまり今回の論点は注目される事が少ないですが、当初の段階で秀吉政権がこの事件をどのように処理しようと考えていたかを考察するうえでは、重要な論点といえるでしょう。

 

 次回は 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p188~198

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年