古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

小早川秀秋の九州入国に気配りをする石田三成

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 石田三成小早川秀秋の仲については、関ヶ原の戦いで秀秋が西軍を裏切ったことから、仲が悪いのが当然のように考えられていましたが、調べてみても、実のところ三成と秀秋の接点というのは薄いだけで、仲が良いとか悪いとかいう事はないのではないかと思われます。(令和元年10月21日追記:と思ったのですが、その後調べてみると色々三成と秀秋は繋がりがある事が分かりました。詳しくは下記を参照願います。↓)

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 その中で、三成と秀秋に関係するものとして、また中野等氏の『石田三成伝』からになってしまいますが、興味深い書状がありましたので以下に紹介します。 

 

 以下は、小早川隆景の養子となった、小早川秀秋が初めて領国である九州筑前に入国した文禄四(1595)年の小早川隆景島津義弘宛書状です。

 

「先度者委細之御懇報、畏入候、仍中納言殿御供申、一両日以前致下著候、遠路乍御造作、御一人被差出、御入国之御祝儀被仰上候て可然存候、何篇御心安可申談之通、治少内証候間、得御意候、来月中旬ニハ中納言殿も先以可為御上洛候、山口玄番(蕃)頭御供候、為御心得候、恐煌謹言、

            小左衛 

 (文禄四年)九月十八日  隆景(花押) 

       嶋兵様 人々御中

 

◇先般は御懇ろなご返事を畏れ入ります。小早川秀秋中納言)殿の御供をして、一両日以前、筑前に下着しました。遠路ご迷惑をおかけしますが、御家中から御一人お出でいただき、初入国の御祝儀を仰っていただければ幸いです。あれこれと心安く相談するようにと石田三成(治少)から内意を得ておりますので、このように連絡しています。山口宗永(玄蕃頭)が御供をされます。御心積りのため、お知らせします。

 

 小早川隆景島津義弘(兵庫頭)に対して、秀秋初入国の祝いを開催するにあたって、島津家中の列席を依頼している。おそらく他の大名家に対しても同様な依頼がなされたと考えられるが、注目されるのはこうした措置が「治少内証」すなわち三成の内々の配慮によっていることであろう。」(*1)

 

 小早川秀秋の入国の祝いを開催する際に、近辺大名の家中が列席するように三成が内々の配慮をしており、大名間の顔つなぎも行っているという話です。こうした大名間の渉外に対して内々の気配りをするのも、奉行としての三成の重要な役割だったことがうかがえます。

 

(参考)(平成30年2月17日追記)

 小早川秀秋の九州入国の際に、石田三成と親しい博多商人衆(島井宗室、神屋宗湛等)は秀秋を博多に迎えるために種々奔走があり、これには奉行衆の増田長盛石田三成の内意があったという記述が、田中健夫氏の『島井宗室』にあります。

 以下引用します。

 

「『宗湛日記』によると、宗室をはじめ宗湛・日高宗暦等の博多年寄衆は、隆景の所領三原で挙行された秀秋と隆景の一族の息女の結婚を賀するために十月二十六日博多を発し、十一月十四日には三原に参着した、と記している。

 翌文禄四年、宗室は秀秋を博多に迎えるために種々奔走するところがあった。隆景は八月十四日付で宗室と宗湛に書状をおくり、秀秋の下国に対する準備を依頼した。すなわち『島井文書』によると、「今度中納言殿(秀秋)が十日滞在の予定で其地(博多)に下向する由を昨日鵜飼新右衛門尉元辰(もととき)と粟屋四郎兵衛からいってきた。そちらで祝儀について準備してもらいたい、松原茶のことも肝要である。増田長盛石田三成の内意もあることだから、専心奔走してもらいたい。」と記している。

 『宗湛日記』によると、八月十七日隆景の一行は名島に着いて振舞、二十三日には「松原御茶屋之事、博多二被仰付候二依テ」宗湛が肝煎りし、九月二十日と二十五日には隆景のほかに秀秋をも加えてこの茶屋で茶会がひらかれている。また二十六日には、秀秋は宗湛の孫に対し金吾中納言(筆者注:金吾は秀秋の通称)の金十郎と名乗らせている。その後宗湛は折にふれ珍物を献じたり、博多の松ばやしを覧せたり、領主の養子に対して実にこまかい心づかいをしている。」(*2)とあります。

 

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 注

(*1)中野等 2017年、p265~266

(*2)田中健夫 1961年、p174~175

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年

田中健夫『島井宗室』吉川弘文館 1961年

権勢(のない?)石田三成~毛利家臣児玉元兼の脇差所望エピソードについて

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1.毛利家臣児玉元兼の脇差を秀吉が所望するエピソードについて

  「彼仁当時肝心之人」  

 中野等『石田三成伝』で、以下のような記載があり、興味深かったので紹介いたします 

『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門の項にこのような話があるということです。以下、長くなりますが、引用します。

 

「関係史料のなかに「高麗」(朝鮮出兵)への言及があることから、天正末年頃の話と考えられるが、毛利輝元の重臣児玉元兼(三郎右衛門尉、のちに若狭守)が「貞宗」の脇差を所持していると人伝に聞いた秀吉が、これを強く所望するということがあった。輝元が在国する佐世元嘉(石見守)に充てた書状(『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門)には、「児三右持候さたむねの脇差之儀、石治少聞及、所望候、関白様へ申上候物候て、被召上さうに候間、其内とり度との事候、高麗さしたて不入候ハゝ、取返わきさし差上せ候様に申遣之由被申候」とある。これによると、件の「貞宗」は、もともと毛利家から児玉家に下賜されたもののようであり、元兼としては容易に承服できなかったようである。なかなか要求に応じない元兼に業を煮やした輝元は、元兼の嫡男元忠(小次郎)に充てて次のような書状を発する。

 

   彼仁当時肝心之人にて、中〱不及申候、大かたニ心得候てハ、可為相違候、

   三郎右申聞候、少も不可有疎意候、

脇差の事、切々被申候、延引候て、もし被腹立、はや不入なとゝ被申候てハ、大無興にて候間可相尋候、児肥可申談候、為此申聞候、かしく

 

天正十八年)八月廿四日    輝元公御判

 児 小次

◇例の脇差について懇ろに依頼がきている。これ以上長引いて、万一立腹されて、もう要らないなどと言われたら、大きく機嫌を損ねたことになるので、(状況)を問い合わせている。「児肥」が話をするので、よく相談するように。

 彼の人が現在、非常な重要な人物であることは、最早言うまでもないことである。いい加減に考えていたら大間違いである。三郎右衛門尉元兼とよく話し合い、少しも疎んずることのないように。」(*1)

 

 元兼の貞宗の脇差は、この後関白秀吉に進上されることになりました。

 

 上記でみられるように、大大名である毛利輝元が三成を「彼仁当時肝心之人」と書いており、中野等氏は「三成は、秀吉側近の重要人物として、その権勢は日に日に強まっていくという感がある」(*2)としています。

 

 しかし、正直に申し上げて、これ、そういう三成の権勢を示す逸話と言い切れるのか?という気がします。

 

 考えてみれば、天下人関白秀吉が脇差を所望しているのだから、配下の毛利家家臣としては一も二もなく進上すべき話でしょう。

 それを元兼がごねて、引き延ばしていること自体がかなり失礼な話な訳です。輝元は、それで秀吉が「もういらないわ」と怒りだすのを心配しているのですね。

 

 結局、元兼がごねているのは、使者の三成の知名度が当時の毛利家臣にとっては低く、「誰そいつ?」状態だったからでしょう。それゆえ、軽く扱われてごねられている訳です。それで困った輝元が、「あの人(三成)軽輩そうに見えるけど、『彼仁当時肝心之人』だよ」と説明しているのですね。輝元は、それを「最早言うまでもないことである。」と書いていますが、本当に言うまでもないことだったら、そもそもこんな書状書く必要ありません。

 

「いい加減に考えていたら大間違いである。」というのも、元兼が、実際に「いい加減に考えていた」という事の裏返しですね。

 

 上記の逸話から分かるのは、確かに当時の三成は秀吉の側近として急速に権勢を高め、京坂に在住する大名にはそれは理解されていたが、在国する家臣達からの知名度は低く、ゆえに軽く扱われた、という話になるかと思われます。要は、三成の権勢と知名度は全国区ではなかったという話ですね。(また、三成が毛利家の取次になるのは、もう少し先の話です。)

 

2.今井林太郎氏『石田三成』の記述について

 

 そういえば、なんか似たようなエピソード、昔読んだことがあるな、と思って調べてみると、今井林太郎氏の『石田三成』に似て非なるエピソードが紹介されています。上記とまったく同じ書状を元にしたエピソードなのですが、上記の書状を今井林太郎氏は、関白が秀次の頃の書状だと解釈し、「この脇差のことは、既に秀次の耳にも入っているので、秀次がほしいといい出すかも知れない。それ故その前に手に入れたいと申し入れたことがわかる。」(*3)としています。この今井氏の解釈では、関白秀次に先んじて、三成自身がその脇差を所望しているという話になってしまっており、「こういう傲慢な態度が、多くの人の反感を買っていたことはいうまでもない」(*4)と今井氏は述べます。

 

 しかし、この今井氏の解釈と結論は誤りです。中野等氏が述べている通り、関係史料のなかに「高麗」(朝鮮出兵)への言及があることから、この書状の年は天正十八(1590)年に比定され、この時の関白は当然秀吉になります。この脇差は、秀吉が所望し、秀吉に進上されるものであったことは、上記で述べた通りです。

 

 また『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門の項にある、文禄四(1595)年十一月八日毛利輝元の児玉元兼宛文書にも、「先年吉光脇差、是又太閤様へ進上候、」(*5)とあり、(中野等氏は、この文書の「吉光」は輝元が「貞宗」を誤ったもののようだとしています。また、文禄四(1595)年の太閤はもちろん秀吉です。)脇差は秀吉に進上したものだと分かります。 

 

(今井林太郎氏の石田三成記述は、全体的には三成に好意的である事を、念のため追記します。)

 

 注

(*1)中野等 2017年、p136~137

(*2)中野等 2017年、p136

(*3)今井林太郎 1961年、p222

(*4)今井林太郎 1961年、p223

(*5)中野等 2017年、p137

 

 参考文献

今井林太郎『石田三成吉川弘文館 1961年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年

賤ヶ岳の戦いのときの石田三成

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 賤ヶ岳の戦いのときの石田三成の動きはどうだったか?

 その前に、羽柴秀吉柴田勝家賤ヶ岳の戦いに至るまでの動きをみてみましょう。

 織田信長の死後、羽柴秀吉柴田勝家と対立し、戦うことになります。 

 まず、柴田勝家が雪で兵を動かすことができない間に秀吉は美濃国近江国を制圧し、その後天正十一(1583)年2月には、勝家と結ぶ滝川一益を攻めるため北伊勢に向かいます。そして2月26日から一益の武将佐治新介の守る伊勢亀山城を攻め、3月3日これを落とします。

 

 この間に、柴田勝家が動き出します。3月3日に佐久間盛久を先鋒大将とする柴田軍が越前北ノ庄を出発し、「三月七日には柴田軍は木之本付近まで進んできた。その後、少し後退して柳ヶ瀬付近が柴田軍三万で埋めつくされることになるが、このしらせを伊勢で聞いた秀吉は、亀山城に押さえの軍勢を置き、急いで江北に兵を返し、十七日には木之本付近にもどり、柴田軍と対峙する形を作っている。」(*1)(下線筆者)(木之本も柳ヶ瀬も近江です。)

 

 その頃、石田三成近江国浅井郡尊勝寺の子院称名寺に充てて発した文書が残されています。

 

「   尚以、筑州より御直礼にて被仰候之間、為我等不□□候、已上

 柳瀬二被付置候もの罷帰候とて、御状御使者口上趣、具申上候処、一段御満足之儀候、重而も彼地人を被付置、切々被仰上尤存候、尚而可申承候、恐々謹言

                 石田左吉

天正十一年)三月十三日        三也(花押)

 称名寺 貴報

◇(探情のため)柳瀬に派遣していた者が戻ったとのことで、御状ならびに御使者の口上を細やかに申し上げました。(秀吉も)大いに満足しております。重ねて、かの地に人を置かれ、頻繁に報告されることが、いかにもよろしいかと存じます。

     なお、筑州(筑前守秀吉)が直接御礼を述べると思いますので、私からは控えます。」(*2)

 

 上記(*1)でいう、「しらせ」こそが、(*2)でいう称名寺が「柳瀬に派遣していた者」が、秀吉にもたらした報告のことを指していると考えられます。この「しらせ」により、伊勢方面にいた秀吉は、柴田勝家の南下を受けて伊勢から近江木之本へ移動します。(*2)の書状はその間のもので、書状の「柳瀬(柳ヶ瀬)」とは(*1)の通り勝家の本陣です。

「三成は、称名寺とその配下をつかって柴田勢の動向を探ってたわけである。秀吉自身の長浜から木之本への移動も、こうした情報を基にした作戦であった。ここで秀吉は、柴田勢を牽制する多くの城柵をつくることになる。これらの城柵配置も、このような探情の成果に拠ったのであろう。」(*3)と中野等『石田三成伝』にあります。

 

 この後、四月二十一日に賤ケ岳で秀吉は柴田勝家を破り、勝家の本拠越前北ノ庄を攻めて、勝家を自害に追い込みます。

 この時、石田三成(かぞえで)24歳。この時期の三成は、秀吉の側近くで、諜報・情報収集の役割を担っていたことが分かります。

 

 注

(*1)小和田哲男、2006年 p75~76

(*2)中野等、2017年 p16

(*3)中野等、2017年 p18

 

 参考文献

小野田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

中野等『石田三成吉川弘文館、2017年

【小説】ビルドアンドビルド

 ガイドは、その城の城門の前で説明を始めた。とてつもなく高い城壁と城門だった。城門を見上げながら、我々はその高さに圧倒された。

 

「今から300年以上昔になりますが、この国の周辺諸国をも征服して一大王国を築いた国王〇〇1世は、この地に都を移して、宮殿を築きました。

 王は年を取るにつれ猜疑心が深まり、今は従っている諸侯に裏切られるのではないか、部下に寝首をかかれるのではないかと疑心暗鬼になりました。

 とりわけ、ある信頼していた部下が王の暗殺計画を立てていた事件が露見し、王は人間不信に陥りました。

 そこで、王は宮殿の周りに高い城壁を作りました。いつ敵に攻められても守ることができるようにです。その城壁ができると、その外側に城壁を作らせました。それが終われば、更にその外に城壁を作らせました。こうして、城壁は次々と作られ、現在のように47もの城壁がこの宮殿を取り囲んでいます」

「しかも」ここで、ガイドは言葉を切って、ツアー客の面々を見渡した。

「見てのとおり、この城壁を作る工事は今でも続いているのです」

 その通りだった。それから300年以上たった今でも、48番目の城壁が新たに作られている。

 城壁を作るための石材を運ぶ業者たちの姿を我々はよく見ていた。

「今でも〇〇1世は、この城壁の奥深いところにある宮殿に住んでいると言われます。そして、城壁を作り続けるように命令しているのです」とガイドはちょっとおどけたように言う。観光客の一人が質問した。

「ええ?今王様が生きているとしたら、何歳なんですか?」

「そうですね。380歳になるはずです。」

 観光客は皆笑い出した。

「王様は、城壁を作り出すと、宮殿の奥深くに一人で暮らすようになりました。王妃は既に亡くなり、王子は2人いましたが、彼らにすら王様は気を許しませんでした。王様は信頼できる召使1人のみ目通しを許し、長年の友であった執政に政治をゆだねました。王様にとって幸運だったのは、この2人は王様を裏切ることはなかったのでした」

「そして、王様は80歳で亡くなりました」とガイドは事もなげに言う。あれ、さっき王様はまだ生きているって言っていなかったっけ?

「その死は伏せられ、現在でも王様は生きていることになっています。そして、王様の命令は「城壁を作り続けよ」ということでした。この国では、王様は今でも生きていることになっていますので、この命令は今でも有効です。そして、城壁は永遠に作り続けられているのです」

「奇妙な儀式がこの国にはあるとのことです。1日に3度、王の食事が宮殿に向けて運ばれていくとの伝説です。見たことがあるという人も聞きますが、実際に聞いてみると、知り合いの知り合いから聞いた噂話だという話にすぎません」とガイドは言う。

 

 既に300年も前に亡くなっているはずの国王の命令に縛られて、この国の城壁は作られ続けている。この王国は、王が亡くなったとされるあたりから、周辺の諸国の反乱や独立が相次ぎ、結局はじめにこの王家が支配していた程度の小国に戻ってしまった。そして、100年過ぎると王家の血筋も絶えてしまう。王家は不運なことに子宝に恵まれなかった。もっとも王様は生きていることになっているのだから、王の子や孫は結局王を名乗ることはできなかったのだが。

 かくして、王家は絶えたのに、どう考えても死んでいる王は生き続け、王国は存続した。執政とその子孫が、この国を支え続けた。

 

 この幾重にも重なる城壁に私はとりつかれた気分になった。そうだ、この城は王の心の中なのだ。妄執にかられた王の心の中を我々は歩いているのだ。

 ガイドの目を盗んで、私は一人で城の中へ、奥へ入っていた。

 12番目の壁の近くに来た時に私は、警戒が非常に厳しくなったのを感じた。衛兵の数が多い。やばいな、と思って戻ろうとしたところで、私はたちまち衛兵に見つかり取り囲まれた。彼らは私の知らない、おそらくはその国の言葉で怒鳴りながら銃を突きつけた。

 そこへ、ガイドが血相を変えてやってきて、衛兵の隊長らしき人に必死になって弁解した。そのまま拘束されるかと思ったが、ガイドの弁解が功を奏したしたらしく放免してくれた。ただし、13番目の壁の外までしっかりと護送されたが。

 ガイドは、「死にたいんですか、あなた?」と言った。

「誰にも、人には覗かれたくない聖域があるのです。ましてや、国王ならば。

 衛兵たちはそれを守っているんです」

 そして「はじめに、内城に行ってはいけないと、きつく言いましたよね」と言った。

 だからこそ、行ってみたかったんだと言うわけにはいかなかったので、黙って私はうなずいた。

「私は、あなたのせいでガイドの免許を剥奪されるかもしれません」

「それは悪かった」

「まあ、その時は訴えますので」

と言うと、ガイドはすたすた歩き始めて振り返っていった。

「こんなところ、早く出ましょう」

 いや、私はもっと奥に行きたかったのだ。行って王の心の中を覗きたかったのだ。誰にも踏み入らせない心の聖域とやらを見たかったのだ。命をかけて?いや、別にそれほどでもない。だから、私はすごすごと帰った。

 外に出ると城壁の工事が続いているのが見えた。もう死んだはずの王の命令に縛られて、この国の国民は延々と城壁を作り続けている。ビルドアンドビルド。結構なことだ。私は、一介の旅人にすぎない。しかし、王の心の中の迷宮は私をとらえるものがあった。それは、私だけではないのだろう。だから、他にたいして観光資源のないこの国の城壁を見に、私のような観光客がひっきりなしに来るのだ。

 ただ、これ以上心をとらえられる前に、帰るのが賢明だろう。

 城壁はいつまで作り続けられるのだろう。私は、なんとなくうらやましく思った。誰に対してかは、よく分からない。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」について。

※以下は、村上春樹「4月のある朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和講談社文庫、1986年所収)の感想です。

 

 この作品はタイトルだけで既に完結しているといってよい。このタイトルだけで純粋にまじりけなく完璧なものだ。これは、ある種の物語の原型である。この村上春樹氏の短編も、その原型から無限に発生するひとつのバージョンを切りとってデッサンしたものにすぎない。

 

 この原型の世界に恋い焦がれて、ある種の作者たちは物語を紡ぎ始める。たとえば新海誠さんの作品のその原型はひとつであるし、スピッツ草野マサムネさんも語っていることはひとつの世界である。

 

 その物語は「昔々」で始まるのかもしれないし、「ある晴れた昨日の朝だった」かもしれないし、「今から遠い未来」かもしれない。

 

 終わりは「悲しい話だと思いませんか」かもしれないし、「めでたし、めでたし」かもしれない。(ただ、「悲しい話だと思いませんか」の方が多いのかもしれない。そのほうが「リアリティ」があるのかもしれない。)

 

 この物語の表層は千変万化し、変遷し、伝えられる。古今東西の作者が、この物語を語り続けてきた。これからもバージョンを変えて多くの語り手に語り継がれることになるだろう。

村上春樹『騎士団長殺し』読了。

 ※コメント欄はネタバレ開放にしますので、ご注意願います。

 

 村上春樹『騎士団長殺し』新潮社を読了しました。

 

 感想というほどでもないのですが、初読で思ったことは、この小説は「謎解き」や「深読み」を(作者の意思として)拒否している小説だなーと思いました。過去の村上春樹の小説は(別に「謎解き」や「深読み」を作者が期待している訳ではないのでしょうが)、実際には「謎解き」を誘発するつくりになっていました。

 

 しかし、今回の作品は「『謎』は『謎』のままで、『イデア』に昇華させるか、『遷ろうメタファー』(『遷ろう』とはメタファーが変遷して多義的となっているという意味です)にしよう」という作者の姿勢が明確化しているような気がします。それこそが本作品の作者のテーマともいえます。そうやって人生を過ごしていくべきだという、作者の価値観の表明といえるのかもしれません。それ以外の部分は過去作品に比べると親切すぎるほど解説している。

 

 こういった作品に対して、「謎解き書評」をするのは、かなり野暮な話なので「謎解き書評」以外書くことがない私としては、現時点では正直何も書くことがないのですね。

 

 また再読してみて書くことがあれば書いてみたいと思います。(何か質問があればコメント欄にコメント願います。)よろしくお願いします。

 

村上春樹作品の過去の批評については、下記をご覧ください。↓

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豊臣秀次切腹事件の真相について⑨~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(下)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

※前回のエントリーです。↓

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 最後に、秀次家臣の保護に奔走する石田三成の動きについて検討します。

 

 秀次切腹事件においては、多くの秀次家臣達が連座させられ、切腹に追い込まれました。その中で三成は秀次の家臣を保護しました。

 豊臣秀次には配下に「若江八人衆」と呼ばれる重臣がいましたが、石田三成はその「若江八人衆」の大部分を匿い、自らの臣下に引き受けています。

 

 三成に召し抱えられた「若江八人衆」のうち、舞兵庫は、秀次の後見役であった前野長康の娘婿です。初めは前野忠康と名乗っていました(通称は前野兵庫助)。前野長康は秀次事件の際に連座して、切腹に追い込まれています。秀次の死後、忠康は舞に姓を変え、三成に五千石の高禄で召し抱えられます。その後、関ヶ原の戦いで先鋒として活躍するも討ち死にしたといわれます。(*1)

 

 その他の「若江八人衆」のうち、大山伯耆、森九兵衛、大場土佐、高野越中、牧野成里は、三成に家臣として召し抱えられ、いずれも関ヶ原の戦いで奮戦します。残る「若江八人衆」のうち、安井喜内前田玄以、のちに浅野幸長に仕え、藤堂玄蕃藤堂高虎の従兄弟)は、藤堂高虎に仕えています。

「若江八人衆」のうち、六人が三成の家臣となり関ヶ原の戦いで三成と共に戦ったということなります。(*2)

 

 また、白川亨氏によりますと、秀次家臣で秀次事件で自害に追い込まれた木村常陸介重茲の重臣、木村宗左衛門由信を保護したのも三成としています。(*3)

 三成が上記のように秀次家臣を保護していること、木村由信が関ヶ原の戦いの際に西軍につき、大垣城の守備を受け持つも、関ヶ原戦後の相良長毎らの裏切りにより、三成の縁戚である熊谷直盛ら共々謀殺された経緯を考えますと、白川氏の見解は妥当と思われます。

 

 これまで見てきたように、石田三成ら奉行衆は秀次事件についてはなるべく穏便な処理にとどめようとして事態の収拾をはかっており、想定外の秀次切腹後も三成は秀次の家臣の保護のために奔走しました。秀次切腹事件を三成ら奉行衆の企みとする俗説がありますが、そうした俗説は誤りであることは明らかでしょう。

 

 注

(*1)石田世一 2016年、p158~160

(*2)石田世一 2016年、p163

(*3)白川亨 2009年、p35

 

 参考文献

石田世一「第十章 舞兵庫 三成に恩義を感じて奮戦した武将」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年