古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

安東(秋田)実季と石田三成について

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 藤木久志氏の『戦う村の民俗を行く』(朝日選書843)で、石田三成関連の記述がありましたので、以下引用します。(ページ数は該当書のページ)

 

「その春(筆者注:天正十七(1589)年)、北羽の安東家に起こった、檜山(能代)城の実季(さねすえ)と、湊(秋田)城の湊通季(みちすえ)との抗争が、北奥で津軽の独立をはかる大浦(津軽)為信と、北羽平鹿(秋田県横手市)・比内(大館市)への進出をねらう南部信直との抗争を巻きこんで、北の激動の焦点となった。実季は由利の赤尾津氏や津軽の大浦氏と結び、仙北の戸沢氏や南部氏と結んだ通季を破って秋田(下三郡、秋田・檜山・比内)の大名としての地歩を固める。

 だが、この戦闘行為が豊臣政権の惣無事令に触れた。前田利家から南部信直への情報によれば(「盛岡南部文書」)、秀吉は自ら出馬して、この秋か来春には「出羽・奥州両国の御仕置」にあたろうとし、前田氏に北国の軍勢を率いて秋田に侵攻することを指令したが、とりあえずは秋田を「御蔵納(おくらおさめ)」つまり豊臣直轄領として接収し、南部・上杉両氏にその管理を委ねる方針を決めた、という。豊臣政権がはじめて奥羽に示した、もっとも強硬な力の政策であった。

 この方針はすぐには強行されなかったが、それは石田三成を頼った、実季の必死の中央工作によるものであったらしく、最上義光は実季に「そこもと進退の儀について、様々ご苦労候つる由」といい、「石田治部少輔ご内通について、そこもと安堵」といって、その労の報いられたことを喜んでいた(「松沢亮治郎氏所蔵文書」)」(p96)

 

 

 その後、三成の尽力もあり、奥州仕置において安東(秋田)実季は本領を安堵されますが、その七万八千六百余石の三分の一にあたる土地が豊臣家の蔵入地(直轄領)として割かれ、管理だけ安東(秋田)氏に委ねられることになります。この豊臣家の蔵入地の設定のねらいは北羽の木材と金であったとされます。

 

 慶長五(1600)年の北の関ヶ原の戦いでは、実季は東軍につき、西軍方の小野寺義道と戦います。慶長七(1602)年には、常陸国宍戸へ転封。実質的な減封でした。

 

 寛永七(1630)年には幕府によって実季は、突然蟄居が命じられます。嫡男俊季との争いが原因とされます。秋田家は嫡男俊季の家督相続が認められ、存続します。

 万治2(1660)年、実季は蟄居先の伊勢朝熊にて死去。享年85歳でした。

考察・関ヶ原の合戦 其の十九 「大老」宇喜多秀家

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※前回のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

1.「大老宇喜多秀家の求められた役割

 

五大老の官位・年齢(秀吉が死去した慶長三(1598)年当時)・石高を比較してみますと、以下のようになります。

 

徳川家康  従二位内大臣  56歳 武蔵江戸255万石

前田利家  従二位権大納言 60歳 加賀金沢83万石

毛利輝元  従三位中納言 46歳 安芸広島120万5千石

上杉景勝  従三位中納言 43歳 陸奥会津120万石

宇喜多秀家 従三位中納言 27歳 備前岡山57万4千石 

(大西泰正氏は、宇喜多家の石高は、実際には50万石弱だったのではないかと指摘しています。)(*1)

 

 上記を見ても、秀家は五大老の中で唯一、二十代であり、二番目に若い景勝よりも16歳下、石高も一番少ないです。秀吉自筆の遺言では、秀家は五大老の中では最後尾の扱いとなっていますが、これは致し方ありません。

 むしろ、他の四人の大大名の中に、あえて二十代の若輩者であり石高も他の大老に比べて低い秀家を大老として入れた事に、秀吉の秀家に対する並みならぬ期待がうかがえます。

 

 五大老の中における、宇喜多秀家に期待された役割について見てみます。秀家の大老としての役割は、大きく分けて二つあったかと思われます。

 

 一つ目は、浅野家に伝わる秀吉の遺言覚書による宇喜多秀家の役割です。

 

「一つ、備前中納言宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。」

 ※下記のエントリーから、抜粋・引用しています。↓

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 つまり、宇喜多秀家は、五大老の一人として、実際の政治の実務を行う五人の年寄(奉行)(前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)との調整を行い、政務を万端行ってほしいという意味ですね。

 五大老は政務のうち、公議として大きな政治判断(例えば、唐入りの撤兵や、大名のお家騒動(内乱)の仲裁、大名同士の争いの裁定等)を行う協議に参画し、五奉行は実際の行政を行う。そして、宇喜多秀家は他大老と奉行の間に入って調整を行う、というのが秀吉の想定した秀家の位置づけでしょう。

 

 この役割を、実際秀家が果たせたかというと、秀吉死後、すぐに私婚違約事件が起こって、家康とそれ以外の四大老五奉行との対立が始まり、その後、前田利家の死、七将襲撃事件による石田三成の失脚が起こり、その後は、大老家康一人が大老・奉行の中で絶大な権力を握るようになりますので、実際にそのような役割を果たすのは困難だったといえるでしょう。

 しかし、秀家は、秀吉の遺言を守り、秀頼の守護のために大老の役割を果たそうと尽力し続けました。

 

 二つ目は岳父である大老前田利家の補佐です。前田利家は、秀吉の遺言で、

「一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。」 

とあるように、利家は、秀頼の御守役に付けられたので、大坂城で秀頼を守護するのが主な役割となります。宇喜多秀家は、岳父の前田利家の補佐として、大坂城で共に秀頼を守護するのが役割となります。

 

2.秀吉死後の「大老宇喜多秀家の動き

 

 秀吉死後の宇喜多秀家の動きを以下に見ていきます。

 

慶長三(1598)年

 秀吉の死去の前の「8月9日、伏見城の秀吉は、家康・利家・輝元、そして秀家らを招いて、ここでもさまざまな指図をおこなった。たとえば、自らの死後の国内体制について、東西は家康・輝元、北国は利家、五機内は、「大老」(史料上は「奉行」)五人、という担当を割り振っている。新領知会津福島県会津若松市)に帰国途中の上杉景勝はともかく、秀家個人はこの分担にも与(あずか)れていない(「東西は家・輝両人、北国は前田、五機内は五人の奉行」(『萩藩閥閲録遺漏』)。(*2)

 

 また、8月1日、8月9日に秀家の娘と毛利輝元の長男秀就との縁組が指示されます。秀家に対して、西国大名として毛利輝元の補佐を行い、西国の統治を協力して行うことを期待したものといえます。

 

 前田利家の補佐といい、毛利輝元の補佐といい、結局若き宇喜多秀家は、「五大老」といっても、他の大老の補佐的ポジションとして秀吉は指名していたということです。他の四大老と比べれば秀家は年齢、経験、石高どれも遠く及びませんので、まあ当然の位置づけといえます。

 

 しかし、結局、秀家の娘と毛利輝元の長男秀就との縁組は実現せず、また秀家が輝元と協力して西国の統治にあたった形跡もありません。(というより、毛利輝元自身が西国の統治に目立った動きがないのですが。)

 

 慶長三(1598)年八月十八日、秀吉死去。秀吉死後に、「唐入り」の中止、朝鮮からの撤兵が始まります。

 

慶長四(1599)年 

「慶長四(1599)年正月十日、秀頼は秀吉の遺言に従い、前田利家らに供奉されて

伏見城から大坂城大阪市中央区)に移った。このとき秀家もおそらく大坂に移動し、備前島(大阪市都島区)の邸宅に入ったと考えられる。」(*3)

 

「同月、伏見に残留した徳川家康に伊達・福島・蜂須賀三氏との私婚問題が発生した。正月十九日、家康は例の法度(「御掟」)に背いたとして、他の「大老」・「奉行」の追及をうける。両者が起請文を交わしてこの騒動に一応の決着を見たのは二月五日であった。」(*4)

 大老として秀家もまた、家康を追及します。

 

二月二十九日 伏見の家康邸を前田利家が訪ねます。

 

「三月十八日には秀家が、家康と前田利長が協力して秀頼を補佐するならば(「貴殿(家康)・利長仰せ談ぜられ、秀頼様へ御粗略なき上は」)、自らも秀頼をもり立てるとの起請文を家康に対して作成している(『島津家文書』)。この誓紙によって秀家は、秀吉の死去直前(八月八日~十七日)に権中納言に昇ったばかりの義兄利長を支え、さらに前田・徳川両者の融和をも図る姿勢を明確にしたのである(大西二〇一七)。しかし後世から見れば、利家や秀家の尽力は報われることがなかったといえる。」(*5)

 

三月十一日  家康が大坂の利家邸を訪れて病気を見舞います。

 

閏三月三日 前田利家死去。

閏三月四日、七将襲撃事件(奉行石田三成が、加藤清正ら七将に襲撃される事件)が起こります。

「三成は一時、前田(利長)邸に隣接する(筆者注:石田三成は、病の前田利家を見舞う(利家は亡くなる訳ですが)ため、前田利家邸にいました)秀家邸に身を隠し、次いで佐竹義宣邸へ難を避けたといい、最終的には伏見城内の自邸に逃れている。この事件により、三成は近江佐和山城滋賀県彦根市)に引退し、同月十三日、伏見城に入った家康が「天下殿」(『多門院日記』)と称される事態に至った。」(*6)

 

八月、大老前田利家の息子である利長が大坂から国許(加賀金沢)へ帰り、上杉景勝もまた伏見から国許(陸奥会津)に帰ります。

 

九月七日、徳川家康伏見城を出立して大坂に向かい、空き屋敷となっていた石田三成の屋敷に入ります。九月九日に大坂城で開かれる重陽節句に出席するためでした。ところが、七日の夜、奉行増田長盛が、前田利長を首謀者とする、大野治長浅野長政(嫡男幸長の正室は前田利家娘)、土方雄久(利長の従兄弟)と謀り、大坂城内で家康が暗殺しようとしているという計画があることを告げます。(*7)

 

 家康は、伏見から兵を集め、九月九日、供の数を倍にして登城しました。そのためか、暗殺計画は実行されず、家康は無事に賀儀を無事に終えることができたのでした。(*8)

 

 これより前に、家康が「太閤様御置目」を根拠に、「堅」く秀家の大坂から伏見への異動を要求していました。これに対して、宇喜多秀家は「〔なくなられた〕大(太)閤には、肥前守(筆者注:前田利長)と私の二人で共に秀頼〔公〕を戴き、大坂を守れ、と遺言されました。そのお声がまだ耳に残っています。どうしても命令は聞けませぬ」(『看羊録』)(*9)と言って抵抗しましたが、結局、九月十一日から十三日の間に、やむを得ず秀家は伏見へ異動することになりました。(*10)

 

 東国衆は在大坂、西国衆は在伏見と、確かに「太閤様御置目」に定められていましたが、東国衆である家康は、秀吉の遺言により、伏見に在住することになっていました。また、秀家の言によると、秀家もまた秀吉の遺言により、大坂在住が定められています。

 この「置目」が、秀吉の遺言を受けている「五大老」にも当てはまるかは、かなり疑問です。

 また、前に「御掟」違反である私婚違約事件を起こし、この後に家康は秀吉の伏見在住の遺言を破って、大坂城に居座ることになりますので、そもそも家康に秀吉の遺言・掟・置目など守る気などないのでは明らかであり、秀家に伏見からの異動を要求したのは、単純に家康にとって大坂にいる秀家の存在が邪魔であり、難癖をつけて、無理矢理大坂から伏見に追い出したいからだ、とみるべきでしょう。

 

 また、当時、毛利輝元毛利秀元に宛てた書状に、秀家が大坂にいて、伏見にいないことに不満を漏らす内容の書状があり(「長府毛利家文書」)(*11)この時期の輝元は、秀家が大坂にいることに不満だったことが、興味深いです。

 

 秀家は、前述したように前田利家の実娘豪姫の婿であり、秀家が伏見への異動を余儀なくされたのも、この前田利長による家康暗殺計画事件の余波による圧力とみえないこともなくはありません。

 

 九月十二日、家康は三成の兄正澄の屋敷に移ります。(『関ヶ原合戦公式読本』では、正澄も三成と共に蟄居させれていたように書いていますが(*12)、水野伍貴氏の「石田正澄と三成」を読む限りでは、正澄は蟄居しておらず、秀頼に伺候できる衆の一人として大坂にいたようです。)屋敷を家康に提供した後、正澄は堺に移りました。(*13)

 

「このあと家康は、この石田邸で執政を執ることにした。しかし、それから二週間後の九月二十六日、秀吉の正室であった北政所大坂城の西の丸から京都に移ることになり、代わって家康が西の丸に入ることになる。形としては、北政所が西の丸の明け渡しを提案したことになっているが、実際には、家康が北政所に退去を要請した可能性が高い。

翌九月二十七日、家康は大坂城の西の丸に入った。こののち、家康は西の丸にも天守を建てるなど、秀頼と並び立つ存在であることを誇示するようになる。」(*14)と小和田泰経氏は述べています。

 

 北政所は浅野家の養女であり、浅野長政北政所の義姉妹の婿養子、秀吉とは相婿です。親戚筋である浅野長政が、家康暗殺計画事件の容疑者となることで、北政所の立場は苦しくなり、この事が、北政所大坂城から退去する大きな要因となった事が考えられます。

 

 宇喜多秀家は、北政所の養女豪姫の婿であり、互いが互いの後盾でした。宇喜多秀家が伏見に強制的に伏見に異動される事によって、北政所の立場は弱まり、北政所が大坂から京都へ退去することにより、宇喜多秀家の立場は更に弱まることになります。

 

 その後、十月二日に浅野長政甲斐府中→武蔵府中に蟄居)、大野治長(下総結城に流罪)、土方雄久(常陸水戸へ流罪)の処分を下し、翌十月三日、前田利長追討の意思を固めます。疑いは、前田利長の縁戚にあたる細川家にも及び、細川忠興は、三男の忠利を江戸に人質に送ります。

 こうした中、利長も重臣の横山長知を大坂の家康の元に派遣して弁明に努めますが、実母の芳春院を江戸に人質として差し出すことで、赦免されることになります。(*15)

 

 こうした中、慶長四(1599)年末、宇喜多家では御家騒動といえる「宇喜多騒動」が発生します。この騒動により、宇喜多軍は弱体化し、西軍主力軍のひとつである宇喜多軍の弱体化は、関ヶ原の戦いの敗因のひとつとなります。

 

 次回のエントリーでは、宇喜多騒動について検討する前に、宇喜多騒動の原因となったと考えられる(太閤)検地について検討します。。

 

  注

(*1)大西康正 2017年、p30

(*2)大西康正 2017年、p62

(*3)大西康正 2017年、p64~65

(*4)大西康正 2017年、p65

(*5)大西康正 2017年、p65~66

(*6)大西康正 2017年、p66

(*7)小和田泰経 2014年、p28

(*8)小和田泰経 2014年、p29

(*9)姜沆 2008年、p173~174

(*10)大西泰正 2010年、p122~123

(*11)渡邊大門 2011年、p255

(*12)小和田泰経 2014年、p29

(*13)水野伍貴 2011年、p96~97

(*14)小和田泰経 2014年、p29

(*15)小和田泰経 2014年、p30~31

 

参考文献

・大西泰正『豊臣期の宇喜多家と宇喜多秀家岩田書院、2010年

・大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

・小和田泰経著、小和田哲男監修『関ヶ原公式合戦本』Gakken、2014年

・姜沆著、朴鐘鳴訳注『ワイド版東洋文庫440 看羊録 朝鮮儒者の日本抑留記』平凡社、2008年

・水野伍貴「石田正継と石田三成」(『歴史読本 2011年12月号』新人物往来社、2011年所収)

・渡邊大門『ミネルヴァ日本評伝選 宇喜多直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年

考察・関ヶ原の合戦 其の十八 秀吉に最も期待をかけられた大名、宇喜多秀家

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 宇喜多秀家は、秀吉の養女豪姫(実父は前田利家)の婿であり、秀吉の死後に若くして(秀吉死去時に二十七歳)秀頼を補佐する五大老の中に選ばれた人物です。

 

1.秀家の父、宇喜多直家について

 

 宇喜多秀家の父直家は、没落した宇喜多家を一代で再興し、備前・美作の支配者にのし上がった戦国大名でした。

 

従来、直家は主君であった浦上宗景を裏切り、滅ぼして、戦国大名にのし上がった「梟雄」とされましたが、宇喜多家もまた備前の小領主であり、浦上家とは(力関係から)従属関係にはありましたが家臣とはいえないといえ、この従来の「梟雄」との見方については見直しが進んでいます。

 

 天正五(1577)年十月二十三日から始まった、織田信長から派遣された羽柴秀吉軍の中国地方攻略に対しては、当初直家は、毛利方につき秀吉と戦いますが、やがて織田方に接近し秀吉に帰順します。この時、帰順工作にあたったのが、当時秀吉の家臣であった花房秀成(後に秀家の家臣になります)と宇喜多家臣の小西行長(後に秀吉の家臣になります)でした。(*1)

 

 天正七(1579)年九月四日、羽柴秀吉安土城に上り、信長に直家の投降を願い出ましたが、直家の調略は秀吉の独断であったらしく、信長の承認を得るまでひと月余りを要しています。しかし、やがてこの投降は信長に認められます。(*2)

 

 備前・美作の支配者である直家は、毛利攻略を進める秀吉にとって貴重な味方となります。

 しかし、毛利との戦いが続く中、直家は天正九(1581)年二月十四日(『浦上宇喜多両家記』)(または天正十(1582)年正月二十一日『信長公記』)、直家は病死します。(*3)享年53歳、または54歳。

 幼い八郎(のちの秀家)(当時10歳、または11歳)が宇喜多家の家督を継ぐことになります。

 

2.宇喜多家当主、宇喜多秀家

 

 その後、秀吉の備中高松城攻め、本能寺の変中国大返し、については省略します。

 

 本能寺の変の際に、秀吉と毛利家は和睦を結びますが、これで国分けが確定した訳ではなく、なおも交渉のゴタゴタが続きます。この間、宇喜多・毛利間の戦闘も継続しました。(*4)

「中国国分」が確定したのは、天正十三(1585)年二月になります。(*5)これにより、宇喜多・毛利両氏の関係は好転に向かい、天正十六(1588)年十月、秀家の同母姉容光院と吉川広家吉川元春の子、毛利輝元の従兄弟)との婚姻が結ばれます。

 しかし、容光院は若くして病に倒れ、天正十八(1590)年七月十九日に二十一歳で死去します。

吉川広家夫人の早世がなければ、秀吉の死から関ヶ原での敗戦へ続く秀家の悲劇は、まったく違った様相を見せたと考えるのは筆者だけであろうか。」(*6)と大西泰正氏は述べています。

 

 秀家の初陣は天正十三(1585)年三月の根来・雑賀平定戦(十四歳)、その後、同年六~七月には四国攻めに参加、続いて天正十五(1587)年(十六歳)の九州攻めでは先陣を務めます。天正十八(1590)年(十八歳)には北条攻めに参加しています。(*7)

 このように、若くして秀家は戦に何度も参陣し戦っています。秀吉の秀家に対する期待の高さがうかがえます。

 

 また、秀家と、秀吉の寵愛する養女豪姫(実父は前田利家)との婚儀が行われています。(時期については、桑田忠親氏・藤島秀隆氏によると天正十(1582)年(十歳)には二人の婚約が結ばれ(*8)、その後イエズス会の宣教師フロイスの報告書から天正十六(1588)年(十六歳)正月以前に婚姻が結ばれたと考えておく、と大西氏はしてます。(*9)

 

 また、官位についても天正十(1582)年(11歳)従五位下・侍従に任官され、その後、天正十五(1587)年(16歳)には従四位下・参議、文禄三(1594)年(23歳)には従三位・権中納言に叙位・任官されます(*10)

 

 これは異例の出世といえ、秀吉が秀家を養女豪姫の婿として、豊臣(羽柴)家に準ずる「一門」として厚遇し、また若き秀家に対して、豊臣家を補佐する存在として秀吉は大きく期待をかけたといえます。

 

 天正二十(1592)年(21歳)、文禄の役が始まり、秀家もまた出陣し、朝鮮へ渡海します。当初予定されていた秀吉の渡海がなくなり、明・朝鮮方の反撃によって戦局が悪化すると、漢城守備の秀家が日本軍の惣大将に就くことが文禄二(1593)年二月十八日付で発せられ、戦線の立て直しが図られることになります。(*11)

 

 若く血気逸る秀家は漢城の守備に飽き足らず(これは惣大将につく前の話ですが)、前年六月十三日付の秀吉朱印状に「都(漢城)に相残る儀、迷惑に候」(『豊公遺文』所収文書)と秀家の不満が記されています。(*12)

 

 ただ、戦国大名というものは、戦に勝利せねば恩賞も加増もないのですから、戦の機会が少なくなる城の守備に不満を漏らすのは、ある意味当然ともいえます。(軍役・兵糧にかかる費用は、その大名の自腹です。)

 戦国大名としては、戦で勝利して恩賞・加増を受けなければ、軍役に係る費用はすべて自分たちの持ち出しになり、赤字になってしまいます。秀家の若さ故の短慮というより、こうした感覚は唐入りに出陣したすべての戦国大名が持っていたとみるべきでしょう。

 

 これに対して文禄二(1593)年三月十日、秀吉は次のような注意を与えます。「すなわち、秀家は若いから、前野長康・加藤光泰・生駒親正石田三成の四人は、常に同所に陣取って「卒爾」=軽率な働きがないよう「異見」を加えること、「異見」を聞かない場合は有体に秀吉に報告するように、との指令である(『浅野家文書』)。」(*13)

 

 その後も、慢性的な兵糧不足、朝鮮各地の義兵決起、明援軍の南下等により戦局は好転せず、文録二(1593)年四月十八(または十九)日、秀家以下の日本軍は漢城を放棄して南へ向かい、同年十月秀家は帰国します。(*14)

 

3.「五大老」、宇喜多秀家

 

 文禄四(1595)年七月十五日、秀次切腹事件が起こります。八月二日に秀次妻子の処刑が行われ、翌日この事件を受けて「御掟」「御掟追加」が交付されますが、この「御掟」「御掟追加」に署名した六人(徳川家康宇喜多秀家上杉景勝前田利家毛利輝元小早川隆景)(*15)(「御掟」からは上杉景勝が省かれていますが)が、のちの五大老の原型となったとされます。(小早川隆景は、秀吉生前の慶長二(1597)年六月十二日に死去します。)

 

 慶長二(1597)年二月、秀吉により、第二次朝鮮出兵慶長の役)の陣立てが通達されます。同年七月以降に秀家も出陣・渡海します。(*16)

 第二次朝鮮出兵は、朝鮮半島南部の攻防に終始し、秀家は目立った戦果も挙げられぬまま、慶長三(1598)年三月十三日に帰国を許可され(「鍋島家文書」)、四月以降に宇喜多秀家は帰国します。しかし、衰弱著しい秀吉には死期が迫っていました。(*17)

 

七月十五日、秀吉は諸大名へ形見分けを行った上、彼らに起請文を提出させ、死後に備えました。「秀家はこのとき秀吉の「御遺物」として「初花の小壺」(初花肩衝(かたつき)。口絵参照)を拝領している(「西笑和尚文案」)。東山御物の一つ初花肩衝は、もとは信長の所持品であった。秀吉はこの名物茶器を所持し、茶会で諸大名に披露することによって、信長の後継者たることを誇示した。秀吉は初花肩衝を譲ることで、秀家に豊臣政権の行く末を託したのかもしれない(大西②)。)」(*18)と、大西氏は述べています。

 

 慶長三(1598)年、八月十八日秀吉死去。これより「五大老」秀家の苦闘の日々が始まります。

 次のエントリーでは、秀吉死後に「五大老」として行った宇喜多秀家の行動について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

 

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 注

(*1)大西康正 2017年、p22

(*2)大西康正 2017年、p22

(*3)大西康正 2017年、p24

(*4)大西康正 2017年、p29

(*5)大西康正 2017年、p29~30

(*6)大西康正 2017年、p32

(*7)大西康正 2017年、p34

(*8)大西康正 2012年、p65

(*9)大西康正 2017年、p36

(*10)渡邊大門 2011年、p176、181

(*11)大西康正 2017年、p40

(*12)大西康正 2017年、p40

(*13)大西康正 2017年、p40

(*14)大西康正 2017年、p44~45

(*15)大西康正 2017年、p55

(*16)大西康正 2017年、p56

(*17)大西康正 2017年、p60

(*18)大西康正 2017年、p60~61

 

 参考文献

大西泰正『「大老宇喜多秀家とその家臣団 続豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2012年

大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家戎光祥出版、2017年

渡邊大門『ミネルヴァ日本評伝選 宇喜多直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年

考察・関ヶ原の合戦 其の十七 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・大谷吉継も、しばらく「徳川派」だった

 

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 では、「徳川派」とは?の続きを書きます。 

 再掲します。

 

A.徳川派(東軍)

 ① 徳川家康・徳川一族・譜代大名

 ② 徳川(秀吉の生前からの)縁戚:(池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)

 ③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗福島正則蜂須賀家政黒田長政加藤清正北政所派?→東軍)

 ④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

 ⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興北政所(前田)派→東軍)

 

 続いて、④から見ていきます。

 

④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎浅野幸長北政所派→東軍)

 

 ア.大谷吉継(→西軍)

 大谷吉継もまた三成と同じく、秀吉死後のしばらく間、親家康派として行動しています。

 現代の我々は、最終的には吉継が三成と共に西軍として家康と戦った事を知っているため、これをいぶかる方も多いでしょう。

 しかし、吉継は秀吉の生前から家康と交流がありました。

 

 具体的に大谷吉継徳川家康の関係を見ていきましょう。(以下は、主に池内昭一「大谷刑部と徳川家康」(花ケ崎盛明『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)を主に参照しました。)

 

 天正十四(1586)年十月二十七日、家康は上京し秀吉に聚楽第で対面、臣従します。この時の場に、大谷吉継浅野長政増田長盛石田三成らも同席しています。池内昭一氏は、この時が、大谷吉継が家康と見えた最初であったとします。(*1)

 もちろん、この時は吉継と家康が同じ場所にいたというだけで、まだ親しく声を交わす仲だった訳では当然ありません。

 

 天正十七(1589)年十一月初め、大谷吉継は秀吉の使者として駿河の家康の元へ赴きます。これは天正十七年十月に、いわゆる「名胡桃城事件」が起こったことを受けてです。 

 この時より前、上野国沼田領の所有を巡る沼田領の真田家と北条家の争いがありました。この争いについて秀吉の仲裁により、沼田の三分の一を真田領、三分の二を北条領とする裁定が定められます。ただし、真田が主張して認められた名胡桃の地は、沼田城から目の鼻の先にあり、これを不満に思った北条方の沼田城代猪俣範直が、名胡桃城を勝手に乗っ取ってしまいました。この事件を名胡桃城事件といいます。

 

 これに激怒した秀吉は、北条討伐の腹を決めましたが、気になるのは徳川家の動向です。家康の娘督姫は、北条当主の氏直に嫁いでおり、徳川家と北条家は縁戚です。仮に徳川家が北条家に付くとなれば、これはかなりの脅威となります。

 このため、秀吉としては、家康が北条に与せず北条攻めに協力するように要請する必要がありました。このため、秀吉は使者として吉継を派遣して、家康の意向を伺います。

 使者の吉継に対して、家康は北条親子が態度を改めず不服従の貫くのであれば、殿下の討伐の先手を務めると返答し、秀吉の協力の要請に答えます。

 家康の協力により、秀吉は安心して北条討伐に取りかかることになります。(*2)

 

 その後、朝鮮の陣から帰陣した吉継は、病状が悪化し、しばらく療養に入ります。

 そのような中、慶長二(1597)年九月二十四日、秀吉は徳川家康、富田左近、織田有楽といった人々を連れて、伏見の大谷邸を訪問します。これは吉継の病気見舞いの意もあったといいます。(*3)

 また、外岡慎一郎氏によると、吉継の養子大学助を吉継の後継としてお披露目する目的があった、としています。(*4)

 

 

 このように、吉継と家康の間には秀吉の生前から交流があったことが分かります。

 

 秀吉死後、私婚違約事件が起こり、大老徳川家康と、他の四大老五奉行の間で対立が発生します。

 この時期に、前述したように『当代記』『校舎雑記』には、「(石田三成による)家康暗殺計画の物言(噂話)」があり、そのため、大谷吉継真田昌幸・信幸・信繁、石川光元・一宗らが、徳川屋敷の護衛に駆けつけたことが伝えられています。(*5)

 

 吉継の娘は真田信繁の正室となっており、信繁の兄信幸が徳川家康養女(本多忠勝実娘)小松殿となっていることを考えると、既に真田家を通して大谷家は徳川家と間接的に縁戚関係となっているともいえます。そして、盟友である石田三成が、実はしばらくの間親徳川派だったということも、以前のエントリーで述べました。

 

 ※上記については、以下のエントリーで検討しました。↓ 

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

(また、『当代記』の「(石田三成による)家康暗殺計画の物言(噂話)」の記述については、江戸時代の二次史料であり、『当代記』作者自身の、「関ヶ原の合戦の首謀者は石田三成なのだから、当時から三成と家康は対立していたにちがいない」という先入観・思い込みによる誤りの可能性がきわめて高い事について、上記のエントリーで検討しています。)

 

 こうして考えていきますと、秀吉の生前から家康との交流もあり、真田家を通じて間接的に徳川家と縁戚でもある吉継が親徳川派となるのはむしろ自然なのです。

 

 

 慶長四年閏三月、前田利家の死の翌日、七将による石田三成襲撃事件が起こります。

(七将襲撃事件とは、私婚違約事件で家康を糾弾した奉行衆への不満、慶長の役時における黒田長政蜂須賀家政処分事件への不満に端を発した事件といえます。

 下記のエントリーも参照願います。↓ 

考察・関ヶ原の合戦 其の十六 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何かの続き1

 

 この時、吉継が三成の助命のため、家康の仲裁を得るべく奔走していたことが、事件後の閏三月九日付の吉継の書状で分かります。現代語訳のみ引用します。

 

「(現代語訳)昨日は何度も使者をお送りいただきありがとうございました。今度のこと(諸将による石田三成襲撃事件)ではいろいろご苦労をおかけしましたが、無事におさまり、天下が乱れることもなく皆喜んでおります。それにつきましても、適切なご仲裁と(事後の)配慮、御礼の申しようもございません。本来であればそちらにお伺いし(て御礼申し上げ)なければならないのですが、ご存知のような状態(病身)で、できません今度、お会いする機会がございましたら、いろいろご相談させていただきたく存じます。」(*6) 

 外岡慎一郎氏は「閏三月とあることから、慶長四年とわかる。そして、九日は、福島正則黒田長政ら七将による石田三成襲撃が、家康の仲裁によって未然に収められ、三成の佐和山隠退が決定した翌日にあたる。充所は家康本人か、あるいは家康周辺にあって仲裁の実際を担った人物と推定される」(*7)としています。

 

 

 慶長四(1599)年九月、前田利長らの徳川家康暗殺未遂疑惑事件が発生します。

利長が軍勢を率いて上洛・上坂する可能性もあり、これを警戒するため、家康の要請を受けて大谷吉継の養子大学が北陸方面に軍勢を展開したことが、慶長四年九月二十一日付の島津義弘島津忠恒宛書状から分かります。以下、中野等氏の現代語訳のみ引用します。

 

「◇一、今度、大坂において内府様(家康)が天下の政務をみることとなった。どのような子細に拠るのかわからないが、現在加賀に在国の前田利長(羽柴肥前守殿)に対して、上洛することのないように、と命が下った。万一強(しい)て上洛しようとすれば、越前国でくい止めるとして、大谷吉継(刑少殿)の養子大谷大学殿と、石田三成(石治少)の家中一〇〇〇余を、越前へ下し置かれることとなった。」(*8)

 

 ここで、石田三成自らも越前に兵を率いて出陣したという方がいますが、上記の書状の通り、その見解は誤りであり、出陣したのは「石田家中」です。当時石田三成は隠居・謹慎しており、兵を率いて出陣などできません。

 

 

 また、翌慶長五年の上杉景勝の謀反疑惑の際には、家康の要請を受けて、大谷吉継増田長盛は景勝の上洛の説得にあたります。 

 しかし、この吉継らの説得はうまくいかず、家康は上杉征伐を強行します。

 この説得がうまくいかなかった理由は、景勝が「讒人を糾明してほしいと申し入れた一ヶ条が不問にされ、相変わらず上洛せよと要求ばかりされ、上洛期限まで指定されたことから、上洛要求を呑めないと判断した」ことによります。この事については、以下のエントリーで詳述しました。↓ 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 元々、家康は政敵である上杉を屈服させるために上杉征伐を強行しようとしている訳なので、上杉との交渉などまともにする気がなかったわけです。

 

 

 以上見てきたように、親家康派であった吉継が、なぜ最終的には西軍に付き、家康に敵対することになったのか?

 

 これには、慶長五年にいわゆる「宇喜多騒動」が起こった時に、吉継は家康とともにその調停にあたりましたが、その調停時における家康の対応に、吉継が失望して家康に不信感を抱いたということが考えられます。

 加えて上記で書いたように、景勝謀反疑惑事件の際に、景勝の上洛を吉継は説得することになりますが、その際の家康の強硬姿勢に更なる不信感を抱き、やはり家康は豊臣公議の簒奪を目的として行動している、という疑惑を家康に対して吉継が抱いたという事になったと思われます。

 

 次回のエントリーでは、吉継が家康に不信感を抱くきっかけとなった宇喜多騒動について触れる前に、秀吉から最も期待をかけられた宇喜多秀家の生涯について検討します。

※次回のエントリーです。↓

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  注

(*1)池内昭一 2000年、p108~109

(*2)池内昭一 2000年、p109~112

(*3)池内昭一 2000年、p113

(*4)外岡慎一郎 2016年、p64

(*5)黒田基樹 2016年、p40

(*6)外岡慎一郎 2016年、p68

(*7)外岡慎一郎 2016年、p69

(*8)中野等 2017年、p410

 

 参考文献

池内昭一「大谷刑部と徳川家康」(花ケ崎盛明『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

黒田基樹『シリーズ 実像に迫る001 真田信繁』戎光祥出版、2016年

国書刊行会編、国立国会図書館デジタルコレクション「当代記」『史籍雑纂. 第二』 国書刊行会国書刊行会刊行書〉、1912年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/7

・外岡慎一郎『シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継』戎光祥出版、2016年

・中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第14章 石田三成は加藤光泰を毒殺していません

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 文禄の役時に、軍目付として石田三成らは、朝鮮に渡海しますが、この時、軍監として加藤光泰らも朝鮮に渡海します。

 

 諸書によると当時、秀吉軍は朝鮮奥地まで攻め入ったために、補給線が伸び切ってしまい、その上、義兵の決起や明の応援軍の出現によって、補給線もズタズタに寸断されてしまっている状態となっていました。

 補給もままならない状態の秀吉軍を立て直すため、三成ら軍目付は、全軍一時漢城に撤退して守りを固め、和議の交渉を図るべきだとします。

 この時に、最もこの方針に反対し、強硬に主戦論を主張したのが、加藤光泰だったとされます。

 ところが、文禄二(1593)年八月二十九日、戦をさかんに主張していたはずの光泰が、西生浦城で病死します。享年五十七歳。

 いつも三成の作戦に光泰が反対していたことから、邪魔に思った三成が光泰を毒殺したのだという説が、江戸時代中期の大名加藤泰衑(1728-1784)編による加藤家の家史である『北藤録』に載っていますが、結局これも江戸時代に作られた根拠のない話であり、史実とすることはできません。

 実際には、光泰は死去する前日の二十八日に、浅野長政に、遺言ともいえる次のような書状を送っているとのことです。

「「我らこと、ご存知のごとく、この中、相煩(わずら)ふにつき、種々養生つかまつり候へども、ついに験を得ず、相果て申し候」

 この冒頭の文面を読めば、光泰がだいぶ前から病んでいろいろ養生していたことがわかる。」(*1)とあります。

 この書状から分かるように、光泰は以前から病気であり、その死は毒殺によるものではないことが明らかです。

 このように、江戸時代の書物は何かがあれば、悪いのは三成だと根拠なく決めつける傾向にあり、三成関係の記述は特に眉に唾をつけて読む必要があります。

 

 注

(*1)左方郁子 1998年、p79

 

 参考文献

左方郁子「【太閤事件簿】“三成疑惑”再審法廷」(『歴史群像シリーズ特別編集 石田三成 復刻版』学研、2010年(初出1998年)

(上記論文全体については、筆者の意見と違う点が多々ありますので、必ずしも上記論文のすべてに賛同するものではありません。今回については、加藤光泰の怪死(?)の概要の参照及び、光泰の浅野長政宛書状の紹介のため、参考文献として参照いたしました。よろしくお願いします。)

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第13章 細川ガラシャ事件と石田三成は無関係

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 細川ガラシャ(明智玉子)は細川忠興の妻で、関ヶ原の戦いのあった慶長5(1600)年の7月17日に西軍による人質要求を拒否して「自害」した女性として知られます。(この最期については自殺を禁じるキリスト教的視点から、実際に(物理的な意味の)自害だったのか、家臣に介錯されて亡くなったのか検討されることも多いですが、このエントリーの主題ではありませんので、ここではその検討はいたしません。) 

 

「果たして、ガラシャに対して人質要求を行ったのは誰なのか?」ということについて、以下の一連のエントリーで検討しました。

 従来の通説的には石田三成が人質を要求したという話になっています。しかし、下記のエントリーで検討した通り、時系列的に考えるとこれはちょっと考えられないことなのです。

 この頃、まだ石田三成大谷吉継と共に佐和山城に籠って「不穏な動き」をしている状況であり、表面上は「大坂方」から警戒されている状態です。(これが裏で繋がっていたのが明らかになるのが、七月十七日の「内府違いの条々」クーデターとなります。)

 三成本人はもちろん、三成の軍勢が大坂に行ける余地はありませんし、実際にそのような記録はありません。

 

 この時期に、実際に大坂城にいる「大坂方」の責任者といえるのは、 三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)です。当然、この時期人質作戦を指揮したのは三奉行という事になります。

 この七月十七日以前の時点から、大坂城の人質作戦が展開された事実は、三奉行が(毛利輝元の軍が大坂に入ったことによって)受動的に仕方なく西軍についたという事は全くなく、早い時期から西軍の首謀者として、西軍決起・「内府の違い条々」クーデーターを中心となって計画していた事を示しています。

 

 詳細は、以下で検討いたしましたので、参照願います。↓

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「批評」とは何か~読書メモ:守屋淳『もう一つの戦略教科書 『戦争論』』

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 守屋淳氏の『もう一つの戦略教科書 『戦争論』』中公新書ラクレ、2017年を読了しました。

 本書は、著名な軍事思想家、クラウゼヴィッツの名著『戦争論』の全訳ではなく、重要な箇所の一部を訳して、その部分に解説を加える入門書の形をとっています。

 

 訳の部分で印象に残った箇所を以下に引用し、感想を述べます。(本来ならば、クラウゼヴィッツ『戦争論』(手元にあるのは中公文庫版)から直接引用すべきなのかもしれませんが、守屋氏の上記著作を読んで印象を受けた箇所ですので、守屋氏の訳より引用いたします。また、今回のエントリーは、上記著作の要約という訳ではありませんので、ご了解願います。下記ページ数は、前掲書のページ数です。)

 

「フリードリッヒ大王やナポレオンのような優れた将帥の犯した過ちを指摘する批評があっても、批評した本人ならそのような過失を犯さなかったということではない。批評家はもし自分が将帥の立場であったらより深刻な失敗を犯していたという事を認めなければならない。」(第二編第五章 p270)

 

 歴史研究者によくある過ちなのでですが、歴史学者であっても、軍事の専門家ではありませんし、仮に、また軍事史の専門家であったとしても、例えば戦国時代の歴戦の武将・大名等に比べれば、その方もまた、はるかに軍事の経験が劣る「机上の素人」に過ぎません。

 

 さすがにフリードリッヒ大王、ナポレオンクラスの名将の戦略や戦術を、軍事に素人な歴史学者が笑う事はおこがましいことは誰にも分かるでしょうが、戦国時代で戦に敗れた大名は「戦下手」の烙印が押され、歴史学者もまた、彼ら自身は「机上の素人」に過ぎないにも関わらず、いっぱしの軍事批評家気取りで、彼らの軍事能力を評価してしまいます。

 

 例えば、彼ら現代の素人軍事評論家より軍事的知識が豊富で、戦争の経験も多い戦国大名・武将のことを、現代の「机上の素人」が評価して、「彼らは『机上の名将』に過ぎず、机上の計算はうまくいくわけがない。だから彼らは負けたのだ」云々と評価しているのは非常な滑稽な話です。

 

 結果として敗者となった戦国大名・武将の軍事的な思考・行動を読み取り、評価したいならば、彼らの軍事的能力や経験を認め、彼らの思考や行動の理路を学ぶべく努力した上で、もっと謙虚に彼らの評価をすべきでしょう。

 

「批評というのは、批評する人間の計算や確信、そのすべてを考慮したあとに、物事に深く隠された関連性が目に見える現象として表にあらわれない部分については、その結果が語る。」(第二篇第五章 p272)

 

 上記は、「結果論」について語ったものとえいます。「結果論」というものは、結果に至る過程をきちんと理解した上でないと、結果から逆算した結論となってしまい、因果関係が逆になってしまうため、一見論理的に見えて、論理的ではないものになってしまう危険性があります。

 例えば、前述したように、戦国大名が戦に負けたとして、「それは彼が『戦下手』だったからだ」という結論に一足飛びに飛びついてしまうのは、まさに「誤った結果論」と呼ぶべきであり、なぜその大名が戦に負けたのかは、個別に詳細に因果関係を具体的に分析していくしかないのです。

 

 そうしないと、敗将を否定的に評価している人物の言っていることが、その敗将のやった事より更に深刻な失敗を引き起こすような発言である事すらあるのです。

 

 これに対して、なんでも「それは、結果論にすぎない(から誤りだ)」と決めつけるのも間違いです。

 

 例えば、徳川家康は、豊臣秀吉の死後、一貫して継続的な意思として、豊臣公議の簒奪のために、自勢力の強化及び妨害が予想される政敵の排除に動いています。これを「それは、偶然だ。結果論に過ぎない」という方は、人間というものには継続的な「意思」があるという事を忘れているのです。

 ある人物が継続して一貫性のある行動をしている場合、それは、その人物は継続した一貫性のある意思を持って行動している事が、その人物の行動の「結果」から分かる訳です。

 

 ある歴史上の人物の「意思」を認めず、まるで「物」や「自然現象」のように見る歴史観は、今後は廃されなければなりません。