古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

谷徹也編著『石田三成』読書メモ~慶長五(1600)年六月頃の石田三成の動き

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 谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』(戎光祥出版、2018年)の読書メモです。

 

 以下、引用。

 

(慶長五(1600)年の上杉征伐時)「淀殿北政所は出兵を思い止めさせようとしたが、六月十六日に家康は大坂から出馬する。この際、三成の子息である隼人(重家)、出陣するはずであったが、「佐和山騒申」という事態が生じ、三成が佐和山から出るようにとの家康の指示が出された。その後、家康は道中での滞在のために佐和山城を借りたようとしたが、「一切手切」として三成は佐和山に引き籠り、普請をしている。ただし、福島正則も同様の姿勢を見せているため、この時点で家康への抗戦を試みた訳ではなく、出陣反対の意思表明といえよう。」(*1)

 

佐和山騒申」「一切手切」と物騒な言葉が並びますが、(上記の記述の注を見ると『義演准后日記』「徳川秀忠書状写(『金森文書』)」、「来次氏秀書状(「杉山悦郎氏所蔵文書」)」が典拠とのことです。)つまり石田三成は、今回の家康が強行した上杉征伐に異を唱え、石田軍の出陣を拒否したということでしょう。

 

 七将襲撃事件以降、石田三成佐和山に隠遁に追い込まれ、石田家は徳川家に屈服し、表面上は徳川家と協力関係を築くことになります。

 慶長四(1599)年の徳川家康暗殺未遂疑惑事件の際も、容疑者である前田利長の警戒にあたるため、豊臣公議(つまりは筆頭家老家康)からの要請を受け石田家は、家中から一千余の軍勢を越前へ派兵しています。((隠居している)三成自身が兵を率いた訳ではありません。)(*2)

 

※関連エントリ―↓

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 しかし、今回の征伐については、三成は上杉家と長年の取次・親交関係にあり、会津転封作業に直接関わったのは三成本人であり、(少なくとも三成の認識では)景勝に豊臣公議に対する謀反の意思などないことは明白でしたので、今回の上杉征伐に対する三成の抗議の意思として、石田軍の出陣を拒否したということとなります。

 

 この石田家の出兵拒否は、筆頭大老家康が絶大な権力を有する豊臣公議の命令に逆らったこととなり、改易等の処分が下る可能性もありましたが、家康としても、ここで全体の出陣のスケジュールを遅らせる訳にもいかず、(筆者の推測ですが、)後からの参陣を求めることにして出馬を急いだという形になるかと思われます。

 

 七月に大谷吉継が嫡男重家を迎えに佐和山城に向かっていますので(もっとも、大谷吉継の方が石田三成に西軍につくよう説得した説をとると、これも表面上の動きになってしまいますが)、この時点で吉継が重家の率いる石田軍とともに家康の陣に参陣していれば、石田家も大谷家も東(家康)軍として扱われ、その後の大谷家・石田家の歴史は変わったでしょう。

 

 この六月の出兵拒否の時点で、三成が、毛利輝元宇喜多秀家・三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)らを中心とした西軍決起の謀議に加わっていたかは微妙です。謀議は秘する必要があり、三成の行動は悪い意味で目立ちすぎ、仮に三成が謀議に参画していれば発覚しかねません。密議をしている最中にこのような悪目立ちするような行動は、普通しないかと思います。

 ということで、六月の三成の出兵拒否の時点では、西軍決起の謀議に三成は参加しておらず、三成が独断で行った(暴走気味の)抗議行動なのではないかと考えます。

 

 また、気になるのは、「福島正則も同様の姿勢を見せている」という記述です。結局、正則も家康の上杉征伐に同行して、そのまま東軍として戦っている訳ですが、六月の時点では正則は三成と同様に上杉征伐に疑問を示す態度を取っていたのかもしれません。

 

 西軍決起後、西軍諸将は、正則が西軍につくであろうと思っていたふしがありましたが、上記のような正則の行動に理由があったからだと考えること腑に落ちます。(結局、正則は西軍につきませんでしたが。)

 

 注

(*1)谷徹也 2018年、p62

(*2)中野等 2017年、p409~410

 

 参考文献

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

柿好き石田三成

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 谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』(戎光祥出版、2018年)を読了しました。

 

 これから色々と感想を書いていきたいと思いますが、まず印象に残ったのは、本当に史実の三成は柿好きだった事。

 前掲書によると、

 

「なお、三成は奥州下向中、横浜一庵(良慶)が柿百個を届けてくれたことに対して「拙者好物御存知候」と述べて感謝しているほか、美濃の長谷川勝五郎からも音信で枝柿を送られているため、柿が好物であったことは当時もよく知られていたようである。これらの事実からは、関ヶ原の戦い後に捕縛された際の腹痛と柿に関する逸話も想起されよう。」(p11)

 

とあります。

 三成と柿を巡る逸話の類は、後世の創作だと思われますが、実際に柿好きであったことを元にして作られた逸話ということでしょうね。

 

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秀吉軍が行った「補給戦」とは?

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(以前ツイートで書いたものを元に、追記・訂正してまとめたものです。)

 

1.戦国時代は「兵糧自腹」 

 戦国時代の兵糧事情について、よく「兵糧自弁」という言葉が使われるが、「兵糧自弁」というのは誤解を招く表現といえる。「兵糧自腹」というのが正しいだろう。そして、「自腹」といっても各大名が負担したのであり、兵が負担した訳ではない。(短期戦はどうか分からないが。)

 というのは、兵糧というものは、兵士たちにとってはカネ(給料)でありモノ(食べ物)でもあったのだ。給料である兵糧を食べてしまうも、酒等を買うのに使ってしまうのも兵士次第。酒等に変えて使いきってしまう兵士は飢えることになる。だから、兵糧を使いきってしまった兵士が飢えて、山の木の根やら木の実やらを食いだす場合も出てくる。

 籠城戦においては、後先を考えず兵糧を早く使い切ってしまう兵士は本当に飢え死にしてしまうので、兵たちの兵糧(給料)を徴収して、蔵に備蓄することが行われたようである。

 

 豊臣秀吉は、傘下の大名達の軍を率いて戦を行ったが、各大名の兵は彼らの兵なので、当然その兵糧も豊臣家が負担する訳ではない。各大名の「自腹」である。(豊臣軍が各大名に兵糧を贈与したとしたら、それは同盟大名に対する「恩恵」・「援助」という扱いであり、秀吉軍が大名の兵糧を当然に支給したという訳ではない。

 その兵糧はどこで調達したかというと、基本的には「現地調達」したのである。(詳しくは3.で説明する。)

 

2.「兵糧はお荷物」

 兵糧は重い「お荷物」であり、重い荷物を抱えた荷駄隊と実戦部隊が一緒に行動すれば、その軍の行軍スピードは著しく落ちる。

 しかし、戦争において勝機を見たら実戦部隊は補給部隊を置いて、自軍の主力を敵の主力のいる戦場に移動させ(必要があれば急行させ)、ぶつけることによって勝利を収める必要がある。まさに「兵は神速を貴ぶ」であり、対明智光秀の「中国大返し」、賤ケ岳の戦いにおける「美濃大返し」等、秀吉軍は、こうした「機動戦」を駆使して戦い、勝利を収めてきた。

 こうした「機動戦」と兵糧重視の「持久戦」の使い分けができるのが秀吉軍の強みである。こうした「機動戦」が可能なのは、「つなぎの城」か「中継地点」にあらかじめ食料が備蓄されていたということである。こうした配備を秀吉軍が、あらかじめ行っていたことももまた、「補給戦」なのだといえる。

 

3.「現地調達」とは 

「補給戦」というと、補給部隊、つまり荷馬車やら小荷駄隊のことを考えてしまう。しかし、この補給部隊とは、持久戦においては、あくまで兵糧確保の補助的役割に過ぎない。戦国時代の「兵糧奉行」の役割は、そうした補給部隊(小荷駄隊)の管理にあったのではないし、小荷駄隊の管理は、当時の軍の構成上、基本的に各「備え」つまりそれぞれの部隊の管理だったと思われる。(統一的に独立した大規模な補給部隊があった訳ではない。)

 では、戦国時代当時の補給は何に頼っていたのか?主に「現地調達」に頼っていたのである。

 

「現地調達」というと、略奪が思いつくし、実際略奪もあったろうが、戦になれば村人達も兵糧を持って山やら城やらへ、逃げ込んでしまうので思うように略奪できるとは限らない。

 略奪による現地調達で長期戦を戦うのは困難である。また、戦になれば攻め込んだ大名は戦地の村や寺社によく禁制を発して、略奪等の防止を保証していた。(禁制には礼銭が必要だったが。)禁制にどれだけの効果があったか疑問に思う人もいるかもしれないが、敵軍がやってくれば争って領民や寺社が禁制を入手しようとするのを見れば、それなりの効果があったのだろう。

 ということで、どれだけ兵糧が手に入るか不明な略奪で、長期戦の兵糧を確保するのは実質的に困難である。

 

 では、実際どうしていたかというと、戦になれば戦場に商人が兵糧を運び、兵糧を売っていた。秀吉軍は、商人と結んで大量の兵糧を戦場に運びこませ、その兵糧を売らせていたのである。

 戦場に商人が出入りして、兵糧を売るのは豊臣軍だけではなかったし、秀吉以前の時代からあった。

 しかし、戦場近くに市場を確保し、組織的・大規模に商人に兵糧等を売らせたのが、秀吉軍兵糧奉行が行った画期的な「補給戦」改革だったといえる。このため、豊臣奉行衆は、堺商人や博多商人らと密接な関係を築くことになったのである。これにより、秀吉軍は大軍の長期的運用が可能になった。

 

4.豊臣銀行 

 兵糧を買う財政力のない大名はどうだったのか。そうした大名には、豊臣一族が金を貸して兵糧を買わせていた。いわば、豊臣銀行といえる。これが、ある意味豊臣家の財政の根幹のひとつといえる。

 戦が長期化すればするほど、豊臣一族は各大名に金を貸して、兵糧を買わせ、ますます豊臣一族は金が儲かる。しかし、これでは各大名は赤字になるだけだ。見返りに大名に加増しなければ、大名としては割が合わないので、戦は必ず勝ち、土地を得なければいけない。

 軍事国家である豊臣公議が、各大名を支配するには、際限なく軍役を行い、恩賞となるべき土地を得なければならなかった。外征が続かないと、戦争するしかやることのない武士は失業していまい、生きていけなくなる。そうなれば、また土地を求めて内戦が始まるだけである。これでは統一政権はもたない。

 そこで秀吉が考えたのが「唐入り」であり、求める土地は大きければ大きいほどよい。こうして、「際限なき軍役」が始まる。軍事国家である豊臣公議が豊臣公議であるためには、戦に勝ち、土地を得続けなければならず、「唐入り」が失敗した時点で豊臣公議の崩壊は決まった。

 結局、秀吉が死んだら、内戦ははじまってしまったわけで、「天下統一して戦がなくなっても、戦しかやる事のない武士達は、戦を求めて内戦をはじめるだろう」という秀吉の懸念は当たった。武士たちのニーズをうまく汲み取って、内戦を復活させたのが、徳川家康だといえる。

 豊臣公議といっても、豊臣秀吉石田三成ら奉行衆とは温度差があり、秀吉は「外征(唐入り)なくして、軍事国家としての豊臣公議は持たない」というのに対し、おそらく三成らは「外征をしなくても、貿易と農地開墾による商業・農業国家を目指せば、豊臣公議は持続する」という考えだったのではないか。

 そう考えると、『看羊録』に書かれている「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」という事も理解できる。 

 結局、主君である豊臣秀吉の構想が優先され、奉行衆の構想は実現しなかった。奉行衆の構想は、徳川公議にこそ受け継がれたのではないか、と思われる。

 

5.「兵糧奉行」としての豊臣奉行の果たした役割とは 

 まず、「中国大返し」や賤ケ岳の戦いの際の「美濃大返し」の際に、補給ポイントを整備して「機動戦」を可能にしたのは、増田長盛石田三成らの「兵糧奉行」が裏方となって、「大返し」を可能にしたと思われる。 

 そして「兵糧奉行」として豊臣奉行は、堺・博多等の大商人と結びき、豊臣家の豊富な財政力を生かして、大量の兵糧を調達した。その兵糧は現地(たとえば、小田原城攻略戦では、小田原を囲む豊臣軍陣地に市が立てられ、兵糧が売られた。)で確保することが可能になった。 

 こうした大軍による長期運用を可能にした秀吉軍は、戦国時代において軍事的に画期的な役割を果たしたといえる。

 

関連エントリーです。↓

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 参考文献 

久保健一郎『歴史文化ライブラリー415 戦国大名の兵糧事情』吉川弘文館、2015年

西股総生『戦国の軍隊』角川文庫、2017年

藤木久志『朝日選書579 戦国の村を行く』朝日新聞出版、1997年

マーチン・ファン・クレフェルト著、佐藤佐三郎訳『補給戦-何が勝敗を決定するのか』中公文庫、2006年

津軽家と石田三成の次男重成、三女辰姫

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1.津軽為信津軽独立戦争

 

 陸奥戦国大名津軽為信は、南部氏の支族でしたが、津軽氏側の史料によると、元亀二(1571)年から、津軽において南部氏から独立をはかるための戦いを始めます。(*1)そして、天正十六(1588)年頃に津軽為信は、津軽地方の一統をほぼ完了します。(*2)

 これに対し、南部氏の記録によれば、為信が南部領(津軽)を「横領」したのは、天正十八(1590)年であるとしていますが(*3)、「津軽の記録では、官選史書のみならず、民間の記録である『永禄日記』まで、為信の津軽一統戦の開始を、元亀二(一五七一)年の大渕ヶ鼻・石川城攻略戦であるとし、そのとき南部信直の父・石川(南部)高信(津軽郡代)が自害したことになって」(*4)おり、これらの記述の流れが自然かと思われます。

 

 天正十五(1587)年12月、大名同士の「私闘」を禁止する関東奥惣無事令が豊臣政権によって出されます。

 この頃の豊臣家津軽為信評価について、白川亨氏は以下のように述べています。

「当時、中央に於ける為信評価を知る上で最も参考になるのが、天正十七年(筆者注1589年)八月二十日付の、前田利家から南部信直宛の書状である。この書状の中で前田利家は、この年に発生した秋田安東氏の内紛について触れ、この合戦を豊臣政権は私戦と見做し、「惣無事令」違反として、秋田安東氏に対して討伐軍を派遣し、上様(秀吉)自らが出陣し、秋田は豊臣の直轄領にするつもりであると述べている。そして、利家はなおも南部氏の内紛に言及し、津軽が遠謀を企てていることを述べ、「反逆の族(やから)」と為信を認定している。

 すなわち、「津軽=為信」は「惣無事令」違反者として認識されており、秀吉が秋田に出陣したときには、南部氏の永年にわたる恨みが晴らされるであろう、と述べている。

 すなわち、そのときの段階まで、中央政権としては為信を逆賊と認定し、征伐の対象者としていたのである。その陰には当然のこととして南部氏の前田利家を介しての活発な中央政界工作があり、為信を「反逆の族」と認識させることに成功していたのである。」(*5)

 

 このままいけば津軽為信は、秀吉政権によって惣無事令違反の(南部氏に対する)反乱軍として滅ぼされるところでしたが、同じ時期に為信もまた秀吉政権に対する必死の中央政界工作を行うことになります。

 

2.津軽為信の中央政界工作と石田三成

 

 為信は天正十五(1587)年頃から自ら上洛を図り、秀吉政権と接触しようとします。

 しかし、天正十五年六月には南部信直に妨げられ、天正十六(1588)年一月には秋田(安東)実季に妨げられて上洛を断念しています。(『封代事実秘苑』、『永禄日記』、『津軽一統志』)(*6)

 

 天正十七(1589)年に至り、為信は秋田安東氏との和解に成功し、家臣の八木橋備中を上洛させ、石田三成を頼って秀吉と誼を通じることに成功しました。

 これは天正十七年十二月二十四日付の南部右京亮(=津軽為信)宛豊臣秀吉朱印状で分かります。この書状の内容は、為信が家臣(八木橋備中)を通じて秀吉に献上した黄鷹・青鷹への秀吉からの礼状となっています。(*7)

 

 なお、天正十七年に起こった北羽の安東家に起こった、檜山(能代)城の実季(さねすえ)と、湊(秋田)城の湊通季(みちすえ)との抗争において、安東実季と津軽為信が結んだこと(これが、為信が秋田安東氏との和解に成功した理由と考えられます)、惣無事令違反を問われた安東実季が、石田三成を通じた中央政治工作を行い、三成の尽力もあり本領安堵を許されたことについては、以下のエントリーに書きました。↓

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 その翌年の天正十八(1590)年には、為信は自ら僅か十八騎で上洛し、公家の近衛前久に謁見し、その猶子として認められます。続いて小田原出陣途上にある秀吉の後を追い、沼津において三成の斡旋により秀吉に謁見し、津軽三郡の所領安堵を受けています。

 この時、為信の長男・平太郎(後の宮内大夫信建)は、三成を烏帽子親として元服します。(*8)

 このように、津軽家が(南部家に対する反乱軍扱い・惣無事令違反として、豊臣家に滅ぼされることなく)独立した一大名として津軽三郡の所領安堵を許されたのは、石田三成の尽力があったためであり、この事が後に津軽家が三成の次男重成を保護し、三女辰姫を為信三男信牧の嫁として迎えた背景となります。

 

3.関ヶ原の合戦時の津軽

 

 慶長五(1600)年の天下分け目の戦いの際には、為信は嫡男の信建に兵三百を(西軍の)大坂城の守備に送り、自らは三男信牧とともに東軍に参加し、大垣城攻めに参加しています。兄弟親子が東軍・西軍に分かれた真田家のように、津軽家もまた家を東西に分けて、自らの家の生き残りをはかったのでした。

 九月十五日に関ヶ原の合戦が行われ、西軍敗戦の報に接した信健は、九月十七日の夜、当時大坂城にいた三成次男・隼人正重成に自らの家臣を付けて日本海経由で津軽に亡命させます。(*9)重成は当時十二歳。

 慶長十二(1607)年十月十三日(津軽の記録による。白川亨氏は位牌の記載から慶長十一(1606)年十二月二十日としています。)信建は三十四(または三十三)歳で死去します。慶長十二(1606)年十二月五日、為信もまた五十八歳の生涯を閉じます。(*10)

 為信次男の信堅は慶長二(1597)年に早世しており、為信死後の津軽家の家督を巡って、為信三男信枚擁立派と信建長男熊千代擁立派に家中が分かれ、御家騒動に発展しますが(津軽騒動)、徳川幕府の裁定により信枚の相続が許されます。信枚は熊千代擁立派の家臣の粛清を行います。

 信建長男熊千代の相続が、徳川幕府に認められなかったのは、関ヶ原の戦い時に熊千代の父信建が大坂城に在城しており、西軍寄りの行動をしたためだ、ともされます。

 

4.津軽における石田三成の子孫

 

 関ヶ原合戦後に津軽に亡命した三成次男、隼人正重成は杉山源吾と名を変えます。なぜ杉山姓を名乗ったかの理由については、以下のエントリーで書きました。↓

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 杉山源吾は寛永十八(1641)年、五十三歳で亡くなりました。その子杉山八兵衛吉成は、津軽家に出仕し重臣として仕え、その子孫は執政(家老)を輩出させ、藩政の中核に参画することになります。その末裔は現在まで続いています。(*11)

 

 石田三成の三女辰姫は、関ヶ原合戦の慶長五(1600)年当時、9歳でした。秀吉の死後、三成は辰姫を秀吉正室北政所の養女とします。関ヶ原合戦の時に、辰姫は京都新城の北政所の側にいたと考えられます。

 慶長十五(1610)年、北政所の侍女孝蔵主が随行して辰姫を津軽信枚に嫁がせました。辰姫を受け入れた信牧は、本領津軽ではなく、津軽領の飛び地である上野国大館の分領に辰姫を住まわせることになります。

 しかし、その一年後または三年後である慶長十六(1611)年または慶長十八(1614)年、徳川家康の養女である満天姫が信牧に正室として信牧に輿入れします。この輿入れには、徳川家の宗教顧問である天海僧正の進言があったとされます。これにより、正室の座を辰姫は満天姫に奪われ、側室となります。

 満天姫は輿入れの際に、今に残る徳川家康が描かせた「関ヶ原合戦屏風」を嫁入り道具に懇願し、津軽に運ばせたといいます。

 元和五(1619)年辰姫は、後に津軽藩三代藩主となる信義(幼名平蔵)を生みます。その四年後の元和九(1623)年、辰姫は津軽の地を踏むことなく、大館で僅か三十二歳の生涯を閉じることになります。(*12)

 

 注

(*1)白川亨 2000年、p36

(*2)白川亨 2000年、p38

(*3)白川亨 2000年、p48

(*4)白川亨 2000年、p43

(*5)白川亨 1997年、p98~99

(*6)白川亨 1997年、p99

(*7)白川亨 1997年、p99

(*8)白川亨 1997年、p99~100

(*9)白川亨 1997年、p100

(*10)白川亨 1997年、p101~102

(*11)白川亨 1997年、p118~127

(*12)白川亨 1997年、p195~207

 

 参考文献

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

白川亨『奥羽・津軽一族』新人物往来社、2000年

考察・関ヶ原の合戦  其の二十五 奉行衆の主な三つの権能

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 今回は、豊臣公議の奉行衆の主な権能について書きます。

 

 秀吉の晩年、いわゆる五奉行前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)が、有力外様大名グループといえる五大老と協力・連携して、秀吉死後、幼君秀頼公が成人するまで政権を担う後見役として指名されました。

 

 この五大老五奉行の十人の衆とは、会社でいえば取締役会の取締役であり、秀吉社長死後の豊臣株式会社の運営を任された存在です。

 秀頼は幼年であり、豊臣株式会社の社長と言いながら、実際には実権はありません。五大老は、社外取締役です。彼らは、豊臣公議の正当性の根拠である「軍事力」を保証するメンバーです。彼らは、いずれも大大名ですが、彼らは一義的には、彼らが支配する領域の支配者なのであり、豊臣公議自体の大まかな方向性についての討議には参加しますが、公議の実質的な運営を執行するのは、これまでも豊臣公議を実質的に執行してきた社内取締役といえる五奉行という事になります。

 

 つまりは五大老の方が家格・軍事力ともに五奉行より遙かに上ですが、彼らは「外部から」豊臣公議を助言・指導する立場にあります。実際に豊臣公議の中心となって具体的な事業を執行するのは、五奉行となります。そして、五奉行が指名される以前から、奉行衆は豊臣公議の中核として事業を執行していました。

 

1.奉行衆の主な権能とは何か?

 

 奉行衆の主な権能は、(1)外交、(2)幕僚、(3)行政の3つです。以下順に説明します。

 

(1)外交

 奉行衆は、外様大名との外交(取次・指南)を行いました。例えば、石田三成は、津軽家、上杉家、佐竹家、真田家、毛利家、島津家等の取次を、浅野長政は南部家、伊達家等の取次、増田長盛は長宗我部家、里見家等の取次を行っています。

 また、前田玄以は、朝廷・寺社外交を一手に引き受けていました。

 

「取次」が行った主な職務について以下に書きます。

 

① 豊臣公議の大名に対する外交政策の基本方針は、全国に「惣無事」体制を遵守させることであり、この政策方針は日本すべての大名に適用されます。大名同士の「境目相論」等が発生した場合は、秀吉が「境目」の裁定を下しますが、取次が取次先大名の弁護人として裁定に関わります。

 

② また、(3)行政で示すような、太閤検地や刀狩り等の全国的な「豊臣行政改革」の執行を各大名に「指南」するのも取次である奉行衆の仕事です。

 

③「唐入り」や普請における大名に対する賦役・軍役・在番の指示も取次を通して行われました。

 

 彼らの彼ら「取次」の秀吉への進言により、その大名家の浮沈がかかっており、「取次」の各大名の権力は絶大でした。

 また、彼ら「取次」の指南する太閤検地等の豊臣行政改革の指導を受け、改革を行うことによって、大名達は中世の脆弱な大名権力から、近世の専制的大名権力体制に成長することができるため、「豊臣行政改革」を受け入れることは、大名自身の権力強化のためには良い側面もありました。

 このため、豊臣公議の「取次」と外様大名win-winの関係になることが多かったのです。

 こうした事により、慶長五年の天下分け目の戦いにおいては、西軍(豊臣公議軍)がなぜか(取次である奉行衆と繋がりの深い)外様大名連合軍が中心となる奇妙な構図を形成することになります。

 

(2)幕僚

 よく、石田三成増田長盛長束正家らは、豊臣軍の兵站を担ったため、「兵站奉行」と評されることが多いのですが、それは彼らの一面的な役割を示したものであり、彼らの豊臣軍における本来の立ち位置を理解することができません。

 彼らを評するのに、「兵站奉行」とのみ表現するのは適当ではなく、豊臣軍の総指揮官秀吉を補佐する「幕僚」と呼ぶのが、最も適当と考えられます。

 

 フランスのナポレオンの幕僚を務めたことがある軍事思想家のアントワーヌ・アンリ・ジョミニは、著作の『戦争概論』で以下のように述べています。(ページは該当書のページ数)

ロジスティクス(筆者注:「兵站」のことです)という用語は、われわれの知るとおり、兵站監(major gènèal des logis,ドイツ語のQuartiermeistetr の訳)から由来している。この将校の職分は、かつては部隊を宿営させ、縦隊の行軍を支持し、そして彼等を某地域に陣取らせることであった。ロジスティクスはこの場合全く限られたものでしかなかった。だが戦争が天幕なしでも敢行されるようになったとき、軍の移動は一層複雑なものとなり、そして幕僚は従来以上に広範な機能を果たすようになった。幕僚の長は戦域の遠隔地まで指揮官の意図を伝え、そして彼のため作戦計画策定に必要な文書を整えはじめた。すなわち幕僚長は、指揮官を補佐するため、これが計画を具体化し、部下指揮官に命令指示としてこれら計画の内容を伝え、これを説明し、かつ巨細にわたりこれが実行を監督することを求められるようになった。従って彼の職分は作戦の全般にまたがることになったのである。」(p172~3)

 

 もちろん、ジョミニは19世紀のスイスの軍事思想家であり、16世紀の日本の豊臣軍の事を論じた訳ではありませんが、豊臣秀吉が数十万の軍隊を組織し、補給を整えて、統合した作戦を長期運用するためには、幕下に指揮官秀吉を補佐し作戦を遂行するための専門的スタッフである幕僚を組織することが必須になったといえます。

 その幕僚の役割を兵站奉行と呼ばれる奉行衆が担うことになります。

 

 秀吉軍は遠征において、対織田信雄徳川家康連合軍戦では十万人、九州島津征伐では十八万人、関東小田原征伐では二十一・二万の大軍を展開し、長期に渡って運用することによって勝利を収めています。このような遠征における大軍の長期運用は、戦国時代において豊臣秀吉のみができたものであり、この大軍を長期運用できる能力自体が秀吉の天下統一を成し遂げた原動力だったといえるでしょう。

 

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(3)行政

 豊臣公議は、全国に改革を推し進めることになります。その主な改革が、太閤検地であり、刀狩りでした。

 太閤検地については、以下で書きました。↓

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 刀狩りについては、従来は村にある百姓の武器をすべて没収したように見られていましたが、実際にはすべての武器が没収された訳ではなく、主に百姓の「刀」を取り上げて帯刀を許さないことによって、帯刀を許されるのは武士のみとし、武士と百姓の身分コードを形成したのが主目的とされています。

 つまり、武士以外に刀の帯刀を認めない事により、身分を外見的にも明確にする、武士・百姓の身分の分離・統制令として「刀狩り」という政策があったといえます。

 

 こうした政策を豊臣奉行衆は全国に展開していくことになります。

 

 この他、奉行衆は、全国に散らばった豊臣公議約220万石にわたる蔵入地の管理を行い、豊臣家の財政運営を行っていました。

 実際の蔵入地を直接管理するのは、派遣された代官か近隣の大名が代官となって行うことになります。蔵入地の大名は厳正な蔵入地管理が求められ、そこから得られた年貢は当然豊臣家に上納する必要がありました。

 この全国蔵入地の年貢の上納の管理を奉行衆が受け持っていました。上納が滞る場合は奉行衆から厳しい督促があり、これは奉行衆と蔵入地を管理する大名達との軋轢を生んだ可能性があります。豊臣蔵入地を管理するのは豊臣家譜代大名が多く、利害関係を共有しない秀吉死後奉行衆と豊臣家譜代大名が対立する、対立までいかなくても距離をおかれる原因のひとつとなったと考えられます。

 

 また、京都奉行・所司代や堺奉行などの都市行政を行うことも、奉行衆の権能のひとつでした。

 

 以上を見てきても、奉行衆の権能は、行政・外交・軍事に幅広く広がっていることが分かります。

 

2.奉行衆は「吏僚派」ではない。

 

 さて、従来、奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶ方が一部いますが、実はその呼称自体が多大な問題をはらんでいると思われます。

 というのは、(2)の奉行衆の「幕僚」としての機能こそが、彼らの軍事における専門的権能でした。

 奉行衆の遠征における大軍の長期運用・兵站管理能力が、織田信雄徳川家康を臣従に追い込み、九州島津攻め、北条攻め等を勝利に導いて、秀吉の天下統一を支えました。奉行衆こそが、秀吉軍が「常勝」である原動力・中核だったといえます。 

 このため、彼ら奉行衆は武官であり、また軍の中心にいる存在であるといえ、それを「吏僚」「官僚」と呼んでしまうと、彼らの軍事の中核たる幕僚の活動を、まるで軍事ではないかように見られてしまいかねません。

 だから、彼ら奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶのは非常に問題のある呼称といえるでしょう。

 奉行衆の主な権能の一つに(3)行政もあり、行政官僚としての奉行衆も重要な権能のひとつですが、奉行衆を「吏僚」と見るのは、奉行衆の幅広い権能を狭く見る一面的な見方だといえます。

 

 また、この「幕僚」としての奉行衆の能力に対する当時の戦国武将たちの評価は、関ヶ原の戦いの西軍・東軍の構図に大きな影響を与えたと考えます。

 

 豊臣軍と対峙して戦った、また対峙することはなかったにしても、戦う事をシミュレーションしてみた外様大名にしてみると、豊臣軍は驚異の存在だったでしょう。

 戦国時代の常識では、遠路はるばる十万・二十万の大軍がやってくることが考えにくく、もしやってきたとしても大軍ゆえに兵粮が尽きてすぐに撤退せざるを得なくなってしまうことが当然想定されたからです。

 当然、彼らにしてみれば、大軍による遠征軍の一番の弱点である兵粮が尽きることを待って(彼らの兵糧が尽きる)持久戦に持ち込もうとすることが、主な作戦となります。ところが、相手方の兵糧は尽きないため、あきらめて結局降伏するより他ない訳です。

 こうした、大軍の長期運用を可能にした豊臣軍幕僚=奉行衆によって、これまでの戦国時代の戦争の常識は打ち破られました。彼ら奉行衆は「武人」として戦争自体の概念を塗り替える存在として、外様大名にとっては畏敬の存在となったでしょう。

 彼ら奉行衆が「取次」として、外様の大大名と対等に渡り合えたのも、大名達から、奉行衆の「武人」としての能力への畏敬の念があったからだと思われます。

 

 一方で、他の豊臣譜代大名にしてみれば、奉行衆は出世競争のライバルに過ぎませんので、彼らが評価されれば、自分たちが出世競争で遅れるだけの話になります。このため、彼らが奉行衆の能力を正当に評価するメリットはありません。

 だから、彼らが奉行衆の能力をなるべく低く評価しようとするのは、ある意味当たり前なのです。互いの能力を認め合い称え合うスポーツマンシップのようなものを戦国武将に期待するのは無駄なことです。

 戦国大名の配下家臣団は互いに、あちらが上がれば、必然的にこちらが下がる「ライバル」同士なのであり、基本的に仲良し集団という事は有り得ない事について注意が必要です。

 

 なお、(「吏僚派」と対立する意味での)「武断派」なる派閥も存在しません。彼らが結局東軍についたのは、秀吉死後の実力者としての徳川家康との結びつきを重視したが故であり、彼らの多くが徳川家と縁戚関係を結んでいます。つまりは、彼らは「徳川派」と呼ばれるべきです。

 これを存在しない派閥である「武断派」等と呼んでしまうと、まるでそのような派閥が存在したかのような誤解を生んでしまいますし、彼らが「徳川派」である事の本質から外れてしまう恐れがでてきてしまいます。

 

3.関ヶ原の戦いにおける奇妙な構図

 

 関ヶ原の戦いを中心とする慶長五年の「天下分け目の戦い」を見ると奇妙な構図になっていることが分かります。

 

 西軍をみると、奉行衆(前田玄以増田長盛長束正家石田三成大谷吉継)、豊臣準御一門衆(宇喜多秀家毛利秀元小早川秀秋(後に裏切り))の他に西軍の中核を占めたのは、豊臣家にとっては外様大名といえる、上杉景勝佐竹義宣(上杉と密約を結ぶも、実際には動き(け)ませんでしたが)、真田昌幸織田秀信毛利輝元長宗我部盛親立花宗茂島津義弘らです。

 

 これに対して、東軍には豊臣恩顧大名とされる、福島正則加藤清正藤堂高虎細川忠興黒田長政らは家康にこぞって付きます。

 

 奉行衆は、外様大名への「取次」役を担うことにより、多くの外様大名からの信頼を受け、彼らは西軍につくことになります。一方、豊臣譜代大名は、奉行衆とは「取次」関係にはなく、むしろ蔵入地管理等を通じて、厳しく奉行衆から管理・統制される立場であり、唐入りの恩賞も秀吉死後はないに等しく、奉行衆に対して好感を抱いておりませんでした。

 そして、秀吉死後、奉行衆が運営する豊臣公議は、自分達の利益を反映するものではないと、彼らは考えました。

 

 この時代の大名達は「唐入り」により多大な兵の損耗、戦費の負担、重税による農村の荒廃により疲弊に喘いでいました。

 しかし、秀吉死後、「唐入り」の論考行賞については、秀頼が成人するまで基本的に加増等は凍結されました。「唐入り」の失敗により、新たな土地を切りとれなかった以上、そこをあえて土地を加増するならば、豊臣蔵入地より削る他ありません。豊臣蔵入地を管理する奉行衆としては、これを勝手な判断で認めるという事は、豊臣家に対する違背を問われ、できることではありませんでした。

 これにより、秀吉死後に「唐入り」諸将への加増は、撤退に際して抜群の働きをした島津家以外には、与えられませんでした。

 このため、特に豊臣譜代大名を中心に、「唐入り」への恩賞がないことに対する不満が高まることになります。

 

 これに対して、徳川家康は、不満を持つ彼らに利益をもたらす存在だと受け止められたということになります。しかし、その家康が「(諸大名に対して)利益をもたらすという事」は、日本国内に標的(前田利長あるいは上杉景勝)を作り出し、内戦を引き起こして勝利することによって、豊臣家から恩賞・加増を引き出して諸大名にばらまき、豊臣家を弱体化させる、という目論見だった訳ですが。

 

 こうして、豊臣方である西軍に多くの外様大名がつき、徳川方(東軍)に多くの豊臣譜代大名がつくという、ねじれの構図が天下分け目の戦いにおいて現出することになります。

 

(注)「譜代大名」も「外様大名」も当時の呼称ではなく、歴史用語としても江戸時代の大名の分類として使われる用語ですが、便宜的にここでは使用しました。よろしくお願いします。(特に譜代の使い方は厳密に言えば、適当ではないかもしれませんが、ご容赦願います。)

 

 参考文献

小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

ジョミニ著、佐藤徳太郎訳『戦争概論』中公文庫、2001年

平井上総『[中世から近世へ]兵農分離はあったのか』平凡社、2017年

石田三成と甲賀と忍者

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 2017年8月26日付の河北新報によりますと、

 

青森県弘前市内で昨年秋に見つかった忍者屋敷に、戦国武将石田三成の子孫が居住していたことが25日、青森大忍者部の調査で分かった。同部は観光資源としての活用を呼び掛けており、全日空は11月、屋敷を含めた三成や忍者ゆかりの地を巡るツアーを始める予定。
 調査によると、関ケ原の戦い後、三成の次男重成が津軽地方に逃げ延び、杉山源吾と改名。宝暦5(1755)年の屋敷の居住者を記した地図から、杉山家の子孫である白川孫十郎が住んでいたことが判明した。
 実在した弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は重成の子の吉成によって結成されたことも分かった。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされ、屋敷は拠点として使用されていた可能性が高いという。」

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170826_23002.html

 

との記事があります。

 

 なぜ、石田三成の子孫が弘前藩の忍者集団を結成することになったのでしょうか?

 これに関連すると思われる事項を、白川亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社、1997年)より、引用・紹介します。(ページは上記書籍の該当ページです。)

 

「石田家も、かつては近江守護大名・佐々木氏の配下にあり(『一向宗極楽寺系図』)、甲賀の諸族も石田氏同様に佐々木氏の配下にあった(『江州佐々木南北諸氏帳』)。甲賀の入り口に当たる野洲郡赤野井村(現・守山市石田町)は、石田一族が大永年間から地頭?として配されており、現在も石田町の半数近くは石田姓が住んでいる。」(p104)

  

 そして、三成は(元服後から)十八歳まで「武芸と兵法の修業」のために、甲賀の多喜家に預けられたと、白川亨氏は『極楽寺系図』や『霊牌日鑑』より述べています。

 三成の祖母(祖父為広の妻)は甲賀の多喜家の出であり、そのため三成は多喜家に預けられ、甲賀独自の武芸と兵法の習得を図ったのであろうとしています。(p106)

 

 従来、三成が秀吉に仕官した時期については、天正元(1573)年~天正二(1574)年までの秀吉の横山城代か小谷城主の頃(三成十四~十五歳の頃)の説が多いですが、白川氏は当時の家臣知行配分記録には、石田左吉の名は載っておらず、また三成嫡男宗享禅師(重家)の遺した『霊牌日鑑』には、三成は十八歳(天正五(1577)年)の時、姫路にいる秀吉に仕官したと記録されている、としています。(p106)

 

 また、三成の次男杉山源吾重成(「杉山」姓は関ヶ原の戦い後に、津軽に亡命した際に名乗った姓)は、戦前は秀頼の小姓として「杉山の郷」を拝領していたという杉山家の伝承があり、この杉山の郷とは、現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字杉山に当たると白川氏はしています。この甲賀の地は隣接する伊賀の地と同様に忍者の里として知られています。(p104・106)

 

 以上のように、三成の祖母は甲賀の多喜家の出であり、三成はその多喜家の元で武芸と兵法の修業に励みました。また、三成の次男重成が秀頼の小姓として拝領したのも甲賀の杉山の郷でした。

 こうした石田家と甲賀忍者との関係が三成の子孫にも受け継がれ、弘前藩の忍者集団を結成するに至ったのだと考えられます。

北信濃で石田三成・直江兼続が進めた「兵農分離」

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~36を引用・参照しました。)

 

 近年は、「兵農分離はあったのか?」という疑問が出されるようになりました。

兵農分離」の定義は何か?というところから始まりそうな話ですが、近年の研究を見ると、同時期に全国的に均一な「兵農分離」が行われた訳ではない、という見解が多いように見受けます。

 

 さて、高橋敏氏の『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』の記述によりますと、慶長三(1598)年に行われた上杉景勝の越後・北信濃四郡→陸奥・出羽120万石陸奥・出羽への国替に伴う、北信濃の「兵農分離」は徹底して行われたようです。

 この国替作業を石田三成は、上杉景勝家老直江兼続と共に取り仕切ります。

 

 以下、高橋敏氏の著作より引用します。

 

「ちょうど(筆者注:秀吉の景勝に対する国替命令から)一ヵ月後の二月一〇日、直江兼続信濃埴科郡海津・水内郡長沼両城の石田三成の奉行衆への引き渡しを命じ、領内から会津へ移動に際して一二ヶ条からなる掟書を発令している。注目すべきは、三成の意を受けた家臣に仕える奉公人の移住に関する厳格な措置である。上位の倅者(かせもの)から百姓身分と分かちがたい小者・中間に至るまで家中の武士身分に包括された者は、すべて一人残らず会津に同伴しなければならない。これに従わない者は成敗せよと厳命している(「信州河中嶋海津・長沼両城治部少輔殿奉行衆へ可相渡覚」『信濃史料第一八巻』)

 

 一此中めしつかい候かせもの(倅者)ゝ義ハ申にをよはす、こもの(小者)・ちうけん(中間)成とも、今度罷下らす候ハヽ、すなハちせいはい(成敗)いたすへき事

 

 一方で残留する百姓には手厚い保護の手を差し延べている。家中の地頭・代官に不法な搾取があったときは文書を持って訴えることを許している。さらに横合いから不当な所業をする奉公人は即刻成敗し、見逃した者も同罪であると旧領内在地に残留する百姓・町人を保護している。百姓に甘く、奉公人には厳しい処置である(掟書「条々」)。

 

 一当地頭・代官、前々法度を背き、一銭成共非分之儀を申懸は、以目安(めやすをもって)可申上事

 一為奉公人者、不寄上下、町人・地下人に対し横合非分之儀、乗合、笠咎(かさとが)め・押売・押買、惣而我儘之者於有之者(これあるにおいては)、立所可加成敗(せいばいをくわうべし)、自然見合候者ハヽ致見除、取逃に於(おい)てハ同罪可為(たるべき)事

 

 当然、兵農分離によって豊臣氏の蔵入地の村々に残って年貢負担者となる百姓を保護し、新しい村つくりが着手される。

 

 一百姓以下、唯今迄有来可為如(ごとくたるべく)候、縦(たとえ)如何様儀於有之者、可為用捨(ようしゃたるべき)事

 一百姓たとへ私曲ありと云共、速に不遂披露(ひろうをとげず)、私に成敗不可有之(これあるべからざる)事

 一困窮出百姓等者無利分之米、分際用所次第可借(かすべき)事

 

 百姓は従来通りの生業がゆるされ、たとえ私曲不正が見つかっても私の成敗から逃れ、切り捨て御免はなくなった。また貧窮のため逐電等離村した百姓には無利子の米を貸して帰村を図っている。百姓にまとわりついていた倅者等の種々の中間搾取者を会津に追放して領主と百姓という単一の支配を構築して一地一作人制の新しい村を創出しようとしたのである。

 侍・中間・小者のいなくなった村はどうなるのか。「おとな百姓」なる百姓のリーダーが現れている。新しい領主の支配の下百姓をまとめ年貢諸役を請け負う村役人、名主に先行した存在であった。

 

 一自然之儀ハ、其品之儀札に書付、印判を定、おとな百姓に可申付候、左様慥(たしか)成儀無之而、一切不可致許容(きょよういたすべからず)候、強而申付族於有之者(しいてもうしつけるやからこれあるにおいては)、召搦(めしからめ)、地頭・代官に可引渡事」

 

 以上を見ますと、ここまで徹底した「兵農分離」というのは、現実には「国替」を伴わないと困難だったのではないかと思われます。

 また、当然豊臣家の蔵入地(直轄地)に、豊臣公議の目指す政策が直接反映されたことになります。(他の大名の土地政策に、直接一から十まで介入できる程、豊臣公議は中央集権的な政権ではありません。そこは、各大名の実情に合わせ、現実的な政策の「指南」が行われていたといえます。)

 

 この、北信濃で新しく作られた豊臣家蔵入地の「兵農分離」に、豊臣公議奉行衆石田三成らが目指した「村づくり・国づくり」が見えてくるのではないでしょうか。

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年