古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と甲賀と忍者

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 2017年8月26日付の河北新報によりますと、

 

青森県弘前市内で昨年秋に見つかった忍者屋敷に、戦国武将石田三成の子孫が居住していたことが25日、青森大忍者部の調査で分かった。同部は観光資源としての活用を呼び掛けており、全日空は11月、屋敷を含めた三成や忍者ゆかりの地を巡るツアーを始める予定。
 調査によると、関ケ原の戦い後、三成の次男重成が津軽地方に逃げ延び、杉山源吾と改名。宝暦5(1755)年の屋敷の居住者を記した地図から、杉山家の子孫である白川孫十郎が住んでいたことが判明した。
 実在した弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は重成の子の吉成によって結成されたことも分かった。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされ、屋敷は拠点として使用されていた可能性が高いという。」

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170826_23002.html

 

との記事があります。

 

 なぜ、石田三成の子孫が弘前藩の忍者集団を結成することになったのでしょうか?

 これに関連すると思われる事項を、白川亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社、1997年)より、引用・紹介します。(ページは上記書籍の該当ページです。)

 

「石田家も、かつては近江守護大名・佐々木氏の配下にあり(『一向宗極楽寺系図』)、甲賀の諸族も石田氏同様に佐々木氏の配下にあった(『江州佐々木南北諸氏帳』)。甲賀の入り口に当たる野洲郡赤野井村(現・守山市石田町)は、石田一族が大永年間から地頭?として配されており、現在も石田町の半数近くは石田姓が住んでいる。」(p104)

  

 そして、三成は(元服後から)十八歳まで「武芸と兵法の修業」のために、甲賀の多喜家に預けられたと、白川亨氏は『極楽寺系図』や『霊牌日鑑』より述べています。

 三成の祖母(祖父為広の妻)は甲賀の多喜家の出であり、そのため三成は多喜家に預けられ、甲賀独自の武芸と兵法の習得を図ったのであろうとしています。(p106)

 

 従来、三成が秀吉に仕官した時期については、天正元(1573)年~天正二(1574)年までの秀吉の横山城代か小谷城主の頃(三成十四~十五歳の頃)の説が多いですが、白川氏は当時の家臣知行配分記録には、石田左吉の名は載っておらず、また三成嫡男宗享禅師(重家)の遺した『霊牌日鑑』には、三成は十八歳(天正五(1577)年)の時、姫路にいる秀吉に仕官したと記録されている、としています。(p106)

 

 また、三成の次男杉山源吾重成(「杉山」姓は関ヶ原の戦い後に、津軽に亡命した際に名乗った姓)は、戦前は秀頼の小姓として「杉山の郷」を拝領していたという杉山家の伝承があり、この杉山の郷とは、現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字杉山に当たると白川氏はしています。この甲賀の地は隣接する伊賀の地と同様に忍者の里として知られています。(p104・106)

 

 以上のように、三成の祖母は甲賀の多喜家の出であり、三成はその多喜家の元で武芸と兵法の修業に励みました。また、三成の次男重成が秀頼の小姓として拝領したのも甲賀の杉山の郷でした。

 こうした石田家と甲賀忍者との関係が三成の子孫にも受け継がれ、弘前藩の忍者集団を結成するに至ったのだと考えられます。

北信濃で石田三成・直江兼続が進めた「兵農分離」

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~36を引用・参照しました。)

 

 近年は、「兵農分離はあったのか?」という疑問が出されるようになりました。

兵農分離」の定義は何か?というところから始まりそうな話ですが、近年の研究を見ると、同時期に全国的に均一な「兵農分離」が行われた訳ではない、という見解が多いように見受けます。

 

 さて、高橋敏氏の『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』の記述によりますと、慶長三(1598)年に行われた上杉景勝の越後・北信濃四郡→陸奥・出羽120万石陸奥・出羽への国替に伴う、北信濃の「兵農分離」は徹底して行われたようです。

 この国替作業を石田三成は、上杉景勝家老直江兼続と共に取り仕切ります。

 

 以下、高橋敏氏の著作より引用します。

 

「ちょうど(筆者注:秀吉の景勝に対する国替命令から)一ヵ月後の二月一〇日、直江兼続信濃埴科郡海津・水内郡長沼両城の石田三成の奉行衆への引き渡しを命じ、領内から会津へ移動に際して一二ヶ条からなる掟書を発令している。注目すべきは、三成の意を受けた家臣に仕える奉公人の移住に関する厳格な措置である。上位の倅者(かせもの)から百姓身分と分かちがたい小者・中間に至るまで家中の武士身分に包括された者は、すべて一人残らず会津に同伴しなければならない。これに従わない者は成敗せよと厳命している(「信州河中嶋海津・長沼両城治部少輔殿奉行衆へ可相渡覚」『信濃史料第一八巻』)

 

 一此中めしつかい候かせもの(倅者)ゝ義ハ申にをよはす、こもの(小者)・ちうけん(中間)成とも、今度罷下らす候ハヽ、すなハちせいはい(成敗)いたすへき事

 

 一方で残留する百姓には手厚い保護の手を差し延べている。家中の地頭・代官に不法な搾取があったときは文書を持って訴えることを許している。さらに横合いから不当な所業をする奉公人は即刻成敗し、見逃した者も同罪であると旧領内在地に残留する百姓・町人を保護している。百姓に甘く、奉公人には厳しい処置である(掟書「条々」)。

 

 一当地頭・代官、前々法度を背き、一銭成共非分之儀を申懸は、以目安(めやすをもって)可申上事

 一為奉公人者、不寄上下、町人・地下人に対し横合非分之儀、乗合、笠咎(かさとが)め・押売・押買、惣而我儘之者於有之者(これあるにおいては)、立所可加成敗(せいばいをくわうべし)、自然見合候者ハヽ致見除、取逃に於(おい)てハ同罪可為(たるべき)事

 

 当然、兵農分離によって豊臣氏の蔵入地の村々に残って年貢負担者となる百姓を保護し、新しい村つくりが着手される。

 

 一百姓以下、唯今迄有来可為如(ごとくたるべく)候、縦(たとえ)如何様儀於有之者、可為用捨(ようしゃたるべき)事

 一百姓たとへ私曲ありと云共、速に不遂披露(ひろうをとげず)、私に成敗不可有之(これあるべからざる)事

 一困窮出百姓等者無利分之米、分際用所次第可借(かすべき)事

 

 百姓は従来通りの生業がゆるされ、たとえ私曲不正が見つかっても私の成敗から逃れ、切り捨て御免はなくなった。また貧窮のため逐電等離村した百姓には無利子の米を貸して帰村を図っている。百姓にまとわりついていた倅者等の種々の中間搾取者を会津に追放して領主と百姓という単一の支配を構築して一地一作人制の新しい村を創出しようとしたのである。

 侍・中間・小者のいなくなった村はどうなるのか。「おとな百姓」なる百姓のリーダーが現れている。新しい領主の支配の下百姓をまとめ年貢諸役を請け負う村役人、名主に先行した存在であった。

 

 一自然之儀ハ、其品之儀札に書付、印判を定、おとな百姓に可申付候、左様慥(たしか)成儀無之而、一切不可致許容(きょよういたすべからず)候、強而申付族於有之者(しいてもうしつけるやからこれあるにおいては)、召搦(めしからめ)、地頭・代官に可引渡事」

 

 以上を見ますと、ここまで徹底した「兵農分離」というのは、現実には「国替」を伴わないと困難だったのではないかと思われます。

 また、当然豊臣家の蔵入地(直轄地)に、豊臣公議の目指す政策が直接反映されたことになります。(他の大名の土地政策に、直接一から十まで介入できる程、豊臣公議は中央集権的な政権ではありません。そこは、各大名の実情に合わせ、現実的な政策の「指南」が行われていたといえます。)

 

 この、北信濃で新しく作られた豊臣家蔵入地の「兵農分離」に、豊臣公議奉行衆石田三成らが目指した「村づくり・国づくり」が見えてくるのではないでしょうか。

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年

考察・関ヶ原の合戦  其の二十四 西軍における石田三成の立ち位置について

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 慶長五(1600)年に起こった天下分け目の戦いにおける西軍の戦略は、基本的に総大将毛利輝元方により立てられたものです。

 ※総大将毛利輝元の立てた戦略については、以下参照↓

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 従来の通説では、「実質的な総大将は石田三成」という誤った先入観があるため、この西軍の立てた戦略を、石田三成の立てた戦略であると勘違いしてしまう傾向にあります。

 しかし、実際には石田三成の立てた戦略が、西軍本部といえる大坂方に採用された形跡はありません。

 これは、石田三成真田昌幸・信幸・信繁宛書状等から分かります。

 これらの書状によりますと、西軍の基本戦略は、西軍主力が美濃国岐阜城主の織田秀信と連携して尾張へ出陣し、家康方の拠点を奪取し、さらに東進して三河方面へ進出するというものであったかようにみえます。

 しかし、これは、「石田三成」の立てた戦略であったかとは思いますが、「西軍全体」の戦略ではありません。

 石田三成としては、信濃で孤立している真田家を鼓舞するために、今すぐ大軍が東上

するかのように述べて、味方に繋ぎとめておかなければなりません。

 三成に限らず、遠方で敵方に囲まれ孤立している大名・武将には、援軍が今すぐ来るぞ、のような景気の良い話をしてして士気を高める必要があり、また三成はこの戦略を実際に大坂方(毛利輝元増田長盛ら)に説いて、西軍の主戦略として提唱していたであろうかと思われます。

 けれども、大坂方(毛利輝元)の主戦略は、丹後・北国・伊勢・美濃・四国・九州へと兵を分散して、なるべく西軍の勢力範囲を拡大することに主眼が置かれており、美濃方面軍も1万5千人ほどしか兵は置かれていませんでした。

 この程度の戦力で東上作戦ができる訳もなく、清洲攻略も、三河方面へ進出する戦略も、西軍首脳部が採用していなかったのは明らかです。 

 三成は、東西で家康を挟み撃ちにする戦略を立てていたかと思われます。(ただし、三成が上杉景勝と事前に通謀していた形跡はなく、これは戦いが始まった後に急遽立てられた戦略です。)

 ところが、陸奥・北関東における親西軍勢力といえる上杉景勝佐竹義宣に関東に乱入せよと、説いたところで、後背の伊達・最上の動きが油断ならないこともあり、単独ではおいそれと動きようがありません。このため、西軍主力が東上し、東西から挟む姿勢を取らないと、彼らとしても関東乱入しようがないことになります。

 こうして、西軍主力による東上作戦がない以上、上杉・佐竹による関東乱入もないことになり、東西で徳川方を挟み撃ちする策は成り立ちようがありません。

 結局、三成の戦略の提唱は却下されている訳で、西軍における三成の立ち位置はその程度のものだと分かります。三成は戦略の決定権のない、西軍における(有力ではあるが)一大名にすぎません。

 こうした意味でも、石田三成が西軍の実質的な総大将と呼ぶのは誤りといえます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十三 徳川家康の森忠政独断加増事件-北信濃を巡る関ヶ原前哨戦

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~39を参照しました。)

 

 慶長三(1598)年正月十日、豊臣秀吉は越後一国と北信濃四郡(更科・埴科・水内・高井)を支配する上杉景勝に対し、会津若松城を本城とする陸奥・出羽120万石への国替を命じます。

 

 上杉重臣直江兼続と共同してこの国替作業に携わったのが石田三成でした。三成は、上杉の旧領すべてを一旦自らの管轄下に置き、配下の奉行衆を派遣して、領知替え万端を監督します。

 

 越後国には堀秀治が入封し、北信濃四郡十三万九〇〇〇石のうち、関一政・田丸直昌領、寺社領、代官扶持領を除いた、五万五二六五石が豊臣家の直轄蔵入地に編入されました。

 

 この蔵入地は、「家康の西上に備える兵站基地にしようとした企みが見え隠れする。」(*1)と高橋敏氏は指摘しています。

 三成の縁戚・盟友といえる信濃国上田の真田昌幸と、豊臣恩顧大名である関一政・田丸直昌領、そして五万五二六五石の蔵入地をもって、関東の家康が万が一豊臣家に刃向かい、信濃を経由して西上を図った場合、これを阻止するための基盤を北信濃に確保した訳です。

 

 しかし、秀吉が慶長三(1598)年八月一八日に死去し、翌年閏三月に起こった七将襲撃事件によって三成が隠居に追い込まれた後、家康の反撃が始まります。

 

 慶長五(1600)年二月一日、徳川家康は田丸直昌を川中島から美濃国内四万石、関一政を飯山から美濃国内三万石に移封します。五大老連署の決まりを破った家康単独署名の領知状でした。

 同日、家康に近い森忠政が美濃兼山城から海津城に移され、忠政は七万石から一三万石七五〇〇石の大幅加増となります。豊臣家の蔵入地五万五二六五石の蔵入地は、家康の勝手な判断で没収され、徳川方に押さえられることになりました。

 家康から私恩を受けた森忠政は、関ヶ原の戦いで徳川方に付くことになります。

 

 こうして、北信濃に築かれた家康防波堤は、家康によって破壊されることになりました。これにより、徳川軍の中山道西上を阻止するのは、上田の真田昌幸のみということになり、北信濃で徳川軍の西上を阻止するのが困難になったといえます。家康の先の戦いを読んだ蔵入地没収と、森忠政への独断加増といえます。

 しかし、天下分け目の戦いが起こった時に、中山道を西上した(徳川本隊といえる)徳川秀忠軍が結局関ヶ原の戦いには間に合わずに終わったのは、また歴史の皮肉といえるでしょう。 

 

関連エントリーです。↓

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 注

高橋敏 2017年、p32

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年

考察・関ヶ原の合戦 其の二十二 七将襲撃事件以降の石田家の動向について

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 七将襲撃事件以降の石田家の動向について以下に述べます。

 

 慶長四(1599)年閏三月四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

 なお、家康の「仲裁」といいますが、七将襲撃事件の黒幕が徳川家康自身なのでないかという見方は当時からあった、というより、当時より家康が七将の黒幕であることは当然の前提として、周囲の人物達から考えられていました。

 

 例えば、閏三月四日以降に書かれたとみられる毛利元康宛毛利輝元書状を見ると、大坂城の番である小出秀政・片桐且元は「内府方(徳川派)」であるため、軍事行動は無駄としており、また大谷吉継は輝元が家康と対峙すべきだと述べている等、襲撃者一派(七将ら)が「内府方(家康派)」であることを当然の前提とした記述をしています。(*1)

 

 また、前田家家臣村井勘十郎は、その覚書に七将襲撃事件について「内府の御意に入り度く体にて」と書き記しています。(*2)

 

 慶長五(1600)年七月十七日の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の「内府違いの条々」には、家康弾劾の項目の第一として、家康が浅野長政石田三成の「年寄(奉行)」を逼塞に追い込んだことを咎めています。(*3)

 

 また、徳川家康は、七将襲撃事件の七将の一人である細川忠興を慶長五(1600)年二月、六万石の加増を行っており、(*4)これも「内府違いの条々」の指弾の一つとなっています。

 忠興には加増に値するような特に目立った功はなく、忠興が七将襲撃事件を主導し家康の権力強化に貢献した「功」に、家康が私的に報いたとみなされても仕方ありません。

 

 つまり、七将襲撃事件の黒幕は徳川家康である事は当時から知れ渡っていたことなのであり、そうであるにも関わらず、徳川派も反徳川派も、家康がまるで善意の中立的な仲裁者であるかのような茶番劇を演じることによって、双方の交渉を可能にしたという事になります。

 

 さて、三成が佐和山に実際に隠遁する閏三月十日に先立つ、閏三月八日に三成の嫡男重家の出仕が認められ、重家は家康の元に赴き礼を述べています。(*5)この頃には、家康の「仲裁」方針の大方が固まったということでしょう。こうして重家を当主とした石田家の存続が認められることになります。

 

 石田三成の兄、正澄も豊臣家家臣・堺政所として健在であり、また秀頼御にいつでも伺候できる衆の一人に名を連ねています。(*6)

 

 慶長四(1599)年九月七日、重陽節句に際して、伏見から大坂の石田三成邸に家康は入ります。家康の大坂宿所として石田家が主不在の大坂屋敷を家康に提供した訳です。(*7)

 

 そして、その日に家康の元を増田長盛が訪れ、前田利長を首謀とする家康暗殺計画があることを密告します。

 一方、正澄は三成邸に入った家康に、その五日後の十二日には自身の屋敷を提供し、自らは堺へ移ります。なぜ、三成邸から正澄邸に家康を移したかというと、三成邸は大坂城外にあり、正澄邸は大坂城内にあるという理由によるものだとのことです。(*8) 

 

 一方、佐和山にいた三成は、家康から利長の軍勢の上洛を阻止するよう命じられ、一千余の軍勢を越前へ派兵しています。(*9)(なお、三成は隠居中であり、三成自身の出陣はありませんでした。)

 

 こうして見ていくと、石田家は七将襲撃事件以降、家康とは協力関係にあったように見受けられます。しかし、以前のエントリーで見た来たとおり、秀吉の生前から石田家と徳川家の親交はあったのです。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

 

 七将襲撃事件以後から、いきなり石田家と徳川家が親しくなった訳ではありません。

 そして、この時期(七将襲撃事件以後)、石田三成自身の意思として、三成と徳川家康が協力関係にあった、と考えるのは早計です。

 三成は七将襲撃事件の結果隠居し、石田家当主としての力も失いました。三成に代わって年少の重家(当時14~16歳だったとされます)を支えて、石田家存続のために尽力したのが、三成の兄の正澄といえます。つまり、この時期の石田家の判断・行動は正澄の意思によるものが大きいと考えるべきです。

 正澄の判断・行動は強大な権力を持つ家康に従わない限り、石田家の存続はありえないという判断によるものだったのでしょう。(この判断は結果的に正しかった訳です。)

 

 一方で三成は、七将襲撃事件以前は、家康とは一定の親交関係にあり、私婚違約事件の際にも事態の収拾のために動いていた訳です。しかし、七将襲撃事件の黒幕が家康である可能性が高いというのが当時の共通認識だった訳ですから、むしろ七将襲撃事件が、三成が家康に不信感を抱き、敵視するきっかけになったのではないでしょうか。

 

 このため、この時期の石田家と徳川家の協力関係を、隠居している三成の積極的な意思とみなす事はできません。また、越前派兵も家康の要請によるものであり、この時期は、石田家の存続のためには徳川家に従うより他はなく、これを石田家の自発的な意思とみなすのは間違いです。

 

 石田家は最終的には真田家のようには家を東西に分けることなく、石田家当主として復活した三成の意思に従って、全員が西軍につきます。石田家の結束力は高かったといえるでしょう。

 

 注

(*1)光成準治 2009年、p28~30

(*2)白川亨 2009年、p126

(*3)中野等 2017年、p419

(*3)中野等 2017年、p419

(*4)小和田哲男 2012年、p270

(*5)水野伍貴 2011年、p96

(*6)水野伍貴 2011年、p96

(*7)水野伍貴 2011年、p97

(*8)水野伍貴 2011年、p97

(*9)水野伍貴 2011年、p97

 

 参考文献

小和田哲男ミネルヴァ日本評伝選 黒田如水-臣下百姓の罰恐るべし-』ミネルヴァ書房、2012年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

水野伍貴「石田正澄と石田三成」(『歴史読本 2011年12月号』新人物往来社、2011年所収)

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年

考察・関ヶ原の合戦 其の二十一 宇喜多騒動とは

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※前回のエントリーです。↓

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 それでは、宇喜多騒動について述べます。

 

1.宇喜多秀家の大名権力確立

 

 天正年間(1573~92)末期から文禄年間(1592~96)にかけて宇喜多秀家は、豊臣政権=秀吉を後ろ盾にして、自身への集権化を進め、領国支配体制の確立を進めます。

 大西泰正氏は、この宇喜多支配体制の確立への行程を4点に整理しています。

 

A.豊臣秀吉の後援のもと家中統制を強化(領国支配体制の確立)

B.叙位任官によって秀家-有力家臣の主従関係・序列を明確化

C.有力家臣から実務に秀でた側近(「直属奉行人」)への領国支配主導権の移行

D.惣国検地による土地所有権の秀家への集約(「家臣独自の土地所有を否定」)と家中の再編(*1)

 

 特に、D.の惣国検地と家中再編により、宇喜多家の総石高は増加し、土地支配権は大名の秀家に集約され、大名蔵入地(直轄領)は大幅に増加することになります。

 一方で、宇喜多家の三家老(岡・長船・富川(戸川)家の三家)以下家臣団は所領の移転(所替)ないし分散を強いられ、在地領主の性格を失い、秀家との主従関係も強化されます。

 しかも、新たに決定した石高は、実際よりも過大に設定され、多くの家臣が実質的な減収と軍役負担の増大を強いられました。(*2)

 

 惣国検地により、それまでの既得権力を削がれた宇喜多家の有力家臣達の不満・憎悪は、検地を取り仕切った中村家正らの直属奉行人へ向けられることになります。

 

 そして、慶長三(1598)年秀吉が死去し、その後、宇喜多家を後援していた豊臣公議奉行衆が(石田三成浅野長政の謹慎等により)失権する事により、豊臣大名・大老としての秀家自身の権力も弱体化することになります。

 

 この秀家の権力が弱体化した頃合を見計らって、それまでに溜まっていた宇喜多家有力家臣達の不満が、慶長四(1599)年末に爆発し宇喜多騒動へと発展していきます。

 

2.宇喜多騒動の展開

 

 以下、大西泰正氏の著作を参考に、宇喜多騒動の概要をまとめます。(*3)

 

① 慶長四年(1599)の末、秀家の有力家臣、浮田左京亮・戸川達安・岡越前守・花房秀成らが、大坂城下の左京亮邸に集結、武装して立てこもります。(浮田左京亮は宇喜多秀家の従兄弟です。宇喜多詮家と呼ばれることが多いですが、大西泰正氏は「詮家」という名は後世の創作としています。(*4))

② これより前に、宇喜多秀家が直属奉行人として重用していた側近中村家正の成敗を彼らは企てていますが失敗、大谷吉継榊原康政徳川家重臣)らがその仲裁を試みるも、失敗しています。

③ 翌年正月五日には、京都太秦に隠れていた中村家正が左京亮らの一党に襲撃されます。家正は所用のため、大坂住吉に出かけており、危うく難を逃れます。

④ 正月九日、伏見の秀家邸で磔刑者がありました。左京亮らの関係者とみられます。

⑥ 大坂の徳川家康が調停に乗り出します。正月のうちにいったん騒動は収束しました。『当代記』によると、このとき、大谷吉継は秀家に道理のあることを主張し、家康は左京亮らを弁護したといいます。

⑦ 家康による裁定の結果、浮田左京亮・岡越前守・花房秀成らは備前へ下国、戸川達安らは武蔵国岩付へ送られます。

⑧ 五月に、宇喜多秀家と有力家臣は再び衝突。五月中旬には決着が付きます。この結果、岡越前守・花房秀成が秀家のもとを離れ、大和国に移ります。

⑨ こうして、秀家に反抗した有力家臣は浮田左京亮を除き、すべて宇喜多家中を去りました。その想定知行は十四万石余りにも及んだということです。「直属奉行人」中村家正らも、宇喜多家を退去します。

 宇喜多家中の人材不足は深刻なものとなり、秀家は騒動には中立の立場を守った明石掃部(一般に、明石全登と呼ばれますが、全登は後世につけられた名称とのことです。)を領国指導者に抜擢します。

⑨ さっそく明石掃部は、上方で知名の侍多数を宇喜多家中に召し抱えるなど家中の立て直しをはかりますが、領国支配を立て直す時間的余裕もなく、関ヶ原合戦を迎えます。

 

3.宇喜多騒動の影響

 

 宇喜多騒動が及ぼした影響について、以下に書きます。

 

① 宇喜多騒動で多くの有力家臣が離脱したことにより、西軍の主力軍となったはずの宇喜多軍は、牢人衆を中心としたものにせざるを得ず、弱体化したということです。

 これが、関ヶ原の戦いので西軍が敗れた原因のひとつになったとされます。

 ② 宇喜多騒動に参加した家臣のうち、浮田左京亮と戸川達安は、関ヶ原の戦いの際に東軍(徳川軍)につきます。 

 

 浮田左京亮は、上杉討伐のため、東国に宇喜多本隊よりも先に出陣して徳川軍に合流しており、そのまま七月十七日の内府違いの条々発出以降も、宇喜多軍には戻らず徳川軍につきました。 

 これは宇喜多騒動で秀家に反抗した浮田左京亮が、西軍決起の際に宇喜多家中に留まっているとすれば、不満分子として内部で反乱や内通を起こされかねませんので、それをあらかじめ防止するために浮田左京亮を先行させるよう、秀家が措置したという事が考えられます。

 

 戸川達安は、家康の領国である武蔵国岩付に配流されましたが、西軍決起後、東軍の一将として福島正則らと共に清洲まで西上します。

 慶長五(1600)年八月十八日付の達安の、明石掃部宛の書状(明石掃部の調略を狙ったものです)には、

「(前略)一、私(筆者注:戸川達安)はこのたびの家中騒動の処分の際、家康様に大きな恩を受けました。その上配流先の関東においても親切にしていただきましたので、妻子がそちらにおりましても家康様に無二の奉公をし、どのようなことがあっても家康様のために死ぬ覚悟です。(後略)」(*5)

という内容が書かれています。 

 この書状を見ますと、家康は戸川達安の配流先を自国の武蔵国岩付にして、その地で達安を庇護することによって、事実上の徳川家臣となるように取り込みを図ったといえます。

 ② 『慶長年中卜斎記』によると、宇喜多騒動で「大谷吉継榊原康政・津田秀正の三名が仲介に入ろうとしたが、康政は家康から叱責されて関東に追い返され、吉継と家康の仲もこの一件を契機に悪化したと」(*6))されています。

 

 その前の慶長四(1599)年九月に、家康が秀家の大坂から伏見への異動を強制している事から分かるように、秀家は家康にとっては、自らの豊臣公議の権力独占を阻む政敵でした。

 このため、宇喜多騒動を仲介する立場を利用して、秀家に反抗的な家臣の保護・取込みを図り、その事によって宇喜多家の弱体化を図ろうと、家康が企てて実行したと考えられます。

 

 こうした家康の言動を見て、吉継は家康の態度に不信感を抱き、この事がそれまで親徳川派として行動しているように見受けられた吉継が家康を見限り、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた契機になったといえます。

 

 ※関ヶ原の戦い前の大谷吉継の動向については、以下のエントリーを参照願います。 ↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十七 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・大谷吉継も、しばらく「徳川派」だった

 

(この後、上杉征伐の阻止のために吉継は上杉との取次役として奔走しますが、結局家康は、吉継の意図に反して上杉征伐を強行に押し切りましたので、吉継の家康への不信・疑念は更に高まったことが考えられます。)

 

 次回は、七将襲撃事件以後の石田家の動向について検討します。

 

 

  注

(*1)大西康正 2017年、p45~46

(*2)大西康正 2017年、p47

(*3)大西康正 2017年、p71~75

(*4)大西康正 2017年、p26

(*5)光成準治 2009年、p217~218

(*6)光成準治 2009年、p210

 

 参考文献

大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年

考察・関ヶ原の合戦 其の二十 太閤検地とは何か?

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※前回のエントリーです。↓

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 太閤検地について、以下に検討します。

 

1.太閤検地とは?

 

 藤井譲治氏は、太閤検地について『日本近世の歴史1 天下人の時代』で、

 

「秀吉の検地は、一般に太閤検地と呼ばれる。その検地は、村ごとに田畠屋敷など地目を定め、それぞれ一筆ごとに字(あざ)、等級、石高、名請人を確定し、それらを集計して村高とした。検地にあたっては一間六尺三寸とし、一間四方を一歩、三〇〇歩を一反とし、石高は京枡をもって公定升とし、村の善し悪しを勘案し、耕地の等級、たとえば上田ならば一反一石五斗といった斗代を定め、それに面積を乗じて高を算出した。また、従来一片の耕地に複数の権利が重層していたが、それを整理し、一片の耕地には一人の耕作者とする一地一作人制が実施された。こうした検地の結果、百姓は耕作権を保証されると同時に年貢・夫役などの義務が負うことになった。そして、この石高が、大名より家臣への領地給与への基準となり、また家臣が主人に軍役を果たす時の基準にもなった。このように太閤検地は、近世日本の土地制度・社会制度の根幹をなす石高制の基礎となった土地政策であり、その歴史的重要性は大きい。」(*1)

 

と、述べています。

 

 もっとも太閤検地によって一地一作人制が実施されたかについては、疑問を呈している研究者の方もいます。

 たとえば池田裕子氏は、太閤検地における「斗代」とは、

 

斗代=年貢

『本年貢(領主におさめる年貢)』+『加地子(小作料、ただしこの権利は売買できる一種の債権)』

 

の事であると指摘しています。(*2)

 これによりますと、加地子は太閤検地によって廃止はされてはいないため、土地に係る複数の権利(加地=小作料)は排除されてないことになります。このため、「一地一作人制」が、太閤検地によって実施されたとはいえない、という事になります。

 

 また、太閤検地で定められた「斗代」は、「毎年必ず免除することを前提とした、百姓の合意を取り付けられる最大の年貢高だった」(*3)とのことです。

 

 そして、必ずしも実測による検地ばかりではなく、従来通り差出による検地も多かったとされています。また、豊臣奉行衆の力を借りず、大名が自前で検地する場合もありました。(*4)

 これは、後述するように全国の統一的な石高の算出を速やかにすることが、(完全に正しい石高の計測・算出をするよりも)秀吉政権にとって優先されたためでした。

 

 

2.太閤検地の目的 

 

 なぜ、このような太閤検地が広範に行われたのか?太閤検地を通じて豊臣公議が目指した目的は何でしょうか?これは、以下の2点があげられます。 

 

① 大名権力の強化=「大名集権」 

 太閤検地が行われると石高が増えます。これは、従来の石高の申告高が元々低いもので、実測した結果高くなる場合もあるでしょうし、新たに隠田が発見される場合もあるでしょう。

 また、京枡等による「京儀」による基準の計算方法の検地の方が、従来の国元で行っていた検地より高く算出される場合もあるでしょう。(例えば、従来は一反=三百六十歩だったが、太閤検地の検地の計算方法だと一反=三百歩となっています。) 

 そして、二公一民(税率2/3)(もっとも前述したように、この税率はあらかじめ免除される事を想定して最大限のものにしたと指摘されていますが。)という税率は、多くの大名領国の従来の税率より高いものであった場合が多いと思われます。

 他には、検地に携わる奉行が、政治的に机上の計算で決めた場合もあるとされます。(*5) 

 

 いずれの理由にせよ、検地をすると石高は必ず上がるのです。

 

 たとえば、文禄四(1595)年に行われた、石田三成家臣達による島津領内の検地では、島津領国の石高は「検地の結果、それまで約二二万五〇〇〇石であった石高が約五七万石となった。実に二・五倍以上の増加である。そして島津氏の蔵入地も、三万九〇〇〇石から二〇万石となり、五倍以上の飛躍的増加である。島津氏の財政が豊かになったことは言うまでもない。そして、家臣団は新たな石高にもとづいて所領が割り当てられ、多くは所替えすることとなった。これは家臣の在地性を奪い、実質的な領地の削減をも実現させたのである(山本一九九〇)。」(*6)となっています。

 

 こうしてみると太閤検地をおこなうことにより、収税する土地の補足範囲は広がり、また計算方法の修正で見掛けの石高は高くなり、税率も高くなるわけですから、大名は太閤閤検地によって大幅な税収増が見込め、強力な財政基盤を得ることになります。「大名にとっては」いいことづくめです。(その分、大名に課せられる軍役・賦役も増えますので、必ずしもいいことづくめではありませんが。)

 

 大名としての秀吉自身も、自身の領内の検地により「貢租収入を大きく増加させ(倍増したともいわれる)、「小領主」の多くを家臣団に編入した。太閤検地をつうじて獲得した豊富な資金力と軍事力なくしては、秀吉の全国統一はありえなかっただろう。」(*7)と指摘されています。

 こうした大名権力の強化政策を全国的に展開したのが太閤検地といえます。

 

 太閤検地によって大名権力が強化されて、困るのは誰か。大名の家臣・傘下の小領主と、耕作者という事になります。

 

 耕作者である百姓らは、増税という事ですので当然困ります。 

 しかし、豊臣秀吉の理屈はおそらく、これから日本は(秀吉のおかげで)静謐になり、百姓は戦乱による略奪・破壊におびえることなく、安心して耕作に専念できるのだから、増税を受け入れろという事ですかね。まあ、秀吉の強圧的な「上からの」理屈という事になりますが。

 また、二公一民という高率の税率でも払えるだけの生産力が、当時の農地にはあると秀吉がみなしたという事でもあるのでしょう。

 

 大名の家臣達はどうか。石高が増えた場合、その増分は基本的に大名蔵入地に組み込まれます。これによって、大名の財政力基盤を強化するのが太閤検地の目的のひとつです。 

 

 検地をした際に、島津家のケースで前述したように、家臣は給地を移動することになる場合が多いのですが、移動した場合でも基本的には知行高は変わりません。

 ところが、検地による石高計算方法の変更により見掛け上の石高は上がっていますので、実質的な知行高は目減りしている訳です。インフレになったけど、給料は上がらないようなものですね。 

 検地によって増えたことによる大名蔵入地から大名が各家臣に加増してやる事もできますが、加増する権限を持つのは大名です。恩賞を与える土地を大名が確保し、大名が家臣に恩賞をちらつかせることにより、家臣が大名のために忠義を誓って働くようにさせる事も太閤検地の目的のひとつといえます。

 

 これでは、家臣団は弱体化するだけではないかという話ですが、まさに太閤検地は大名家臣団の弱体化を狙ったものといえます。

 元々、戦国大名は支配領域の国衆・小領主の盟主的存在にすぎませんでした。このような、国衆・小領主は大名の家臣といっても独立性が高く(このため、純粋な「家臣」とは言えないのかもしれません)、大名に不満を持てば、機会を見て反抗・反逆しますし、大名同士で戦争が起こり、これはもう負けそうだと見ると、雪崩をうって大名を裏切り見捨てるような存在です。

 こうした支配力の弱い大名の支配体制では、ふとした不満や遺恨がきっかけで、すぐに大名家内部での「御家騒動」に発展し、争乱になってしまいます。武士は、皆武装した軍事集団ですので、武家の「御家騒動」とはすなわち「戦」という事です。

 

 これでは、豊臣公議が目指す「惣無事」にもなりませんし、「天下静謐」にもなりません。天下を静謐にするには、大名がその支配領域では家臣団とは隔絶した強大な権力を持ち、家臣が大名に逆らうことのないように上から統制し、「御家騒動=内戦」などが行われることがないようにしないといけません。

 つまり、太閤検地による大名権力の強化、「大名集権」は「惣無事」政策の一環なのです。

 

 検地の際に大名が家臣の給地を移動させるのも、家臣が旧来から支配している土地から引きはがして土地との結びつきを弱めることも目的のひとつです。

 従来の独立性の高い、国衆・小領主層の土地を根拠とする権力を弱め、大名の家中、直属家臣団として組み込むことによって大名権力を高めるというのも、太閤検地に隠された目的という事になります。

 

 豊臣公議というと、「中央集権的」であると評する方がたまにいますが、豊臣公議は「中央集権的」という訳でもなく、かといって、地方の小領主たちの権力を認めた「地方分権的」なものでもなく、その地域を支配する大名に確固たる支配能力と家臣の統制能力を高めてもらうことによって、各大名の支配する地域の秩序を回復し安定させることが「天下の静謐」に繋がると考えた「大名集権的」な政権であるといえます。

 

 

 検地は豊臣公議の奉行衆が直接行う検地と、大名が独自に行う検地がありました。各大名が(豊臣家の奉行の力を借りず)独自に検地をする場合、必ずしも豊臣公議が示した基準で検地をしたわけではないようです。

 

 しかし、豊臣公議が示した基準で検地をすれば、必ず大名の税収は増える訳です。例えば、毛利家は天正惣国検地では、三百六十歩=一反性制を使うなど、独自の計算方法を使っていましたが、慶長年間の兼重蔵田検地では豊臣政権の基準を利用しています。 (*8)

 豊臣公議の基準を使えば、税収増になり、大名の財政基盤は強化されますが、百姓達にとっては増税になりますし、旧来の国衆・小領主層は権力の弱体化になるため、反発も起こることが予想される訳です。

 反発が高まると、一揆も起こる可能性があります。こうした反発を抑えられるか、大名が自ら判断する必要がありました。豊臣公議としては、建前上は、大名は課せられた軍役・普請の義務さえ果たしてくれればよい訳です。(この軍役・普請の義務が大変な負担な訳ですが。)

 だから財政基盤を強化したい大名は(豊臣公議からの直接的な強制ばかりではなく)みずから、豊臣公議の示した基準で検地をおこなう場合もありましたし、豊臣公議の奉行衆に依頼して検地をやってもらう場合もあった訳です。

 

② 全国を石高制で統一・軍役賦課基準の決定 

 豊臣政権は太閤検地によって全大名を石高制で統一的に把握することを優先していました。石高を把握することにより、石高を基準として豊臣公議が軍役を課す人数が決まりますし、また全国を石高で統一することにより、大名の国替も可能になります。

 

 なぜ、豊臣政権は全国を石高制に統一したのか?(もっとも石高制ではなく、貫高制のままの地域(長宗我部家等)もあったようで、その場合は軍役から逆算して石高が決められた可能性もあるようです。(*9))

 

 石高制となった理由は、戦国期の撰銭状況によるという指摘があります。

 戦国期の日本は独自の流通通貨を持たず、銭は中国の宋銭・明銭や低品位の私鋳銭等が出回り、悪銭の受け取りは拒否される事態もありました。このため、「銭を基準とする貫高制を用いたとすると、それがどの価値を持つ価値を銭のを基準にした数値なのか分からず混乱が生じる恐れがある。そこで、銭に比べて価値尺度として安定している米を基準とする石高制のほうが採用されたのではないか、とみるのが近年の研究動向」(*10)としています。

 米を基準とするには計量基準を統一しなければならず、このため織田・豊臣政権が京枡を石高の基準としていたことは広く知られていることです。(*11)

 もっとも、藤井譲治氏は「米の価値も一定ではないのだから価値尺度としての採用とみることには疑問がある、と指摘」(*12)しているとのことです。これに対して、米の価値の方が銭の価値に比べて相対的に安定していたため、採用された、という反論がなされています。(*13)

 この辺は、また研究が進んでいくことにより、詳細が分かっていくのでしょう。

 

 いずれにせよ、豊臣公議としては、各大名に課す軍役の基準を確定させるために、石高制(貫高制からの読み替えも含む)による全国の知行制を統一する必要があったということです。(*14)

 

 

 前述したように、石高については、奉行の机上の計算で決められることもありました。

 天正十九(1591)年、秀吉は全国に御前帳の作成・提出を命じています。御前帳とは、秀吉が禁中(天皇)の納めるために作成した帳面であり、全国の軍単位の田畑の面積と石高、川役・山役・浦約などの員数、郡単位の絵図の作成を求め、各大名に提出させたものでした。

 これは、「唐入り」の準備のために、秀吉が全国の軍役能力を把握するためのものと、いえます。

 しかし、当時検地が行われていない地域も多かったのです。

「たとえば(筆者注:天正十九(1591)年当時)太閤検地が行われていなかった島津領の薩摩・大隅についてみると、在京中の義弘は国元に対し、国元で帳面を作成しようとしてもできるわけがないのだから、村数・屋敷・田畠・種子蒔の量、国枡での米・大豆などの収納量を書いて送ってくれれば、京都で京枡に換算して、帳面をつくる、と記している。その中では、島津の在京賄料として摂津・播磨で与えられた一万石分については、増田長盛の指導のもと、何度もつくり直してようやく仕上げられたともいっている。秀吉の奉行たちの指導、机上の操作で差出が作られた。島津領については最終段階で石田三成の加筆で八万石が加えられ、惣高三十八万石とする御前帳が提出されたという。このようにして検地高でもなく、実態ともかけはなれた石高が、奉行の主導でつくり出されたところは島津領だけではない。それが石高の中身であった。」(*15)と池上裕子氏は述べています。

 

 上記の記述等から以下のことが分かります。

 

a.唐入りの準備のため、秀吉政権としては、全国の大名に課すことができる軍役の総数を把握する必要があり、このため御前帳の作成を通じて、全国の石高(軍役のための基準)をまず把握する必要があった。

b.だが、検地をしていない地域もあり、また技術的に、(あるいは家臣達が検地に非協力的なため)検地を自力で行うことが困難な大名もいた。

c.しかし、軍役の基準は速やかに確定されなければならないため、大名が適当に算出して算出した石高に対して、おそらく大名がまかなえるであろうと推測された軍役の基準から逆算した石高になるように、奉行衆による机上の計算による操作がされた。

d.机上の計算で実態とかけはなれた石高といっても、元々大名の提出した石高が検地に基づかず、実態のないものなので、机上の計算をする以外に方法がなかった。

 

 なぜ、奉行衆が机上の加算をしなければいけないのでしょうか。これは、大名にとっては、提出した石高が低い方が負担する軍役・賦役が少なくなるから、石高はなるべく過少申告しようという動機が働くためです。

 これに対して、大名が石高を過少申告するのは、豊臣公議にとっては、大名が豊臣公議に対する奉公(軍役・賦役)を過少にしようとしている、という事になりますので、重大な公議に対する違背行為となります。

 

 実際に、後のことになりますが、蒲生氏郷死後の息子秀行(当時は鶴千世)が相続する際に、蒲生家からの自己申告により提出された石高が過少であったため、秀吉政権の咎めを受け、危うく蒲生家は改易されそうになっています。

 この時は、秀行の岳父の徳川家康の取り成しで、咎めなしとなっていますが、後年の蒲生騒動で、蒲生家は減転封の処分を受けます。

 

 この事の詳細は以下のエントリーで述べました。↓

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 このように、石高が過少申告であると秀吉に見とがめられれば、下手をすれば島津家が改易処分になってしまう恐れすらあるため、島津家の取次でもあった三成としては、島津家がこなせるであろう軍役基準に見合い、秀吉から過少申告とは咎められないであろう分の石高を、机上の計算で加算した訳です。 

 しかし、結局検地をしていないという事は、実際には、島津家は収税可能な範囲を捕捉していないということですから、その分については税の徴収もできていないということになります。

 御前帳に、机上の計算の石高が加算されたところで収税能力が増える訳ではありません。結局、島津家は後で実際に検地をして収税能力を高めるしかありません。

 検地をおこなわないと、課せられた軍役をまかなえるだけの、財政基盤がないまま軍役をせねばならず、大名の財政が破綻します。

 

 このため、島津義弘の方から、豊臣奉行衆による検地を要望し続け、やっと文禄三(1594)年に石田三成家臣達による島津領全体の実施がされることになります。(*16)

 

 このように、大名の財政基盤が強化される事によって、唐入りによる「際限なき軍役」の負担を大名が継続的に行えるようにするために、秀吉政権は、各地の大名に太閤検地の実施を求めました。

 また、豊臣公議の「際限なき軍役」の要請という「上からの圧力」を利用して、大名は自らの財政基盤の強化、権力の集中をはかるために、太閤検地改革を推進していくことになります。

 しかし、この改革がうまくいかない大名は、たとえば蒲生家のように改易・減転封のような危機にさらされることになる訳です。

 

3.終わりに

 

 以上、太閤検地について見てきました。太閤検地については、他の論点も多くあるのですが、割愛します。

 本論において、なぜ太閤検地を検討したかといますと、次のエントリーで詳述しますように、宇喜多家で発生した「宇喜多騒動」の原因は、宇喜多領内で実施した「太閤検地」とそれに伴う家中改革が主な要因といえ、「太閤検地」は構造上、その大名の中の重臣層の力を削ぎ、大名権力を強化するためのものでしたので、ほとんどの場合、重臣層から反発されるのは必然だったのです。

 

 しかし、宇喜多秀家は秀吉の養女婿であり、豊臣御一門に準じる大名として豊臣大名として範を示すために、「豊臣改革」に自ら積極的に取り組まなければなりませんでしたし、朝鮮の役の総大将格として軍役を務めるために、大名の権力・財政基盤を強化しなければなりませんでした。

 このため、豊臣公議の権力を背景に太閤検地の実施を自ら行い、大名権力の強化と軍役の義務の確実な実施を、重臣たちの反発を覚悟しつつも、行う必要がありました。

 

 しかし、秀吉が死去することによって、秀家は大きな後ろ盾を失うことになります。

 秀吉の生前から、重臣たちの権力を削ごうとする秀家の方針に、重臣たちは不満がたまりにたまっていましたが、この秀家の太閤検地や家中改革の方針は、秀吉政権の方針でもあったため、秀吉の生前には重臣達は表立って文句も言えなかった訳です。

 

 しかし、秀吉が死去し、豊臣公議の五奉行の権力も弱体化(二奉行が謹慎)、宇喜多秀家自身の大老の権力も低下(家康の要求によって、大坂から伏見への異動を余儀なくされる)することによって、宇喜多重臣たちが今までの不満が爆発させ、実行に移したのが、「宇喜多騒動」といえます。

 

 次回は、「宇喜多騒動」の詳細について検討します。

 ※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)藤井譲治 2011年、p127~128

(*2)池上裕子 2002年、p184~187

(*3)平井上総 2017年、p239

(*4)平井上総 2017年、p233

(*5)平井上総 2017年、p233

(*6)堀新 2010年、p139

(*7)堀新 2010年、p132

(*8)平井上総 2017年、p234

(*9)平井上総 2017年、p233

(*10)平井上総 2017年、p236

(*11)平井上総 2017年、p236

(*12)平井上総 2017年、p237

(*13)平井上総 2017年、p237

(*14)平井上総 2017年、p237~238

(*15)池上裕子 2002年、p189~190

(*16)平井上総 2017年、p232

 

 参考文献

池上裕子『日本の歴史 第15巻 織豊政権江戸幕府講談社、2002年

平井上総「豊臣期検地論」(織豊期研究会編『織豊期研究の現在』岩田書院、2017年所収)

藤井譲治『日本近世の歴史1 天下人の時代』吉川弘文館、2011年

堀新『日本中世の歴史7 天下統一のから鎖国へ』吉川弘文館、2010年