古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十六 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況①

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆考察・関ヶ原の合戦 其の一 はじめに+目次 に戻る

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 に戻る

 

 

 豊臣秀吉死去前後の状況について、イエズス会が日本年報で報告しています。

 

 家入敏光訳「一五九八年十月三日(※筆者注:(日)慶長三年九月三日)付、長崎発信、フランスシスコ・パシオのイエズス会総長宛、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p105~108)より、以下抜粋します。

(※イエズス会が記す西暦と和暦では、丁度1か月ずれているようです。(和暦の方が西暦より1か月早い。)以下では、西暦の表示の後で和暦を(※(日)〇月〇日)と記載します。(筆者の追記で、原文にはありませんのでよろしくお願いします。))

 

「国王(太閤様)は、伏見城に滞在していた(一五九八年)六月(※(日)五月)の終りに赤痢を患い、よくあることだが、時ならず胃痛を訴えるようになった。当初は生命の危険などまったく懸念されはしなかったが、上記のように八月五日(※(日)七月五日)に病状は悪化して生命は絶望とされるに至った。だが太閤様はこの時に及んでも、まるで健康体であるかのように、不屈の剛気と異常な賢明さで、〔従来、万事においてそうであったのだが〕身辺のことを処理し始めた。そして太閤様は自分(亡き)後、六歳になる息子(秀頼)を王国の後継者として残す(方法)について考えを纏めあげた。太閤様は、関東の大名で八カ国を領有し、日本中でもっとも有力、かつ戦においてはきわめて勇敢な武将であり、貴顕の生まれで、民衆にももっとも信頼されている(徳川)家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えば、それができる人物であることに思いを致し、この大名(家康)に非常な好意を示して、自分と堅い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれぬようにした。

 すなわち太閤様は、居並ぶ重立った諸侯の前で、その大名(家康)を傍らに召して、次のように語った。「予は死んでゆくが、しょせん死は避けられぬことゆえ、これを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは、(まだ)王国を統治できぬ幼い息子を残してゆくことだ。そこで長らく思い巡らした挙句、①息子自らが王国(を支配する)にふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて、安全を期することにした。その任に当たる者は、権勢ともにもっとも抜群の者であらねばならぬが、予は貴殿を差し置いて他にいかなる適任者ありとは思われぬ。それゆえ、予は息子とともに日本の全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。その際、この盟約がいっそう鞏固なものとなり、かつ日本人が挙げて、いっそう慶賀してくれるよう、次のように取り計らいたい。②貴殿は、嗣子(秀忠)により、ようやく二歳を数える(孫)娘を得ておられるが、同女を予の息子と婚約させることによって、ともに縁を結ぼうではないか。かくて貴殿は、一方(同女)の祖父、同時に他方(予の息子)の父となり得よう」と。

 この言葉を聞いて家康は落涙を禁じえなかった。彼は、太閤様の死期が迫っていることに胸がいっぱいになり、大いなる悲しみに閉ざされるいっぽう、以上の(太閤様の)言葉に示されているように、太閤様の己に対する恩恵がどれほど深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからであった。③だがこれに対して、次のように言う者がないわけではなかった。家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで非常に恐れていた太閤様も、ついに死ぬ(時が来た)のだと思い、随喜の涙を流したのだ。家康は、とりわけ、いとも久しく熱望していたように、今や(国家を)支配する権限を掌中に治めたのも同然となったことに落涙せざるを得なかったのだ、と。(それはともかく)家康は悲嘆の面持ちで、次のように答えた。

 「殿様、拙者は殿の先君(織田)信長(様)が亡くなられた頃には、三河の一国しか領しておりませんでした。しかるに殿が日本国を統治し始められて以後、さらに三か国を加えられ、その後久しからずして、殿の無上の恩恵と厚遇によって、その四ヵ国は、現在のように槻関東八ヵ国の所領に替えていただきました。拙者に対する恩恵は以上に留まらず、絶えずはなはだ多大の贈物を賜りました。殿は今後、拙者が生命を抛っても、御子息に対してあらゆる恭順、奉公を尽くすようにと、拙者ならびに拙者の子孫を解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。拙者は当初、殿が御意向を示された折、拙者は粉骨砕身、もって王子(秀頼)へ主権(の移譲)が安泰たるよう、その後見人として励もうと決心しておりましたが、(今や)殿は、国王(秀頼)御身、ならびに国家の命運をも拙者の忠誠に委ねられ、また、かたじけなくも殿の御子息を(秀忠)の娘に、花婿として下さいます〔拙者にとり、これに過ぐる恩恵は、いまだかつてなきところでございます〕。かくて拙者は、大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりませず、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除き、もって殿のご要望なり御命令を達成いたす覚悟であります」と。

 このように家康が答えると、太閤様の面前へ嫁(家康の孫娘)が連れてこられ、時間が許すかぎり(太閤様の枕もとで)喜びと厳粛さのうちに結婚式が挙行された。それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、彼らは太閤様の嗣子に対しては、嗣子が成人した後には、その政権を掌握できるように尽力することを、また家康には対しては、その間尊敬と恭順の意を表すことを誓った。さらに太閤様は、その他の(より身分の)低い諸侯が、家康の屋敷で同じように誓うことを命じ、加えて、家臣たちの心を自分に固く結びつけ、彼らが太閤様の嗣子に対して忠節を尽くすようにと、金銀その他高価な品々を数多く分かち与えた。太閤様は非常に気前よく寛大さを示して、寡婦や古くからの下僕のような貧しい私人のことにも思い及び、それぞれの身分に応じて何らかの品を授けた。 

 ④太閤様はその後、四奉行に五番目の奉行として浅野弾正を加え、一同の筆頭とした。次いで太閤様は、奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう配慮すべきこと、すべての大名や廷臣を現職に留め、⑤自分が公布した法令を何ら変革することなきようにと命じた。また確固たる平和と融合-これなくしてはいかなる国家も永続きできぬ-が諸侯の間に保たれるようにと、一同に対し、旧来の憎悪や不和を忘却し、相互に友好を温めるようにと命じた。

 そして太閤様は、領主たちの不和がとりわけ国家にとって不都合を生じ得るに鑑みて、彼らがそれぞれ息子や娘たちを婚姻関係で結ぶことによっていっそう団結することを希望した。また某の娘に養子をとらせ、同様に他の諸侯とも縁を組み、諸侯が大いに慶祝するようにした。それから国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常であったから、これを未然に防止しようとして、⑥太閤様は(日本中で)もっとも堅固な大坂城に新たに城壁をめぐらして難攻不落のもとし、場内には主要な大名たちが妻子とともに住めるように屋敷を造営させた。太閤様は、諸大名をこうしてまるで檻に閉じ込めたように自領の外に置いておくならば、彼らは容易に謀反を起こし得まいと考えたのであった。

 太閤様は、これらすべての企てが効を奏するためには、上記(大坂城)の普請が完成し、かつ朝鮮、日本両国に善かれ悪しかれ和平が締結されて、全諸侯が朝鮮から帰国するまでは自分の死が長らく秘されるがよい。かくて自分の息子の将来は、いっそう安泰になるであろうと考えたのであった。」(下線・番号、筆者)

 

コメント

1.イエズス会報告の上記の記述の部分はあくまで伝聞という事になります。(後のエントリーで引用するロドゥリーゲス師の秀吉との会見は直接ロドゥリーゲス師が見聞きした史料という事になります。)

 しかし、上記の記述はかなり詳細に書かれているため、おそらくこの秀吉や家康の発言を直接見聞き武将・大名から聞いた話といえるでしょう。ただし、どの大名から聞いた話なのかは書かれておりません。(小西・黒田らの主だったキリシタン大名は、朝鮮に在陣中ですので、誰から聞いたの話なのかまでは分かりません。)

また、この話をイエズス会に伝えた人物は、徳川家康に好意的な人物である事が上記の記述からも分かります。ただし、②にあるように報告では、この時点で既に家康の野心を警戒している人物もいた事も紹介しています。

2.上記の記述以外も含め、『イエズス会日本報告集』を通読すると、イエズス会は家康に好意的というか、かなり期待をかけていた事が分かります。

 なぜイエズス会が家康に期待をかけていたかというと、豊臣公議は、天正十五(1587)年の「バテレン追放令」以降、公的にキリシタンを弾圧していたからです。(弾圧しつつ、死の直前に宣教師ロドゥリーゲス師を呼んで好意を示すなど、秀吉の行動もよく分からない所がありますが。)豊臣の奉行衆の中には前田玄以石田三成等、イエズス会に同情的な者もいましたが、彼らは豊臣家の家臣であり、主君秀吉の決定した政策を覆す力はあまり期待できません。

 秀吉が行ったキリシタン弾圧政策を転換しキリスト教の布教を認め保護する政策を示す、新たに日本国を率いる力を持った指導者の出現をイエズス会は求めており、その新しい指導者として期待されるのが家康だったといえます。

3.この秀吉と家康との会見の要点は、以下のとおりです。

A.秀頼が成人するまでの間、家康に日本の全土の統治を委ねることにする。(上記①参照)

B.A.の盟約を強固なものとするため、秀頼と家康の孫娘を婚姻させる。(上記②参照)(上記の記述では、この日に既に結婚式が行われていますが。)

(※念のために書いておきますが、家康に好意的なイエズス会の報告にすら、秀頼が成人後その器でないならば家康に天下を譲るみたいな、三国志劉備の遺言のような記述はどこにもありません。)

4.④の記述にあるとおり、浅野長政五奉行の列に入れられたのは、秀吉の死の直前である事が分かります。

 前述したように(以下参照↓)、

koueorihotaru.hatenadiary.com

 慶長二(1597)年十月石田三成増田長盛がかつて奏者を務め親交の深い下野の大名・宇都宮国綱が改易に追い込まれ、縁戚の佐竹義宣(佐竹家は石田三成の取次先です)も連座されそうになる事件がありました。この事件に浅野長政が関与しており、これにより石田三成増田長盛浅野長政の仲は悪化します。

 あえて仲の悪い浅野長政を奉行衆の中(しかも、イエズス会の記述によると筆頭)に入れた秀吉の狙いは「相互監視」でしょう。秀吉は、どんな人物も基本的に信頼していません。これは家康に対しても、奉行衆に対してもです。家臣のいずれかが権力を独占することを秀吉は警戒し、四奉行の監視役として浅野長政をつけただと考えられます。(逆に浅野長政は、他の四奉行と仲が悪い事を秀吉自身も知っていますので、権力を独占しえません。)

5.「⑤自分が公布した法令を何ら変革することなきようにと命じた。」との遺言は、秀吉死去後の私婚違約事件の火種となります。また、バテレン追放令を受けているイエズス会にとっては落胆せざるを得ない遺言といえるでしょう。

6.⑥で書かれているように、大阪城を更に堅固に難攻不落にするための工事が秀吉の命令で始まっています。これは秀頼を大坂城に居住させる予定のためです。

 上記のイエズス会の記述には書かれていませんが、秀吉は自身の死後の意向は、堅固な大坂城に秀頼が居住することで、秀頼の身の安全を保障させる事でした。

 秀吉の遺言書(下記参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

で分かるとおり、家康は伏見城で政務をとることになっており、大阪城には秀頼の守役として前田利家が入り秀頼を保護します。家康と秀頼を分離することが秀吉の遺言の目的であり、結局、秀吉は家康を信頼しておらず警戒している事が分かります。

 秀吉の、家康に対しての「日本の全土の統治を委ねる」というのは、家康に対して、しばらく日本の統治「のみ」を行い、秀頼が成人したら、おとなしく統治権を返還してくれ、という意味です。

 しかし、野心溢れる戦国大名家康がおとなしく統治権を返還せず、豊臣公議を簒奪する事も十分考えられますので、そのための抑止措置として作られたのが、秀頼(大坂)と家康(伏見)の分離、家康監視機構としての五大老五奉行制でした。

 秀吉が家康に対して直接「お前の事は信頼していない。警戒しているけど、日本の全土の統治はしばらく任せる。決して裏切るなよ」などと言う事はありえません。そんな事を言われて「はい、秀頼君様のために全国の統治を、全力をもって代行します」なんて家康ならずとも誰も言いたくないですよね。当然、直接的には美辞麗句でおだて上げて、秀頼の後見役を進んで引き受けてもらうように秀吉は言う訳です。

 しかし、実際には自筆遺言状で委細は五奉行に委ねられ、その五奉行は起請文の取り交わしで家康の権力を牽制し限定的なものとするような方向にしていきます。

 これを奉行衆の勝手な判断とみる方もいますが、そうは思われません。秀吉が家康に後事を全権委任することが、秀吉本来の望みであれば委細は直接家康に伝えられるでしょうし、家康は秀頼が居住予定の大坂城に居住する事になるでしょうし、そもそも五大老五奉行などという機構自体不要です。秀吉は口では調子のよい事を家康に言っておきながら、他の四大老五奉行には家康を警戒し、監視するように伝え、そのための措置を実行するように遺言で伝えていたのが実態と思われます。秀吉の死の前後に作成される起請文は、秀吉が遺言で五奉行に話した「委細」を反映したものと考えられます。

(追記)

  家入敏光訳「一五九九年十月十日付、日本発信、巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノのイエズス会総長宛、一五九九年度、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p119))には、

「しかし彼(筆者注:豊臣秀吉)は五大老の権力が強すぎはしないかと疑問を抱き、彼が大いなる栄誉へ抜擢した寵臣たちの中から五(奉行)を選んだ。(五奉行)は主君なる己が息子(秀頼)のことを特別に面倒を見てやり、また家族のことや、さらには日本全土のことを司って、重要な事項のすべてを(徳川)家康とその四名の同僚に報告させることにした。それゆえ後者の五(奉行)が、日本国の統治者として栄誉ある称号と名前を得ていた。しかし、誰よりも太閤様の寵愛を得ていた(徳川)家康が頭となっていた後者の五(大老)が国家全体の鍵を掌握し、統治権を司っていた。」と記述があります。

 

 イエズス会報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況②に続きます。(作成中)

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ ①【慶長三(1598)年八月】

☆☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ ①☆☆

 

☆目次・参考文献に戻る↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

☆慶長三(1598)年八月

 

〇1日 毛利輝元、「在伏見、秀吉を慰める能興行に招かれ、秀吉に世嗣秀就(松寿丸)との対面を求められる。(『閥閲録』「内藤小源太家文書」)」。(中野等『居所集成・毛利輝元』p230)

〇1日 毛利輝元の元養子であった秀元は、輝元の実子秀就の誕生により毛利家次期当主の地位を失う代わりに、豊臣秀吉から「似合」の給地を分配される事になっていました。(秀元は、秀吉の養女(弟秀長の実娘)婿でもあります。)この日(8月1日)、この給地について秀吉の意向が伝えられます。「その内容は、秀元の給地を出雲・岩見(銀山を除く)とし、隆景旧家臣団及び秀元領となる出雲・石見に給地を有する給人の一部を秀元家臣団に編入する一方、隆景遺領には吉川広家を移すというものであった。

 しかし、この裁定は実行されなかった。なぜならば八月一日の裁定後、秀吉の病状は再び悪化し、八月十八日、この世を去ったからである。」(光成準治①、p240)

〇1日 浅野長政 「8月1日付で発給された甲斐の知行目録では、22万5000石のうち5万5000石が長政分とされた。(『浅野』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

〇4日 筑前の旧小早川秀秋領のうち18万石余の蔵入地の代官も(筆者注:浅野長政に)命じられている。(『浅野』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

〇4日 「8月4日付で浅野長政(長吉から改名)充ての筑前御蔵入目録が発給される(『浅野』)。これは筑前国内九郡を対象としたものであるが、同時に三成にも御蔵入目録が発給されたとみてよい。(中略)すなわち、『西笑』所収の書状案によると、7月下旬には秀吉の遺物分けが進められており、秀吉の死はすでに現実の問題と想定されているようである。したがって、石田三成に続いて浅野長政筑前筑後を代官支配するのは、朝鮮半島からの撤兵を支えるという意味合いが想定される。」(中野等『居所集成・石田三成』p305)

〇4日 イエズス会宣教師のジョアン・ロドリゲスが伏見を来訪。秀吉、ロドリゲスのみに謁見を許す。(小林千草、p156)

イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

(続きを作成中)

〇5日 「重病の床にあった秀吉は、幼い秀頼の将来を、徳川家康上杉景勝毛利輝元宇喜多秀家に、そして利家らに託し(『毛利』)、利家は、慶長3年8月5日付で前田玄以らに対し、秀頼への忠誠を誓う起請文を認めている(『増訂加能』)」(尾下成敏『居所集成・前田利家』p217)

→この日(8月5日)に発出された秀吉の遺言状として、

 1.「太閤様御覚書」(浅野家文書)、

 2.早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案、

 3.豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵) の3つの遺言状があります。

 ただし、桑田忠親氏は、1.「太閤様御覚書」(浅野家文書)の内容について、「七月十五日には、西国の大名は伏見に、東国の大名は大坂に集まり、諸大名立会いの中で、太閤が病床で遺言を述べた。勿論、たどたどしい言葉であったにちがいない。これを秘書が書き留めたのが、次の覚え書きである。」と述べており、七月十五日に秀吉が語った遺言を書き留めた覚書としています。そして「そこで、この遺言に対して、五大老五奉行は、それぞれ、起請文をしたためて、その命令に背かないことを神仏にかけて誓い、これに花押を書き、血判を押したのである。それらの起請文の日付は八月五日付となっている。」としています。(桑田忠親、p289~290、295)

 また、浅野家文書の「太閤様御覚書」は、あくまで後日に書かれた「覚書」であり、リアルタイムに書かれた文書とはいえないかと考えられます。この「覚書」が、秀吉が語った遺言をすべて書き留めているものなのか、という疑問も残ります。

 ☆秀吉の三つの遺言状については、以下参照↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

〇5日 八月五日付で、五奉行が二大老徳川家康前田利家)と起請文を交わす。

 堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』から下記引用。

「秀吉死去直前の慶長三年(一五九八)八月五日、「五大老」と「五奉行」は互いに起請文を交わしている。そこで「五大老」は、秀頼へ忠誠を誓うこと、法度・置目を遵守すること、徒党を作らないことなどを誓っているが、中に「五大老」が知行宛行について誓約している箇条がある。ただし内容は家康とそれ以外の「大老」で異なっている。個々にみていきたい。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人候上、為御分別不被仰付以前ニ、不寄誰ニ御訴訟雖有之、一切不可申次之候、況手前之儀不可申上候、縦被下候共拝領仕間敷事、

これは家康が「五奉行」に差し出した起請文前書の一部である。秀頼成人以前における「知行方之儀」については、どのような者から「御訴訟」-ここでは知行の加増を求める訴えをさすのであろう―があっても家康は決してこれについて「申次」を行わず、ましてや自身の知行などは決して要求しないし、たとえもし知行を与えると言われようとも、これを拝領しないとしている。

これに対して、他の「大老」はどうであったか。

一、御知行方之儀、秀頼様御成人之上、為御分別不被仰付以前ニ、諸家御奉公之浅深二ヨリテ、御訴訟之子細モ有之ハ、公儀御為ニ候条、内府(徳川家康)并長衆五人致相談、多分二付而随其、可有其賞罰候、但、手前之儀者少モ申分無御座事、

 自身の加増は一切要求しないとしている点は同様だが、「御訴訟」があった場合には、「諸家御奉公の浅深」を勘案して家康および「長衆」-ここでは「五奉行」を指す-と相談し、その多数決によって決するとしている。」(堀越祐一、p163~164)

 また、「慶長三年八月五日付で、「五奉行」が徳川家康前田利家の二人の「大老」に宛てた起請文の一節には、

一、御法度・御置目等諸事、今迄之コトタルヘキ儀勿論候、并公事篇之儀、五人トシテ雖相究儀ハ(徳川)家康・(前田)・利家得御意、然上ヲ以急度伺上意可随其事、」(堀越祐一、p179)とあります。

 一見徳川・前田両大老を立てているように見えますがそうではなく、①太閤の定めた御法度・御置目等が(五大老五奉行体制でも)優先される事の確認、②五人で「相究」ることができるのであれば、家康・利家の「御意」を得る必要はなく、五奉行のみで判断できるとした起請文といえます。

→☆武家事紀』にある慶長三年八月起請文一覧(エントリー作成中)

〇6日 五奉行前田玄以長束正家増田長盛石田三成浅野長政)が、八月六日付連署状で「石川光元に対して以前からの代官地の取沙汰を命じ、さらに「重而可被仰付分」についても秀吉が病気であるので朱印は調わないが、物成を運上するように要請している。」(堀越祐一、p184)中野等氏は、「暫定的とはいえ、奉行衆の連署状が秀吉朱印状の機能を代行していると考えてよかろう。秀吉の死を現実のものとし、奉行衆はみずからの連署状の権威上昇を企図したものとも考えられる。」(中野等②、p373)と述べています。

〇7日 「伏見の秀吉が危篤となり長政らに後事を託したとの噂が三宝院義演の耳に入っている。(『義演』)」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)

 中野等氏の『石田三成』より、京都醍醐寺の座主義演の日記(慶長三年八月七日条)を以下に引用。(現代語訳のみ。)

「伝え聞くことに、太閤御所は御病気であり不快という。一大事である。(快癒を)祈念する外にやるべきことはない。(秀吉は)浅野長政(弾正)・増田長盛(右衛門尉)・石田三成(治部少輔)・前田玄以(徳善院)・長束正家(大蔵大夫、正しくは大蔵大輔)の五人を指定し、日本国中のことを申し付けられた。八月六日(昨日)に、この五人の間に婚姻関係を結ぶこととなったという。これは秀吉の意向(御意)であろう。(中野等②、p374)

〇7日・11日 徳川家康、伏見在(家康は、5月1日に伏見に戻り、以後秀吉の発病により伏見に詰めていました。)(相田文三『居所集成・徳川家康』p115)

〇9日 毛利輝元家臣内藤隆春が、八月十九日付で出した書状で、死を目前にした秀吉が大名達と最後の別れをした九日の様子を伝えている。(福田千鶴①、p60~63)

→☆慶長三年八月十九日付内藤隆春書状(引用エントリーは作成中。)

〇9日 「慶長三年八月九日の秀吉と大名衆との対面の席においても、左座に徳川家康前田利家伊達政宗宇喜多秀家とともに(筆者注:毛利)秀元が着座したのに対し、輝元は一人だけ右座に着座しており、秀元は五大老と同格に扱われている。銀山も本銀山、今銀山は秀元に分配されることとなっている。こうしたことを勘案すると、たとえ形式上は輝元から給地分配されるとしても、秀元には実質上独立大名に近い待遇が予定されていたのではなかろうか。」(光成準治②、p22)

〇11日 「「五大老」と「五奉行」は、秀頼への奉公や両者の間に隔心なきことなどを互いに誓約し、起請文を交わした。このうち「五奉行」が「五大老」に出した起請文の一文には「今度被成御定対五人之御奉行衆、不可存隔心候」とあるが、これが「五奉行」が差し出したものということを考えれば、「五人之御奉行衆」とは、「五奉行」ではなく徳川家康ら「五大老」を指し示していることは確実であろう。つまりこの史料は、「五奉行」が「五大老」を「奉行」と呼んだものということになる。」「(堀越祐一、p126)

上杉景勝会津にいますので、少なくともこの場にはいません。)

〇13日 吉川広家は、長門国一国に加え、毛利氏領国内の隆景遺領約五万国のうち、一万石程度を広島堪忍領・上京用として拝領し、残った隆景遺領は秀元領に予定されていた出雲・石見に当時給地を有していた輝元馬廻衆の代替地にするように輝元に提案している。このように一日の秀吉裁定を覆そうという動きがすでに始まっていたが、秀吉の死没後、この問題は単なる毛利氏領国内を越えた国全体の政局変動の中で大きく変動していく。」(光成準治①、p240)

〇13日 後陽成天皇は、気分を悪くし眩暈を起こした。(中略)所司代前田玄以に「くすし(薬師・医者)派遣が求められ、その要請に応えて玄以から「くすし」が派遣された。さらに医者の祥寿院瑞久が脈を診に来、薬を進上した。『御湯殿上日記』のその日の条には「さしたる事にてはなし、めてたし〱」と記されているが、十五日から十九日まで祥寿院瑞久が脈を診に訪れ、十五日、十六日には吉田社から御祓いが届けられたように、その後も後陽成天皇の不調は続いた。」(藤井譲治、p237~238)

〇14日 大坂城移徒(わたまし)の準備も始められ、八月十四日に大坂城の番体制が整えられた。」(福田千鶴①、p68~69)(本丸表門番は宮部継潤、本丸裏門番は小出秀政等々)

〇14日 片桐且元 「秀吉病死直前に定められた「大坂御番之次第」により大坂城詰めとなった。」(藤田恒春『居所集成・片桐且元』p343)

〇17日 宇喜多秀家、参内し、進物を献上。(大西泰正、p42)

〇17日 「秀吉が重篤な病症にあるとの噂(雑説)はすでに市中にも拡がっており、世情は大きく混乱していた。このような喧噪のただなか、八月十七日に浅野長政を加えた「五奉行」は連署して諸大名に書状を発し、家中の取り締まりを令している。この八月十七日付の書状は、これ以降に諸大名の家中が武装して移動すること(対(ママ)兵具懸付(兵具を帯し駆けつけ)候儀)を禁じた。それぞれの大名が自らの屋敷を過剰に警衛することによって、予期せぬ武力衝突が勃発することなどを危惧したのであろう。従って、発見されれば、当事者はいうまでもなく、その主人(諸大名)も罰せられることとなる。この連署状は真田信幸(伊豆守)や分部光嘉(左京亮)充てのものなどが確認されており(『長野県宝 真田家文書(3)』所収二六号文書、大阪城天守閣書所蔵文書)、当時伏見にいた諸大名に同様の連署状が発せられたことが推定される。」(中野等②、p374)

〇17日 秀吉はこの日「当時、東山の大仏殿に安置されていた善光寺如来信濃国善光寺へ返還している。(中略)慶長三年(一五九八)八月十六日の夕方に決定された急な返還だったとのことである[川内二〇〇八]。」(野村玄、p71)

〇18日 豊臣秀吉、伏見で死去。(『舜旧』「太閤死去云々」。)(6月13日から8月18日に死去するまで、秀吉は伏見在住。)(藤井譲治『居所集成・豊臣秀吉』p81・82)

〇18日 「秀吉が伏見城内で逝去した。「高徳公記」によれば、秀吉の遺物配分が利家邸で執り行われている。しかし一次史料では確認できない。」(尾下成敏『居所集成・前田利家』p217)

(慶長三年七月十六日付山口宗永宛西笑承兌書状案によれば、七月十五日に秀吉の形見分けが行われ、諸大名に秀吉が起請文を提出させた、と伝えられている。この時宇喜多秀家は、秀吉から茶器「初花の小壺」を下賜された。(大西、p26))

〇18日 毛利輝元、「秀吉逝去の折は在伏見。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p230)

〇18日 上杉景勝は、秀吉死去時は会津在住。(3月頃に会津入城。)(尾下成敏『居所集成・上杉景勝』p266)

〇18日 「秀吉死去。(筆者注:伊達政宗は)この年も在京。」)(福田千鶴『居所集成・伊達政宗』p281)

〇18日 「秀吉臨終にさいしては、石田三成浅野長政ともに伏見にいたと考えらえる。」(中野等『居所集成・石田三成』p305)

〇18日 「十八日、午刻、太閤(豊臣秀吉薨去、内府公(徳川家康)太閤の御機嫌うかゝひとして御登城の処、石田(三成)治部少方〇使者八十嶋を以て太閤御他界の事申、御登城可被差止の旨なり、」(『戸田左門覚書』)(野村玄、p46)

〇18日 秀吉の死の知らせを受けた家康は、「ただちに嫡子秀忠を江戸に返している。」(「参謀本部編前掲『日本戦史・関ヶ原役』五ページ。」)(笠原和比古、p49・239)

〇19日 五奉行、「淀川の過書船公用の免除と以前の未払い分運上を命じる(谷徹也「納所村役場文書」『史林』九七-四号。)ちなみに、この連署状の書き出しは「為御意令申(ぎょいとしてもうせしめ)候」であり、(筆者注:秀吉の死が秘匿されているため)秀吉の意向をうけての発給であると断っている。」(中野等②、p375)

〇20日 五奉行、「東寺役者中に宛てて連署状を発し、北政所が東寺の堂舎再建を命じ、木食応其に造営奉行を任じたことを告げている。(「東寺蔵」、ここでは和歌山県立博物館特別展図録『木食応其』所蔵写真に拠る。)」(中野等②、p375)

〇21日、24日 徳川家康、伏見在(相田文三『居所集成・徳川家康』p115)

〇22日 五奉行、「慶長二年夏頃から進めてきた田方麦年貢の賦課撤廃を命じる」(中野等②、p375~376)→朝鮮出兵の戦費捻出のための増税賦課(田方麦年貢)だったと考えられるので、秀吉死去に伴い朝鮮撤兵が規定路線となったため、増税も撤廃されたという事になったと考えられます。

〇25日 「奉行人連署で朝鮮との和議の書状が発給されている(同日付徳永寿昌等宛長政等書状『島津』)。」(相田文三『居所集成・浅野長政』p326)この書状を携え、徳永寿昌・宮木豊盛が朝鮮の陣営に赴く。(中野等①、p350~358)

☆慶長三年八月二十八日付秀吉朱印状(秀吉の死は秘匿されているため、秀吉の朱印状と奉行衆の副状という形をとりました。)(エントリー作成中)

〇28日 毛利輝元は、「同月28日付で増田長盛石田三成ら奉行衆に起請文を提出しており、在伏見と考えられる。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p230・231)

☆慶長三年八月二十八日付四奉行(石田・増田・長束・前田)宛毛利輝元起請文(エントリー作成中。)

「同日、宇喜多秀家前田利家徳川家康らと在朝鮮将兵の撤退に関する連署状を発す(『黒田』)ちなみに、上洛の途次にあった嗣子松寿丸は備後鞆で訃報を受け、ここから引き返し9月1日広島へ到着。」(中野等『居所集成・毛利輝元』p231)

(1日の項で、輝元が秀吉に世子秀成(松寿丸)との対面を求められている事項を参照。)

〇28日 「上杉景勝を除く家康ら「大老」は、朝鮮在陣中の諸将に充てて、八月二十八日付で連署状を発する。この連署状で、将兵の帰還を迎えるため、毛利秀元浅野長政石田三成を博多へ下向させることを告げている。」(中野等②、p376)

☆慶長三年八月二十八日付黒田長政宛四大老(輝元・秀家・利家・家康)連署(エントリー作成中)

〇29日 醍醐寺三宝印座主の義演は、八月二十九日に秀吉の息災祈祷を依頼され、翌九月から毎月、秀頼の誕生日の三日にあわせて息災祈祷を行い、巻数(かんじゅ)を献上するのが恒例となった。」(福田千鶴①、p68)

 

コメント

1.慶長三(1598)年八月十八日の秀吉死去時に、五大老五奉行のうち、四大老徳川家康前田利家毛利輝元宇喜多秀家)と五奉行全員(前田玄以浅野長政増田長盛石田三成)は伏見在住だったと考えられます。

  会津在住で、当時伏見に不在だったのは大老上杉景勝のみです。上杉景勝は慶長三年三月に伏見を発ち新しい転封先の会津に向かいます。そして、秀吉死去の報を受け、9月に会津を出立して、10月7日頃、伏見に到着します。(尾下成敏『居所集成・上杉景勝』p266)

2.秀吉死去直後の最大の懸案事項は、朝鮮撤兵問題でした。不和とされる五大老五奉行間においても、緊急に共同で対処しなければいけない重大的な危機である、という共通の認識があり、また、五大老五奉行の間では「秀吉が死去したら即時朝鮮撤兵」という事は、既定事項・暗黙の了解事項として共有されていたと考えられます。

3.この時期に秀吉の「遺言」が(複数)出され、また大名間の起請文の取り交わしが複数行われます。秀吉の発した具体的な遺言はほとんどが秀吉が口頭で言った事を聞き取ったものであり「豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)」を除き、書かれた「遺言書」ではありません。

 唯一秀吉が自筆で書いた、豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)」は短く簡潔なものであり、具体性を欠いた遺言といえます。

 おそらく、対面した人物によって秀吉の言っていることは微妙に違っていたのではないかという事が考えられます。また、特に本人にのみ関わる事項については本人に対してしか言わず、他の大老には伝えていなかった場合もあると推測されます。

大老は聞いておらず)奉行衆のみが聞いている秀吉の「遺言」も存在する可能性があります。

4.「五大老」は当時の呼称ではありませんが(当時定まった呼称はなく、あえてつけるのなら秀吉直筆遺言の「五人の衆」になります)、呼称として定着していますのでこのまま使用します。

5.慶長3年8月5日付の早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案に、一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事」とあり、福田千鶴氏は、「秀吉の構想としては、遺言で諸大名の妻子を大坂に移させたように、最終的には秀頼のいる大坂城を首都化することを考えていた(「豊臣政権と首都」)。」(福田千鶴②、p163)としています。

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献

慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献

 

・以下に記載する、一連のエントリーは、慶長三(1598)年8月豊臣秀吉死去の頃から、慶長五(1600)年9月関ヶ原の戦いの頃までの主要人物の行動や発出された書状等について時系列にまとめる。

・タイトルを「慶長争乱」としたのは、慶長五(1600)年九月十五日関ヶ原の戦いを単独の戦いとしてとらえるのではなく、それ以前の豊臣秀吉の死去時からの動きを一連のものとして見ていかなければ、この慶長年間に起こった争乱の全体像がつかめないと考えたためである。

・エントリーは月毎とする。

・新史料・資料等があれば、随時更新する。

 

☆☆目次☆☆

 ① 慶長三(1598)年八月 

(以下、作成中)

 

関連エントリー(戦国時代 考察 目次)↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

☆☆参考文献☆☆

(参考文献は目次欄(本エントリー)で列挙し、個々のエントリーには掲載しませんので、よろしくお願いします。)

◇藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年(エントリーでは、参照元は、著者『居所集成・〇〇〇〇、p〇〇』と記します。)

 『織豊期主要人物居所集成』各項目の執筆者

豊臣秀吉天正10年6月2日以降)(藤井譲治)、徳川家康天正10年6月2日以降)(相田文三)、前田利家(尾下成敏)、毛利輝元(慶長5年9月14日以前)(中野等)、上杉景勝(尾下成敏)、伊達政宗福田千鶴)、石田三成(中野等)、浅野長政(相田文三)、片桐且元(藤田恒春)

◇大西泰正『「大老宇喜多秀家とその家臣団 続 豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2012年)

笠谷和比古関ヶ原合戦 家康の戦略と幕藩体制講談社学術文庫、2008年(1994初出)

桑田忠親『太閤の手紙』講談社学術文庫、2006年(1959年初出)

◇小林千草淀殿 戦国を終焉させた女』洋泉社、2017年

◇中野等①『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

◇中野等②『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

◇野村玄『豊国大明神の誕生 変えられた秀吉の遺言』平凡社、2018年

福田千鶴①『豊臣秀頼吉川弘文館、2014年

福田千鶴②『ミネルヴァ日本評伝選 淀殿-われ太閤の妻となりて-』ミネルヴァ書房、2007年

◇藤井譲治『天皇の歴史5 天皇と天下人』講談社学術文庫、2018年(2011年初出)

◇堀越佑一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

光成準治①『ミネルヴァ日本評伝選 毛利輝元-西国の儀任せ置かるの由候-』ミネルヴァ書状、2016年

光成準治②『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』角川ソフィア文庫、2018年(2009年初出)

 

佐竹義宣と石田三成について④~関ヶ原合戦、秋田にある石田三成の墓

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

※以前のエントリーです。↓

佐竹義宣と石田三成について① 

佐竹義宣と石田三成について②~宇都宮国綱改易事件 

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

 

1.佐竹氏と関ヶ原合戦

 

(以下の文章は、森木悠介氏の「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収)を参照しています。)

 

 慶長五(1600)年六月、徳川家康は、会津上杉景勝に謀反の疑いをかけ、豊臣秀頼の名のもとに上杉征討軍を率いて東征の途につきます。

 家康不在となった上方で、三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)は、七月十七日「内府違いの条々」を発出し家康を弾劾して、家康を討つべく西軍が挙兵します。

 

 佐竹義宣は、七月十五日に軍法を発し、当初の秀頼の命令に従い出陣したものの、同二十三日、三成からの連絡があったのか、三成へ飛脚を派遣し、進軍を停止します。

 家康は、佐竹氏に人質の提出を求めますが、義宣はこれを拒絶、上杉氏に援兵を求めます。八月中旬には上杉氏と何らかの軍事協定を結びます。

 しかし、上杉氏の関東乱入も行われない中、単独で佐竹氏は動きようもなく、また内部にも親徳川勢力もあり足並みも乱れ、軍事行動を取ることができませんでした。

 結局佐竹氏は、西軍としても、東軍としても戦うことのないまま、慶長五年の天下分け目の戦いは九月十五日の関ヶ原の戦いで、東軍の勝利で終わることとなります。

 慶長七(1602)年五月、義宣は家康から出羽国への減転封を命じられます。これは、慶長五年戦役時の徳川軍への非協力的態度を咎められたことによります。

 義宣は、新領地秋田へ向かい、新領国の整備に努め、近世大名秋田藩佐竹氏・約二十万五八〇〇石の礎を築くことになります。佐竹氏は秋田藩の大名として明治維新まで続きました。

 

2.秋田にある石田三成の墓

 

(以下の文章は、佐藤誠氏の「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)を参照しています。)

 秋田県石田三成のものと伝わる墓が現存しているといいます。秋田県秋田市八橋(やばせ)にある帰命寺の本堂の近くにある紡錘形の墓碑がそれとされます。

 

 佐藤氏によりますと、この墓の由来については明治中期に近藤源八によって書かれた『羽陰温故誌』に以下のように記載されているとのことです。

 

「寺僧ノ曰、三成関ヶ原一戦二負ケ生捕リトナリ刑ニ処セラレシト雖左ニアラス。刑場ヲ脱シテ佐竹家ニ潜伏ス。後剃髪シテ念仏ノ行者トナリ、生キナカラ穴ニ入リ、鉦鈷ノ音絶ヘナハ我死セリト思ヘト、終ニ往生ノ素懐ヲ遂ケタリト。故二土俗称シテ穴入リ開山ト云々。」(*1)

 

 また、『羽陰温故誌』には、三成が出羽に落ち延びる際に、秋田藩佐竹義宣の関与があったことを暗に示唆する以下の記述があります。

「藩祖義宣公雄略義胆ノ名将如何ナル智謀ヲ以テ彼ノ末路ヲ全フセシメルヤモ知ル可カラス。」(*2)

 

 もっとも、帰命寺の開祖である長音上人は、供養塔の記載によると、延宝六(1679)年に79歳(又は77歳)で死去したとあり、石田三成が延宝六年まで生きていたとすると、百二十歳ということになり、とても常識では考えられないとのことです。

 三成研究で著名な白川亨氏もまた、長音上人の生きた時代と三成生存説とでは年代が合わないとし、無理を承知で関連づけるならば、年代的には三成の弟の子とでも位置づけられるのではないかとも述べています。(*3)

 

 上記の話からは外れますが、佐竹義宣の築いた久保田城跡は、現在千秋公園となっており、その一角に宣庵という茶室があります。その宣庵の庭に、三成ゆかりの舟型の手水鉢が残されています。この手水鉢は朝鮮の役の時に加藤清正の家臣が朝鮮から持ち帰り秀吉に献上したもので、その後いかなる故あってか三成の計らいで佐竹家にもたらされたものと伝わっています。(*4)

 

 秋田の三成の墓は「伝説」の類と思われますが、佐竹義宣石田三成の親交を偲ばせる「伝説」といえるでしょう。

 

 注

(*1)佐藤誠 2016年、p91

(*2)佐藤誠 2016年、p93

(*3)佐藤誠 2016年、p94~95

(*4)佐藤誠 2016年、p96

 

 参考文献

・森木悠介「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収

佐藤誠「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)

結城秀康と石田三成と石田切込正宗

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が死去し、その翌日の四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は結着します。

 

(七将襲撃事件の黒幕は、徳川家康その人であり、当時からそのように認識されていたことについては、下記で書きました。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 三成が伏見から佐和山に隠遁する際に、七将が途中で三成を襲撃することが懸念されたため、家康は次男秀康に「護衛」を命じています。しかし、「護衛」といいますが、上のエントリーで書いた通り、当時から七将襲撃事件のそもそもの黒幕と家康は目されていますので、家康の息子である秀康が三成の佐和山行を「護衛」するといっても、それは「送り狼」そのもので、全く「護衛」の意味がないのですね。むしろ、その「護衛」に殺されかねないので、何の安心もできないことになります。

 

 ここで、堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』に以下の記述があります。

「閏三月六日、三成は子息を家康の元に送っている。当然人質であろうが、一方で『多聞院日記』慶長四年閏三月十一日条には「石田治部佐保山(佐和山)ヘ家康子人質ニ取置候て城ヘハイリ候」とあって、家康もまた実子を三成の元へ送ったとされる。となれば、相互に人質を交換したということになる。』(*1)(太字・下線部筆者)

 ただし、堀越氏は「もっとも『多聞院日記』は誤った情報も多く記されているから、これをすぐに信じるのは危険だが」(*2)とも書いていますが、他に『十六・七世紀イエズス会日本報告集』にも、

「彼(筆者注:徳川家康)は軍勢を率いてそこ(筆者注:伏見城)へ到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約束した。すなわち(石田)治部少輔は、これまで帯びていた官職を捨てた身分に落とされ、今後は国家統治の任を離れ、己がすべての軍勢とともに自領である近江の国にずっと引き籠っているように、と。このために両派の中の諸侯たちの間で調停が行われ、(石田)治部少輔が、彼らの間の安定した友情の人質として家康の幼童とともに自分の邸へ帰る時、(小西)アゴスチイノ(筆者注:小西行長)は連れ立って行くことを望んだ。(後略)(筆者注:この行長の望みは三成の反対(行長を慮ってのことでしょう)によって実現しなかったようです。)」(1599年度年報、ヴァリニヤーノ師による)(*3)(太字・下線部筆者)

 と、家康方の人質の存在が記載されており、これらの史料を信用するならば、やはり三成の伏見城退去、佐和山城隠遁に伴い、三成と家康との間で人質の取り交わしがあったと考えるのが妥当です。

 このように、三成と家康は相互に人質を交換している訳です。七将襲撃事件で三成方が交渉して、人質を交換している相手は家康であり「七将」ではありません。

 これは、七将襲撃の黒幕・首謀者が家康だということが、三成も含む当時のすべての武将から分かり切っていることだったからです。

 

 人質のうち三成方の人質は、三成の嫡男重家のことだと思われます。この時の人質は、後の前田利長家康暗殺未遂疑惑事件の時と違って、江戸に送られたわけではありませんので、恒常的なものではなく、三成が家康の「裁定」による指示通りにおとなしく佐和山に行くことを保証するために、家康に預けられた「一時的な」人質と考えられます。

 その後、重家は隠遁した三成に代わって「石田家当主」として大阪城の秀頼に奉公する形になったと考えられます。

 もう一方の家康方の人質ですが、この人質こそが家康の次男である結城秀康と考えられます。つまり、秀康は三成の「護衛」ではなく、三成が伏見から佐和山まで行く道中に家康方の襲撃を受けないことを家康が保証するための一時的な「人質」として、三成に同行したのだといえます。(当時の秀康の年齢はかぞえで26歳、これに対して『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には「家康の幼童」とあり、年齢が合いませんが、他に該当する人物が見当たらないため、「幼童」というのは、イエズス会の記述者の誤認識だと思われます。)

 

「人質」だった秀康が、後に「護衛」とされたのは、今回の七将襲撃事件を表面上「豊臣家中の内輪もめを、善意・中立的な仲裁役である家康が裁定する」(これは虚構のストーリーであり、当時の誰も信じていなかった訳ですが)という形に卑小化して大事にせず処理する方法が、家康方も反家康方も都合が良かったからでした。

 (これは、このまま妥協せず両者が対立を続ければ、結局は家康方と反家康方の大戦争になってしまうからであり、この時点では戦争は回避したいのが両者の思惑でした。

 しかし、結局この七将襲撃事件の両者の取引による結着は一時的な戦争回避に過ぎず、翌年(慶長五(1600)年)、家康方と反家康方の大戦争になります。)

 

◇                  ◇                 ◇

 

 結城秀康は、天正二(1574)年二月八日徳川家康の次男として生まれます。幼名を於義丸といいます。天正十二年(1584年)十二月十二日、豊臣家と徳川家の和睦条件として人質(羽柴秀吉の養子という扱いですが)として、三河から大坂に行きます。

 この人質生活の頃、秀康と石田三成との親交があったのではないかと思われます。秀康は親交のある三成を守るために、あえて自ら道中の安全を保障する「人質」役を買って出たのかもしれません。

 秀康は近江瀬田まで三成と同行して、迎えに来た三成の家臣に引き継いでいます。三成はここで領内に入ったので、秀康にその後の見送りを辞退し、これで秀康の「人質=護衛」役は終了します。わざわざ「人質=護衛」として命を張って三成を守ってくれた秀康に三成は感謝し、別れに際して秀康に対して礼を述べて、自らの佩刀「正宗の銘刀」を秀康に送っています。(*4)この正宗の銘刀は、棟に二ヶ所大きな切込疵があることから「切込正宗」ともいわれます。

 秀康は、この正宗の銘刀を「石田正宗」と名付け、生涯愛用したといいます。秀康死後は、子孫の津山松平家に伝わりました。現在は東京国立博物館に所蔵されています。

 

 結城秀康が、三成に対して返礼のために贈ったのが、お抱え刀工「越前康継」作の次の銘刀です。

 

「越前康継の銘刀

一、刻銘(表面)「以南蛮鉄越前康継作之」

二、刻銘(裏面)「為石田治部少輔」の刻印(外崎覚氏宛、岩木山神社宮司山田稲城氏書簡、銘刀の拓本も現存する。) 

 明治以降、杉山燾之進氏(筆者注:三成の子孫の方です)が津軽藩校東奥義塾再建資金捻出のため白取家に担保提供し、杉山家には現存しない。ただ、その拓本が弘前図書館に残されている。(『温故志林』)。

 越前康継は松平秀康没後、徳川家康の御抱え刀工となり、葵康継の称銘を許された著名な刀工である。」(*5)

 

結城秀康が七将襲撃事件の時、「護衛」ではなく、「人質」として三成に同行したというのは、筆者の推測によるものですので、よろしくお願いします。)

 

 注

(*1)堀越祐一 2016年、p215

(*2)堀越祐一 2016年、p215

(*3)松田毅一 1988年、p123~124

(*4)白川亨 2009年、p127

(*5)白川亨 2009年、p127~128

 

 参考文献

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第3巻』同朋舎出版、1988年

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

※以前のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 

 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が死去し、その翌日の四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

(七将襲撃事件の黒幕は、徳川家康その人であり、当時からそのように認識されていたことについては、下記で書きました。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 石田三成が大坂から伏見へ逃げる際に、以前より親密な関係にある佐竹義宣の助力がありました。渡部景一氏の『佐竹物語』より引用します。

 

「『佐竹義宣譜』によると、義宣が三日の夜(筆者注:諸書では、七将襲撃事件は閏三月四日となっていますが、ここでは三日となっています。)に伏見の屋敷で急報を受けたとき、相馬義胤と一門東義久が同席していた。急遽二人を大坂に走らせ、自分もあとから馬で駆けつけた。義宣は、三成をひそかに女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃したが(筆者注:三成はこの後に伏見に移り、伏見城内の治部少丸に籠ります。)、それでも危険を感じて、伏見の家康の屋敷に保護を求めた。(筆者注:義宣以外にも、大谷吉継北政所が家康に「仲裁」を求めていますが、これは家康自身がこの襲撃事件の首謀者であることを暗に理解した上での、互いに知らぬふりをした茶番劇です。)それほど緊迫した情勢であったと思える。

 まもなく七将が追いついて、三成の引渡しを求めたが、家康にさとされ、危期をまぬがれた。家康はまもなく、三成の居城佐和山城に届け、騒動の責任をとらせて職掌をとき、蟄居を命じた。三成はこれで中央政界から失脚した。

 この事件直後、古田織部重勝が義宣を訪ねて、家康に釈明するよう忠告した。重勝は松坂の城主で、義宣の茶の湯の師匠である。

 そのとき義宣がいうには、自分はもとより諸将にうらみはない。三成が公命にそむいたこともないのに、諸将は私情で三成を討とうとする。自分はかつて三成に恩を受けた。今かれの危急をみて、命にかけて救っただけである。このことを家康に謝すのがよいとすれば、御辺よきにはかられよと答えた。

 重勝は、義宣のとりなし方を、茶友の細川忠興(筆者注:細川忠興は、七将襲撃事件の七将の一人です。)に頼んだ。忠興の話を聞いた家康は、義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義というべきである。自分には異存はないと答えたという。

 その後、義宣は、家康を伏見の向島の邸に訪ねて、右の事情を釈明した。

 久保田藩士山方泰純の『秋藩紀年』に「閏四月、義宣公故有テ神君(家康)ノ向島ノ亭江御出、神君モ又、秀忠公御名代ニシテ義宣公ノ御殿ニ御出」とあるのはこのことを指している。ただし、閏四月とあるのは、閏三月の誤りである。また、秀忠が義宣を訪ねたことは、『佐竹家譜』にもあるが、当時秀忠は江戸にあったはずであるから、誤伝ではないかと思われる。あるいは使者の派遣であったものか。」(渡部景一『佐竹物語』無明舎出版、1980年)

 

 佐竹義宣が三成の危急を救う事に、なぜ家康への釈明が必要だと重勝は考えたのでしょうか。なぜ、家康への取り成しに七将襲撃事件の襲撃者の一人である細川忠興が登場してくるのでしょうか。

 これらの記述からも、徳川家康が七将襲撃事件における、善意の中立的な仲裁者ということはありえず、事件の首謀者その人であり、当時においても皆からそのように認識されていたことが分かります。

島井宗室と石田三成について

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 島井宗室(天文八(1539)年~元和元(1615))は、戦後時代後期から徳川初期にかけて活躍した博多の豪商です。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれます。

 織田信長の死後、島井宗室は豊臣秀吉の保護を得て、畿内-博多-南蛮・朝鮮の交易路を築き、貿易品の取引で巨万の富を得ます。

 

 秀吉が朝鮮出兵を企図すると、宗室はこれを阻止するため、同じく出兵反対派である(対馬の大名)宗義智小西行長石田三成と協力して、渡海して朝鮮との交渉にあたり戦争の回避を図るよう折衝を行いましたが、結局この交渉は秀吉の容れるところとはならず、秀吉は諸大名に朝鮮へ出兵を号令し文録元(1592)年、文禄の役がはじまることになります。

 

 この頃の宗室の逸話について、田中健夫氏の『島井宗室』より引用します。

 

「ここで、余談にわたるが、朝鮮役の勃発にあたって宗室が示した態度に関する逸話を紹介しておこう。享保年間鶴田自反の撰した『博多記』に見える次のような話である。

 秀吉公が大坂の城から島井宗室をおよびになられたので、夜を日についでのぼったところ、大坂の淀川口で石田三成が出迎えた。三成が宗室に言うには、「今度そなたをおよびになられたのは、朝鮮出兵の思召しによるもので、其方は朝鮮にも毎度渡海しているので、くわしい様子をお尋ねになられるだろう。そのときはこのように申し上げよ。」といちいち言いふくめられた。秀吉公に御対面したところ、「朝鮮出兵を思い立ったので其方を呼んだ、知っている通りを述べよ。」という御言葉であった。宗室は、「朝鮮は韃靼(満洲)につづき、要害の地であって、日本とは大変様子が違っている。出兵のことは断念した方がよいでしょう。」と三成が教えた通りを申し上げた。秀吉公は大変機嫌を悪くして、「自分が思い立てば唐土四百余州を攻め潰すことも掌(たなごころ)を反すように簡単なことである。其方は商人故それがわからないのだ。」と仰せられ、奥に入られてしまった。このことがあってのち宗室は秀吉公からうとんぜられるようになってしまった。」(*1)とあります。

 

 石田三成と島井宗室は仲が親しく、三成が博多を訪れた時は宗室の屋敷を居所としていました。また、後に三成が筑前の代官を務めた時は、宗室は蔵入地の百姓等と代官三成の中間に立って大いに奔走するところがあったとされます。(*2)

 

 注

(*1)田中健夫 1961年、p158~159

(*2)田中健夫 1961年、p177~182

 

 参考文献

田中健夫『島井宗室』吉川弘文館、1961年