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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

【小説】ビルドアンドビルド

 ガイドは、その城の城門の前で説明を始めた。とてつもなく高い城壁と城門だった。城門を見上げながら、我々はその高さに圧倒された。

 

「今から300年以上昔になりますが、この国の周辺諸国をも征服して一大王国を築いた国王〇〇1世は、この地に都を移して、宮殿を築きました。

 王は年を取るにつれ猜疑心が深まり、今は従っている諸侯に裏切られるのではないか、部下に寝首をかかれるのではないかと疑心暗鬼になりました。

 とりわけ、ある信頼していた部下が王の暗殺計画を立てていた事件が露見し、王は人間不信に陥りました。

 そこで、王は宮殿の周りに高い城壁を作りました。いつ敵に攻められても守ることができるようにです。その城壁ができると、その外側に城壁を作らせました。それが終われば、更にその外に城壁を作らせました。こうして、城壁は次々と作られ、現在のように47もの城壁がこの宮殿を取り囲んでいます」

「しかも」ここで、ガイドは言葉を切って、ツアー客の面々を見渡した。

「見てのとおり、この城壁を作る工事は今でも続いているのです」

 その通りだった。それから300年以上たった今でも、48番目の城壁が新たに作られている。

 城壁を作るための石材を運ぶ業者たちの姿を我々はよく見ていた。

「今でも〇〇1世は、この城壁の奥深いところにある宮殿に住んでいると言われます。そして、城壁を作り続けるように命令しているのです」とガイドはちょっとおどけたように言う。観光客の一人が質問した。

「ええ?今王様が生きているとしたら、何歳なんですか?」

「そうですね。380歳になるはずです。」

 観光客は皆笑い出した。

「王様は、城壁を作り出すと、宮殿の奥深くに一人で暮らすようになりました。王妃は既に亡くなり、王子は2人いましたが、彼らにすら王様は気を許しませんでした。王様は信頼できる召使1人のみ目通しを許し、長年の友であった執政に政治をゆだねました。王様にとって幸運だったのは、この2人は王様を裏切ることはなかったのでした」

「そして、王様は80歳で亡くなりました」とガイドは事もなげに言う。あれ、さっき王様はまだ生きているって言っていなかったっけ?

「その死は伏せられ、現在でも王様は生きていることになっています。そして、王様の命令は「城壁を作り続けよ」ということでした。この国では、王様は今でも生きていることになっていますので、この命令は今でも有効です。そして、城壁は永遠に作り続けられているのです」

「奇妙な儀式がこの国にはあるとのことです。1日に3度、王の食事が宮殿に向けて運ばれていくとの伝説です。見たことがあるという人も聞きますが、実際に聞いてみると、知り合いの知り合いから聞いた噂話だという話にすぎません」とガイドは言う。

 

 既に300年も前に亡くなっているはずの国王の命令に縛られて、この国の城壁は作られ続けている。この王国は、王が亡くなったとされるあたりから、周辺の諸国の反乱や独立が相次ぎ、結局はじめにこの王家が支配していた程度の小国に戻ってしまった。そして、100年過ぎると王家の血筋も絶えてしまう。王家は不運なことに子宝に恵まれなかった。もっとも王様は生きていることになっているのだから、王の子や孫は結局王を名乗ることはできなかったのだが。

 かくして、王家は絶えたのに、どう考えても死んでいる王は生き続け、王国は存続した。執政とその子孫が、この国を支え続けた。

 

 この幾重にも重なる城壁に私はとりつかれた気分になった。そうだ、この城は王の心の中なのだ。妄執にかられた王の心の中を我々は歩いているのだ。

 ガイドの目を盗んで、私は一人で城の中へ、奥へ入っていた。

 12番目の壁の近くに来た時に私は、警戒が非常に厳しくなったのを感じた。衛兵の数が多い。やばいな、と思って戻ろうとしたところで、私はたちまち衛兵に見つかり取り囲まれた。彼らは私の知らない、おそらくはその国の言葉で怒鳴りながら銃を突きつけた。

 そこへ、ガイドが血相を変えてやってきて、衛兵の隊長らしき人に必死になって弁解した。そのまま拘束されるかと思ったが、ガイドの弁解が功を奏したしたらしく放免してくれた。ただし、13番目の壁の外までしっかりと護送されたが。

 ガイドは、「死にたいんですか、あなた?」と言った。

「誰にも、人には覗かれたくない聖域があるのです。ましてや、国王ならば。

 衛兵たちはそれを守っているんです」

 そして「はじめに、内城に行ってはいけないと、きつく言いましたよね」と言った。

 だからこそ、行ってみたかったんだと言うわけにはいかなかったので、黙って私はうなずいた。

「私は、あなたのせいでガイドの免許を剥奪されるかもしれません」

「それは悪かった」

「まあ、その時は訴えますので」

と言うと、ガイドはすたすた歩き始めて振り返っていった。

「こんなところ、早く出ましょう」

 いや、私はもっと奥に行きたかったのだ。行って王の心の中を覗きたかったのだ。誰にも踏み入らせない心の聖域とやらを見たかったのだ。命をかけて?いや、別にそれほどでもない。だから、私はすごすごと帰った。

 外に出ると城壁の工事が続いているのが見えた。もう死んだはずの王の命令に縛られて、この国の国民は延々と城壁を作り続けている。ビルドアンドビルド。結構なことだ。私は、一介の旅人にすぎない。しかし、王の心の中の迷宮は私をとらえるものがあった。それは、私だけではないのだろう。だから、他にたいして観光資源のないこの国の城壁を見に、私のような観光客がひっきりなしに来るのだ。

 ただ、これ以上心をとらえられる前に、帰るのが賢明だろう。

 城壁はいつまで作り続けられるのだろう。私は、なんとなくうらやましく思った。誰に対してかは、よく分からない。

「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」について。

※以下は、村上春樹「4月のある朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和講談社文庫、1986年所収)の感想です。

 

 この作品はタイトルだけで既に完結しているといってよい。このタイトルだけで純粋にまじりけなく完璧なものだ。これは、ある種の物語の原型である。この村上春樹氏の短編も、その原型から無限に発生するひとつのバージョンを切りとってデッサンしたものにすぎない。

 

 この原型の世界に恋い焦がれて、ある種の作者たちは物語を紡ぎ始める。たとえば新海誠さんの作品のその原型はひとつであるし、スピッツ草野マサムネさんも語っていることはひとつの世界である。

 

 その物語は「昔々」で始まるのかもしれないし、「ある晴れた昨日の朝だった」かもしれないし、「今から遠い未来」かもしれない。

 

 終わりは「悲しい話だと思いませんか」かもしれないし、「めでたし、めでたし」かもしれない。(ただ、「悲しい話だと思いませんか」の方が多いのかもしれない。そのほうが「リアリティ」があるのかもしれない。)

 

 この物語の表層は千変万化し、変遷し、伝えられる。古今東西の作者が、この物語を語り続けてきた。これからもバージョンを変えて多くの語り手に語り継がれることになるだろう。

村上春樹『騎士団長殺し』読了。

 ※コメント欄はネタバレ開放にしますので、ご注意願います。

 

 村上春樹『騎士団長殺し』新潮社を読了しました。

 

 感想というほどでもないのですが、初読で思ったことは、この小説は「謎解き」や「深読み」を(作者の意思として)拒否している小説だなーと思いました。過去の村上春樹の小説は(別に「謎解き」や「深読み」を作者が期待している訳ではないのでしょうが)、実際には「謎解き」を誘発するつくりになっていました。

 

 しかし、今回の作品は「『謎』は『謎』のままで、『イデア』に昇華させるか、『遷ろうメタファー』(『遷ろう』とはメタファーが変遷して多義的となっているという意味です)にしよう」という作者の姿勢が明確化しているような気がします。それこそが本作品の作者のテーマともいえます。そうやって人生を過ごしていくべきだという、作者の価値観の表明といえるのかもしれません。それ以外の部分は過去作品に比べると親切すぎるほど解説している。

 

 こういった作品に対して、「謎解き書評」をするのは、かなり野暮な話なので「謎解き書評」以外書くことがない私としては、現時点では正直何も書くことがないのですね。

 

 また再読してみて書くことがあれば書いてみたいと思います。(何か質問があればコメント欄にコメント願います。)よろしくお願いします。

 

村上春樹作品の過去の批評については、下記をご覧ください。↓

sonhakuhu23.hatenadiary.jp

豊臣秀次切腹事件の真相について⑨~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(下)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

※前回のエントリーです。↓

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 最後に、秀次家臣の保護に奔走する石田三成の動きについて検討します。

 

 秀次切腹事件においては、多くの秀次家臣達が連座させられ、切腹に追い込まれました。その中で三成は秀次の家臣を保護しました。

 豊臣秀次には配下に「若江八人衆」と呼ばれる重臣がいましたが、石田三成はその「若江八人衆」の大部分を匿い、自らの臣下に引き受けています。

 

 三成に召し抱えられた「若江八人衆」のうち、舞兵庫は、秀次の後見役であった前野長康の娘婿です。初めは前野忠康と名乗っていました(通称は前野兵庫助)。前野長康は秀次事件の際に連座して、切腹に追い込まれています。秀次の死後、忠康は舞に姓を変え、三成に五千石の高禄で召し抱えられます。その後、関ヶ原の戦いで先鋒として活躍するも討ち死にしたといわれます。(*1)

 

 その他の「若江八人衆」のうち、大山伯耆、森九兵衛、大場土佐、高野越中、牧野成里は、三成に家臣として召し抱えられ、いずれも関ヶ原の戦いで奮戦します。残る「若江八人衆」のうち、安井喜内前田玄以、のちに浅野幸長に仕え、藤堂玄蕃藤堂高虎の従兄弟)は、藤堂高虎に仕えています。

「若江八人衆」のうち、六人が三成の家臣となり関ヶ原の戦いで三成と共に戦ったということなります。(*2)

 

 これまで見てきたように、石田三成ら奉行衆は秀次事件についてはなるべく穏便な処理にとどめようとして事態の収拾をはかっており、想定外の秀次切腹後も三成は秀次の家臣の保護のために奔走しました。秀次切腹事件を三成ら奉行衆の企みとする俗説がありますが、そうした俗説は誤りであることは明らかでしょう。

 

 注

(*1)石田世一 2016年、p158~160

(*2)石田世一 2016年、p163

 

 参考文献

石田世一「第十章 舞兵庫 三成に恩義を感じて奮戦した武将」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)

豊臣秀次切腹事件の真相について⑧~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(中)

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 今回は、豊臣秀次切腹後における石田三成の動向を見ていきます。

 

(1)文禄4(1595)年7月20日付血判起請文の作成

 

 7月15日に豊臣秀次切腹した後、7月20日に豊臣政権内ではじめて大きな動きがみられます。

 

 第一に、諸大名の血判起請文が、7月20日付で複数作成されたことです。特に、織田信雄以下二十七名連署による血判起請文が20日付で作成されています。

 この起請文は七月十二日付の石田三成増田長盛の起請文とは大きく異なり、起請文の作成方針が「個別」から「集団」へと変化しています。

 矢部健太郎氏は、「こうした変化を理解するためには、七月十二日からこの日までの間に、当初の予定を変化させるような「何か」が発生した、とするのが自然である。その間に起こった最大の事件が「秀次切腹」であることは衆目の一致するところだろう。」(*1)としています。

 

 つまり、「秀次切腹」という想定外の事件を受けて、急遽諸大名から一斉に起請文を集め、動揺した豊臣政権の引き締めを図る必要があったということです。

 この時に在国していた大名もいましたので、必ずしも7月20日にすべての諸大名が起請文を血判した訳ではありません。たとえば、徳川家康は7月20日にはまだ遠江におり、上杉景勝が秀吉と対面したのは8月4日でした。いずれにせよ、「秀次切腹」という急変事態に対処するために、諸大名に急遽上洛が秀吉によって指示されることになりました。(*2) 

 

(2)文禄4(1595)年7月20日付秀次遺領配分案

 

 第二に、秀次の遺領配分案が出されたことです。

 この遺領配分案(『佐竹家旧記』)で特徴的なのは、この7月20日付秀次遺領配分案では、秀次遺領で最も多い尾張清洲21万石が石田三成の所領に予定されていたことです。しかし、実際には三成は清州に移らず、佐和山に留まり、10万石から19万4千石に加増されます。清州21万石は、福島正則に与えられることになります。

 矢部健太郎氏は、「このことをみると、①当初の遺領配分案作成に三成は関与していなかったこと、②三成が承服しなかったために当初案が変更されたこと、以上の二点が明らかになる。」としています。

 そして、三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、尾張清洲二十一万石の配分は、当初案の冒頭に掲げられた最大の領域であった。それはすなわち、この地を与えられた者こそが「秀次事件」最大の功労者である、という世上の評判につながってこよう。しかし「秀次事件」は、秀吉政権の、そして三成の意図とは大きく異なる展開を見せてしまった。三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、佐和山へのこだわりとして語られることが一般的であったけれども、実は「秀次事件」最大の功労者は自分ではなく正則である、との三成の批判的な主張も含まれていたように思うのである。」(*3)と述べます。

 

「三使」のうち、福原長堯は1万石の加増、福島正則尾張清洲21万石へ加増、池田秀雄は伊予に加増を受けます。

 

 秀吉政権の命令に反して、秀次に切腹をさせてしまった三使は功労どころか「大失態」でしかないのですが、秀次の「無実の訴え」を認めるわけにはいかない秀吉及び秀吉政権は、後付けで「秀次の切腹」を「謀反の罪による秀吉の切腹命令」による切腹として世上に公表することにします。このため、三使は「切腹の検分役」という役割ということになり、事件の始末をした「功労者」として、加増を受けることになります。

 

(3)文禄4(1595)年7月25日付針生盛信宛石田三成書状

 

 伊達政宗家臣の針生盛信から三成に秀次事件の詳細を問い合わせる書状が出され、これに対する三成の返信の書状が7月25日付で出されました。

 

 この書状は、

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り 

で紹介しました。以下に再掲します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民部太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*4)

 

 上記の書状で分かることは、

 

① 伊達政宗石田三成とは、この頃から親交があり、政宗は三成に秀次事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたこと、

② この時点(7月25日)での、秀吉と秀吉政権の秀次事件に対する公式見解は「関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた」であったということです。

 

(4)文禄4(1595)年7月25日 菊亭晴季越後配流奏上

 

 秀吉の使者として奉行衆の前田玄以石田三成が禁中へ派遣され、秀次の義父(秀次の正室一の台の実父)である菊亭晴季越後国へ流すことが報告されます。

 この時までに三成が天皇への「御使」として朝廷に派遣された事例は一つもありませんでした。これは、従五位下治部少補の三成は「地下人」であり、参内しても紫宸殿や清涼殿などの殿舎に上がることが許されないためでもあります。

 その三成が禁中に派遣されたことは異例であり、その訳について矢部健太郎氏は「考えられるのは、やはり三成の中にあった危機感だろう。それは「想定外」の「秀次切腹」に関わった福島正則への警戒心といってよい。」(*5)とします。しかし、三成がこの事態に危機感を持っていたのは確かと思われるものの、三成が警戒心を向けたのが「福島正則」であるというのは疑問です。

 

 なぜならば、この禁中へ報告で三成が同行しなければ、ただ単に前田玄以が禁中に報告に行っていただけだからです。(これまでも朝廷との交渉は、奉行衆の中では前田玄以が担っていました。)これが、仮にこれまた異例にも正則が玄以に同行すると言ったという経緯があれば、三成が警戒する理由も出てきますが、そういう訳ではありません。

 前田玄以が一人で、菊亭晴季配流の件を禁中へ報告に行くことを三成は警戒しました。つまり、三成が警戒心を向けたのは福島正則ではなく、前田玄以だったのです。

 

 なぜ、同じ奉行衆である玄以を三成が警戒しなくてはいけないのでしょうか?そもそも、この晴季の処分にしても、秀吉と(三成と玄以も含む)奉行衆が合議して秀吉政権として決定した処分だったと考えられます。秀吉政権として決定したはずの処分を、土壇場でひっくり返される可能性を三成は警戒したのだと思われます。

 こうしたいったん決まった「秀吉政権」の決定をひっくり返せる人物とは誰か?それは、秀吉その人に他なりません。

 秀吉が、秀吉政権として合議して決定した処分を、後から急に思い直して、更に過酷な処分を玄以ひとりに密かに命令して、朝廷に通告させる可能性があると三成は考え、その可能性を消すために玄以に同行したのです。

 

 秀吉も含めて合議して決めたはずの「秀吉政権」の決定を、その直後に秀吉自身が覆すなど、「普通では考えられない」ことですが、まさに、秀吉政権として決定されたものが、土壇場で覆されたのが「秀次切腹事件」でした。三成は二使の「秀次切腹」放置(黙認?)に秀吉の裏の真意があるのではないかと疑念を持ったのだと思われます。

 

 なぜ、三使の中で急に今まで秀次の処遇に関わりのなかった福島正則が(秀吉によって)指名されたのか?なぜ、秀次切腹の当日に三使のうち三成に近い福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?なぜ、秀吉政権の命令に反する「秀次切腹」という事態を阻止できなかったという「大失態」をおかしたのに、三使には何の咎めもないのか?

 こうした疑問点を突き詰めていくと、「結局『秀次切腹』が秀吉の真意であり、「秀吉政権」の決定を覆して、秀吉は正則に密かに「秀次切腹」を命じたのではないか?」と三成が秀吉に疑念を抱くのは無理ありません。

 

 しかし、この「疑念」に確証がある訳でもありません。また、この「疑念」を秀吉自身に問いただす訳にもいけません。秀吉の「表の意志」は秀吉政権の決定であり、これに反する「裏の意志」が仮にあったとしたら、それは明かされてはいけないが故に「裏の意志」なのです。このような「裏の意志」を主君秀吉に問いただすような力は、三成を含め秀吉家臣には誰もありません。

 

 このため、「疑念」は「疑念」としてとどめたまま、起こり得る最悪の可能性を排除するために、今まで前例のない中、三成は禁中への報告に同行し、玄以が「秀吉政権」の決定以外の処分を朝廷に「報告」することが無いように牽制したのだと考えられます。

 

(現代的・客観的な視点から見れば、秀吉が秀吉政権として「秀次の謹慎」命令を出しつつ、同時に正則に「秀次切腹」の密命を出した可能性は極めて低いのですが、三成が置かれた立場からの視点では、そのような可能性に疑念を抱くのは無理はないという事です。)

 

 なお、菊亭晴季の配流処分は重い処分とされますが、配流先が三成の取次先で親交のある上杉景勝の領国である越後国、そして翌年文禄5(1596)年5月には春季の赦免が決定され帰洛したこと(*6)を考えると、三成ら奉行衆はなるべく晴季の処分が軽くなるように尽力していたと考えられます。

 

 また、白川亨氏は、石田家の親族(石田為親)が菊亭家の家司を勤めていたことを指摘しています。そして、秀次と正室一の台(晴季娘)との間に生まれた娘(隆生院)を、三成が真田家(真田家と石田家は縁戚です)に依頼し、密かに保護したとしています。

 隆生院はその後、真田信繁の側室となり、一女(於田)を生んでいます。その於田は寛永三(1626)年、多賀谷宣家(佐竹義宣の弟)に嫁いでいます。(佐竹義宣は三成の取次先であり、盟友でもあります。)(*7)

 

 石田家と菊亭家の関係については、今後の検討課題となると思われます。

 

5)文禄4(1595)年8月2日 秀次妻子の公開処刑が行われ、翌8月3日付で徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景上杉景勝連署により「御掟」「御掟追加」が発出されます。

 

 この豊臣政権下の唯一の体系的成文法ともいわれる「御掟」「御掟追加」により、「秀次切腹」後に変容を余儀なくされた豊臣政権の枠組が位置づけ直されることになりました。(*8)

 

 次回は、秀次家臣の保護に奔走する三成の動きについて検討します。

※次回のエントリーです。↓

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 注 

(*1)矢部健太郎 2016年、p101~102

(*2)矢部健太郎 2016年、p229~234

(*3)矢部健太郎 2016年、p241~244

(*4)中野等 2017年、p259~260

(*5)矢部健太郎 2016年、p244~246

(*6)中野等 2017年、p274~275

(*7)白川亨 2009年、p230~231

(*8)中野等 2017年、p264~265

 

 参考文献 

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次切腹事件の真相について⑦~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(上)

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 最後に、3回に分けて豊臣秀次事件における石田三成ら奉行衆の動向を見ていきます。

 

(※下記でいう「奉行衆」とは、前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成長束正家らのことを指します。そして、今回の秀次事件の「穏便」処分方針を進めたのは奉行衆の中でも、後述するように増田長盛石田三成が中心だったと考えられます。)

 

(1)文禄4(1595)年7月3日 

前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成聚楽第の秀次を詰問。

詰問の内容は「御謀反の子細御穿鑿これあり。」(『大かうさまくんきのうち』)(*1)

 

→太田牛一『大かうさまくんきのうち』は二次史料ですので、『大かうさまくんきのうち』はあまり信用できないとなりますと、この7月3日の奉行衆の詰問自体あったか不明となりますが、矢部健太郎氏も中野等氏も、この日の詰問はあったことが前提として記述がされていますので、『大かうさまくんきのうち』のこの記述は信頼できるということだと解されているということだと思われます。

 

「御謀反」の内容については、豊臣秀次切腹事件の真相について⑤~秀次は、実際に「謀反」を企てていたのではないか?~「むほんとやらんのさた」とは何か。で検討しました。

 

(2)文禄4(1595)年7月8日  

 豊臣秀次高野山行。

 

(3)文禄4(1595)年7月10日 

小早川隆景宛四奉行(長束正家増田長盛石田三成前田玄以連署副状

(秀吉の朱印状の副状)

 

「◇このたび、(秀吉が)関白(秀次)殿を不意の御覚悟によって高野山にお遣しになりました。それだけのことであり、ほかの子細はありません。その旨(秀吉の)御朱印が出されますのでご諒解いただき、下々へもよろしくご説明ください。万一根も葉もない噂がたったりしては問題であるとの配慮から、このように仰っています。」(*2)

 

→同様な朱印状・副状は島津義弘にも七月十日付で送られており(内容は「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すようなこともないので、気遣いなきように」との文面」(*3)、各大名に、秀次の高野山行事件は大事には至らないので安堵するようにとの朱印状が送られ、諸大名の動揺を防ごうとしていたことが分かります。

 上記の書状を見ても、秀吉政権(秀吉&奉行衆)に秀次切腹を命令する意図はなく、なるべく事件を「穏便」に処理しようとしていたことが分かります。

 

(4)七月十二日付「秀次高野山住」令発出

 

 七月十二日付「秀次高野山住」令が出されます。参照)

 この命令は、矢部健太郎氏が指摘している通り、秀次に(切腹ではなく)しばらく高野山への謹慎することを命じる文書といってよく、この文書においても、秀吉政権の秀次への切腹命令及びその意思はなかったとことが裏付けられます。 

 

 そして、「秀次高野山住」令が高野山の蓮華定院にあった由来から、この文書は高野山の秀次の元に到達しており、そもそも秀吉政権から高野山に派遣された三使(福島正則・福原長堯・池田秀雄)は、この「秀次高野山住」令を高野山と秀次に伝達し、遵守させることが目的であったと考えられます。

 

 三使のうち、福島正則は言うまでもなく秀吉の従兄弟であり、賤ケ岳七本槍等の活躍で知られる猛将、福原長堯は、石田三成の妹婿であり石田三成ら奉行衆に近い人物、池田秀雄は、「近江の戦国大名六角氏の家臣から信長に仕えるようになり、本能寺の変では明智光秀に属したものの、後に秀吉に許されて家臣となったという。まさに経験豊富な「老臣」で、すでに七〇歳前後だったと思われる。」(*4)とあります。

 

 矢部氏は、この三使の構成、特に「正則の名が列せられたことは何とも不思議」(*5)としています。筆者も同意します。

 

 今まで秀次事件は、「秀吉奉行衆」がこの事件の処理をしていたのです。(1)7月3日の秀次詰問も、(3)七月十日付秀吉朱印状・奉行衆の副状も、奉行衆の意向が強く反映されたものでした。(3)の朱印状・副状を見れば(4)七月十二日付「秀次高野山住」令も奉行衆の意向が反映されたものと解されるでしょう。奉行衆の意向は、今回の事件を(秀次の切腹ではなく)秀次の高野山謹慎処分で処理する方針であり、その奉行衆の方針を秀吉は承認していた訳です。

 

 しかし、この流れから見ればこの三使の選出のされ方は確かに不思議です。この事件の処理の仕上げともいうべき「秀次高野山住」令の伝達及びその遵守をさせるという使者の役目は、これまでもそうだったように、本来奉行衆が主導してやるべきものです。

 

 ところが、ここへ来て福島正則、池田秀雄という奉行衆からは縁遠い人物が三使の二人につけられ、かろうじて奉行衆に近い人物は福原長堯のみという、異常な事態になっています。(しかも、後に見るように、秀次が切腹をした七月十五日には福原長堯は高野山にいなかった可能性があります。)

 

 そもそも、この三使は誰が選出したのか?奉行衆ではありえません。奉行衆が選出するならば自らが行くか、あるいは三人とも奉行衆に近い人物で固めたでしょう。となれば、この人選は秀吉自らが選んだものといえます。

 

 なぜ、秀吉は、三使の人選をこのようにしたのでしょう。

 

 一瞬、秀吉は7月12日付で(切腹ではなく)秀次の高野山謹慎の命令を出したにも関わらず、一方で同時に秀吉はそれと相反する密命(秀次をやはり切腹させよ)を二使(福島正則、池田秀雄)に伝えた、という可能性も考えたのですが、同日に相反する命令を出すとは、いくらなんでも秀吉の人格が分裂していて考えられませんし、命令として支離滅裂です。(秀吉が秀次の謹慎命令を思い直して、やはり切腹させることにしたのなら、「高野山住山」令を撤回して改めて、切腹命令を出せばよいだけです。)

 

 では、なぜなのか?

 これまで奉行衆は、秀次に対し「寛大な処置」をすること(本来なら切腹をさせるところを、謹慎処分に止めた)を秀吉に説き、秀吉はその処置を認めました。確かに、現役の関白が秀吉に対して謀反を起こしたというのを政権が公的に認めてしまったら、豊臣政権の大混乱は避けられません。 

 また、奉行衆が秀次を「穏便な処置」にすべきと説いたのは、秀次を欠けば豊臣政権において、秀吉と秀頼のあいだの「つなぎ」がいなくなり、秀吉がすぐに死去した場合、幼い秀頼がトップでは豊臣政権を支えきれずに、豊臣政権がガタガタになって崩壊するおそれがあるからです。(実際に、ガタガタになり崩壊しました。)

 だから、豊臣政権を支える秀吉奉行衆としては、秀次の存在は「つなぎ」として、どうしても必要であり、秀吉としても、その時点では奉行衆のその意見を聞かざるを得ませんでした。つまりは、奉行衆発案の、この「高野山謹慎処分」は秀次が将来的に政権復帰することを予定した処分な訳です。

 

 しかし、この「穏便な処置」である奉行衆の案というのは、将来的に「秀頼を確実に秀吉の後継に据える」という秀吉の思いからすれば、非常に心もとないものでした。

 また、この処置は、奉行衆が秀次のために秀吉に「取り成し」をして寛大な処置を勝ち取り、秀次に恩を売ったということになります。「寛大な処置」を「取り成し」てくれたことに対する秀次の感謝は当然(秀吉にではなく)、奉行衆に向かうことになります。これにより、「奉行衆」と秀次の間が将来的に親密になってしまう可能性が出てきてしまったのですね。

 

 秀次の謹慎処分がいずれ解かれ、秀次が将来的に復帰した場合、秀吉の死後に奉行衆も含む残された秀吉の家臣たちがどのような行動を取るのか、秀吉には不明です。 

 自分(秀吉)の死後に、秀次が後見役として豊臣政権の実権を握ることになるとすると、結局その時点での豊臣政権の実力者NO.1は秀次になってしまいます。権力を握ったその時こそ、秀次は御拾ではなく、自分(秀次)の子を擁立しようとするのではないか?

 仮にそうした事態になった時に、奉行衆達は秀次の暴走を止められるのか?というか、強きになびくで、秀次の味方になる可能性すらあるのではないか?奉行衆が、秀次が親密となることによって、秀吉死後に御拾ではなく、秀次、あるいは秀次の子を擁立する可能性も出てきました。奉行衆と秀次を近づけすぎたことに、秀吉は不安を感じます。

 

 このように誰もかれも疑っていくと、そもそも秀次が政権復帰できる目を与えておくと、結局秀頼は排除されるのではないか、という考えになります。現在秀吉に絶対の忠誠を誓っている奉行衆にしても、秀吉死後、政権に復帰する秀次に対して将来的にどう転ぶか信頼できません。

 

 秀吉は、秀次の処遇を奉行衆に制御させることに不安を抱きました。あくまで、秀次の処遇を決める権限(生殺与奪の権)は、秀吉自身が握っているのではなくてはいけません。

 

 このため、今まで奉行衆に仕切らせてきた秀次の処遇を改め、秀吉みずからが秀次の処遇を仕切れるように変えるため、秀吉によって三使が選ばれました。

 

 まず、自分(秀吉)の意思をストレートに秀次に伝える役目として最適だと考えたのが従兄弟であり、自分の言う事は忠実に聞き、奉行衆からは距離があると考えられる福島正則だったのでしょう。

 

 次に、池田秀雄がなぜ選ばれたのかは不明ですが、おそらく奉行衆とも近くなく、また影響力もなく、自分の主張も言わない人物だと秀吉に思われたためではないかと思われます。

 

 そして、三成に近い福原長堯を混ぜたのは、奉行衆に近い人物を混ぜることによって、表面上(今まで秀次の処遇を仕切っていた)奉行衆に対してもバランスを取るような体裁を整えるためでしょう。

 しかし、福島正則と福原長堯では、秀吉政権での格が違いますので、この人選ではやはり福島正則の意見・判断が一番通る構成になっています。そして、秀吉の意を通じた正則の意向が通るであろうこの三使の構成が、秀吉が自分が一番コントロールできると望んだ構成だった訳です。

 

(5)文禄4(1595)年7月12日

「七月十二日付で石田三成増田長盛がいち早く起請文をしたため、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う。」(*6)

 

→秀次の高野山事件の政権動揺を防ぐために、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う起請文を各大名に提出させることが計画され、「秀次高野山住」令と同日の7月12日に、まず奉行衆の石田三成増田長盛がいち早く起請文を提出することが求められました。

 

 なぜ、いち早く起請文の提出を求められたのが奉行衆の中でも、この二人だったのか?それは、この二人がこれは「秀次事件」の処理(秀次への「寛大」な処遇)をしてきた中心人物だったからでしょう。

 

 秀吉は、この二人が「秀次事件」の処理・「取り成し」を通じて、秀次サイドと将来的に親密な関係を構築する可能性に不安を抱き、まず真っ先にこの二人に起請文を持って改めて御拾への絶対的な忠誠(将来、もし後継者争いが発生しても、必ず御拾を守り後継者とさせることに全力を尽くすこと)を誓わせたということが考えられます。

 逆にいえば、これは他の人間に先んじて御拾の絶対的守護者となるように、絶対的な宣誓を誓わされたということです。この事は、宣誓をした人間にとって特別な意味を持つでしょう。三成は、この宣誓に生涯縛られ続けることになります。(長盛がどう受け止めたのかは、よく分からない所がありますが。)

 

(6)文禄4(1595)年7月13日付 五奉行による「秀次切腹命令」

は、豊臣秀次切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)で記載したように、矢部健太郎氏の指摘通り小瀬甫庵の創作した偽文書です。 

 

 

(7)文禄4(1595)年7月15日

 秀次が高野山切腹して果てます。

 この時、「『川角太閤記』では、翌十五日の午前八時頃に福島正則と池田秀雄の二人だけが秀次のもとに現れ、秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えたという。」(*7)とあります。

 

→『川角太閤記』も二次史料ですので、そのまま鵜呑みにできないのですが、矢部健太郎氏が指摘するように、本来同一目的で派遣された三使のうち福原長堯が15日には別行動をしていたという記述は興味を引きます。(*8)

 

『川角太閤記』の記述を信用するならば、福原長堯は何かの理由をつけて(例えば「ひと足先に伏見へ報告に向かえ」などの指示をされ)高野山から遠ざけられたという推測ができます。

 

 なぜ、福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?そして、誰がその指示をしたのか?

「誰が」ということならば、おそらくその指示をしたのは三使の中で最も地位が高いと考えられる福島正則だと思われます。

「なぜ」ということについては、福原長堯が「これから起こること」に邪魔だったからということになるでしょう。

 

 しかし、福島正則、池田秀雄が、「秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えた」という『川角太閤記』の記述には疑問があります。 

 

 まず、秀吉が「秀次高野山住」令を出しつつ、同時に正則・秀雄には、秀次切腹の「密命」を下したという解釈は、前述したように無意味で理解不能な行為ですので、可能性は極めて低いと思われます。

 

 また、秀吉の真の「御意」を偽って、秀次の切腹を「けしかけた」という可能性もほとんどありえないと思われます。「三使」は秀次死後に加増されるので、なにか動機がありそうにみえますが、これは結果論であって、秀吉の真の「御意」を偽ったことが秀吉に露見されれば、加増どころか秀吉の怒りを買って処断される可能性が高いです。彼らがそのような危険を冒して秀吉の真の「御意」を偽るような動機は史料からは全く見出せません。

 

 しかし、奉行衆の目論見に反してはいるが、「秀次高野山住」令とは矛盾しない、秀吉の「御意」をこの二使が秀次に告げたという可能性はあります。

 二使が、秀次に告げたことは、秀次が最も気になることでありながら、「秀次高野山住」令には一切書かれていないこと、すなわち「秀次はいつまで高野山に謹慎し続けなければいけないのか?」ということでしょう。

 

 二使が告げた「御意」とは、秀次が切腹を決意するほど絶望的なものだったといえます。それは、たとえば「秀次の赦免は許さない。残る余生を高野山で謹慎して暮らせ」などの「社会的な死」の宣告だったのではないでしょうか。

 

 以前の回で、秀次切腹当日(七月十五日)の三使の動きについて、3つのケースが考えられると矢部氏が述べていることを紹介しました。

 

十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

 

 そして、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*9)としています。

 

 以前の回では検討しませんでしたが、ここではあえてどの可能性が高いか検討してみましょう。

 

 まず、①の「十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。」という可能性は低いでしょう。おそらく三使のうち、「穏便な処置」を望む奉行衆に近い福原長堯の存在は理由をつけてその場から排除されたという可能性が高く、『川角太閤記』の記載はそれなりに信用できると思われます。

 

 次に、③「十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。」という可能性ですが、これでは十五日に秀次が切腹を決意した理由が不明になります(やはり何かの「きっかけ」があったと思われます。そして、その「きっかけ」が二使の宣告という事になります。)ので、これもまた可能性は低いと思われます。

 

 そう考えると、やはり②「十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。」という可能性が一番高いと思われます。

 

 問題は、二使が秀次の「社会的な死」の宣告をした後に、秀次の切腹に立ち会っていたのか?ということです。

 

 三使の命令は、「秀次高野山住」令の伝達とその命令を遵守させることですから、その命令に反する秀次の切腹を黙って見ていて、立ち会ったというのも考えにくいです。

 

 もちろん、二使が内心では秀次切腹を望んでいて、あるいは秀次の意思を尊重して、秀吉の命令には反するが、秀次切腹に同調して立ち会った、という可能性もなくはないですが、ちょっとこれも不可解です。

 

 これは想像するしかないのですが、たとえば、秀次が「しばらく側近のみと話したいので席をはずしてほしい」等と述べて、二使は秀次の願いを聞き、しばらく席を外していた間に秀次たちは切腹したという可能性もあるのかな、と思います。秀次の監視が三使の使命のひとつですので、普通では考えられない大失態ですが、案外大事件というものは、こういった「普通では考えられない大失態」によって起こるのかもしれません。

 

 次回は、秀次切腹後の石田三成の動きについて検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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(*1)小林千草 1996年、p148

(*2)中野等 2017年、p257

(*3)中野等 2017年、p70

(*4)矢部健太郎 2016年、p94

(*5)中野等 2017年、p95

(*6)中野等 2017年、p258

(*7)矢部健太郎 2016年、p223

(*8)矢部健太郎 2016年、p224

(*9)矢部健太郎 2016年、222~226

 

 参考文献

林千草『太閤秀吉と秀次謀反 『大かうさまぐんき』私注』ちくま学芸文庫、1996年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次切腹事件の真相について⑥~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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 前回の話の続きです。 

 さて、ここまで以下の3つの論点を検討しました。矢部健太郎氏の説には同意できるところも多いのですが、やはりしっくりこない点もあります。

 今までの各論点の矢部氏の説と、筆者(古上織)の私見をまとめてみます。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

 

→矢部氏の説:政権交代説(秀吉個人が原因ではなく政権の要請)、きっかけは「天脈拝診怠業事件」)」(*1)(「密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。」)(*2)

 

→古上織の私見:秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画の露呈。

 

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

 

→矢部氏の説:「関白職剥奪の根拠はなく、出家・出奔ともに秀次自身の意志に基づく行動」(*3)

 

→古上織の私見:秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

→矢部氏の説:「無実であることを=身の潔白を証明することため、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。」(*4)

 

→古上織の私見:秀吉の処罰が秀次の予想していたものより重かった(秀次は、無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した)ため絶望して、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。

 

 さて、第4の論点「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」に移ります。

 文禄四年八月二日、京都の三条河原で秀次の妻子三十余名が公開処刑にされます。なぜ、秀次の妻子は処刑されることになったのか?

 正直に申し上げて、この論点についての秀吉の判断は不可解であり、どんな方が説明されても理解できたことがありません。

 

 矢部氏の説ですと、

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

 

→「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」(*5)

 

ということになりますが、これも正直理解できません。

(というか、矢部氏説は「秀次は無実」なのに対して、古上織の私見では「秀次は有罪」ですので、この時点で見解が分かれてしまいますが。)

 

 いや、「謀反事件」ならば家族が連座することは確かにあるでしょう。しかし、その場合も男子は殺されるが、女子は出家になるあたりが(当時の世間的な感覚としても)妥当ではないでしょうか。

 残虐な殺戮劇が多かった戦国時代においても、小さな娘も含め妻子皆殺し(秀次の妻子の中でも例外的に生き残った人もいるようですが)というこれだけ残虐非道な事件はあまりないかと思います。

(ただ、じゃあ「まったくない」か、というとそんな事もなく、織田信長は裏切った荒木村重の一族・妻子122人を皆殺しにしていますし、武田勝頼新府城を放棄して逃げるときに、裏切った武将の家族を焼き殺していますが。)

 

 これだけ残虐な処刑にする理由は、秀吉自身が残虐だからとしか言いようがなく、この残虐さに現代的な視点から合理的な説明をつける事は困難かと思います。

 

 矢部説への感想を以下に述べます。

 

 まず、矢部氏の説ですと、もともと秀次は無実であるが、秀次が秀吉の謹慎命令に逆らう形で、「無実」を訴えて自分の意思で切腹してしまった結果、その「無実」の訴えを認める訳にはいかない秀吉政権が、「謀反」事件を仕立て上げた、ということになります。

 

 秀次が(秀吉の命令ではなく)自身の意思で切腹した見解には同意ですが、前回述べたように、秀吉は、厳しい処罰感情を持って秀次重臣に切腹命令を出している訳で、この事件についての秀吉政権の認識は、本当は「謀反」事件だったのだと思われます。

 

 しかし、これを「関白秀次謀反事件」と政権が公言してしまうと、関白が太閤に謀反を起こそうとしたという重大な危機事態を公表してしまうということになってしまうので、秀吉政権は大混乱になってしまいます。

 

 そこで、はじめ秀吉政権は、「不届きなこと」(不相届子細)(「文禄四年七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状」)(*6)という曖昧な説明でこの事件はあまり大した事態ではないと対外的にはアピールをして、秀次には高野山にしばらく謹慎させるという「穏便」な処置を行うことによって、事態の収拾をはかろうとしたのだと思われます。

 

 ところが、秀次が高野山切腹をしてしまったがために、もはや「穏便」な処置がとれなくなってしまったのですね。

 

 高野山で謹慎していた秀次が7月15日切腹したということは、高野山から京都の東寺を通じて翌日には京中に広がりました。『御湯殿殿上日記』によると、秀次の切腹の理由は「むしつ(無実)ゆへ、かくの事候のよし申しなり、」(*7)と書かれています。これは、京都に急報を伝えた高野山の僧たちの見解を書いたものとされます。(*8)

 

 そのように「自分は無実だ」と秀次自身が高野山の僧に言って切腹したのか、特に何も言わなかったのかは不明ですが、対外的には「謀反の噂」で秀吉に疑いをかけられたことによって、秀次は高野山で謹慎しているわけです。

 秀吉の疑いに対して「自分は無実である」という抗議のために、秀次は切腹したと少なくとも高野山の僧には解釈されたということです。

 

 これは、かえって秀吉の処罰感情を悪化させました。 

 

①そもそも、秀吉の「温情」で秀次は切腹すべきところを、高野山での「謹慎」にすませているのです。そして、「秀次高野山住山」令にも「出家の身だから刀・脇差を携帯するな」(*9)とあり、これは切腹を禁止する趣旨でもありました。

 このため、秀次の「切腹」とは、切腹を禁じる秀吉の命令に逆らい、秀吉の「温情」に仇をなす行為であり、秀吉としては許すべからざる行為でした。

 

高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられました。この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したことになります。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉の判断・処分は間違っていたということを認めることになってしまいます。そして、秀吉は自分の判断・処分は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと思っていました。

 

 上記の秀次のメッセージを認めてしまうと、「秀吉は間違った判断で秀次を謹慎処分にして、自殺に追い込んだ」という話になってしまいますので、秀吉としてはこのストーリーを世間的にも認める訳にはいきませんし否定するより他ありません。

 

 秀次の高野山行時に「不届きなこと」(不相届子細)な曖昧な表現で説明し「穏便」にすませる予定だった事態は、秀次の切腹により穏便にすませる訳ではいかなくなり、「秀次の『謀反』があった」と公表せざるをえなくなりました。

 

 秀吉の温情による謹慎処分すら認めず、かえって秀吉の判断は間違いだと否定して、抗議の自殺をするという「究極の反抗」をした秀次に対して、秀吉は激しく憎悪することになります。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺でした。青厳寺は秀吉の母大政所菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」(*10)と矢部健太郎氏は述べています。

 

④中世において「切腹」は色々な意味合いがあります。命令による切腹は名誉の「刑罰」ですが、自らの意思でする切腹は、その時々の状況で「謝罪」「殉死」「無実の訴え」「抗議」等、色々な意味合いがあります。

 その中で、矢部健太郎氏は、もうひとつ「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」でもあったとする」清水克行氏の研究があるとしています。(*11)

 

 秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があります。そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになります。

 

⑤前述した織田信長にせよ、武田勝頼にせよ、一族・妻子皆殺しという処分は、自分に裏切って反逆するとこうなるという「見せしめ」という意味を示します。これは、このように家臣や諸大名に「見せしめ」という恐怖を植え付けないといつ裏切られるか分からないという君主の他者に対する不信感の表れです。このため、「恐怖」をもって他者を支配するしかないと考えるのです。(勝頼の場合は、最早「みせしめ」をしてもどうしようない状態でしたので、やけくそという感じですが。)

 

 また、過酷な「みせしめ」処分は、最も身近な秀次にすら裏切られたのだから、最早誰も信用できないという秀吉の「怯え」のあらわれともいえます。(こうやって、他者に向けて「みせしめ」処分をして、他者を恐怖感で縛らなければ、他者を支配し従属させることができないという、自らの力への自信のなさと他者への怯え。)

「天下人」秀吉の残虐性とは、他者に対する不信と怯えの裏返しです。秀次切腹により、秀吉の人間不信と怯えは更に深まることになりました。

 

 上記のような理由で、秀吉は「謀反を起こしたものはこうなる」という見せしめの意味で秀次の妻子三十余名を処刑します。しかし、謀反事件の処分としては、当時の事件としても過酷なものであるといえます。

 

 矢部健太郎氏は、秀次の妻子を処刑した理由を、「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」としますが、秀吉が本心では「秀次は無実」だと思っていたとしたら、謀反事件の処分としても、当時の世間の感覚でも更に過酷な処分をする必要はないのですね。むしろ、(「謀反事件」の体裁のみを整えればよいのですから)もっと軽い処分をしていたでしょう。

 

 秀吉が、「謀反事件」としても、なぜ普通に考えられるようなものより過酷な処分をしたということは、「秀次は実際に謀反を起こそうとしていた」と秀吉は確信していたからだとしか考えられないのですね。

 

 そして、一旦は肉親の情で温情的な処分をしたにも関わらず、それを「抗議」や「復讐」の意味での「切腹」をさせられるという最悪の形で返されれば、秀吉にしてみれば、まさに恩を仇で返されたのも同然、しかもこの事件のために秀吉政権は大混乱で崩壊の危機、秀吉の秀次に対する怒りは計り知れないものになったということになったのではないしょうか。 

 

(上記のように説明しても、多分よく理解できない方のほうが多いと思います。ただ、正直、元から残虐な性格で、常人ではない秀吉の思考回路を考察している訳なのですから、世間的に常識的な解答が出る訳がありません。

 

「常識的な解答」ではないから納得できないと言われても、秀吉自身が常識的な人間ではないからどうしようもありません。しかし、秀吉が常識的な人間ではなくても、秀吉は秀吉なりに(秀吉の主観的には)合理的な行動・判断をしているはずですので、現代の我々でも、秀吉の思考回路を考察することがなんとか可能なのです。)

 

 次回は、秀次切腹事件時の石田三成らの動向について検討します。

※次回のエントリーです。↓

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(*1)矢部健太郎 2016年、p300

(*2)矢部健太郎 2016年、p58

(*3)矢部健太郎 2016年、p300

(*4)矢部健太郎 2016年、p301

(*5)矢部健太郎 2016年、p301

(*6)矢部健太郎 2016年、p69~70

(*7)矢部健太郎 2016年、p213

(*8)矢部健太郎 2016年、p213~218

(*9)矢部健太郎 2016年、p175~177

(*10)矢部健太郎 2016年、p184

(*11)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年