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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第8章 石田三成は蒲生氏郷を毒殺していません

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☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 現代の方で、そもそも石田三成蒲生氏郷を毒殺した」という説を信じている方はいないかと思いますが、江戸時代の史書というものが、いかに馬鹿げた嘘だらけのものであるかを示すために、この説も紹介いたします。

 江戸時代の史書の多くが、三成の策謀によって蒲生氏郷が毒殺されたとしています。例えば、「『藩翰譜』(新井白石)、『日本外史』(頼山陽)、『氏郷記』では、太閤没後の天下を狙う蒲生氏郷を恐れた石田三成によって、毒殺されたとする説を載せて」(*1)いますが、これは以下に述べるようにまったく根拠のない、でたらめな話です。

 また、『備前老人物語』にも同様な毒殺説が載っていますが、この『備前老人物語』によると、天正十九年(1591)年二月に切腹した千利休が、なぜか文禄二(1593)年に(毒による)病の蒲生氏郷を見舞うという滅茶苦茶な話になっており、これも全く信ずるに値しない論外な話といえます。(*2)

 白川亨氏の『真説石田三成の生涯』を以下引用します。

蒲生氏郷肥前名護屋の陣中で発病したのは、文禄二年(一五九三)一月である。初め吐血があり、続いて下血、浮腫も出たと記録されている。(筆者注:また、医師曲直瀬道三の『医学天正記』にもこの時期に氏郷が病にかかった記載があります。(*3))従って同年八月二十五日、秀吉とともに大坂へ帰り、同年十一月には会津若松に帰っている。

石田三成が奉行として朝鮮に渡海したのは、その前年の天正二十年(一五九二)年六月三日であり、明の講和使節とともに一時帰国したのは文禄二年五月八日、肥前名護屋に到着し、直ちに朝鮮に引き返している。(筆者注:三成は、その後五月二十四日に朝鮮に戻り、九月二十三日帰国しています。(*4)従って、蒲生氏郷が文禄二年一月、三成は在鮮中であり、蒲生氏郷に毒を飲ませることができようはずがない。」(*5)としています。

 その後の氏郷の病状については、白川亨氏の『石田三成の生涯』より引用します。

「翌文禄三年一月、秀吉の伏見城完成・祝賀のため上洛し、四月には氏郷の伏見邸も完成している。四月十四日、伏見・蒲生邸に秀吉が来訪、その頃、病が再発したようである。

十一月二十五日、秀吉を再び伏見・蒲生邸に招いているが、その頃、既に氏郷の病状は相当に悪化していたようである。それを心配した秀吉は、十二月一日に徳川家康前田利家に命じて九人の医師を派遣して診断させている。

その一人である曲直瀬道三は、「十ニ九ツ大事ナリ、今一ツカカル年ノ若キト食ノアルトバカリナリ、食アルイハ減ジ気力衰エテハ、十ニ二十モ大事ナルベシ」と報告している。即ち「十の内九迄は回復の見込みはない、後の一つは年が若いのと食欲があるのが希望を抱かせるが、食欲がなくなり気力が減じたときは、その希みも断れる」としている。当時の医療水準では、もはや手の施しようがなかったのであろう。

その後は、曲直瀬道産の診断どおり病状が進んで、翌文禄四年二月七日、伏見・蒲生邸に於いて四十歳の若い生涯を閉じ」(*6)ることに氏郷はなります。

 

 つまりは、蒲生氏郷は、文禄二年(一五九三)一月は名護屋の陣中で発病し、その時に三成は朝鮮に在陣しており、毒を飲ませるようなことはできません。また、氏郷の死が病によるものであるのは、曲直瀬道三の記録から明らかであり、これを毒殺とすることもできません。

 江戸時代の史書というものは、新井白石頼山陽のような著名な学者ですら、平気でこのようなでたらめな話を載せてしまう水準のため、史料としての信用性の低さにはがっくりしてしまうのですね。

 

 注

(*1)白川亨 2009年、p216

(*2)白川亨 2009年、p217

(*3)白川亨 1995年、p156

(*4)中野等 2011年、p301

(*5)中野等 2011年、p217

(*6)白川亨 1995年、p156~157

 

 参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第7章 豊臣秀次家臣を保護する三成

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 豊臣秀次切腹事件の真相については、歴史研究界でも活発な論争が続いています。以下の論点について、秀次切腹事件の筆者(古上織)の見解をまとめます。(詳細については、具体的には下記の一連エントリーで論じましたので、ご覧ください。)

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

→秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画が露呈した。このため、秀吉奉行衆が聚楽第の秀次に詰問に訪れることになった。

 

 2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

→秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。 

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

高野山に来た秀吉の使者(福島正則、福原長堯、池田秀雄)が秀次に渡した秀吉の命令(秀次高野山在住令)は、秀次の高野山「出奔」を後追いで、改めて秀吉政権の「謹慎」命令として確定し、高野山に在住すべしというものだった。

 

 秀次はこの命令が予想していたものより重かった(しばらく謹慎すれば許されるものと秀次は思っていたが、「秀次高野山在住令」には在住の期限が書いていなかった。このため、秀次は無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した可能性がある。)ため絶望して、秀吉の命に背き、自ら切腹を決意した。

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

→①「謀反」を行った秀次に対して、(本来なら成敗すべきところを)高野山謹慎という穏便で「温情」処分に減じた秀吉の命令に逆らう形で、勝手にあてつけのように自殺したことへの怒り。

 ②高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられた。

 この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したという主張になる。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉は「自分の判断・処分は間違っていた」と世間に公表したということになってしまう。

 秀吉は秀次への処分に対する自分の判断は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと考えていた。この秀次の(誤った)「抗議」を、世間的にも認める訳にはいかず、否定するより他なかった。このため、はじめは穏便に事態を処理するため、曖昧にしていた「秀次の『謀反』があった」という事実を公表し、更なる過酷な処分を行うことによって、秀吉の意思を世に示す必要があった。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺だった。青厳寺は秀吉の母大政所菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」。(*1)

 

④中世において「切腹」は色々な意味を持つが、そのひとつとして、「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」という意味もあった。(*2)

  秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があり、そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになる。

 秀次の死を賭した「復讐」の呼びかけに、秀次の遺族達が立ち上がり、秀吉や秀頼を標的として復讐戦を行うかもしれない、という「怯え」が秀吉にはあった。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(①~⑥まであります。)↓koueorihotaru.hatenadiary.com

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4.秀次切腹事件の時の石田三成の動きは?

→①上記で書いたとおり、秀次の「謀反」の噂が表面化したため、秀吉の命令で三成ら奉行衆は、秀次を詰問せざるを得なかったが、「成敗」ではなく、「高野山の謹慎」という、なるべく穏便な処置に留まり、事態が深刻化しないように動いていることが、他大名への書状から分かる。

②秀次切腹後は、三成は秀次家臣の保護に奔走しており、秀次の旧部下の「若江衆」の大部分は三成の配下として、関ヶ原の戦いで東軍と奮戦・討死している。

 このような経緯を考えても、江戸時代の(小瀬甫庵『太閤記』等の)「石田三成らが、秀吉に讒言して秀次を陥れ、切腹に追い込んだ」という俗説は、神君家康公に逆らった三成を貶めるために後年創作されたものであり、誤りである。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(⑦~⑨まであります。)↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p184

(*2)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

(上記エントリーの見解は、筆者(古上織)の見解であり、参考文献の矢部健太郎氏の見解とは違う部分も多くありますので、よろしくお願いします。)

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第6章(当たり前の話ですが)豊臣秀頼は石田三成と淀殿の間の子ではありません。

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 上記のタイトルの通りですが、なぜこんなことをわざわざ書くかというと、NHKはなぜか、過去の大河ドラマでこの手のファンタジー話が好きなようで、確か『秀吉』『功名が辻』『江』あたりでも、三成と淀殿の「あやしげな」関係を描いていました。すいませんが、天下のNHKさんがこうした創作話を描かないでほしいんですね。描くのは歴史上の実在の人物なんですから。

 

 まず、物理的な話。秀頼が生まれたのは、文禄二(1593)年8月3日。

 石田三成は、天正二十・文禄元(1592年)6月6日に名護屋から軍目付として朝鮮に向かい、文禄二(1593)年9月23日に名護屋に戻るまで、(文禄二年5月13日から24日の間の一時帰国を除き)、朝鮮に在陣し続けます。

 対して淀殿は、その間当然日本にいますので、そもそも物理的に秀頼の父が三成であることはありえません。

 

 以上、終了の話なんですが、この時代の三成と淀殿の関係が何かないかと思って調べてみても、むしろ、「接点なさ過ぎじゃね?」て、感じがしてしまうのですね。三成と淀殿との(公的な意味での)関係がうかがえる文書がほとんどないのです。(まあ、あったとしても関ヶ原の戦い以降、破棄されてしまったのかもしれませんから、何ともいえませんが。)

 むしろ、西軍諸将と淀殿との関係の薄さこそが西軍敗北の原因のひとつだったのではないかと思ってしまいます。

 

 これに対して、石田三成は次女小石を北政所の侍女としており、後に彼女は北政所の執事の孝蔵主の義甥の岡重政と婚姻、三女辰姫は秀吉死後に北政所の養女となっています。大谷吉継の母東殿は北政所侍女、小西行長の母わくさ(洗礼名マグダレナ)も北政所侍女、宇喜多秀家は秀吉・北政所養女の豪姫(実親は前田利家)の婿殿、彼ら西軍諸将は北政所ファミリーといってよいです。

 

 関ヶ原の戦いの間、北政所淀殿は険悪ではなく、むしろ大津城開城のために協力しあってはいるのですが、淀殿の内心としては、「西軍諸将は、所詮は北政所ファミリーであり、自分自身(淀殿)の味方ではない」と思われたかもしれないなー、と思います。そこら辺が淀殿関ヶ原の戦いにおける消極的な姿勢に反映されたのではないでしょうか。 

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第5章 千利休切腹事件と石田三成は無関係

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 千利休切腹事件については、以下のエントリーで詳細に検討しましたので、参照願います。↓

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 結論としては、千利休切腹事件とは石田三成は無関係であり、また石田三成(及びその兄弟・義兄弟)は利休とは親密な仲であり、利休を追い落とすような策謀を考えることがそもそも考えられず、また時間的・物理的にもそのような策謀を行うことは無理だという主旨です。

 

 ※関連エントリー

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「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第4章 文禄の役における黒田官兵衛の秀吉叱責は、三成の讒言によるものではない

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※以下の記載は、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社、2014年)を参照したものです。

(以下のページ記載については、上記書籍の参照ページです。)

 

黒田家譜』によると、朝鮮出兵文禄の役)の際に、「三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。」(p173)などの記述があります。その結果、秀吉は激怒し、危うく黒田官兵衛は死罪に問われそうになりますが、かろうじて赦免され剃髪して隠居に追い込まれた、という話です。

 

 さて、この話は事実なのでしょうか?この件については、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」に詳細に記されていますので、以下引用・参照します。

 

 黒田官兵衛は、文禄の役で朝鮮に渡海しますが、病を得て一時(天正二十・文禄元年(1592年)9月末)日本に帰国します。そして、文禄二(1593)年には、病も癒えたようであり、秀吉の命令を受けて再び官兵衛は、二月中旬、浅野長吉とともに再び朝鮮に渡ります。両者とも北上はせず、しばらく釜山付近にとどまります。(p168~169)

 

「さて、漢城をめぐる戦線は膠着し、厭戦気分も拡がるなか、明軍は捏上(でっちあげ)の勅使を小西行長の陣営に投じる。日本側はこれを明軍降伏(詫び言)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えた。石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かう。朝鮮半島を南下してきた奉行衆は官兵衛・浅野長吉と面談する必要を感じたようであり、梁山での合流と決した。」(p170)

 

 しかし、梁山の会見については「(前略)浅野長吉(弾正)のみが出向いたようである。一方の官兵衛は朝鮮半島での処置について秀吉の指示を仰ぐため肥前名護屋城に戻ることとなる。この間の経緯について、フロイスの『日本史』は次のように記している。

 

 関白(ここでは秀吉)は朝鮮に使者を派遣し、黒田官兵衛殿がその武将たちをもって赤国(全羅道)を攻略し、ついで越冬のための城塞工事に着手するように、と命令した。だが、朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であったので、彼らは官兵衛を他の重臣とともに、関白の許に派遣してその意向を伝えることにした。」

 

 ここでいう「赤国(全羅道)」とは具体的には晋州を指す。晋州は慶尚道に位置しているが、当時日本側は何故かここを全羅道に属していると認識していた。沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。五月二十一日、官兵衛は名護屋に到着するが、こうした行動は軍令違反ととられてしまう。秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返されてしまう。」(p171)とあります。

 

「この晋州城は天正二十年(文禄元年)十月に長谷川秀一・細川忠興らの軍勢が攻め落とすことができなかった。こうした経緯もあり、この時期の秀吉にとって晋州城の攻略は何よりも優先される軍事上の課題であった。官兵衛はこの晋州城攻略に何らの手配も施さないまま、名護屋に戻ったとみなされたのである。先に述べたように、官兵衛には官兵衛なりの理由もあったのであるが、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたのである。」

(p172) 

 

 また、「さらに、厳罰をもって臨もうとする秀吉には、官兵衛を他の諸将に対する「見せしめ」にする意図があった。」(p172)ともしています。

 

 以上のように、「いずれにしろ、官兵衛が秀吉の逆鱗に触れたことは事実であり、この背景について『黒田家譜』などは、三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。しかしながら、長吉が梁山に乗り込んで三成等と会談は行ったわけであり、秀吉による叱責の理由も既述した通りである。『黒田家譜』の挿話は、後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない。」(p173)としています。

 

 その後、日本勢は文禄二(1593)年六月末に晋州城を陥落させます。しばらく秀吉の官兵衛に対する怒りは解けず、死を覚悟した官兵衛は、八月九日付で息子長政に「遺言」と評すべき「覚書」を与えます。また、八月上旬頃までには剃髪し如水と名乗りますが、程なく許されて助命されました。これについては、本来であれば如水(官兵衛)は「成敗」すべきであるが、引き続き朝鮮に在陣して城普請等を進める黒田長政の奉公にも支障が生じるであろうから助命することとした、と八月十日付の長政宛秀吉朱印状で、秀吉は告げています。(p173~174)

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又吉直樹『劇場』書評・感想(ネタバレあり)

 又吉直樹氏の『劇場』を読了しました。以下、感想を書きます。(ネタバレです。また批判的ですので、そういうのは読みたくない方は読まないように願います。)

 

 

 

 

 

 おおざっぱなあらすじを書くと、売れない劇作家が主人公で、女の子(沙希)をナンパして、付き合い、家賃も払えないほど困窮して彼女の家に転がり込み、ヒモになり、ヒモになった劣等感からモラハラ言動を彼女に対して繰り返して、彼女は疲弊して、最終的に彼女は東京から実家に帰るという、まあ正直言ってどこかでみたことがたくさんあるようなパターンの小説です。

 

 なんつーか、こういう「ダメ男」小説って『純文学』の黄金パターンで、ミステリーであれば「クローズド・サークル」並みの「ああ、それやっちゃう?」という話なんですよね。

 

 すいませんが、「クローズド・サークル」がアガサ・クリスティのオリジナルを誰も越えられないように、「ダメ男」小説ジャンルでは、誰も(少なくとも又吉氏は)太宰治は越えられないわけです。オリジナルを越えられないのは分かっていながら、あえてこうした黄金パターンを書くのは、それでも小説家として、別の(面白い)バリエーションを創り、何か世の中に問う矜持があるのかと思ったのですが、別にこの小説からは何も感じられませんでした。

 

 たとえば、この小説のタイトルは『劇場』であり、主人公は劇作家なのですから、彼の『脚本』、『劇』そのものが、本来はこの小説の核となるべきなのです。この小説では、主人公の考えた劇のアイディアが断片的に出てきて、それは結構興味深いものもあるのですが、こうした描写がアウトラインに留まるのではなくて、「作中劇」の文章としてもっと描写を具体的に描かれれば、バリエーションとしてもっと面白いものになったでしょう。

 

 特に、主人公がヒロインに演じさせた作品などは、最後にセリフを言わせる伏線があるのですから、本来は劇とセリフの全体部分を1章割いて描写すべきものでしょう。なぜこの方向でもっと話を膨らませなかったのか、残念に思います。

 

 おそらく、作者にとっては、主人公とヒロインの恋愛関係こそがメインであって、演劇は刺身のツマみたいなものだったのではないかと思ってしまいます。この小説が陳腐なストーリーである以上、メインのストーリーは、このままでは太宰未満の陳腐なストーリーに過ぎません。作者が小説としてのオリジナリティと新鮮さを出すには、この『劇場』というタイトルの通り、劇作家としての(奇人・変人劇作家としての)主人公の真摯な姿勢による、彼の創った「作品(演劇)」の具体的な描写以外に陳腐なつまらないストーリーとの差異が出せないかと思います。このような描写があって、はじめて何故ヒロイン沙希が主人公に惹かれたのか、客観的に描写できるというものでしょう。(この小説の主人公は、ひたすらにただ気持ち悪いだけの男で、このままでは魅力がまったく感じられません。)

 

 こうした、骨格が「どこかでみたような」ストーリーには、どのようなバリエーションを提示できるかこそが重要な意味を持つのです。この小説を刺身定食とするなら、この小説においては演劇部分こそが刺身なのであり、これを作者自身が刺身のツマと思っているような本作品は、凡作としかいえません。

 

 「劇」の部分を煮詰めていけば、もっと面白い作品になるような気がしました。又吉氏の次回作に期待です。(次回作は「劇」ではないかと思いますが。)

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第3章~小早川秀秋左遷は、三成の讒言によるものではない

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1.小早川秀秋の越前転封の謎

 

 慶長二(1597)年六月二十九日、小早川秀秋は、朝鮮出兵慶長の役)の総大将として、名護屋を出陣します。この時、秀秋わずか十六歳。

 

 しかし、その数か月後の慶長二年(1597)年十二月、更には慶長三(1598)年正月に秀吉の帰国命令を受けて、秀秋は日本に帰国することになります。(実際の帰国時期は不明ですが、四月一日以前とされます。)そして、四月二日には越前国に減知転封されることになります。(元の領国筑前筑後33万石→越前北ノ庄 16万石)

 

 なぜ、このような措置を秀秋が受けることになったのか?私にとって長らく謎でしたが、黒田基樹氏の『小早川秀秋』を読むと、だいたいのその背景が分かります。

 

 話は、秀秋の出陣より前の慶長二(1595)年二月二十一日に、朝鮮出兵渡海軍の陣容が決定され、秀秋が全軍の総大将とされた直後にさかのぼります。秀秋とその宿老である山口宗永とに不和が生じたため、共に伏見の秀吉の召還を受け、不和の弁明をすることを求められます。(*1)

 

 不和の内容は不明ですが、宗永は宿老役を解任されることもなく、秀秋と共に六月に渡海します。

 

 名護屋を出陣した翌日の七月一日付書状で、秀秋は秀吉から軍陣における注意を受けます。

 

「何事についても山口玄蕃頭(宗永)・福原右馬亮(直高)らの意見をうけて、心を改めて、落ち着いた心を持って、よく考えなさい。以前から言っているように、決して憎んでいるわけではなく、今後の(秀秋の)ためを思って、親切心で言っているので、今後は心の底から心懸けるのが大事だ。(後略)」(*2)

 

 上記の書状を見ると秀秋と宗永の不和の原因は、秀秋のためを思って口うるさく十六歳の秀秋を指導している宿老宗永と、それについて反発する秀秋ということが原因だと分かります。それを秀吉は「決して憎んでいるわけではなく、今後の(秀秋の)ためを思って、親切心で言っているので、今後は心の底から心懸けるのが大事だ。」と教えさとしますが、この秀吉の書状は秀秋の心には届かなかったようです。

 

 その後、「八月十六日に山口宗永は、秀吉とその奉行衆増田長盛長束正家から、不慮の事態になった場合には秀秋の軍は役に立たないので、その心づもりが大事だ、と述べられている(「菅文書」「筑紫文書」『新修福岡市史資料編近世1』二〇四~五号)(*3)

 

 つまり1万人の大軍を率いる総大将軍にも関わらず、秀秋軍は不慮の事態に対処できない、役立たずの軍だったというのが実態な訳です。秀吉としては、十六歳で初陣の秀秋が軍勢の指揮を執ることなど、もとより期待しておらず、実質的な指揮は宿老の山口宗永に任せることを期待したのでしょう。秀吉にとって、秀秋は今や数少ない豊臣一族武将であり、お飾りとしてでも、総大将として形式的にでも実績を上げさせ箔をつけさせたいというのが、秀吉の本音でしょう。

 

 しかし、出陣前から実質的に陣頭指揮すべき宿老宗永に反発し、朝鮮渡海後もことあるごとに反発し、軍の指揮が取れない状態になったのでしょう。これでは「お飾り」としての総大将の役割も果たせず、一万という大軍を抱える総大将軍が戦力として頭数に入らないという異常事態に慶長の役は突入したのでした。しかも、総大将軍の指揮が機能していないわけですから、朝鮮在陣武将全軍の指揮すらままなりません。(ただし、秀秋軍は梁山城の普請を行い、山口宗永に蔚山城の救援の後詰を命じる等、まったく何もしていなかった訳ではありません。(*4)総司令部として機能しなかったということでしょう。)

 

 すべては、十六歳で戦争指揮経験もない未熟な秀秋に総大将という重圧を課した秀吉の判断ミスです。この判断の誤りを遅まきながら悟った秀吉は、慶長二年(1597)年十二月、更には慶長三(1598)年正月に秀秋の帰国命令を出します。

 

 さて、秀吉の帰国命令はある意味当然として、なぜ秀吉は秀秋を越前減知転封にしたのでしょう。減封ですので、そこに懲罰的な意味合いはないとは言えません。お飾りの大将としてすら機能しない秀秋に対して、秀吉が失望したというのもあるでしょうし、身内にも厳しいという事で、綱紀粛正をはかる意味もあったのでしょう。しかし、そうした理由より、朝鮮出兵は現在進行形の戦役であり、筑前筑後両国は、後方支援のための重要な兵屯基地でした。慶長の役の日本軍が苦境に立つ中、この地域の軍勢・兵糧を「空地」にする訳にはいきません。

 

 秀秋主従に軍を指揮する力がないことが判明した以上、朝鮮攻略の基地として枢要なこの地を、軍も率いることができぬ役に立たない大名に預けておくことはできません。このため、秀秋の転封が決まったのだと思われます。

 

 この越前転封は、秀吉死後、その遺命により解除され、秀秋は筑前筑後に再封されます。このことから、黒田基樹氏は「この北庄領への転封は、やはり朝鮮での戦況にともなう緊急措置であったといえるのではないだろうか。」(*5)としています。

 

2.石田三成は、なぜ筑前筑後移封を断ったのか?

 

 上記でみたように、秀秋の帰国及び越前国北庄領への転封は、朝鮮出兵での戦況悪化にともなう秀吉による緊急措置でした。このため、そもそもこの秀吉の決定に、石田三成はまったく無関係なのですが、「『藩翰譜』等々には、三成が秀秋をざん言して転封させた」(*6)と江戸時代の書物にはあるようです。

 これは、江戸時代の書物においては、三成は神君家康公に刃向かった大悪人として扱われており、しかも関ヶ原の戦い小早川秀秋が西軍を裏切った史実もありますので、この両者を結び付けて、根拠なくこのような誤った説が創作されたのでしょう。

 

 さて、秀吉は一時秀秋の旧領筑前筑後33万石を三成に封じようとしますが、三成は断ります。近江佐和山19万4千石から筑前筑後33万石に加増転封ですから、一見大抜擢に見えますが、なぜ三成は断ったのでしょうか。

 

 ここに、三成の重臣である大音新介に宛てた三成の書状があります。以下(現代語訳のみ)中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』から引用します。

 

「(秀吉殿は)我等には筑前筑後(福岡県南西部)をくだされ、九州の物主にしてくださるとの内意でした。しかしそのようなことをしては、(京近くの要衝である)佐和山に置ける人もなく、身近にて用事を申し付けられる人も少なくなるので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります。近江のその方の知行や蔵入(代官領)などが増えないことになれば、後悔もありますが、よくよく申し付けます。筑前筑後は蔵入になります。また、金吾殿(小早川秀秋)は越前へ替わり、我らにその地の代官を命じられました。近々筑前へ行きますので、その心得でいてください。このことを父や妻にも伝えてください。」(*7)

 上記の書状を見ると、三成が筑前筑後への転封を断った理由は、他に京近くの要衝である佐和山に置ける人もなく、秀吉の側近くで御用をこなす人間も少なくなってしまうので断ったということですね。

 

 しかし、これって額面通り受け取っていいのでしょうか。上記の理由も、もちろんあるでしょう。しかし、一番の問題は、この後筑前筑後両国は、後方支援のための重要な兵屯基地であったということです。この転封は、ただの加増転封はなく、ただちに朝鮮へ出兵し、(かつて小早川秀秋が担った)総大将格の働きを示せ、という条件と引き換えということではないかと思われます。

 

 筑前筑後33万石への大抜擢と引き換えに、現在苦境にある朝鮮の戦いに軍を率いて総大将格として乗り込み、この苦境を打破せよ、というのがこの加増の裏の意味なのです。

 

 元々三成は、朝鮮出兵反対派です。たとえば「戦いの始まる前に、博多の嶋井宗室と図って戦いをやめることを秀吉に進言した記録が享保年間(一七一六~一七三五)の著述集『博多記』に残って」(*8)います。また、『看羊録』には「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」(*9)とあります。こうした三成の言動を秀吉は苦々しく思っていたでしょう。

 しかし、こうした直言を吐く三成は粛清には至りませんでした。まあ、それほど三成の存在が秀吉政権にとって必要不可欠になっていたということでしょうか。

 

 今回の秀吉の三成に対する転封の意味は、朝鮮出兵に反対していた三成に対して加増転封という飴を与える代わりに、火中の栗を拾って総大将格として軍を率いて、事態を収拾せよという意味です。つまり出兵反対派である三成を、責任ある朝鮮出兵の総大将格に祭り上げて、三成の異論を封じ込めようというのが秀吉の狙いです。こうした毒まんじゅうを三成が受けたい訳もありません。

 

 しかし、秀吉の時代には加増転封も拒否すれば改易されるおそれがあります。織田信雄も加増転封を拒否して、改易されました。結果として、三成が加増転封を断ったにも関わらず、秀吉が改易できなかったのは、最早秀吉政権が切羽詰まっていて、今や秀吉政権の重要人物である三成を粛清あるいは改易して、これ以上の政権の大混乱を起こす余裕がなかったからともいえます。

 

 結局、秀秋の旧領は、蔵入地となり三成と浅野長吉が代官として管理することになりました。また、「慶長四年(一五九九)にもさらなる朝鮮派兵が計画されていたことがわかる。これは軍勢を蔚山に上陸させ、全羅道(赤国)を攻略したのち、漢江(都河)にまで迫ろうとするものであった。この派兵計画では、福島正則(羽柴左衛門大夫)、石田三成(石田治部少輔)、増田長盛(右衛門尉)の三名が大将に擬せられている。三成に筑前筑後を与えようとする思料は、こうした派遣計画とも関係するのかもしれない。」(*10)とあります。

 

 三成は、加増転封を断りましたが、三成らの出兵は既定事項だったようです。この出兵は慶長三年(1598)年八月十八日に秀吉が亡くなることで沙汰やみとなります。

 

  注

(*1)黒田基樹 2017年、p44~45

(*2)黒田基樹 2017年、p46

(*3)黒田基樹 2017年、p47

(*4)黒田基樹 2017年、p48

(*5)黒田基樹 2017年、p51

(*6)白川亨 2009年、p237

(*7)中井俊一郎 2012年、p52

(*8)中井俊一郎 2016年、p45

(*9)姜沆 2008年、p160~161

(*10)中野等 2017年、P359

 

 参考文献

姜沆(訳注 朴鐘鳴)『ワイド版東洋文庫 440 看羊録』平凡社、2008年

黒田基樹『シリーズ・実像に迫る 005 小早川秀秋』戎光祥出版、2017年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、20

12年

中井俊一郎「第六章 朝鮮・文禄の役 日本は無人に罷りなり候」オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文社、2017年