古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

佐竹義宣と石田三成について④~関ヶ原合戦、秋田にある石田三成の墓

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※以前のエントリーです。↓

佐竹義宣と石田三成について① 

佐竹義宣と石田三成について②~宇都宮国綱改易事件 

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

 

1.佐竹氏と関ヶ原合戦

 

(以下の文章は、森木悠介氏の「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収)を参照しています。)

 

 慶長五(1600)年六月、徳川家康は、会津上杉景勝に謀反の疑いをかけ、豊臣秀頼の名のもとに上杉征討軍を率いて東征の途につきます。

 家康不在となった上方で、三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)は、七月十七日「内府違いの条々」を発出し家康を弾劾して、家康を討つべく西軍が挙兵します。

 

 佐竹義宣は、七月十五日に軍法を発し、当初の秀頼の命令に従い出陣したものの、同二十三日、三成からの連絡があったのか、三成へ飛脚を派遣し、進軍を停止します。

 家康は、佐竹氏に人質の提出を求めますが、義宣はこれを拒絶、上杉氏に援兵を求めます。八月中旬には上杉氏と何らかの軍事協定を結びます。

 しかし、上杉氏の関東乱入も行われない中、単独で佐竹氏は動きようもなく、また内部にも親徳川勢力もあり足並みも乱れ、軍事行動を取ることができませんでした。

 結局佐竹氏は、西軍としても、東軍としても戦うことのないまま、慶長五年の天下分け目の戦いは九月十五日の関ヶ原の戦いで、東軍の勝利で終わることとなります。

 慶長七(1602)年五月、義宣は家康から出羽国への減転封を命じられます。これは、慶長五年戦役時の徳川軍への非協力的態度を咎められたことによります。

 義宣は、新領地秋田へ向かい、新領国の整備に努め、近世大名秋田藩佐竹氏・約二十万五八〇〇石の礎を築くことになります。佐竹氏は秋田藩の大名として明治維新まで続きました。

 

2.秋田にある石田三成の墓

 

(以下の文章は、佐藤誠氏の「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)を参照しています。)

 秋田県石田三成のものと伝わる墓が現存しているといいます。秋田県秋田市八橋(やばせ)にある帰命寺の本堂の近くにある紡錘形の墓碑がそれとされます。

 

 佐藤氏によりますと、この墓の由来については明治中期に近藤源八によって書かれた『羽陰温故誌』に以下のように記載されているとのことです。

 

「寺僧ノ曰、三成関ヶ原一戦二負ケ生捕リトナリ刑ニ処セラレシト雖左ニアラス。刑場ヲ脱シテ佐竹家ニ潜伏ス。後剃髪シテ念仏ノ行者トナリ、生キナカラ穴ニ入リ、鉦鈷ノ音絶ヘナハ我死セリト思ヘト、終ニ往生ノ素懐ヲ遂ケタリト。故二土俗称シテ穴入リ開山ト云々。」(*1)

 

 また、『羽陰温故誌』には、三成が出羽に落ち延びる際に、秋田藩佐竹義宣の関与があったことを暗に示唆する以下の記述があります。

「藩祖義宣公雄略義胆ノ名将如何ナル智謀ヲ以テ彼ノ末路ヲ全フセシメルヤモ知ル可カラス。」(*2)

 

 もっとも、帰命寺の開祖である長音上人は、供養塔の記載によると、延宝六(1679)年に79歳(又は77歳)で死去したとあり、石田三成が延宝六年まで生きていたとすると、百二十歳ということになり、とても常識では考えられないとのことです。

 三成研究で著名な白川亨氏もまた、長音上人の生きた時代と三成生存説とでは年代が合わないとし、無理を承知で関連づけるならば、年代的には三成の弟の子とでも位置づけられるのではないかとも述べています。(*3)

 

 上記の話からは外れますが、佐竹義宣の築いた久保田城跡は、現在千秋公園となっており、その一角に宣庵という茶室があります。その宣庵の庭に、三成ゆかりの舟型の手水鉢が残されています。この手水鉢は朝鮮の役の時に加藤清正の家臣が朝鮮から持ち帰り秀吉に献上したもので、その後いかなる故あってか三成の計らいで佐竹家にもたらされたものと伝わっています。(*4)

 

 秋田の三成の墓は「伝説」の類と思われますが、佐竹義宣石田三成の親交を偲ばせる「伝説」といえるでしょう。

 

 注

(*1)佐藤誠 2016年、p91

(*2)佐藤誠 2016年、p93

(*3)佐藤誠 2016年、p94~95

(*4)佐藤誠 2016年、p96

 

 参考文献

・森木悠介「12 豊臣政権と佐竹氏-関ヶ原合戦への道」(高橋修編『佐竹一族の中世』高志書院、2017年所収

佐藤誠「第十二章 羽後・秋田 帰命寺の三成の墓」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)

結城秀康と石田三成と石田切込正宗

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 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が死去し、その翌日の四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は結着します。

 

(七将襲撃事件の黒幕は、徳川家康その人であり、当時からそのように認識されていたことについては、下記で書きました。↓)

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 三成が伏見から佐和山に隠遁する際に、七将が途中で三成を襲撃することが懸念されたため、家康は次男秀康に「護衛」を命じています。しかし、「護衛」といいますが、上のエントリーで書いた通り、当時から七将襲撃事件のそもそもの黒幕と家康は目されていますので、家康の息子である秀康が三成の佐和山行を「護衛」するといっても、それは「送り狼」そのもので、全く「護衛」の意味がないのですね。むしろ、その「護衛」に殺されかねないので、何の安心もできないことになります。

 

 ここで、堀越祐一氏の『豊臣政権の権力構造』に以下の記述があります。

「閏三月六日、三成は子息を家康の元に送っている。当然人質であろうが、一方で『多聞院日記』慶長四年閏三月十一日条には「石田治部佐保山(佐和山)ヘ家康子人質ニ取置候て城ヘハイリ候」とあって、家康もまた実子を三成の元へ送ったとされる。となれば、相互に人質を交換したということになる。』(*1)(太字・下線部筆者)

 ただし、堀越氏は「もっとも『多聞院日記』は誤った情報も多く記されているから、これをすぐに信じるのは危険だが」(*2)とも書いていますが、他に『十六・七世紀イエズス会日本報告集』にも、

「彼(筆者注:徳川家康)は軍勢を率いてそこ(筆者注:伏見城)へ到着すると、諸侯の勧めを入れて次の条件で兵力を撤退させることを約束した。すなわち(石田)治部少輔は、これまで帯びていた官職を捨てた身分に落とされ、今後は国家統治の任を離れ、己がすべての軍勢とともに自領である近江の国にずっと引き籠っているように、と。このために両派の中の諸侯たちの間で調停が行われ、(石田)治部少輔が、彼らの間の安定した友情の人質として家康の幼童とともに自分の邸へ帰る時、(小西)アゴスチイノ(筆者注:小西行長)は連れ立って行くことを望んだ。(後略)(筆者注:この行長の望みは三成の反対(行長を慮ってのことでしょう)によって実現しなかったようです。)」(1599年度年報、ヴァリニヤーノ師による)(*3)(太字・下線部筆者)

 と、家康方の人質の存在が記載されており、これらの史料を信用するならば、やはり三成の伏見城退去、佐和山城隠遁に伴い、三成と家康との間で人質の取り交わしがあったと考えるのが妥当です。

 このように、三成と家康は相互に人質を交換している訳です。七将襲撃事件で三成方が交渉して、人質を交換している相手は家康であり「七将」ではありません。

 これは、七将襲撃の黒幕・首謀者が家康だということが、三成も含む当時のすべての武将から分かり切っていることだったからです。

 

 人質のうち三成方の人質は、三成の嫡男重家のことだと思われます。この時の人質は、後の前田利長家康暗殺未遂疑惑事件の時と違って、江戸に送られたわけではありませんので、恒常的なものではなく、三成が家康の「裁定」による指示通りにおとなしく佐和山に行くことを保証するために、家康に預けられた「一時的な」人質と考えられます。

 その後、重家は隠遁した三成に代わって「石田家当主」として大阪城の秀頼に奉公する形になったと考えられます。

 もう一方の家康方の人質ですが、この人質こそが家康の次男である結城秀康と考えられます。つまり、秀康は三成の「護衛」ではなく、三成が伏見から佐和山まで行く道中に家康方の襲撃を受けないことを家康が保証するための一時的な「人質」として、三成に同行したのだといえます。(当時の秀康の年齢はかぞえで26歳、これに対して『十六・七世紀イエズス会日本報告集』には「家康の幼童」とあり、年齢が合いませんが、他に該当する人物が見当たらないため、「幼童」というのは、イエズス会の記述者の誤認識だと思われます。)

 

「人質」だった秀康が、後に「護衛」とされたのは、今回の七将襲撃事件を表面上「豊臣家中の内輪もめを、善意・中立的な仲裁役である家康が裁定する」(これは虚構のストーリーであり、当時の誰も信じていなかった訳ですが)という形に卑小化して大事にせず処理する方法が、家康方も反家康方も都合が良かったからでした。

 (これは、このまま妥協せず両者が対立を続ければ、結局は家康方と反家康方の大戦争になってしまうからであり、この時点では戦争は回避したいのが両者の思惑でした。

 しかし、結局この七将襲撃事件の両者の取引による結着は一時的な戦争回避に過ぎず、翌年(慶長五(1600)年)、家康方と反家康方の大戦争になります。)

 

◇                  ◇                 ◇

 

 結城秀康は、天正二(1574)年二月八日徳川家康の次男として生まれます。幼名を於義丸といいます。天正十二年(1584年)十二月十二日、豊臣家と徳川家の和睦条件として人質(羽柴秀吉の養子という扱いですが)として、三河から大坂に行きます。

 この人質生活の頃、秀康と石田三成との親交があったのではないかと思われます。秀康は親交のある三成を守るために、あえて自ら道中の安全を保障する「人質」役を買って出たのかもしれません。

 秀康は近江瀬田まで三成と同行して、迎えに来た三成の家臣に引き継いでいます。三成はここで領内に入ったので、秀康にその後の見送りを辞退し、これで秀康の「人質=護衛」役は終了します。わざわざ「人質=護衛」として命を張って三成を守ってくれた秀康に三成は感謝し、別れに際して秀康に対して礼を述べて、自らの佩刀「正宗の銘刀」を秀康に送っています。(*4)この正宗の銘刀は、棟に二ヶ所大きな切込疵があることから「切込正宗」ともいわれます。

 秀康は、この正宗の銘刀を「石田正宗」と名付け、生涯愛用したといいます。秀康死後は、子孫の津山松平家に伝わりました。現在は東京国立博物館に所蔵されています。

 

 結城秀康が、三成に対して返礼のために贈ったのが、お抱え刀工「越前康継」作の次の銘刀です。

 

「越前康継の銘刀

一、刻銘(表面)「以南蛮鉄越前康継作之」

二、刻銘(裏面)「為石田治部少輔」の刻印(外崎覚氏宛、岩木山神社宮司山田稲城氏書簡、銘刀の拓本も現存する。) 

 明治以降、杉山燾之進氏(筆者注:三成の子孫の方です)が津軽藩校東奥義塾再建資金捻出のため白取家に担保提供し、杉山家には現存しない。ただ、その拓本が弘前図書館に残されている。(『温故志林』)。

 越前康継は松平秀康没後、徳川家康の御抱え刀工となり、葵康継の称銘を許された著名な刀工である。」(*5)

 

結城秀康が七将襲撃事件の時、「護衛」ではなく、「人質」として三成に同行したというのは、筆者の推測によるものですので、よろしくお願いします。)

 

 注

(*1)堀越祐一 2016年、p215

(*2)堀越祐一 2016年、p215

(*3)松田毅一 1988年、p123~124

(*4)白川亨 2009年、p127

(*5)白川亨 2009年、p127~128

 

 参考文献

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第3巻』同朋舎出版、1988年

佐竹義宣と石田三成について③~義宣、七将襲撃事件で三成の危急を救う

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 慶長四(1599)年閏三月三日に前田利家が死去し、その翌日の四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

(七将襲撃事件の黒幕は、徳川家康その人であり、当時からそのように認識されていたことについては、下記で書きました。↓)

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 石田三成が大坂から伏見へ逃げる際に、以前より親密な関係にある佐竹義宣の助力がありました。渡部景一氏の『佐竹物語』より引用します。

 

「『佐竹義宣譜』によると、義宣が三日の夜(筆者注:諸書では、七将襲撃事件は閏三月四日となっていますが、ここでは三日となっています。)に伏見の屋敷で急報を受けたとき、相馬義胤と一門東義久が同席していた。急遽二人を大坂に走らせ、自分もあとから馬で駆けつけた。義宣は、三成をひそかに女輿に乗せて脱出させ、宇喜多秀家の屋敷に逃したが(筆者注:三成はこの後に伏見に移り、伏見城内の治部少丸に籠ります。)、それでも危険を感じて、伏見の家康の屋敷に保護を求めた。(筆者注:義宣以外にも、大谷吉継北政所が家康に「仲裁」を求めていますが、これは家康自身がこの襲撃事件の首謀者であることを暗に理解した上での、互いに知らぬふりをした茶番劇です。)それほど緊迫した情勢であったと思える。

 まもなく七将が追いついて、三成の引渡しを求めたが、家康にさとされ、危期をまぬがれた。家康はまもなく、三成の居城佐和山城に届け、騒動の責任をとらせて職掌をとき、蟄居を命じた。三成はこれで中央政界から失脚した。

 この事件直後、古田織部重勝が義宣を訪ねて、家康に釈明するよう忠告した。重勝は松坂の城主で、義宣の茶の湯の師匠である。

 そのとき義宣がいうには、自分はもとより諸将にうらみはない。三成が公命にそむいたこともないのに、諸将は私情で三成を討とうとする。自分はかつて三成に恩を受けた。今かれの危急をみて、命にかけて救っただけである。このことを家康に謝すのがよいとすれば、御辺よきにはかられよと答えた。

 重勝は、義宣のとりなし方を、茶友の細川忠興(筆者注:細川忠興は、七将襲撃事件の七将の一人です。)に頼んだ。忠興の話を聞いた家康は、義宣身命にかけて旧恩に報いたのは、義というべきである。自分には異存はないと答えたという。

 その後、義宣は、家康を伏見の向島の邸に訪ねて、右の事情を釈明した。

 久保田藩士山方泰純の『秋藩紀年』に「閏四月、義宣公故有テ神君(家康)ノ向島ノ亭江御出、神君モ又、秀忠公御名代ニシテ義宣公ノ御殿ニ御出」とあるのはこのことを指している。ただし、閏四月とあるのは、閏三月の誤りである。また、秀忠が義宣を訪ねたことは、『佐竹家譜』にもあるが、当時秀忠は江戸にあったはずであるから、誤伝ではないかと思われる。あるいは使者の派遣であったものか。」(渡部景一『佐竹物語』無明舎出版、1980年)

 

 佐竹義宣が三成の危急を救う事に、なぜ家康への釈明が必要だと重勝は考えたのでしょうか。なぜ、家康への取り成しに七将襲撃事件の襲撃者の一人である細川忠興が登場してくるのでしょうか。

 これらの記述からも、徳川家康が七将襲撃事件における、善意の中立的な仲裁者ということはありえず、事件の首謀者その人であり、当時においても皆からそのように認識されていたことが分かります。

島井宗室と石田三成について

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 島井宗室(天文八(1539)年~元和元(1615))は、戦後時代後期から徳川初期にかけて活躍した博多の豪商です。神屋宗湛・大賀宗九と並び「博多の三傑」と呼ばれます。

 織田信長の死後、島井宗室は豊臣秀吉の保護を得て、畿内-博多-南蛮・朝鮮の交易路を築き、貿易品の取引で巨万の富を得ます。

 

 秀吉が朝鮮出兵を企図すると、宗室はこれを阻止するため、同じく出兵反対派である(対馬の大名)宗義智小西行長石田三成と協力して、渡海して朝鮮との交渉にあたり戦争の回避を図るよう折衝を行いましたが、結局この交渉は秀吉の容れるところとはならず、秀吉は諸大名に朝鮮へ出兵を号令し文録元(1592)年、文禄の役がはじまることになります。

 

 この頃の宗室の逸話について、田中健夫氏の『島井宗室』より引用します。

 

「ここで、余談にわたるが、朝鮮役の勃発にあたって宗室が示した態度に関する逸話を紹介しておこう。享保年間鶴田自反の撰した『博多記』に見える次のような話である。

 秀吉公が大坂の城から島井宗室をおよびになられたので、夜を日についでのぼったところ、大坂の淀川口で石田三成が出迎えた。三成が宗室に言うには、「今度そなたをおよびになられたのは、朝鮮出兵の思召しによるもので、其方は朝鮮にも毎度渡海しているので、くわしい様子をお尋ねになられるだろう。そのときはこのように申し上げよ。」といちいち言いふくめられた。秀吉公に御対面したところ、「朝鮮出兵を思い立ったので其方を呼んだ、知っている通りを述べよ。」という御言葉であった。宗室は、「朝鮮は韃靼(満洲)につづき、要害の地であって、日本とは大変様子が違っている。出兵のことは断念した方がよいでしょう。」と三成が教えた通りを申し上げた。秀吉公は大変機嫌を悪くして、「自分が思い立てば唐土四百余州を攻め潰すことも掌(たなごころ)を反すように簡単なことである。其方は商人故それがわからないのだ。」と仰せられ、奥に入られてしまった。このことがあってのち宗室は秀吉公からうとんぜられるようになってしまった。」(*1)とあります。

 

 石田三成と島井宗室は仲が親しく、三成が博多を訪れた時は宗室の屋敷を居所としていました。また、後に三成が筑前の代官を務めた時は、宗室は蔵入地の百姓等と代官三成の中間に立って大いに奔走するところがあったとされます。(*2)

 

 注

(*1)田中健夫 1961年、p158~159

(*2)田中健夫 1961年、p177~182

 

 参考文献

田中健夫『島井宗室』吉川弘文館、1961年

佐竹義宣と石田三成について②~宇都宮国綱改易事件

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 前回のエントリーの続きです。

 ※前回のエントリーは、↓

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1.忍城攻め、宇都宮仕置、太閤検地

 

 天正十八(1590)年五月二十六日に、増田長盛石田三成のはからいの元、秀吉に拝謁した佐竹義宣と、宇都宮・結城・多賀谷・天徳寺ら北関東の大名・国衆はその後、石田三成らとともに、館林・忍城の両城を攻めます。

 まず、五月三十日に館林城を開城させた三成らは、続いて忍城を攻めます。三成の一隊が忍城に着いたのは、6月5日以降のことです。

 忍城攻めの詳細については、下記で検討しました。↓

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 七月五日小田原城開城・北条氏降伏。七月十六日に忍城開城。

 七月十七日に秀吉は小田原を発し、二十六日に下野宇都宮に入り「宇都宮仕置」を行います。

 中野等氏によると、「ここで伊達政宗最上義光佐竹義宣をはじめ、岩城(陸奥岩城)・戸沢(出羽仙北)・南部(陸奥南部)といった諸大名の領知が確認された。なお、三成が久しく肩入れしてきた会津の旧主蘆名義広の独立大名としての復活は、実現しなかった。常陸国内を転戦していた義広は、結局秀吉への拝謁に遅れをとってしまったからである。ただし、遅参は理由のあるところでもあるし、実家佐竹家や石田三成の後ろ盾をうけ、佐竹家与力大名として存続することが認められている。以後、実名を盛重と改め、常陸の江戸崎を領することとなる。」(*1)とのことです。

 

 文禄三(1594)年の十月から年末にかけては、三成・長盛の家臣から奉行が派遣され佐竹領の検地が行われました。これにより佐竹氏の領知は従前の領知高二十七万五千八百石から五十四万五千八百石へとほぼ倍増となり、佐竹氏としての大名権力の基盤強化を確立します。(*2)

 

 ※関連エントリー

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2.宇都宮国綱改易事件

 

 慶長二(1597)年十月、佐竹義宣の従兄弟である下野国の大名・宇都宮国綱(国綱の母は、義宣の父義重の妹です)が突如改易され、縁戚である佐竹氏もこれに連座され処分されそうになるという事件が起こります。しかし、取次である石田三成の取り成しでこの時佐竹氏は処分をまぬがれ、事なきを得ることになります。

 この改易事件の原因は、『栃木県の歴史』によると以下のように説明があります。

 

「慶長二(一五九七)年十月七日、宇都宮国綱はとつぜん秀吉から所領没収のうえ備前国宇喜多秀家預けとする改易処分をいいわたされた。これを近世後期の歴史書『宇都宮史』(下野庵宮住編著)は、「宇都宮崩れ」と称し、その原因を浅野氏による検地の結果と記している。検地の結果が「大幅な打ち出し」となり国綱による所領高の報告に誤りがあることが発覚、秀吉の怒りを買ったというのである。ついに十月十四日、国綱は上意にしたがい城を立ちのき、同時に譜代相伝の臣たちも一挙に浪々の身となり果てたという。国綱の宇都宮出立には、ゆかりの寺院わずか六カ寺が京まで供をしたと伝えている。

なお、『宇都宮史』は、国綱改易の原因について、前節とは異なる説のあったことも紹介している。すなわち、宇都宮氏の家督をめぐる家臣内部の抗争を主因とする説である。国綱に継嗣がないため、重臣の今泉四郎兵衛・菊池松音軒らが、浅野長政の次男長重を養子に迎えようと話を進めていた。これに国綱の弟芳賀高武が宇都宮氏に嗣子なきときは芳賀氏より相続するのが習いであると強く反対し、即座に兵を動かし今泉・菊池の両家を攻めたため、内部抗争が露見し、しかも浅野長政が通告したことから秀吉の不興を買い、国綱の所領はもちろん、一門類葉、多功・芳賀氏に至るまで所領を没収されたというのである。「御家騒動」を引きおこした家臣間の内部抗争の背後には、彼らがそれぞれに気脈をつうじていた浅野氏と石田氏との秀吉政権内部における権力闘争の存在を指摘するむきもある。」(*3)

 

 上記で述べられた原因についてですが、前者の「所領高の報告に誤りがあることが発覚」については、そもそも検地をすれば「大幅な打ち出し」になるのは、佐竹氏や島津氏で行われた太閤検地をみれば明らかなことであり、「大幅な打ち出し」があったから、「所領高の報告の誤りがあった」という事にはなりません。(そのように無理矢理の屁理屈を秀吉や長政がつけたというならば別ですが。)後者の「宇都宮氏の家督をめぐる家臣内部の抗争」が主因という説が妥当と考えられます。

 いずれにしても、この宇都宮国綱改易事件には浅野長政が関与していたと考えられます。

 

 この事件については、五奉行のうち、佐竹氏の取次である石田三成増田長盛と、宇都宮氏を与力大名として従えていた浅野長政の対立を引き起こし、秀吉死後に五奉行の中で三成・長盛が長政に対して不信感を抱き、距離を隔てる原因となった事件といえますので、下記に詳細について検討したいと思います。

 

(以下、梯弘人「豊臣期関東における浅野長政」(『学習院史学49,12011-03』所収)を主に参照・引用しました。)

 

 まず、宇都宮国綱宛に上洛を呼び掛ける天正十四(1586)年三月十一日付の石田三成書状から、はじめに宇都宮国綱と豊臣政権との窓口になっていたのでは石田三成です。(*4) 

 そして、佐竹義宣とともに石垣山(小田原市)において国綱は、秀吉に出仕し、正式に豊臣大名として認知されることになりました。この出仕に際しては石田三成増田長盛が仲介を行っています。(*5)

 また、その後朝鮮出兵の際に、宇都宮氏をはじめとして里見氏、那須氏、成田氏が「増田右衛門尉一手」として増田長盛の指揮下に編成され、釜山浦の城普請工事に動員されていたことが当時の書状から確認できます。ただし、この指揮関係は朝鮮出兵晋州城攻撃に際して作成された一時的な計画であり、増田長盛が軍事指揮をふくむ政権からの上意下達を、恒常的に担った取次であったかどうかまでは不明とされます。その宇都宮氏と増田長盛の関係も以下の書状により、政権中枢の政策によって上から変更されました。(*6)

 

  以下、梯弘人氏の「豊臣期関東における浅野長政」から引用します。

「史料三 豊臣秀吉領地判物

甲斐国之事、令扶助之訖、全可領知候、但此内壱万石、為御蔵入、令執沙汰、可運上候、并羽柴大崎侍従(伊達政宗)、南部大膳大夫(南部信直)、宇都宮弥三郎、那須太郎、同那須衆、成田下総守事、為与力被仰付候之条、成其意、可取次候也、

 文禄弐

  十一月廿日        (秀吉花押)    

浅野弾正少弼浅野長政)とのへ    

浅野左京大夫浅野幸長)とのへ

 

 本史料は文禄二年に浅野長政・幸長親子にあてて出されたものである。内容は浅野親子に甲斐国を宛行い、伊達氏、南部氏、宇都宮氏、那須氏、那須衆(那須地方の小領主層)、成田氏を「与力」として編成し、これらの領主たちの「取次」を行うよう命令を下したものである。文禄二年の十一月時点において、朝鮮半島では一時的な講和が成立し、具体的な軍事作戦が計画されている状況下ではない。つまり軍事作戦という臨時的な状況下における編成ではなく、ある程度恒常的な関係として「与力」の編成が行われたと考えられる。

 甲斐国の領有と抱き合わせの命令であるところから、徳川家康対策であると考えられ、いざ徳川氏との合戦になったら、浅野長政が彼らを軍事指揮下において、戦闘が行われるという想定でのものであろう。

 この浅野長政の「与力」編成と「取次」の任命という事象は、増田長盛の段階からの発展をみることができる。編成される領主の中に下野の領主に加えて伊達氏、南部氏が加えられた。その上、軍事指揮権のみではなく、地方領主の豊臣大名化の推進と、それぞれの領国への介入・領主への統制に関する権限を持つことになった。浅野長政に対して上から権限を設定したことは、豊臣政権の地方統制を考える上で、その意義は大きいと評価できよう。

さて、宇都宮氏と浅野長政の関係として注目すべきは、宇都宮領検地実行に浅野長政が関与している点である。文禄四年(一五九六)、文禄五年(一五九七)に作成された検地帳に浅野氏の関与が確認できる。恒常的な関係で、なおかつ地方領主の豊臣大名化を進めているところから、浅野長政は宇都宮国綱の取次であったと評価できよう。」(*7)

 

 つまり、宇都宮氏に対する豊臣政権の窓口は、はじめは増田長盛石田三成であり、宇都宮氏は長盛・三成との関係が深かったわけですが、文禄二年十一月二十日から、宇都宮氏は浅野長政の「与力」として、秀吉政権に位置付けられたということです。

 

 次に、慶長二年(一五九七)におきた宇都宮国綱改易事件について、前掲書より引用します。

 

「改易された宇都宮国綱は岡山に蟄居することとなった。その頃に作成されたのが史料四である。

 

史料四 

宇都宮国綱書状

 返々、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、

来札披見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、増右(増田長盛)・石治(石田三成)内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、恐々謹言、

  (慶長二年)霜月九日     国綱(花押)

  「七郎殿(結城朝綱)     国綱」(見返シ奥切封ウハ書)

 

 本史料は「身上相果」という表現などから「宇都宮崩れ」直後に作成された史料であると考えられ、宇都宮国綱が弟である結城朝勝に近況を伝えたものである。宇都宮国綱は、突然改易された事は天道によるものであったとしても、あまりになげかわしいものだと記し、配流先の岡山にいることを伝えている。また増田長盛石田三成はこれまでと変わらず懇切にしてくれるので、彼等を頼みとしていることを伝え、最後に手元不如意の状況を述べ、結城朝勝に岡山訪問を思いとどまって、関東にいるようにと述べている。

 宇都宮氏への改易について「不斗様子を以身上相果」と宇都宮国綱は意識している。豊臣政権中枢における宇都宮氏の改易政策の立案と上申と、それが決定される過程そのものを宇都宮国綱は政権側から知らされていなかったことが推察される。宇都宮氏の身上に関する動きについて、本人に宣告されていないという状況である。

 また、宇都宮氏と政権の繫がりを示す上で着目されるのは、宇都宮国綱が「与力」として付属した浅野長政ではなく、かつて取次関係が存在した石田三成増田長盛を頼りにして地位の回復を期待している事実である。改易を主導したのが浅野長政と考えられるので、彼を頼るというのは無理がある。また地方領主が様々なルートを駆使して政権中枢に結びつき、身上保障を確実なものにしようとしてきた事例は既に周知のものである。石田三成を頼ったのは宇都宮国綱の妻の実家である、佐竹氏の取次であった関係からであろう。また、後述するように佐竹氏も「宇都宮崩れ」に巻き込まれるので、石田三成が関与する可能性が存在した。ここで大切なのは浅野長政増田長盛石田三成との関係性である。

 宇都宮国綱は増田長盛石田三成を頼り再起を期し、いわゆる慶長の役に際して渡海しているが、結局再興はならなかった。この事実は浅野長政増田長盛石田三成の運動を阻止することができたことをあらわすであろう。秀吉の朱印状により政権から設定された取次であった浅野長政は、宇都宮氏の身上に関する他の者を介した上申を排除する権力を持っていたのである。」(*8)

 

 宇都宮国綱改易事件は、縁戚である佐竹氏も危うく連座され、処分されそうになりますが、三成の取り成しで処分を免れることとなります。

 

「そして「宇都宮崩れ」における佐竹義宣石田三成の関係を示す史料が次のものである。

 

史料五 

佐竹義宣書状写

猶々、宇都宮闕所ニ付而、宮之荷物一駄も我等分国中へ相透申候ハヽ、可為曲事由、かたく冶部少輔を以被仰付候間、半途よりも太田の留守居へ被仰越、宮之荷物一たんもとをし不申様ニ可被仰付候事、肝要ニ候、境目へハ涯分申付候、以上、急度以早飛脚申入候、宇都宮殿御不奉公有之ニ付而、闕所ニ被仰付候、千本・伊王野、是も闕所ニ被仰付候、就之我等身上なとへも、上様より仰出之儀も御座候、冶少被入御念被仰分候間、身上相続候て満足仕候、むさといたしたる義をも申唱候共、御本ニ有間敷候、次御手前御上洛之事、達候者、冶部少輔殿直御断ニ候、神も偽無之候、一刻も早速御稼、御登尤候、宇都宮へ浅野弾正方為御検使被罷下候、路地中ニ而はるかに御よけ被成、御手前御上洛之儀を弾正方不被存候様ニ御透候へと、冶少御内儀にて候、何も少之儀も上様御耳へ此中猶以入申候間、遥に無御登候間、一刻も早速御登可然之由被仰事にて候、尚御登之上可得御意候間、不宣候、恐々謹言、

  (慶長二年) 次郎   

十月七日  義宣(花押)  

御北城(佐竹義重) 人々御中

 

 本史料は佐竹義宣から父である佐竹義重に送られた書状である。内容は「宇都宮崩れ」に関わるものである。まず宇都宮氏、那須衆の千本・伊王野氏に対して、秀吉から改易命令が出たことが述べられている。宇都宮氏の改易理由は「御不奉公」としており、具体的な理由までは判明しない。

 続いて佐竹氏へも改易命令が下ったものの、石田三成の取り成しによって、佐竹氏の存続が認められたことが述べられている。取次であった石田三成が佐竹氏のために動き、それによって佐竹氏の身上保障が為されたことを確認できる。

 更に、石田三成から佐竹義宣への「内儀」として以下のことが伝えられている。佐竹義重の一刻も早い上洛が必要であるが、宇都宮領への検使として浅野長政の関係者が向かうので、浅野方に佐竹義重の行動が悟られないように、気をつけて上洛するようにということであった。また追而書では、宇都宮領からの荷物を佐竹領に通さないようにと石田三成を通じて命令があったので、佐竹義宣が国境に命令を下したということが記されている。

 以上の内容から「宇都宮崩れ」を主導したのは、浅野長政であったと考えて良いであろう。また、佐竹義重の上洛が浅野方に知られてはまずい事態に発展する可能性を秘めていたことも推測できる。例えば、佐竹義重の活動を謀反の動きとして捉えられ、浅野方の介入を許してしまうとか、佐竹義重の上洛が妨害され、佐竹氏による弁明・上申が不可能とされるような事態を想定するのは不可能ではあるまい。いずれにせよ、浅野氏との緊張関係にあったことが窺われる。宇都宮領の処分は政権の意思として決定しており、それに沿った形での石田三成の指示伝達である。本史料中における石田三成の佐竹氏への関与は、「御内儀」として内々の指示・指導という形であったこともそれを裏付けよう。そして石田三成は佐竹氏への改易処分を事前に阻止するという形で動いたわけではなく、佐竹義宣も秀吉の命令が一旦下ったと認識している。浅野長政の発言力が強かったことを示していよう。

 一方で、一旦下された決定を覆すという形で、石田三成による取り成しが成功している点も見逃せない。浅野長政石田三成が完全に上下関係のみで編成されていたならば、石田三成浅野長政の動向を制約することができずに、佐竹氏も宇都宮氏ともども改易されていたであろう。つまり、石田三成が佐竹氏の取次であり、佐竹氏からの下意上達に関する権限において、指揮を受けることはなかったと見てよいだろう。そのため、石田三成は佐竹氏へ下された命令を撤回させ、佐竹氏の存続が認められたと考えられる。佐竹氏の取次ではなかった浅野長政に対して介入する隙を与えなければ、むやみに佐竹氏が取り潰されることはなかったということがいえよう。

 以上の状況から、「宇都宮崩れ」を巡る状況における石田三成浅野長政の関係を考察していきたい。

 浅野長政は宇都宮氏、佐竹氏への改易処分を主導し、宇都宮領接収にも関与していた。改易命令が下された宇都宮氏は浅野長政の「与力」であり、その上「取次」を受ける立場にあった。一方で、佐竹氏は浅野長政との関係は確認できず、石田三成との強いつながりが存在した。

 その石田三成は「宇都宮崩れ」に際して、浅野長政の主導する状況の下で活動することとなった。その中で取次関係にあった佐竹氏の取り成しを行い、佐竹氏に対する改易命令は撤回され、佐竹氏の存続が果たされた。しかし、佐竹義重の上洛が浅野方に知られたり、宇都宮領接収の検使である浅野氏関係者に見つかったりする危険性について、気を配らなくてはいけなかった。その上、宇都宮領の荷物が佐竹領に流入しないように警戒する必要もあった。佐竹氏への改易命令が撤回されたとはいえ、浅野長政に隙を見せないようにする必要があった。取次であった石田三成の行動が、そのまま政権の意志として反映されたというわけではなかったことが分かる。

 ただし、佐竹氏へ「内儀」を伝え、行動に気をつけていれば浅野長政であっても容易に付け入ることができなかったといえよう。浅野長政石田三成の上申を阻止する地位にはなかったが、佐竹氏に対する秀吉の意向を左右する力を持っていた。

「宇都宮崩れ」を巡る状況においては、浅野長政に大きな権限や主導性が認められる。つまり、浅野長政は政権の意志決定に関与しうる立場にあったと言えよう。ところが、佐竹氏への改易命令は石田三成を介する上申によって撤回されてしまった。すなわち、「取次」という視点から見れば浅野長政石田三成の関係は単純な上下階層関係ではなく、「並列」と考えたほうが妥当ではないだろうか。石田三成と佐竹氏との取次関係に対して、浅野長政は外部にあった存在だったと考えられる。つまり、政権の内部において取次と地方領主の関係を解消するためには、秀吉の意思によらねばならなかったと考えられるであろう。「上から」設定された取次であれば、秀吉による解任がなければ、各地方領主と独占的に関係を持つことができたと位置づけることができるだろう。

 結局浅野長政は、佐竹氏への改易命令を貫徹させることはできなかった。それは石田三成が佐竹氏の取次だったためであった。浅野長政は秀吉の意志決定に大きな影響力を有していたが、石田三成による佐竹氏の意志を上申する行動を阻止できるような関係は持っていなかった。そこに浅野長政の限界があったと評価することができる。

 また一方の佐竹氏は、従来関係を持っていた石田三成を頼り「内儀」の指導まで受けることによって存続を果たした。その取次であった石田三成は、政権の意志決定に直接参与し、改易命令を事前に阻止することはできなかったが、改易命令を撤回させることに成功した。石田三成による佐竹氏の囲い込みが奏功したと位置づけることができるだろう。こうした関係が、後年関ヶ原合戦時に佐竹義宣が西軍よりの動きをする理由の一つになったと推測できる。」(*8)と梯弘人氏は述べています。

 

3.まとめ

 

 以上から以下のことが分かります。

 

(1)秀吉の天下統一以前は、増田長盛石田三成が、佐竹氏・宇都宮氏の取次を務めており、交友関係も深かったのですが、おそらく秀吉の方針により、文禄二年十一月二十日以降は、宇都宮氏は浅野長政の「与力大名」として、長政の従属下に組み込まれることになりました。これに対して、佐竹氏はそのまま長盛・三成との取次関係が維持されることになります。 

 

(2)慶長二年十月の宇都宮国綱改易事件においては、長盛・三成の働きかけは通らず、宇都宮氏を与力として従える浅野長政の意向が通り、宇都宮氏については改易となり、復領も結局認められませんでした。

 しかし、佐竹氏については、長政の介入は成功せず、長盛・三成の取り成しが通り、佐竹氏は処分を受けず無事に済みました。そのためには長政に付け入られる隙を与えないために用心する必要があり、三成らは色々と佐竹氏に助言する必要がありました。

 

 (3)長盛・三成は、かつて秀吉政権側の連絡の窓口となり、交友関係もあった宇都宮氏を長政の画策により改易に追い込まれ、長盛・三成の働きかけにも関わらず結局復領はなりませんでした。

 その上、取次先の佐竹氏の改易まで介入され、危うく佐竹氏も改易に追い込まれるところでした。長盛・三成としては、長政に武将としての面目を潰されたも同然であり、この事が秀吉の死後に長政に不信感を抱き、距離を置かれる原因となったと考えられます。

 この五奉行内の対立関係・相互不信が、後の七将襲撃事件で長政の子の幸長が七将襲撃事件に加わることに関わってくるのではないかと思われます。

 

 なお、従来の説で、浅野長政は秀次事件において連座して一時期失脚しており、その裏には長盛・三成の陰謀があったかのような説がありますが、実際の長政と秀次事件との関わりは不明であり、またそもそも、幸長が能登へ配流処分となったのは、秀次事件(文禄四(1595年)の翌年の文禄五(1596)年であり、秀次事件と直接関係があったのかも不明ですし、これについて長盛・三成が関与をしていたという史料もありません。

 

※詳細は、下記エントリーを参照願います。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

※以下のような記事も、三成が「武闘派」を召し抱えたという視点だけではなく、宇都宮氏と交友関係のあった三成が、改易された宇都宮氏の一族、芳賀高武を召し抱えた、という視点でも見ると良いかと思います。↓

www.sankei.com

 ③に続きます。(作成中)

 

  注

(*1)中野等 2017年、p115

(*2)中野等 2017年、p245~246、252~253

(*3)阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良 1998年、p163~164

(*4)中野等 2017年、p33~34

(*5)梯弘人 2011年、p20~21

(*6)梯弘人 2011年、p21~22

(*7)梯弘人 2011年、p22~23

(*8)梯弘人 2011年、p23~24

(*9)梯弘人 2011年、p24~27

 

 参考文献

阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社、1998年

梯弘人「豊臣期関東における浅野長政」(『学習院史学 49、2011-3』所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

佐竹義宣と石田三成について①

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 常陸の大名佐竹氏は、天正十一年以前から中央の羽柴秀吉への接近をすすめていました。これは、同年四月一日佐竹義重上杉景勝に送った書状のなかで、「義重の事は、秀吉へ無二に申し通し候」(*1)と述べており、それより以前に両者の通交が成立していたことが分かります。

 佐竹氏を含む北条氏に従属しない北関東の大名・国衆は、南関東の大勢力である北条氏と対立・抗争を繰り返しており、北条への牽制のため中央の秀吉と結びつく必要がありました。

天正十二(1584)年に、秀吉と、織田信雄徳川家康の対立が深まり、小牧・長久手合戦等の戦が起こると、家康は北条氏との同盟関係を強化しますので、秀吉の方としても、北条氏が家康に援軍等を送らないように牽制をさせるため、遠交近攻の外交術として佐竹氏ら北関東の大名と同盟関係を築く必要がありました。

この頃より、石田三成は秀吉の下で佐竹氏・宇都宮氏・多賀谷氏等の北関東、特に常陸国の大名・国衆との書状の取次や副状の発出を行っており、佐竹氏らとの外交を行っていたことが分かります。

天正十七(1589)年六月に出羽米沢の伊達政宗が奥州会津の芦名義広領に侵入し、義広とそれを支える佐竹義重・義宣(義広は義重の子、義宣の弟です)連合軍を擦上原で打ち破り会津領を奪取します。

これに対して三成は芦名家臣に対して鉄砲・火薬・兵糧等を送り、芦名氏を救援しています。秀吉は政宗会津奪取を「惣無事」令違反として糾弾しましたが、これに対して政宗は弁明をして恭順を装いつつ、越後国内の津川城に拠っていた芦名家臣の金上盛実を攻め、三成の救援もむなしく盛実は九月に政宗に降伏することとなります。

 同年十一月、秀吉の裁定で真田領とされた名胡桃城を北条氏が奪取する事件(名胡桃城事件)が発生し、秀吉はこれに対する北条氏の非義を責め、翌年三月に秀吉は北条攻めのため大軍を率いて出陣し、四月には北条の小田原城を包囲します。

 三成は、秀吉の陣中にあって佐竹義宣らに戦況を細かく伝えています。五月二十六日、秀吉との謁見のため相州平塚に着陣した佐竹義宣に従う、佐竹一族の重臣、佐竹(東)義久に対して、三成は書状を発します。(現代語訳のみ引用します。)

 

「◇態々(わざわざ)申し上げます。義宣殿、平塚までお着きのこと、何よりです。今日はそこでお休みになり、明日秀吉の本陣までお越しになればよいでしょう。これまであなた一人に佐竹の支配を任されてきました。義宣殿がまだ若いからでしょうか、最近は多くの御用を(義久)に仰せ付けられています。とはいえ、現状はすべてあなたの才覚に拠らないと何事も片付きません。義宣の御進物などが見劣りすると、佐竹家のためにはなりません。佐竹家の今後は、この時にかかっています。いっそう熟慮が必要です。佐竹一門のなかで、殿下(秀吉)が御存知なのは、あなた御一人です。何事であれ充分にお考え頂かないと、義宣殿は勿論、あなたの落ち度と(秀吉が)お思います。他の佐竹家中に遠慮することなく、これまで通り意見を通され、佐竹家が間違いのないように御分別頂くのはこの時です。なお、使者の嶋清興(左近)に詳細は申し含めているので、懇ろな手紙は控えます。」(*2)

 ちなみに佐竹氏当主・佐竹義宣は、この時21歳。佐竹(東)義久は、37歳。

 

 この書状について中野等氏は以下のように述べています。

「翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえ、義宣からの進物などについて、三成は細やかな配慮をみせている。しかしながら、書状の眼目は、若年の義宣を当主とする佐竹家を、義久がこれからも支え続けて行くべきである、との助言であろう。当主義宣の秀吉への初めての拝謁を翌日にひかえ、東義久の目にも側近三成の存在は頼もしく映ったことであろう。実際政権への服属も、佐竹家は旧に倍して三成への依存を強めていく。また、この書状から、三成が義宣の陣営に、嶋左近清興を使者として派遣したことがわかる。嶋清興については詳らかにできないが、大和の筒井順慶の家臣であったという。順慶の没後は蒲生氏郷に仕えたともいわれるが、この頃にはすでに三成に属していたことが分かる。こののち、嶋清興は東義久(佐竹中務大輔)や小貫氏を宛所として書状を発しており、「差出」や「陣替」、人質の差し出しなどに関して細やかな指示を行っている。」(*3)

 

 ②に続きます。

 ※次回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

  注

(*1)黒田基樹 2013年、p72

(*2)中野等 2017年、p107

(*3)中野等 2017年、p107

 

 参考文献

黒田基樹『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』吉川弘文館、2013年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

上杉景勝と石田三成と鷹狩について

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 石田三成は鷹狩を趣味としていたといわれています。以下、中野等氏の『石田三成』から、鷹狩に関連して石田三成が「中納言様」に宛てた手紙を紹介します。(以下、現代語訳部分のみ引用します。)

 

「◇内々進上しようと存じ、昨日御目にかけた塒(とや)鷹ですが、(残念ながら)昨日ご覧に入れたところでは何の獲物もありませんでした。心残りは今日になっても深くありますが、鷹師を使って狩らせたところ、この雁一羽をとることができましたので、塒鷹にこの雁を添えて進上致します。内々申しましたように、私の秘蔵の鷹でございます。青鷺を捕獲する鷹ということで他所からいただいたものですが、雁にばかり興味を持ち、私の手許で青鷺をとることはありませんでした。当春、私のところでは菱喰を加えて雁を二十羽ほどとりました。この鷹の技量については、今度の道中で山城守殿(城州)が御覧になっているので、(詳しくは山城守殿に)御尋ねください。肉色当て(ししあて)以下細かなことは此の鷹師が承知しておりますので、そちらの御鷹師から御尋ね頂ければ結構かと存じます。もしかすると大崎の所へお預けになるかもしれないかと存じ、さきほど大崎の所から人を呼んで経緯を説明しております。当春は最早、雁も居ないと思いますが、来秋鳥家出し時の御楽しみには、少々の若鷹よりは期待が持てると存じます。又昨日、お自ら羽合わせになった若鷹は、私が行って、雁を二羽、鷹師は雁を七羽とらえておりますし、大崎方では青鷺を二羽とっております。この鷹は確実に来秋靏(つる)をとるものと存じます。大崎のところにこの鷹を残してきておりますので、夏の間青鷺雁を御楽しみください。(秋になって)靏を捕獲した後にお返しいただければと存じます。誠に興味がつきません。

   二十六日       三成(花押)」(*1)(下線部筆者)

 充所の「中納言様」について、中野氏は「織田秀信とする向きもあるが、ここでは上杉景勝とし、「城州」をその老臣直江山城守兼続に措定しておく。」(*2)としています。

 

 この書状について、谷徹也氏の『石田三成』では、年月は慶長三年三月の可能性が高く、宛名については、「結論から言えば、文中の「大崎方」は大崎氏の関係者を指すものと思われ、宛名は上杉景勝で「城州」は直江兼続とする中野氏の理解が適切であろう。というのも、三成は大名の復帰を目指して在京していた大崎義隆の援助を行い、正澄(筆者注:三成の兄)に宿所を手配させていた。よって、大崎氏関係者の鷹師が三成と交流していたであろうことは推測に難くない。また文中で宛名の人物と居所が近いことに加え、「当春」は雁もいないとする表現から、三成が奥州に下っており、帰鷹の時期である慶長三年三月二十六日が発給日として妥当と思われるのである。」(*3)としています。

 

 以前のエントリーで詳述しましたが、三成は古くから上杉家の取次を務め、親交を深めています。慶長三年の三成の奥州下向も、上杉家の会津転封作業に携わるためです。

 上杉景勝石田三成の鷹狩を通じた交流が伺われる書状です。

 

関連エントリー

☆考察・関ヶ原の合戦

其の三 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交① 三成、外交官デビュー 

其の四 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交② 新発田重家問題 

其の五 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交③ 出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立事件について

其の六 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交④ 上杉景勝の佐渡出兵と関東出兵

其の七 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑤ 奥羽仕置・朝鮮出兵・秀吉の御成、そして五大老へ

 其の八 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑥ 豊臣公議のルール(「惣無事」令等)、石田三成ら取次と上杉家の信頼関係、上杉家はいかにして「親豊臣大大名」となりしか

 

 注

(*1)中野等 2017年、p4~5 

(*2)中野等 2017年、p5

(*3)谷徹也 2018年、p30~31

 

 参考文献

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年