古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成と大谷吉継の友誼について

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1.『宗湛日記』の記載にある三成と吉継の友誼 

 天正十五(1587)年の九州攻めの折、吉継は秀吉に諫言を呈して、勘気に触れています。その時の描写が『宗湛日記』にありますので、以下に引用します。(『宗湛日記』とは、博多の豪商であり茶人としても有名な神屋宗湛の書いた日記であり、宗湛と三成は交友が深く、後に共に協力して博多の復興のために尽力する仲でした。)

 

※ 参考エントリー↓

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 「同六月

一、大谷刑部少輔(吉継)トノハ、ソノ前、上様(秀吉)御機嫌悪シキニ依テ、香椎ノ村ニ御隠レ候を、石治少(筆者注:石田三成)、我(宗湛)ヲ御頼リ候ニヨリ、船ニテ香椎ヨリメイノハマ(姪浜)ニ送申テ、御宿ヲハ興徳寺ニ置申也、サソラヘバ、大望ニ依リ、道具ヲメイノ浜ニ持参仕テ、刑少輔(大谷吉継)二御目懸ケ候也。」

 

 すなわち大谷吉継が秀吉の勘気に触れ、成敗寸前に逃れて香椎村(福岡市香椎町)に隠れていた。そのとき三成から神屋宗湛が頼まれ、船で姪ノ浜(福岡市姪浜町)まで移動させ興徳寺に匿った。

 さらに大谷吉継の強っての希望により、神屋宗湛が所持する名物(数の台と博多文琳)を持参し、お目に懸けたという意味である。」(*1)

 

 ちなみにこの時期、吉継が秀吉の勘気に触れた理由について、白川亨氏は4月の島津との日向根白坂の戦いの際に、消極的な戦いをした尾藤知宣を秀吉が怒り改易・追放処分にしたのを、吉継が諫めようとしてかえって秀吉の勘気を被ったのではないかとしています。(*2)

 

 尾藤知宣は、三成の正室の父、尾藤(宇多)頼忠の兄であり、三成の縁戚です。白川亨氏は大谷吉継としても盟友・三成の苦衷を見るに忍びなく、秀吉の諫言を呈したものであろう。」(*3)とします。

 

 一方、中井俊一郎氏は秀吉の勘気の理由として「吉継の何が秀吉の機嫌を損ねたのかは想像するしかないが、九州攻め・博多復興が進んでいる最中であるので、それに関係したことであろうということは察せられる。

あるいは吉継は、秀吉の朝鮮出兵構想を批判したのかもしれない。」(*4)としています。どの見解が正しいかは、まだ分からないようです。

 

2.三成と吉継の縁戚関係 

 黒田基樹氏の『「豊臣大名」真田一族 ―真説 関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年によりますと、大谷吉継の妹は石川光吉(貞清)の妻であり、さらに光吉の弟一宗の妻は、宇多頼忠の娘、すなわち石田三成の妻の妹になります。こうした形で石川氏・宇多氏を通じて大谷家と石田家は縁戚関係となっています。

 また、大谷吉継の娘(竹林院)は真田信繁正室であり、また信繫の妹は石田三成の父正継の養子(三成の舅宇多頼忠の実子(あるいは頼忠の兄知宣の実子ともいわれます))頼次に嫁いでいます。(*5)

 このように、石田三成大谷吉継は石川氏・宇多氏・真田氏を通じて二重の縁戚関係にあったのです。

 

3.三成と吉継が共に行動した動き

 三成と吉継が共に行動した動きについて年表風に見ていきます。

 

天正十一(1583)年四月 賤ヶ岳の戦い 吉継25歳、三成24歳

「ところが『一柳家記』によると賤ヶ岳の戦いにおいて「其時之先懸衆ハ加藤虎之助、大谷桂松(吉継)石田左吉(三成)、片桐助作、平野権平、奥村半平、福島市松、同与吉郎、大島茂兵衛、一柳次郎兵衛、同四郎右衛門、稲葉清六以上拾四人、壱万五千之敵ニ可馳向所存無類之儀」とある。吉継は賤ヶ岳七本のなかには入っていないが、三成とともにすばらしい働きをしたことがわかる。吉継二十五歳であった。」(*6)とあります。

(ただし、この記述は『一柳家記』にしかないため、本当に三成と吉継が賤ヶ岳の戦いで大活躍したのか自体は不明ですが、賤ヶ岳の戦いの時に先懸衆として三成と吉継が共に戦ったことは分かります。)

 

天正十三(1585)年九月 秀吉の有馬湯治 吉継27歳、三成26歳

「秀吉の有馬湯治に石田三成らとともに随行して、その途次石山本願寺に立ち寄った記録があり(『宇野主水日記』/石山本願寺坊官宇野主水の日記/同月十四日条)」(*7)ます。

 

天正一四(1586)年6月 三成、堺奉行となる。 吉継28歳、三成27歳

「三成・吉継コンビでもう一つ注目されるのは、天正十四年(一五八六)に三成が堺奉行となったとき、吉継がその補佐役となっている点である。(中略)

 そして、その三成の補佐役として、実際に財務・町衆対策を担当したのが吉継だったのである。」(*8)

 

天正一五(1587)年3月1日 秀吉は島津氏を討つため大坂を発向。 

 吉継29歳、三成28歳

 三成、吉継もこれに従う。小瀬甫庵の著した『甫庵太閤記』によると、「兵糧米馬之飼料下行あるべき奉行」として、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次の四人の名をあげ、「御扶持方渡し奉行」として石田三成大谷吉継長束正家の三人の名をあげている。

省略すれば、前者が下行奉行、後者が扶持奉行ということになるが、併せて兵站奉行としてとらえている。」(*9)

 

天正一五(1587)年3月18日  秀吉が島津征伐へ向かう途中、厳島神社に参拝。

 

 参拝に三成・吉継も同行。この時に境内の水精寺で和歌の会が催された。この時に秀吉(「松」が秀吉の雅号)、三成、吉継が詠んだ句。

「 ききしより詠めにあかぬいつくしま

      見せばやと思ふ雲のうへびと

              松

  春ごとのころしもたえぬ山ざくら

     よもぎがしまのここちこそすれ

             三 成

  都人(みやこびと)にながめられつつしま山の

            花のいろ香も名こそたかけれ

                   吉 継

 と詠んだ(『厳島図会』巻の三)。」(*10)

 

天正一五(1587)年4月23日  

 三成は「大谷吉継安国寺恵瓊連署状を発して、博多町人の還住を勧める(「原文書」)」。(*11)

 

天正一五(1587)年6月

 1.のとおり吉継が秀吉の勘気を被るエピソードがあります。

 

天正一八(1590)年3月1日~ 吉継32歳、三成31歳

 秀吉の北条征伐。三成・吉継もこれに従い出兵します。吉継は三成と共に館林城忍城を攻略したとされます(*12)が、当時の史料に記載はないようです。

「その後三成は浅野長吉・大谷吉継らと奥羽仕置きを命ぜられ」(*13)ます。

 

天正一九(1591)年 吉継33歳、三成32歳

 天正一八年十月からはじまる九戸政実の乱に対する南部信直の援軍要請に対して、「秀吉は豊臣秀次を総大将に蒲生氏郷浅野長政石田三成井伊直政上杉景勝・吉継ら六万余の大軍を応酬九戸城攻略に送った。(奥州再仕置)。吉継は上杉景勝の軍監として、出羽口から胆沢(岩手県胆沢郡)・和賀(和賀郡)へ進撃した。」(*14)

 

天正二十・文禄元(1592)年2月20日~ 吉継34歳、三成33歳

 三成は「「唐入り」に従うため大谷吉継ともに京を出陣(『言経』)。途次、3月4日付で大谷吉継増田長盛連署で過書の発給を行っており(「五十嵐文書」)、肥前名護屋への下向は単なる行軍ではなく、侵攻体制を構築しながらのものであったようである。すなわち、3月13日付で発給される「陣立書」において三成は大谷吉継・岡本宗憲・牧村俊貞とともに名護屋在住の船奉行に任じられている。(中略)秀吉の名護屋入城は4月25日であるが、大谷吉継とともに早速同日付の秀吉朱印状に取次として登場(『黒田』)。5月5日・6日と島津家の「御日記」に登場し、名護屋在陣が確認される(薩藩旧記)。その後も大谷吉継増田長盛長束正家らとともに秀吉の直状に取次として名がみえており、名護屋での在陣を継続していた。

 渡海延期を決定した秀吉に代わり、6月6日朝名護屋から出船(『薩藩旧記』)。7月16日大谷吉継増田長盛とともに漢城着(「西征日記」同日条に石田治部少輔・増田右衛門尉・大谷刑部少輔、三人入洛)とある。以後基本的に漢城にあって、在朝鮮の諸将に秀吉の軍令を伝えていく。」(*15)

 

☆文録二(1593)年 吉継35歳、三成34歳

漢城で越年。在漢城は4月中旬まで継続。謝用梓・徐一貫ら偽りの明使節を受け入れることで、日本勢は漢城からの撤退を開始。三成も漢城を離れるが、増田長盛大谷吉継小西行長ととも日本に向かう明使に同行する。(中略)さらに、一行は5月13日に名護屋に到着(「大和田」)。5月24日石田三成増田長盛大谷吉継名護屋を発って朝鮮に戻る(「大和田」)。(中略)まもなく帰還する明使を迎えるため再び名護屋に戻っている。「今日刑少・治少・摂津頭彼唐人召しつれ、釜山海で被罷候」とあるように、7月18日明使節をともない、大谷吉継小西行長とともに名護屋を発ち、釜山へ発向(『薩藩旧記』)。(中略)

 その後、講和交渉に伴う撤兵計画に従って、三成も日本へ帰還。(中略)閏9月には大坂へ到着しているようであり、閏9月13日付の木下半介吉隆書状に「浅弾・増右・石治・大形少も一両日中可参着候」とみえる(『駒井』)。」(*16)

 

*朝鮮からの帰国後、大谷吉継の病状は悪化し、しばらく表舞台から姿を消します。(ただし、吉継は慶長4(1599)年には宇喜多騒動の調停役や、慶長5(1600)年の上杉征伐に先立つ上杉家との調停役等を行っていますので、慶長4(1599)年以降は病が小康状態にあったのかもしれません。)

 

☆慶長五(1600)年 吉継42歳、三成41歳

 7月2日吉継は上薄着征伐に参陣するため、美濃垂井に着陣し、佐和山城に使者を送って三成の子重家の同陣を求めたところ、来訪を乞われ佐和山城に向かい、佐和山三成から家康打倒の謀議を打ち明けられたとされます。その後、七月十一日、吉継は佐和山城で三成とともに家康打倒の兵を挙げることに決しました。(*17)

 これより、後に「天下分け目の戦い」とされる戦いが始まることになります。

 

関連エントリー 

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  注

(*1)白川亨 2009年、p60~61

(*2)白川亨 2009年、p61

(*3)白川亨 2009年、p61

(*4)中井俊一郎 2016年、p44

(*5)黒田基樹 2016年、p56~59

(*6)花ヶ前盛明 2000年、p17

(*7)外岡慎一郎 2012年、p31~32

(*8)小和田哲男 2000年、p128~129

(*9)小和田哲男 2000年、p126~127

(*10)花ヶ前盛明 2000年、p18

(*11)中野等 2011年、p296

(*12)花ヶ前盛明 2000年、p24

(*13)中野等 2011年、p299

(*14)花ヶ前盛明 2000年、p30

(*15)中野等 2011年、p300

(*16)中野等 2011年、p301

(*17)花ヶ前盛明 2000年、p39~41

 

 参考文献

小和田哲男「大谷刑部と石田三成」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

黒田基樹『「豊臣大名」真田一族 ―真説 関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

外岡慎一郎「徹底検証 大谷吉継の実像」(『歴史読本』編集部編『炎の仁将 大谷吉継のすべて』新人物往来社、2012年所収)

中井俊一郎「天下の貨物の七割は浪華に・・・堺の変革、博多の復興で新たな都市空間へ」(『月刊歴史街道 平成28年7月号』、PHP研究所、2016年所収)

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年所収)

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

「嫌なら見るな!」?

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 大河ドラマ真田丸』の感想も37話で終了し(個人的にはこれが最終回ですね)、38話以降は視聴終了ですが、ブログを見返してみると13話から毎回感想を書いており、なんというか自分の中では結構期待していた作品だったのだなあ、と今更ながらに思います。元々真田物語、真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)親子が大好きですし、今年はNHKがそれを大河ドラマでやるということで、いささか期待しすぎたのだなあ、と思いました。

 

 これまで、大河ドラマ真田丸』の批判をしてきましたが、そういった批判に対して「嫌なら見るな!」というコメントをよくいただきました。

 

 うーん、小説・漫画・舞台・映画・ゲームのような、「わざわざ金を払って見る・読む」ジャンルなら確かに、このコメントは基本的には妥当だと思うのですよ。なぜに、頼まれもせんのに、わざわざ金を払ってまで嫌なものを見なきゃいけんのだ、とは当然思いますし、そういう方は奇特な方だと私も思います。(うっかり他人の宣伝に引き摺られて、たまたま読む・見ちゃう場合もありますが。)

 

 しかし、NHKに関しては、既に我々視聴者は受信料という形で視聴料をほぼ強制的に徴収されている訳です。だから、あらかじめ受信料を払っている我々がNHKのドラマの出来が酷ければ文句を言っても当然かと思います。

 

 また、「わざわざ金を払って見」て、その上で文句を言うケースだって当然あるわけです。たとえば長年応援している野球とかサッカーのチームに新しい監督が就任して、滅茶苦茶な采配をしている場合とかです。こうした監督の采配を批判している時に「嫌なら見るな!」というのはやはり違う訳ですね。そのチームのファンだからこそ、こうした苦言が出てくるのです。

 

 こうした野球やサッカーのチームのファンに当てはめるならば、私は『大河ドラマ』や『真田物語』の長年のファンなのであって、別に「脚本家・三谷幸喜」のファンではありません。その脚本(采配)がおかしければ、当然批判の対象になる。これを「嫌なら見るな!」というのは、皆が三谷ファンで「三谷ドラマ」が見たくてこの番組を見ているはずだ、という勘違いでしょう。

 

 まあ、ともかく見るのはやめてしまったので、今となってはどうでもいいですが・・・・・・。

 

☆参考エントリー↓

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 ※上記↑は、34話までの考察で、36・37話の流れを見ると、三谷氏の本来のねらいがあまりにも悪趣味過ぎるので、NHKスタッフから軌道修正が入ったのかもしれません(省略激し過ぎ)。このため、もう三谷氏はやる気がなくなっていて、だからこんな雑な流れになっているのではないかとも思います。