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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「本能寺の変」の真相について

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先日『週刊 新発見!日本の歴史 信長の見た「夢」』(朝日新聞出版)という雑誌を買いました。そこに「『本能寺の変』の真実」という章がありまして、本能寺の変の真相についての最近の研究の動向がまとめられています。

 その中で近年有力視されているのが「四国政策説」だということです。はじめ明智光秀は四国政策を任されていました。信長も、はじめ光秀が長宗我部氏と友好関係を結び長宗我部氏が四国を制圧するのを支持していたわけですが、その後方針を転換し信長は三好氏に肩入れし、長宗我部氏と対決姿勢を示すことになります。これにより長宗我部氏に肩入れしていた光秀は立場を失い、面目をつぶされた光秀は信長を討つ決意をしたという説です。

 

ただ、私はこの説は確かにもっともだと思うのですが、ちょっと違和感があります。あまりにも理由が明確すぎるのです。本能寺の変における明智光秀の謀反の理由は当時の人達にとっても不明で、ミステリーだったのです。だから、現在でもミステリーになっているわけです。

 

「四国政策説」が実際に光秀謀反の主な理由であれば、当時においても「やはりあのことが光秀謀反の原因だったか」と人々の口にのぼっていたはずです。信長の四国政策の転換は別に秘密でもなんでもない周知の事実だったからです。当時の人達には、四国政策の転換は明智が謀反をたくらむほどの重大な話だとは思われてはいなかったのです。

 

 ということで、やはり明智光秀の謀反の理由は、ほとんど誰も知らない秘密の理由だったのだと思われます。秘密の理由であったからこそ、現代までミステリーになっているのです。

もちろん世間の人が重大だと思っていなくても、光秀の主観にとっては四国政策が重大だった可能性もあるためこの説を否定することはできません。また、この説は当時の明智光秀の立場がかなり微妙なものであり、光秀と信長の信頼関係は著しく低下していたことを示しています。

 

このエントリーでは他の説を検討してみたいと思います。(すいません、今回全部書いてwiki見たら似たような説唱えている人いますね・・・。自分だけの思いつきだと思っていたのに、かなり残念です。しかし、けっこう昔から考えてきたことだったので、ちょっと悔しいので書き残しておきます。)

 

ルイス・フロイスの「日本史」という書物があります。その中に以下の記述があります。(以下はルイス・フロイス「完訳フロイス日本史③安土城本能寺の変織田信長編Ⅲ」(中央公論新社)からの引用です。)

①「このたびは、(中略)三河の国主(徳川家康)と、甲斐国の主将たちのために饗宴を催すことに決め、その盛大な招宴の接待役を彼(引用者注:明智光秀)に下命した。

これらの催し事の準備について、信長はある密室において明智と語っていたが、元来、逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々の語るところによれば、彼の好みに合わぬ要件で、明智が言葉を返すと、信長は立ち上がり、怒りをこめ、一度か二度、明智を足蹴にしたということである。」

その後、明智光秀は接待役を解任されます。

 

続いて本能寺の変の際、以下の記述があります。

②「(引用者注:本能寺に向けて明智光秀が軍を返したことに対して)兵士たちはかような動きがいったい何のためであるかを訝り始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国主(家康)を殺すつもりであろうと考えた。」

 

 ③そして、本能寺の変の後、徳川家康明智光秀の重臣斎藤利三の娘福(後の春日局)を孫家光の乳母にしています。また、よく知られているように家康の側近南光坊天海は実は明智光秀だという伝説があります。もちろん、この伝説は眉唾ものですが、天海が明智氏ゆかりの者であったことを伺わせる逸話はいくつもあります。このように、裏切り者であった明智氏ゆかりの者を家康は厚遇しています。

 

 以上の話を繋ぎ合わせるとひとつの仮説が浮かび上がります。

 信長による「徳川家康暗殺計画」です。

 徳川家康は長らく信長の同盟大名として主に武田氏に対する防波堤となってきました。武田氏が存在し脅威の間は信長にとって心強い同盟相手だったのです。しかし、武田氏が滅亡した後は事情が違います。信長に対抗できる強力な大名はほとんどいなくなり、天下統一は目前です。(と少なくとも信長は思っています。)武田氏の脅威のない今、徳川家康は用済みです。用済みどころか、強力な同盟相手は天下統一の障害、あるいは天下統一後(自分が死んだ後の)の障害になりかねません。漢の韓信と同じです。まさに「狡兎死して走狗煮らる」です。家康が脅威になる前にその芽を摘むべきだと信長が思ってもおかしくありません。

 

 この徳川家康暗殺計画」を信長は明智光秀に持ちかけます。家康のために饗宴を催し、その饗宴で家康を毒殺するのです。

しかし、明智光秀は毒殺役を断ります。おそらく今まで信長の命令を断ったことがなかった明智光秀の命令拒否に信長は激怒し光秀を足蹴にします。そして、途中で光秀を接待役から解任し、この時の暗殺計画は中断します。

 

なぜ、明智光秀は信長の命令を拒否したのでしょうか。別に光秀と家康が親しかったという訳ではおそらくありません。

光秀は「四国政策説」で解説されているように微妙な立場にありました。その下地として1580年の織田信長佐久間信盛放逐があります。この事件は(光秀も含む)織田家臣団に相当なプレッシャーを与えています。成果を上げなければ自分も信盛のように放逐されるかもしれません。

今まで重臣NO.1と言ってよい地位を築いてきた光秀でしたが、四国政策の転換ではしごを外されてその立場は危ういです。信長との信頼関係は揺らいでいます。そこへの家康暗殺計画です。

 

信長が家康を暗殺することに、どんな正当性があるのか?これまで、信頼すべき同盟大名として信長の敵と戦ってきた家康を殺す正当性などどこにもありません。ならば、何らかの暗殺する理由が必要です。一番良いのは、この暗殺には信長は全く関係していないという話になることです。光秀と家康の間に何か遺恨があり(遺恨の理由なんて後付けでいくらでも作れます。)そのため、光秀は家康を暗殺した。同盟大名を個人的な遺恨で暗殺するような不届き者は成敗しなければならない。ということで、邪魔な家康は死に、四国政策の失態(光秀のせいではないのですが・・・)で排除しようと思っている光秀も、家康暗殺の罪を問い殺します。この暗殺計画で邪魔な二人が消えて信長としては一挙両得です。

 

と信長が考えていてもおかしくなくない、と光秀は考えます。家康暗殺自体はいいのです。このような謀略に信長も光秀も手を染めて生きてきました。しかし、今回は信長が家康暗殺計画を使って光秀に罪を着せて消し去ろうとしているのかもしれないという可能性を排除できません。光秀の信長に対する信頼は、そのような想像をするほどに低下しています。

このため、光秀は信長の命令を拒否します。もちろん、拒否することによって光秀の立場は更に悪くなるのかもしれませんが、引き受けたら破滅する可能性が高い以上拒否するしかありません。これに対して暗殺が密命である以上、密命を拒否することを理由に放逐されることはさすがにないだろうと光秀は考えたと思われます。

 

これで、「徳川家康暗殺計画」を信長があきらめてくれるか、あるいは他の家臣に命じればよかったのですが、信長はあきらめません。中国攻めを命じられた光秀に重ねて密命が下ります。「堺にいる家康を、軍勢を持って暗殺せよ。」堺にわずかな供を連れて家康が行っているのは信長の命によります。そうした無防備な状態に家康を置いて、光秀が軍勢を率いて家康を暗殺しにいけば家康はひとたまりもありません。

光秀は、信長はあくまで家康の暗殺を光秀にやらせたいのだということを理解します。

一度暗殺命令を拒否した光秀に重ねて暗殺命令を下す理由はひとつしか考えられません。家康ごと光秀も葬り去ろうということです。と少なくとも光秀は理解しました。信長の実際の真意は不明ですし、永久にわかりません。

 

どうしても光秀に家康を暗殺させたいという信長の明確な意思である2度目の命令を拒否した場合は、信長はどんな理由をつくってでも光秀を破滅させるでしょう。進むも地獄、退くも地獄。そんな中、明智光秀はこの軍勢を本能寺に向ければ信長を殺すことができることに思い当たります。どうせ破滅するならば、自分を破滅させる原因である信長を殺してしまえば、活路が見出せるかもしれない。暗殺後、足利将軍家・朝廷・毛利氏などと手を結べば生き残れる可能性はある。明智光秀織田信長暗殺に自分の活路を賭けます。

 

なぜ、光秀はこの真相を述べなかったのか?

まず、これは密命ですので全く証拠はありません。このため光秀が本能寺の変後に述べても信用されないかと思われます。また、そもそも光秀もこれまで謀略に手を染めてきた人間です。今更、信長の謀略に非を鳴らしてそのために主を暗殺したと言っても「お前が言うな」という感じでしょう。また主命であれば、正当性がなくても暗殺するのが家臣のつとめです。暗殺拒否を主殺しの理由にすることは当時の価値観からいって理解されないでしょうし、そのことは光秀もよく分かっていたでしょう。

 

家康は本能寺の変後、「明智氏ゆかりの者」から本能寺の変の真相を知ったものと思われます。このため、明智氏ゆかりの者を厚遇したのだと思われます。しかし、この事実は公表しません。家康は信長の死後も織田家と同盟関係を続ける必要があり、「実は信長は家康を暗殺しようとしていた」なんて話を広めるわけにはいきません。

 

以上が本能寺の変の真相の推理です。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。