古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その1 「呂伯奢一家殺人事件」

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 董卓が都の実権を握り、曹操を驍騎校尉に任命しますが、曹操はこれを拒否し逃亡します。この逃亡の時に起こった事件が「呂伯奢一家殺人事件」です。

 

 以下三国志裴松之注にある史書から事件の記述の引用をします。(陳寿「正史 三国志1」(ちくま学芸文庫17ページより引用)

 

「『魏書』にいう。太祖(曹操)は、董卓の計画は必ず失敗に終ると判断したので、けっきょく任命に応じず、郷里に逃げ帰った。数騎の供をひきつれ、旧知の間がら(①)にある成皋の呂伯奢の家にたちよった。呂伯奢は留守で、その子ども達は食客とぐるになって太祖(曹操)をおどかし、馬と持ち物を奪おうとした。(②)太祖(曹操)はみずから刀を手にして数人を撃ち殺した。(③)

『世語』にいう。太祖は呂伯奢の家にたちよった。呂伯奢は外出していたが、五人の子(④)は皆、家にいて、主人と客のあいだの礼儀も備わっていた。太祖は自分が董卓の命令にそむいていたから、彼らが自分を始末するつもりかと疑いを抱き、剣を揮って夜の間(⑤)に八人を殺害して去った。

孫盛の『雑記』にいう。太祖は彼らの用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思い込み、夜のうち(⑥)に彼らを殺害した。そのあと悲惨な思いにとらわれ、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせはしないぞ。」といいい、かくして出発した。」

 

『魏書』とは、王沈によるもので、魏の高貴郷公(曹髦)の頃の著作で、当時の権力者司馬氏の意向に沿った記述と評されていますが、もちろん魏を正当化する記述になっています。当然曹操も正当化されています。この『魏書』の記述は、曹操によるこの事件に対する弁明を記述したものと考えてよいでしょう。

 

『世語』は西晋の(人らしい)郭頒によるものです。裴松之は『世語』については「まったく脈絡なく最も鄙劣であるが、(後略)」と書いてあまり評価していません。

『雑記』は東晋の人孫盛によるもので、三国時代の史実に対して異説を記した書物らしいです。孫盛は他に『魏氏春秋』なども記していますが、裴松之は史実を潤色していると孫盛の表現を厳しく批判しています。

(上記の史書の解説は陳寿「正史 三国志8」(ちくま学芸文庫)の「裴松之注引用書目」を参考文献としています。)

つまり、『世語』も『雑記』も裴松之によるとあまり信頼性の高くない史書のようです。そうすると、『魏書』の記述が一番真実に近いのでしょうか?

以下、検討してみます。

 

 まず、3書に共通している事項があります。曹操が呂伯奢の家で殺人を行ったということです。このことだけは、曹操を正当化している『魏書』ですら否定することのできなかった事実です。また、この事件が当時においてもよく知れ渡っている凄惨な殺人事件で、『魏書』においてもこの事件は黙殺できなかったことを示しています。また、曹操はこの事件の加害者です。『魏書』の記述は加害者である曹操の弁明を無批判に記述したものであることを考慮しなければいけません。一方、『世語』も『雑記』は事件を見てきたように書いてありますが、その部分は史家の推理だと考えてよいです。しかし、『魏書』に書いていないこと(おそらく王沈が意図的に記述を省いたこと)も記述されてあり、参考にはなります。

 

 『魏書』の記述を見てみましょう。まず、呂伯奢は「旧知の間がら(①)」にあると記述されています。権力者である董卓に追われ、窮地に陥った曹操が頼ったのが呂伯奢です。そう考えると曹操と呂伯奢はかなり親しい間がらで、曹操は呂伯奢のことを信頼していたことが伺えます。また、窮地に陥った曹操が頼っているのですから、呂伯奢の家はそれなりに裕福な名家だったのではないかと推測できます。名家だったであろうというのは、後の史書に名前が残っていることからもわかります。無名の人物だと名前自体が記載されていません。

 

 次に、「呂伯奢は留守で、その子ども達は食客とぐるになって太祖(曹操)をおどかし、馬と持ち物を奪おうとした。(②)」とあります。前述したように、呂伯奢は窮地に陥った曹操が頼るような信頼できる人物で、おそらく裕福な名家だと推測されますが、そんな家族が、父親が留守だからといって、頼ってきた曹操の馬と持ち物を奪おうとしようとするでしょうか?ちょっと考えられないことです。弁明するにしても、もう少しましな嘘を書いた方がいいでしょう。

 

そして、「太祖(曹操)はみずから刀を手にして数人を撃ち殺した。(③)」とあります。つまり曹操の弁明は、呂伯奢の家族が馬と持ち物を奪おうとして襲いかかってきたから殺したのだ。正当防衛だ。と言いたい訳です。しかし、この記述は疑問が多いです。

 

 曹操董卓に追われる逃亡者なのです。屋敷で呂伯奢の子ども達と食客とチャンバラして大騒ぎしていたら、騒ぎをききつけた近所の人間や、あるいは呂伯奢の家の者が役所に知らせて、曹操は追っ手にあっという間に捕まってしまっていたでしょう。しかし、この事件では曹操は捕まることもなく、追っ手に追われることもなく逃げています。この事件では、そんな物理的に騒ぎになるような事態はなかったのです。

 

以上、『魏書』の記述は全くデタラメで、信頼のできない記述であることがわかります。

 

では、実際には何が起こったのでしょうか?

 

曹操が呂伯奢の家を頼ったときに、呂伯奢は留守でした。(②)(『世語』にも記述されています。)この事が悲劇を生みます。父親の留守に逃亡者の曹操に頼られた子ども達は困惑したでしょう。彼を匿ったことがばれれば、曹操と共に彼らも罰を受けます。その後の董卓の暴虐を考えると、下手をすると一家全員処刑されていたかもしれません。

 

しかし、彼を役人に突き出せばよいかというと事は単純ではありません。父親の「友人」を名乗る人間が、父親を頼ってきたのです。これを役人に売るということは父親と曹操の間の友誼を裏切るということになります。当時の人間は世間での評判・声望というものを非常に大事にしています。友人を裏切って役人に売るようなことをすると、その噂はあっという間に広がり、世間での呂伯奢の声望は地に落ちることになります。声望が地に落ちるということは、呂伯奢一家がもはや社会的に生きられない事態になるかもしれません。非常に難しい判断です。

 

『世語』に呂伯奢には「五人の子(④)」がいたことが記述されています。五人の子がいたことを考えると、呂伯奢はかなり高齢だった可能性があります。そうすると、曹操と年齢の離れた呂伯奢は「友人」のようには見えなかったかもしれません。

あるいは、呂伯奢と曹操が友人なのではなく、呂伯奢と曹操の父親である曹嵩が友人なのかもしれません。曹操は父親のつてを頼って、呂伯奢の家を訪れたのかもしれません。

 

呂伯奢の子ども達は、曹操が一家の命運をともにする必要があるような「父親の友人」なのか分からず困惑します。しかし、このような重大な判断(匿うか、役人に知らせるか)を父親の判断無しで、子ども達だけで決めるわけにもいきません。彼らは、とりあえず曹操をもてなすことして、父親の帰宅を待つことにしたと考えられます。

 

しかし、この彼らの困惑した姿が曹操の疑心暗鬼を生みます。呂伯奢本人であれば、彼を匿ってくれることに曹操は確信がありました。そうでなければそもそも頼りません。しかし、子ども達はわかりません。彼をもてなすふりをして、役所に知らせるつもりなのかもしれません。疑惑はどんどん膨れ上がり、あるきっかけ(このきっかけは曹操にしかわかりません。)をもとに、彼は呂伯奢一家が彼を捕らえようとしている、あるいは役人に自分を売ろうとしていると勘違いし、呂伯奢一家を皆殺しにします。

 

3書の記述には「皆殺し」の記述はありませんが、曹操の目的(役所に知らせることを防ぐこと)を達成するためには、皆殺しでなくてはいけません。一家の誰かが役所に通報したら、自分は捕まってしまうのです。その可能性を排除するためには一家を全員殺すしかありません。

 

この殺人事件はあっという間に、呂伯奢一家が反撃する間もなく行われたと思います。この事件が発生した時点では全く騒ぎになっていないからです。この事は、例えば彼らが曹操を襲った事実はないことを示しています。また、彼らが役人に曹操を突き出そうとしたこともないと思われます。それを実行するには当主である父親による判断が必要です。

 

『世語』と『雑記』の推測にあるように、おそらくこの事件は夜の間(うち)(⑤、⑥)に行われます。彼らは寝ていたのか、食事の用意をしていたのか、いずれにしても無防備な状態のところを曹操に襲われ、皆殺しにあいます。いきなり曹操に襲われることは考えもしなかったのだと思います。

 

 実際には、何を考えて曹操が呂伯奢一家を殺したのか不明です。それは曹操自身にしか分かりません。我々に分かるのは『魏書』の曹操の弁明は嘘でデタラメだということだけです。おそらくこの『魏書』の記述に反発する意味で『世語』と『雑記』の史家たちは、その犯行の動機を推理しています。私は『世語』と『雑記』の推理はかなりいい線をついているのではないかと考えますが、皆様はどう思われますか?