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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

村上春樹作品における主人公の「名前」について

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村上春樹作品(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」「ノルウェイの森」「ダンス・ダンス・ダンス」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」)への言及があります。ご注意願います。)

 

 コメントで「ダンス・ダンス・ダンス」における主人公の「名前」について質問((「ダンス・ダンス・ダンス」書評~⑥誰かが僕のために泣いている)のコメント欄をご覧ください)がありまして、考えていたら長くなってしまいましたので、新たにエントリーを起こして以下に書きます。

 

まず、いわゆる「鼠」3部作(「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」)及び「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」には主人公には名前がありません。

これは、「鼠」3部作や「世界の終わり・・・」の話が「僕の(幻想)世界」の話だからです。僕自身の「閉じた世界」である以上、この世界の中では、「僕」は「僕」であり名前を必要としません。

 しかし、いずれ僕は「僕の世界」から「現実の世界」へ着地しなくてはいけません。現実世界で社会性を得るため僕は名前を必要とします。長編で初めて主人公に名前が付いたのが「ノルウェイの森」でした。100%のリアリズム小説であるこの小説では現実社会の人間として、主人公は名前が必要になります。社会が生まれ、他者が生まれることによって、主人公の名前は必要とされます。

 

 そして「ダンス・ダンス・ダンス」は主人公が現実社会へ帰還する話ですので、主人公は本来は名前を必要とします。この作品の中で主人公は何度も名前を聞かれたり確認されたりして答えていますので、主人公が名前を持っているのは明らかです。なぜ、小説中で名前が明らかにされないのか。実際には彼の名前は「ワタナベトオル」で間違いありません。しかし、小説の中で名前を明らかにすることはできません。

 

 この理由はコメント欄で前述したとおりですが、補足します。

村上春樹作品は、マルチエンディングの作品が存在しています。その一方で1つのエンディングしかない作品もあります。例えば「ノルウェイの森」が前者で、「ダンス・ダンス・ダンス」は後者です。

村上春樹氏は、「村上春樹河合隼雄に会いに行く」(新潮文庫)で「僕は小説を書くのはビデオのロールプレイング・ゲームに似ていると思うのです。」と書いています。ロールプレイング・ゲームの場合、マルチエンディングというのはよくあります。(もちろん、1つのエンディングしかない場合もあります。)ただしゲームの場合は、マルチエンディングは作られることによって示されますが、小説の場合はあえて結末を書かず読者の想像に委ねることでマルチエンディングにしています。

 

 しかし、こうした小説の書き方を認めない読者もいます。小説である以上、ちゃんとした結末を示すべきだ、結末を読者に委ねるなんて、作者の責任放棄だという人もいます。

 

ダンス・ダンス・ダンス」の主人公の名前が「ワタナベトオル」であると小説に明示されている場合、上記の考えの読者(けっこういると思います)の方は「『僕』4部作は、『ノルウェイの森』の続編にあたり、僕は緑と結ばれることなく別れたのだ」という読み方しかしないと思います。

この場合、主人公と緑が結ばれる結末の世界があり、同時に一方で主人公と緑が結ばれない別の結末の世界もあるというマルチエンディングの読み方は捨て去られてしまいます。こうした読まれ方を防ぐために、村上春樹は「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公の名前を明示しなかったと考えられます。

 

ダンス・ダンス・ダンス」で彼のあだ名はないのかという話ですが、長編で主人公にあだ名がついているのは「ねじまき鳥クロニクル」の「ねじまき鳥」こと「オカダトオル」くらいです。(あとは、「海辺のカフカ」の田村カフカですが、彼の場合あだ名というより「新しい名前」でしょう。)「ねじまき鳥」は、「世界の緩んだねじを巻く(世界の秩序を保つ)鳥」という意味で、正直かなり大それたあだ名です。なぜあだ名があるかというと、これは引き継ぐべき役割があるからです。主人公は、「ねじまき鳥」の役割を引き継ぎ「ねじまき鳥」になります。

ダンス・ダンス・ダンス」の場合は、「僕」は「僕」で、僕自身を回復させる話であり、引き継ぐべき役割等はありませんので、あだ名等はありません。