古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その4 黄巾の乱の時の幽州情勢について

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三国志演義』によると劉備は幽州の太守劉焉の黄巾討伐の義勇軍応募の高札を見て、義勇軍を旗上げし、劉焉の元に馳せ参じることになります。劉焉の部下(?)に校尉の鄒靖がいて、しばらく劉備は鄒靖の下で黄巾の賊と戦う事になります。

 

 しかし、劉焉が幽州の太守であるというのは『演義』のフィクションです。(また、幽州のどこの郡の太守か『演義』では不明です。劉備の故郷の涿郡太守?)こうした創作がされた理由は、劉焉が霊帝の時に益州の牧となり、その後劉焉の息子の劉璋が後を継ぎますが、後年劉備益州に迎え入れ結局劉備益州を乗っ取られてしまうという史実を元にした伏線なのではないかといわれています。

 

三国志』では、幽州の太守云々の記載はなく、「先主(筆者注:劉備のこと)は仲間をひきつれ校尉の鄒靖に従って黄巾の賊を討伐し、手柄を立て、安喜の尉に任命された」としかありません。校尉という官は将軍が兵を率いる場合、下に部、更にその下に曲が置かれますが、部を率いるのが校尉ということです。ということで、校尉鄒靖は刺史あるいは太守の部下ではなく、将軍の部下であり中央(将軍)から派遣されてきたのだと思われます。ただ、将軍といっても誰の部下なのか不明ですが。(中郎将の誰かの部下?大将軍何進の直属?ちょっとよく分かりません。)

 

後漢書』(本紀八 孝霊帝第八)によると「(筆者注:中平元年(一八四年))夏四月、(中略)広陽の黄巾、幽州刺史郭勲及び太守劉衛を殺す。」とありますので、幽州では官軍はかなり苦戦したようです。劉備義勇軍を立ち上げ黄巾討伐に加わったのが幽州刺史及び(広陽郡)太守が殺された前か後かは不明です。

 

三国志』では劉備は「手柄を立て」とありますが、黄巾の乱張角の本拠は冀州の鉅鹿であり、張梁冀州の広宗、張宝冀州の下曲陽で討たれています(張角は病死)。他に大きな戦いがあったのは、長社(豫州)、宛城(荊州)などで、幽州で乱の勝敗を決するような大きな戦いは行われておりません。劉備は残念ながら史実では黄巾の乱の大きな戦いで活躍は出来なかったようです。

 

(参考文献)

陳寿、注 裴松之 (訳 今鷹真 井波律子 小南一郎)『正史 三国志』(ちくま学芸文庫

→本文で『三国志』とあるのは、上記を参照しました。

羅貫中(訳 小川環樹 金田純一郎)『完訳 三国志』(岩波文庫

→本文で『三国志演義』『演義』と書いているのは上記を参照しました。

・范曄(訓注 吉川忠夫)『後漢書』(岩波書店