古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その5  黄巾の乱後の劉備の動向について①

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(この考察は、素人が『三国志』と『後漢書』の記述から黄巾の乱後の劉備の動向を推測するものです。歴史研究者の間ではもうとっくの昔に解決済みだという話でしたら申し訳ありません。参考文献については、 「その4 黄巾の乱の時の幽州情勢について」を参照願います。)

 

 黄巾の乱で手柄を立てた劉備は、冀州中山国安喜県の尉に任じられます。しかし、郡の督郵(監察官)が仕事で近くに来た時に、面会を求めたにも関わらず病と称して会おうとしないのに腹を立てて、督郵を縛り上げて杖で打ち据えると官職を捨て逃亡します。 

 この後の劉備の動向がいまいちよく分からんです。『三国志 蜀書 先主伝』によると、 

 

「しばらくして①②大将軍の何進が都尉の毌丘毅③を派遣して丹揚に行かせ、兵を募集させた。先主(筆者注:劉備)は彼と同行し、下邳まで来ると賊軍④に遭遇した。力いっぱい戦って軍功を立て、下密の丞に任命されたが、またしても官を去った⑤。のちに高唐の尉となり、昇進して令となった。」(番号は筆者)という事ですが、色々疑問が出てきます。

 

① 「しばらくして」っていつの話なの?

② 劉備はそれまでどこにいたの?

③ 毌丘毅って誰?(毌丘倹の親戚?)

 大将軍何進から派遣された都尉なのはわかりますが、なぜ、いきなり劉備が毌丘毅と同行する話になるのか不明です。

④ 賊軍って誰?

⑤ なんで任命されて、またすぐ辞めちゃうの?

 

 ①はまず置いといて、②の「劉備はそれまでどこにいたの?」について検討します。まず、毌丘毅は揚州の丹揚まで兵を募集しに行って、その途中で徐州の下邳で賊軍と遭遇していますので、この行軍は南に向かっている訳です。

 なので、元々劉備のいた所は、下邳より北だと思われます。ではどこなのかということですが、例えば劉備の郷里である幽州涿郡だとちょっと北すぎます。また、督郵を打ち据え官職を捨てて逃亡しているのに、郷里に帰ったら足取りがバレバレです。それに、幽州では中平四年(187年)から張純が叛乱を起こしていますので、もし劉備が幽州にいて戦いに参加するなら張純の叛乱の討伐軍に参加することになってしまうのではないでしょうか。このため、劉備はこの時幽州にはいなかったと思われます。

 

 では、結局どこにいたのかのでしょうか?筆者の推測では、劉備青州の平原国にいたのではないかと思われます。 

 根拠についてですが、裴注にある『典略』の記述を見ていきます。

『典略』の記述によると、平原にいる劉備が張純叛乱の討伐軍に随行して戦い、負傷して死んだふりをして難を逃れた、とあります。しかし、その後の記述を見ますと、「のちに、中山郡安喜県の尉に任命された。」とあり、時系列がおかしいので『典略』のこの記述は間違っています。(劉備が中山国安喜県の尉になったのは黄巾の乱(中平元年(184年))の功によるものです。張純の叛乱が起こったのは中平四年(187年)です。)『典略』は魏の郎中の魚豢によるものです。魏の人が書いたという性格上、劉備を意図的に貶めるような記述も多いので注意が必要です。 

 しかし、間違った記述とはいえ『典略』で平原に劉備がいたという記述があるのは何か根拠があったのではないかと考えます。下邳で賊軍と戦い、下密の丞に任命されてすぐ辞めた後、劉備青州平原国の高唐県の尉、令、平原県の令代行、(平原国の)相にもなっています。これは中山郡安喜県から逃亡後、平原国に劉備は落ち着き、新たに何らかの基盤を作ったからではないかな、という気がします。(任官の経歴が逆転して『典略』で平原にいることになった可能性も高いですが。)  

 地理的に見ると平原国は兗州と接しています。ここから平原国→兗州徐州の下邳を経由して、揚州の丹揚を目指したと考えると自然なルートのように思われます。

 

 ③の「毌丘毅って誰?」はよく分かりません。『三国志』でもこの部分でしか登場してこないのですね。毌丘倹との関係も不明です。なぜ、いきなり劉備が毌丘毅と同行する話になるのかも分かりません。ここは、小説的に勝手に想像します。 

劉備黄巾の乱討伐の義勇軍として幽州を転戦しているうちに、(この時も都尉だったのか不明ですが)毌丘毅と知り合い親しくなった。その後、安喜県で督郵を打ち据え官職を捨て逃亡した劉備は、ほとぼりが覚めると赦免の取り成しを毌丘毅に頼み、兵の募集に同行する事と引き替えに赦免してもらえることになった」という所でしょうか?

 黄巾の乱以降も後漢は各地で叛乱が相次ぎますので、戦の心得がある者は前歴がアレでも猫の手も借りたい状況だったでしょうから、戦に同行する事を申し出れば赦免されるのも簡単だったかもしれません。(というか、そもそもほとぼりが冷めたらなかったことになっているのか?)

(追記:毌丘毅の兵募集は、中平五年(188年)八月に置かれた西園八校尉の兵の徴発のようですね。)

 

 ① の「いつの話なの?」、④「賊軍って誰?」ですが、「下邳まで来ると賊軍に遭遇した」というのが鍵になります。黄巾の乱以後に徐州で叛乱が起こったのは『後漢書 孝霊帝紀第八』を見ていくと、「(筆者注:中平五年(188年))冬十月壬午、(中略)青、徐の黄巾復起ち、郡県に寇す。」とありますので、毌丘毅と劉備が徐州の下邳で賊軍と遭遇した時期は中平五年(188年)十月以降、賊軍とは、青州・徐州で蜂起した黄巾の残党だと考えられます。

 

 ⑤の「なんで任命されて、すぐ辞めちゃったの?」について考えます。劉備は、軍功により、青州北海国下密の県の丞(県の副長官)に任命されますが、またしても官を去っています。なぜでしょうか?県の丞という待遇が不満だったのでしょうか?しかし、その後、同等程度の地位であると思われる青州平原国高唐県の尉(県の軍事・警察長官)は辞めずに任を務めています。 

 劉備はやはり青州平原国に何らかの基盤を築いており、自分の影響力のある平原国を離れて下密に行くことを拒否し、平原国の行政官のポストを希望したということなのかな、と考えます。このため、平原国の高唐の尉の任官は受け、その後令(県長官)に昇進しています。

(平成27年9月16日追記・訂正 後漢時代は「平原郡」ではなく「平原国」のようですね。また、平原国は初めは青州にあって、後に曹操が州を再編した際に冀州に組み込んだようです。劉備が任官したときはまだ「青州の」平原国ですね。あと、『三国志』(ちくま学芸文庫)の記載では「中山郡」となっているのですが、「中山国」ではないかと思います。(引用部分はそのままにします。)このため、一部記載を追記・訂正しました。よろしくお願いします。)

 

考察 その6 黄巾の乱後の劉備の動向について② に続きます。