三国志 考察 その6 黄巾の乱後の劉備の動向について②
その5 黄巾の乱後の劉備の動向について①の続きです。
(参考文献はその4をご覧ください。)
(平成26年9月18日 一部加筆訂正しています。)
高唐の令に昇進した後の『三国志 蜀書 先主伝』の記述を見ていきます。(先主=劉備です。)
「賊軍にうち破られて、中郎将公孫瓉のもとへ逃亡したところ、公孫瓉は上表して〔先主を〕別部司馬とし、青州刺史の田楷とともに冀州の牧袁紹にあたらせた。〔先主は〕たびたび戦功を立て、試しに平原の令代行を命じられ、のちに平原の相に任命された。」
読んでいて、いくつか疑問点が出てきます。
① これはいつの話なのか?
② ここでいう賊軍とは誰なのか?
① 「これはいつの話なのか?」について検討します。
袁紹が既に冀州の牧になっていて、袁紹と公孫瓉は対立している状態です。袁紹が韓馥から冀州の牧の地位を詐取したのは初平2年(191年)ですので、この話は、おそらく初平2年(191年)の話になります。
とすると、霊帝の崩御(中平6年(189年)、董卓の暴虐による少帝廃帝、毒殺(初平元年(190年))、董卓討伐連合軍の戦い(初平元~2年(190~1年)も既に終わっている状態です。陳寿の記述だけを見ると、劉備は『演義』とは違って対董卓連合軍には参加していないようです。公孫瓉も劉備も各地の叛乱対処に忙しく中央の政変には関わっている暇はなかった可能性が高いのかもしれません。
ただし、裴注にある『英雄記』(魏の王粲等による、後漢末に活躍した人物について記した書物とのことです)の記述には、
「霊帝の末年、劉備は最初は都にいたが、のちに曹公(曹操)といっしょに沛国へもどり、兵を募集して軍勢を糾合した。おりしも霊帝が崩御し、天下は大混乱におちいった。劉備もまた兵をあげて董卓討伐に従った。」
とあり、劉備も董卓討伐連合に参加していたという事になっています。しかし、『英雄記』のこの記述はなんか芝居がかっている気がします。「かくして、この2人の英雄(曹操と劉備)は初めて顔を合わせたのだった」みたいなドラマ的な脚色を感じてしまいます。
しかし、逆に『英雄記』の記述を否定するような、例えば董卓討伐軍の時期に、劉備が何か別の行動をしていたという記録等もありません。結局、劉備が董卓討伐軍に参加したか否かは分かりません。
仮に、劉備が董卓討伐軍に参加していたとすると、「劉備は最初は都にいたが」という記述から考えると、劉備は地方官の任を辞していたことになります。そうしますと、「下密の丞に任命されたが、またしても官を去った」後に都に行き、曹操といっしょに兵を募集し、董卓討伐軍に参加(初平元年(190年))し、討伐軍解散後、「高唐の尉となり、昇進して令とな」ったならば一応のつじつまは合います。
② 「ここでいう賊軍とは誰なのか?」について考えます。
『後漢書』の公孫瓉伝によると、
「初平二年(一九一)、青、徐の黄巾三十万衆、渤海の界に入り、黒山(筆者注:張燕を首領とする叛乱軍)と合せんと欲す。瓉(筆者注:公孫瓉)、歩騎二万人迎えて東光(筆者注:冀州渤海郡東光県)の南に撃ちて大いに之を破り、首を斬ること三万余級。」
とあります。時期的・地理的に見て、劉備が敗れた「賊軍」は青州、徐州の黄巾の残党とみてよいでしょう。
③ 「なぜ、劉備は公孫瓉を頼り、袁紹と対立したのか?」について
董卓が献帝を連れて長安に遷都し、董卓討伐軍が分裂して解散した後、関東の士人達は大きく3つの派閥に別れます。(カッコ内はグループ内の有力人物)
A 公孫瓉グループ(田楷、劉備)
B 袁紹グループ(曹操、劉表)
C 袁術グループ(孫堅)
袁紹と袁術の関係は悪化し関東の覇権を競い互いに争うことになります。公孫瓉は袁術と同盟を組み、袁紹と対立します。関東はこの2つの勢力(B袁紹)vs(A公孫瓉+C袁術)に別れた戦いが始まります。
各地の士人達はいずれかの派閥に入ることを迫られます。争乱が起こっている時に孤立しているとあっという間に争いに巻き込まれ滅ぼされてしまいます。地方官は黄巾の残党等の賊に脅かされ自らの命を守るのも危うい状況です。自分が生き延びるためには強い派閥の一員になるしかありません。
地理的に劉備の根拠が青州平原国であることを考えると、公孫瓉か袁紹のいずれかの派閥を選ぶことになります。劉備は、公孫瓉の派閥に身を寄せます。元々劉備と公孫瓉は盧植の門下生同士であり親しい間柄です。また、『三国志』『後漢書』の記載を読むと、青、徐の黄巾残党との戦いに敗れた時に、劉備は公孫瓉に救援してもらっているのだと思われます。縁もゆかりもない袁紹ではなく、公孫瓉を頼るのは自然です。
公孫瓉の根拠地は幽州、袁紹の根拠地は冀州です。公孫瓉は、厳綱を冀州刺史、単経を兗州刺史、田楷を青州刺史に任命して進軍し初平3年(192年)正月、界橋(冀州清河郡)で袁紹と対決します。上記の3将が公孫瓉に刺史として任命されたからといって、即その州を実際に支配できるわけではありません。実際に刺史としてその州を支配するには、その地を敵勢力より奪い、実効的に支配しなければいけません。前述したように劉備の根拠地は青州の平原国であり、青州平原国に影響力のある劉備が、青州刺史に任命された田楷と共に青州に派遣され青州を公孫瓉陣営の実効支配にするために働くのを要請されるのは自然な流れといえます。
田楷の青州支配が実現すればちょうど公孫瓉と田楷・劉備で北と南から袁紹を挟み撃ちにしている形になります。更に、劉備は冀州と州境を接する平原国を支配する形になり、劉備は公孫瓉陣営が冀州(袁紹)の喉元に突き付けた刃になることになります。
「〔先主は〕たびたび戦功を立て、試しに平原の令代行を命じられ、のちに平原の相に任命された。」ということは、劉備は公孫瓉陣営の一員として袁紹と戦ったということになります。界橋で劉備が戦ったという記録はありませんので、田楷・劉備は青州で袁紹の後方を攪乱する役割だったのでしょう。
平原県の令(県長官)代行→平原国の相(国の代理長官、国は王(皇族がなる)の領地だが、後漢では王が任地に赴くことは少なく、代理長官である相が実際に国の統治を行う)になったということは、はじめ支配地域が平原県周辺程度であったのが、袁紹陣営との戦いに勝ち平原国全域にまで支配地域を広げることに劉備が成功したことを示しています。
青州の刺史、田楷。青州の平原国の相、劉備。この関係をとらえて「この頃の劉備は、公孫瓉の部下の田楷の部下に過ぎなかった」と揶揄する人がいます。この指摘は半分正しく半分間違っています。確かに、州刺史と国相(あるいは郡太守)では州刺史の立場の方が上になります。しかし、この時期に公孫瓉陣営が青州に根拠を築くことができたのは劉備のはたらきによります。
公孫瓉は進軍し袁紹と界橋で戦いますがこの戦いは公孫瓉の敗北に終わります。厳綱はこの戦いで戦死し、単経も兗州に根拠を残すことはできませんでした。冀州は袁紹の本拠地、兗州は曹操の根拠地(この時期曹操はまだ兗州の東郡太守ですが)ですので、彼らが袁紹、曹操の圧力をはねのけて根拠を築くのはかなり難しかったと思われます。一方、袁紹・曹操のような難敵がいないおかげもありますが、界橋の公孫瓉の敗北にもかかわらず、まがりなりにも青州のみは公孫瓉陣営の影響下に保つことができました。田楷が青州全域を支配下に置いていたかは不明(おそらく支配できてはいないと思われます)ですが、少なくとも平原国については劉備のはたらきにより支配下にあったと考えられます。袁紹にとって劉備は難敵で、この頃から世人が「劉備は敵に回すとやっかいだ」と評するようになり、劉備の武人としての名声が高くなってきたのではないかと思われます。