古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その7 黄巾の乱後の劉備の動向について③(劉備、徐州へ行く)

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考察 その6 黄巾の乱後の劉備の動向について②の続きです。

(参考文献はその4をご覧ください。)

 

三国志 蜀書 先主伝』の記述を見ていきます。(先主=劉備です。) 

袁紹が公孫瓉を攻撃すると、先主は田楷とともに東に向かい斉(筆者注:青州斉国。州都臨淄がある)に駐屯した。」 

 この、「袁紹が公孫瓉を攻撃」というのは、前述のとおり初平3年(192年)正月の、界橋(冀州清河郡)の戦いであると思われます。この記述だけ見ると、界橋の戦いで公孫瓉が敗北したことにより孤立した田楷・劉備が斉に逃げたような印象を受けますが、実際には違います。

 

後漢書』の公孫瓉伝によると以下の記述があります。(『後漢書』は「田揩」、『三国志』は「田楷」となっていますが、同一人物です。) 

「紹(筆者注:袁紹)と大いに(筆者注:公孫瓉が)戦うも瓉の軍敗れて薊(筆者注:幽州燕国薊県)に還る。紹、将の崔巨業を遣わして兵数万を将いて(ひきいて)攻めて故安(筆者注:幽州涿郡故安県)を囲ましむるも、下らず。軍を退け南に還る。瓉、歩騎三万人を将いて追って巨馬水(筆者注:注によると幽州帰義県の界にあるとのことです)に撃ち、大いに其の衆を破る。死者は七、八千人。勝に乗じて南し、攻めて郡県を下し、遂に平原に至る。乃ち其の青州刺史田揩を遣わして拠りて斉の地を有たしむ(たもたしむ)。」 

 つまり、袁紹は界橋の勝ちに乗じて、崔巨業に故安を攻めさせたもののうまくいかず、退却したところ逆に巨馬水で公孫瓉の反撃にあい、更に平原まで追撃されたということになります。つまり、この時点では公孫瓉の方が優位に戦いを進めている状態であり、この優位な状況を生かすため、公孫瓉は田楷・劉備を斉に駐屯させます。州都臨淄のある斉国を支配することで、田楷が青州全域を支配できるように工作している訳です。

 

後漢書』の公孫瓉伝の続きをみます。

「紹(筆者注:袁紹)復た兵数万を遣わして揩(筆者注:田楷)と連り(しきり)に戦わしむること二年、糧食並びに月、士卒は疲れ困しみ、互いに百姓を掠めて野に青草無し。紹乃ち子の譚(筆者注:袁譚)を遣わして青州刺史と無さ為さしめ、揩与に戦うも敗れ、退き還る。」 

 田楷の青州支配を阻むため袁紹は田楷と連戦し、青州は荒廃します。上記の記述で「二年」とありますが、これは、初平3年(192年)から2年後の初平5年(194年)なのか、2年間(初平3~4年(192~3年)ということなのか分かりにくいです。一見、2年後の初平5年(194年)のようにみえますが、このすぐ後の『後漢書』公孫瓉伝の記述に、

「是の歳、瓉は劉虞を破り禽にして尽く幽州の地を有ち、猛き志は益々盛んなり。」 

とあります。公孫瓉が劉虞を破って捕えたのは、初平4年(193年)10月ですので、この「二年」という記述は2年間という意味であり、田楷が最終的に袁紹に敗れて青州から追い出されたのは、初平4年(193年)ということになります。ただし、青州全域が袁紹の長子袁譚の支配下になったのは、建安元年(196年)に孔融袁譚に敗れて追放された頃からだと思われるので、田楷の敗北により即青州全域が袁紹陣営の支配地域になった訳ではありません。

 

 袁紹陣営と公孫瓉陣営の青州争奪戦は、初めは公孫瓉陣営が優位に進めていたかに見えましたが、最終的に袁紹陣営が勝利します。この2年の間に何が起こったのでしょうか? 

 まず、『後漢書袁紹伝に以下の記述があります。

「(筆者注:初平)三年(一九二)、瓉又た兵を遣わして龍湊に至って戦いを挑ましむるも、紹復た撃ちて之を破る。瓉遂に幽州に還り、敢えて復た出でず。」 

 龍湊は注によると「平原の界に在」るとのことです。巨馬水の戦いで勝利し一時優位に立った公孫瓉でしたが、続く龍湊の戦いには敗れ、公孫瓉は幽州に退却し、その後二度と冀州に攻めてくることはありませんでした。これにより田楷・劉備は幽州の公孫瓉と分断され、青州に孤立することになります。

 

 次に、『三国志』蜀書先主伝に、

「曹公(筆者注:曹操)が徐州を征討すると、徐州の牧陶謙は使者を送って田楷に危急を告げてきたので、田楷は先主とともに陶謙を救援した。」 

とあります。これは、初平四年(193年)6月のことです。この時に悪名高い曹操による徐州の民虐殺が起こります。

 徐州が袁紹陣営の曹操の手に落ちると、青州冀州兗州、徐州と完全に袁紹陣営に包囲されることになり危機的状況です。田楷が劉備とともに陶謙を救援するのは当然でしょう。この後、田楷は青州に戻ります(この時青州袁紹と戦っている最中です)が、劉備は徐州防衛のため留まります。 

 しかし、劉備が徐州に留まったことにより、おそらく青州の戦いにおける田楷・袁紹間の戦力のバランスが崩れることになります。田楷は苦境に陥り最終的に初平四年(193年)中に戦いに敗れ青州を退去します。公孫瓉が幽州に退却し、青州と徐州の両方が袁紹曹操陣営に同時に攻撃される状態になった時点で、この方面における公孫瓉陣営の敗北はもはや確定的になったということなのでしょう。

 

三国志』蜀書先主伝の続きをみていきます。

「(中略)先主はかくて田楷のもとを去り、陶謙に身を寄せた。」 

とありますが、「田楷のもとを去」ったというより、田楷が袁紹により青州から追い出されたことにより、陶謙の元に身を寄せるしかなくなったということだと思われます。