古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

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考察・関ヶ原の合戦 其の四「外交官」石田三成(2)~上杉家との外交②新発田重家問題

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 前回のエントリーの続きです。

(前回のエントリーは↓です。)

考察・関ヶ原の合戦 其の三「外交官」石田三成(1)~上杉家との外交①三成、外交官デビュー - 古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

 

 景勝の上洛により、親密となったかにみえた秀吉と上杉家の関係ですが、実はまだ大きな問題が残っていました。それは新発田重家の問題です。

 

 新発田重家は、元は上杉謙信に仕えた武将で、その後の謙信の養子同士の後継者争い(景勝vs景虎)である御館の乱では景勝側に立ちます。そして、三条城の神余親綱を討ち、乱に介入した蘆名盛氏・伊達輝宗の兵を退けるなどの戦功を挙げ景勝の勝利に貢献しました。

 

 しかし、それにも関わらず景勝からの恩賞はほとんどなく、これを恨んだ重家は天正9年(1581年)6月16日蜂起し、新潟津を奪取し、そこに新潟城を築城し独立します。景勝はこれを攻撃しますが、重家は柴田勝家(を通じて織田信長)、蘆名盛隆らの支援を得て抵抗し、なかなか攻め落とすことができません。

 その後、柴田勝家が滅び(天正11(1583)年)、蘆名盛隆が死ぬ(天正12(1584)年)など状況は変わりますが、それでも重家の必死の抵抗があり倒せません。そして、景勝は前回にも述べたように秀吉政権と同盟(景勝上洛は天正14年6月)を結び、秀吉の後ろ盾を得て新発田重家を倒そうと望みます。

 

 しかし、それほど話は単純ではありません。天正13年(1585年)にも秀吉は「天台座主尊朝法親王を通じて、景勝と重家の講和を図ろうとして」(*1)いるなど、この件については、一貫して和平重視なのです。これについては、新発田重家は早くから織田信長(勝家を通してですが)に通じていたという事情もあるのかもしれません。

 

 以下、新発田重家問題に対する秀吉政権の対応の概略を記します。(以下、光成準治「豊臣政権の大名統制と取次」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』所収)等を主に参照しました。)

 

 秀吉は、景勝が上洛(天正14(1586)年6月)して臣従したことを受けて、天正14年9月6日付景勝宛秀吉直書で「『景勝に敵対するものがあれば、天下の評判、また関東のためですので、どのような方法でも越後国を平定』することを命じ」(*2)、これにより景勝の新発田攻めは秀吉に公式に認められました。しかし、一方で秀吉には景勝と重家を早期に講和させたい事情がありました。

 

 柴田勝家の死後、徳川家康は信長の次男織田信雄と同盟を結び、秀吉と対立するようになります。そして、天正12(1584)年に小牧・長久手の戦いが起こりますが、局地戦的には秀吉側が敗れる場面もあり、秀吉は家康を屈服させることができませんでした。秀吉は信雄を単独に屈服させることで家康と休戦します。家康は二男於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子(実質は人質)に差し出していますが、まだ臣従もした訳ではなく、その後の四国攻めなどの秀吉の戦いに援軍を送ってもいませんので同盟関係ですらなく、「『和平には応じたが臣従したわけではない』」といった態度をとり続けて」(*3)いました。

(ちなみに、人質となった家康の二男秀康と三成は親しかったようです。後に七将襲撃事件で奉行を辞職させられ、佐和山へ帰る三成を秀康は護衛し、三成からその感謝の印として正宗の名刀を贈られます。秀康はこれを「石田正宗」と名付け、終生愛用したとのことです。)

 

 その後、秀吉は徳川家康と講和を進め、天正14(1586)年5月14日、妹の朝日姫と家康を婚姻させています。しかし、それにも関わらず「家康は秀吉の期待を裏切り上洛しようとしなかった」(*4)のでした。(上洛=臣従です。)

 秀吉にとって、関東方面の仕置で最も信頼できる親豊臣大名は、この時点では上杉景勝でした。このため、秀吉としては上杉・新発田の戦いを早期にやめさせ、豊臣政権の関東仕置に上杉軍を専念させたかった(徳川・北条の牽制のほかに、関東・伊達・会津(芦名)の取次を景勝に担わせたかったようです(*5))ので、景勝と重家を早急に講和させ、重家を赦免する方向で交渉を進めていたのです。

 

 このため、秀吉は9月6日付文書で景勝に「越後国を平定」することを命じる一方で、9月11日付新発田重家宛に木村清久・石田三成増田長盛連署状を送らせ、その文書には「『関白様が天下静謐を申し付けられましたので、(中略)、以前のように景勝に奉公しなさい』とあり、重家に対して講和を勧告しています。」(*6)

 

 その後、9月25日付の景勝宛秀吉直書及び三成・長盛副状には「新発田攻めは近日中に決着するだろう』としていますが、『早急に手を空ける』ように命じており、実際には、新発田攻めが早急には片付けないことを想定し、重家赦免を受け入れるように仄めかしたものと考えられます。」(*7)

 

 しかし、10月5日付(景勝重臣の)直江兼続宛て三成・長盛連署状には「『来春に新発田氏を討ち果たされるとのことで、もっともだと思います』とあり、少なくとも表面上は新発田討伐を承認しています。」(*8)

 

 この秀吉の重家赦免方針から、重家討伐容認方針への変化は何でしょうか?

 

 これは、秀吉の家康との交渉が整い、家康の上洛が決まったことが関係してきます。

 秀吉は、妹朝日姫を婚姻させたにも関わらず、未だに自分に従わない家康の臣従を促すために、自分の生母大政所を人質として家康のもとに送るという決断を下しています。この連絡を受けた家康は9月26日、岡崎城で上洛することの是非をめぐって評定を開き、そこで上洛することを決します。そして、10月27日に家康は大坂城で秀吉に謁見し秀吉に臣従します。(*9)

 

 そして、11月4日付景勝宛秀吉直書では、「新発田氏を討伐することが第一です』」(*10)とあり、重家のとの(公式な)赦免交渉は打ち切られ、景勝の新発田討伐が改めて公認されたことが示されます。

 

 この重家赦免交渉が打ち切られた理由は、光成準治氏の論考を要約しますと、①家康上洛が決定し、天正十三年半ばから計画されていた徳川・北条両国への攻撃が中止となったため、景勝の関東出兵もなくなり、景勝を領国内の平定に専念させることができるようになったこと、②重家が講和の条件に秀吉や景勝の容認できない条件(おそらく芦名氏への帰属要求とされます)を言い出したため、秀吉が怒って重家を見限ったことがあげられるとされます。(*11)

 

 そして、天正15年(1587年)10月25日に景勝は新発田重家を討ち取っています。

 

 しかし、その勝利を祝うための天正15年11月22日付秀吉直書に、上杉景勝増田長盛石田三成副状が発給されており、その副状に、

 

「こちらの手続きする者がおりまして、過日、新発田重家を赦免するようにとお願いしました。もしかしたら、我々二人がそのことを知っていたとお思いでしょうか。八幡大菩薩に誓って、景勝様のためによいようにとひたすらお世話しており、全くほかのことは考えておりません。今後ともそのように思ってください。我々二人のことは決してお疑いにならないように。(筆者:後略します)」(*12)

 

 と、別のところで重家赦免の動きがあったことに対して、2人のなんか言い訳がましい文書があります。(公式な)交渉決裂までの秀吉側の重家赦免の動きは上杉方も知っている(知らせている)ことですので、それまでの赦免交渉のことは問題にはなってはいないはずです。

 

 この文書にある重家赦免の動きは(公式な)交渉の決裂前のものではありません。光成準治氏は「天正十五年の新発田攻め直前に、何者かが再度重家赦免を企てたものと推測されます。それが誰なのかは不明ですが、長盛・三成とは別のルートを用いたものだったと長盛・三成は主張しているのです」(*13)と重家との公式の交渉決裂後は上杉の新発田攻めが全面的に支持され、秀吉側と重家との交渉は打ち切られたはずにも関わらず、密かに直前まで重家との講和交渉が秀吉サイドの「別のルート」を通じて続けられていたことを指摘しています。

 

「別のルート」の人って誰なんでしょう。ここからは筆者の私見です。上記の光成準治氏論文を読むと、木村清久が重家赦免の交渉を普段から行っている(*14)ので、やはり「別のルート」の人とは木村清久なのでしょう。

 

 前回のエントリーで、木村清久が上杉家宛書状に登場していることでわかるようにに、天正15年(1587年)まで、上杉家宛ての秀吉書状には通常増田長盛・木村清久・石田三成の3名の副状がつけられ、この3者が対上杉外交を担っていたことがわかります。しかし、「長盛・清久・三成の三者による奏者体制は天正十五年まで確認されるが、天正十六年(一五八八年)には長盛・三成の二者となり」(*15)、清久の名前が消えます。

 筆者の考えですが、これは上杉側が清久の対新発田秘密外交に気が付き、清久の行動に不信感・不快感を抱いため、清久が対上杉外交の担当から外されてしまったことによるものではないでしょうか。

 

 長盛・三成は、景勝には別のルートの動きを知らないようなことを言っていますが、清久と長盛・三成は連携して外交をしている訳で、彼の動きを「知らない」ことは、「普通は」ありえません。

 しかし、これが「秘密外交」だった場合、上杉家と交渉している長盛・三成にさえ清久の重家に対する交渉は秘密にされていたのではないでしょうか。むしろ、長盛・三成は上杉側から指摘されて、初めてこの「秘密外交」を知った可能性すらあります。三成らはこの事を聞いたとき狼狽したでしょう。それが上記の手紙の文面にも表れています。

 

 そして、清久が密かに動いていた場合、それは彼一人の意思だったとは考えられず、間違いなく秀吉の指示により動いていたのです。(外交は最終的に君主の意思決定で決まりますので、一人の意思で勝手に動いても無駄ですし、清久が単独で動くメリットがありません。)

 

 秀吉は表面上重家を見限ったようにみえても、重家赦免の可能性を最後まであきらめていなかったのではないでしょうか。

 なぜ、そこまで秀吉が重家赦免を最後まで考えていたか知りませんが、ある時期までの秀吉は、天下統一を急ぐためになるべく大名・領主を滅ぼさない寛大方針で動いていますので、そういう考えなのかもしれません。また、重家は精強な上杉軍を何度も撃退した豪勇の者ですので、その戦上手の能力を買って、赦免という恩を与えることにより、強力な親豊臣系大名の戦力として使いたいという考えもあったのかもしれません。

 

 後になると次第に秀吉は大名・領主を過酷に取り扱い、取り潰される大名は増えていきます。この交渉は、まだ秀吉外交が天下統一を急ぐために寛大な方針を取っていた頃のものといえます。

 

 長盛・三成としては、秘密外交は主君の二枚舌によるものだと景勝に説明するわけにもいきませんので、「知らない」というしかないでしょう。非常に歯切れが悪く、言い訳がましい書状ですが、主君がやっていることをごまかすためだと考えると納得がいきます。

 

 結論を言いますと、第一に、秀吉関係の話ですと「黒幕」とか「影で操っている人間」という話がよく出てくるのです(そして、後世の物語ではそれが「石田三成」だというお話になってしまうのですが)が、だいたいの場合「黒幕」は秀吉その人のことが多いのです。

 今回の件についても、「別のルート」の人が問題だとなると、ならば「黒幕」は誰だという話になり、そうすると「黒幕」は「木村清久」ということになりますが、実際には「黒幕」の「黒幕」はおそらく「秀吉自身」なのだろうと考えられます。

 

 第二に、秀吉は新発田重家の問題にみられるような、「二枚舌外交」をする癖があるということです。秀吉の二枚舌外交をする癖は、後の文禄の役のときにも発揮され、相手国の不信を産んだばかりでなく、秀吉家臣団内部の相互不信と憎悪をあおる結果を産むことになります。

 

上杉景勝新発田攻めを「惣無事令違反の『私戦』だ」と言う方が時々いますが、上記で見た通り、新発田攻めは豊臣政権の承認の下に遂行された「公戦」です。)(*16)

 

 次回のエントリーは、上杉家の会津転封と、その中で石田三成が果たした役割について検討します。

 

 注

(*1)光成準治 2011年 p77

(*2)光成準治 2011年 p74

(*3)小和田哲男 2006年 p185

(*4)小和田哲男 2006年 p186

(*5)光成準治 2011年 p75~76

(*6)光成準治 2011年 p74~75

(*7)光成準治 2011年 p75

(*8)光成準治 2011年 p75

(*9)小和田哲男 2006年 p186~187

(*10)光成準治 2011年 p76

(*11)光成準治 2011年 p76

(*12)光成準治 2011年 p73

(*13)光成準治 2011年 p77

(*14)光成準治 2011年 p75~77

(*15)光成準治 2009年 p132

(*16)光成準治 2011年 p78 

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』NHK出版、2009年

光成準治「豊臣政権の大名統制と取次」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』柏書房、2011年 所収)