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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

藤堂高虎・高吉と石田三成

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 藤堂高虎石田三成とは、通常はあまり親しいイメージがありません。ただ、三成が関ヶ原の合戦後に捕えられた後、諸将と会話する逸話がいくつかあるのですが、その中で高虎と三成との以下の会話が有名です。

 

 下記のサイトから高虎と三成の会話を引用します。(外部サイトです。適宜改行しました。)

http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic30.html

 

「敗戦後、三成は伊吹山に独りで落ち延びたが、6日後、潜伏先の古橋村で捕縛された。9月24日、家康のもとへ護送される。縄で縛られた三成の姿を見て東軍の猛将・藤堂高虎が近づき、丁重に言った。

『この度の合戦での石田隊の戦いぶり、敵ながら実にお見事でした。貴殿の目から見て我が隊に問題があれば、どうか御教授願いたい』

『鉄砲隊を活かしきれてなかったようです。名のある指揮官を置けばあの鉄砲隊の威力は向上しましょう』。

 この助言に感謝した高虎は、以降、藤堂家の鉄砲頭には千石以上の家臣を当てることを家訓とした。」

 

 この2人の会話を見ると、石田三成藤堂高虎とは仲が悪い訳ではなく、むしろ以前から親交があったことがうかがわれます。普段から親しくなければ、上記のような会話になりません。

 

 三成と藤堂家との間には、もう一つ気になる逸話があります。捕縛後の三成と藤堂高虎の養子、藤堂高吉との会話です。

 

 白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、2009年より引用します。(適宜改行しました。)

「また前述の『松浦家文書』に記録されている、藤堂宮内(高吉)が

『某は治部少舗(筆者注:石田三成)に恩を受けたもの、一目逢い度し』

と強って望んで会いに行ったのはその時であろう。(筆者注:「その時」とは関ヶ原の合戦で敗れ、捕えられた後に大津に護送された三成が福島正則黒田長政ほか諸将と対面した時のことです。)

宮内『さてさて』と云う、

治部少『宮内いいや、いいや、最早何も言わぬもの』と言ったと記録されている。」

 

 この、藤堂高吉が三成から受けた「恩」とは何でしょうか?『松浦家文書』には、その「恩」については何も書かれていないようですが、藤堂高吉の生涯を辿っていくと、三成が藤堂高吉に与えた「恩」が何であるか、推理が可能です。

 

 藤堂高吉は、織田信長の重臣、丹羽長秀の三男として生まれます。信長の死後、秀吉は長秀を味方にするため、天正10(1582)年、高吉(幼名は仙丸)を弟秀長の養子に迎えます。

 

 同年6月27日の清州会議では、長秀は秀吉の後押しをして、秀吉の望む織田家の三法師(秀信)後継が決まります。

 

 しかし、晩年長秀は織田氏をないがしろにする秀吉の振舞いを見て、信長の恩義に応えることができなかったことを悔いて割腹自殺したという逸話(実際には病死だと考えられますが)等もあり、死期の近い天正13(1585)年の頃には長秀は秀吉の味方についたことを後悔していたことがうかがわれます。

 

 そうした長秀の晩年の態度を恨みに思ったこともあり、天正13(1585)年4月16日長秀が亡くなり、長秀の後を継いだ長男の長重の代になると、秀吉は丹羽家に対して過酷な扱いをするようになります。

 まず、長秀が亡くなった天正13(1585)年に長重が佐々成政越中征伐に従軍した際に、家臣に成政に内応した者がいたとの疑いをかけられ、秀吉によって丹羽家は越前・加賀国の領地を召し上げられ123万石の大大名から若狭15万石に転落します。さらには天正15年(1587年)の九州征伐の際にも家臣の狼藉を理由に若狭国も取り上げられ、わずかに加賀松任4万石の小大名に丹羽家は追い込まれる事になります。

 

 秀吉の丹羽家への冷遇と共に、秀長の養子高吉の羽柴(豊臣)家での立場も危うくなります。高吉は男子のいない秀長の跡継ぎでしたが、そこへ秀吉は甥(秀長にとっても甥ですが)の秀保を秀長の養子に送り込もうとします。秀保が養子になってしまうと、高吉の立場はありません。秀吉の言いたいことは秀長に対して「高吉を廃嫡し、放逐せよ」ということなのです。高吉が放逐されるとなると、実家の丹羽家に戻るしかありません。丹羽家は秀吉に睨まれ、いつ取り潰されてもおかしくない状況です。養子の高吉を気に入っている秀長はこれに反発し、一時秀吉と秀長兄弟の仲は険悪となります。

 

 そこへ助け船を出したのが、当時秀長の家老であった藤堂高虎です。高虎は「高吉殿を是非藤堂家の養子としてもらい受けたい」とはたらきかけます。この縁組で、主君の秀長を助けるとともに、(高虎にも当時実子の男児はいなかったため、)武将として優れた高吉を跡継ぎとしてもらい受けたいと考えたのです。(その後、高虎にも実子が生まれ、後のトラブルになるわけですが。)

 

 しかし、秀吉にしてみれば、憎むべき丹羽長秀の息子だから秀長の養子から放逐したいのです。「秀長の家老の跡継ぎ」という「温情」的措置では、本当は気がおさまりません。また、このような養子縁組は秀吉の許可がないと進めることはできません。

 

 筆者の推理ですが、この時に秀吉に近侍する石田三成が、高吉の藤堂高虎への養子縁組を秀吉に認めてもらえるように、秀吉に「取り成し」たのではないかと考えます。三成の秀吉への取り成しにより、高吉は無事高虎の養子となることができ、また秀吉・秀長の間の兄弟の溝を埋めることができたのだと思われます。

 

 藤堂高吉の生涯を考える時に、三成の最期が迫るこの時に「某は治部少舗に恩を受けたもの、一目逢い度し」と言って三成に会いにいくほどの「恩」というものは他に考えられないのです。

 

 ドラマなど(特に大河ドラマ)では、豊臣秀長石田三成が、まるで仲が悪いかのような描写がされますが、実際にはそんなことはありません。三成は秀長と九州征伐で同行しており、仕事上ではいわば上司・部下の関係ですし、三成の正妻の父親宇多(尾藤)頼忠は秀長の重臣です。こうした婚姻の場合、媒酌人は秀長がつとめたと考えられます。また、秀長の遺臣はほとんどが西軍についています。秀長と三成は親密な関係にあったと考えられます。

(秀長の遺臣のうち東軍についた、その数少ない例外が藤堂高虎なのは皮肉ですが。高虎は秀長没後に、その養子秀保に仕えますが、秀保の没後、大和豊臣家が断絶すると高野山に入って出家します。(後に還俗。)一説には、秀長の元の養子である高吉に秀保の後を継がせ、(秀長系列の)大和豊臣家の存続をさせることを秀吉に願ったものの、かなわなかったことが出家の理由とされます。この時に、高虎の豊臣家に対する忠誠心は切れてしまったのかもしれません。)