読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

日本26聖人殉教事件と石田三成について

☆古上織蛍の日々の泡沫(うたかた) 総目次 に戻る

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

(下記の記述は、以下の講演・書籍を参考としたものです。よろしくお願いします。特に、長崎純心大学(元)学長(2014年3月に退任されたとのことです)の片岡千鶴子氏の講演記録は26聖人殉教事件について詳細に語られたものでHPに掲載されていますので、ご興味のある方は是非ご覧願います。)

 

参考文献

片岡千鶴子「二十六聖人殉教者のメッセージ」(講演記録)1998年(下記のサイトをご覧ください↓)

http://theology.catholic.ne.jp/

池上裕子『日本の歴史15 織豊政権江戸幕府講談社学術文庫、2009年

オンライン三成会編『新装版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2009年

 

 天正15(1587)年豊臣秀吉バテレン追放令を出しました。その内容は、バテレンの追放((バテレン=神父の意)(にも関わらず少数の宣教師は日本に残ることができました))、教会領の没収、大名が領内の人間にキリスト教へ改宗を強制させることの禁止、一定以上の知行を持つ者がキリシタンになることの秀吉公議への許可制、人間の海外・国内売買の禁止、布教の禁止等です。このため宣教師達は、今までのような大名権力を利用して、領内の人間を丸ごとキリスト教徒に改宗するような、おおっぴらな布教はできなくなりました。

 

 一方でキリスト教国との貿易はそのまま認め、個々人がキリスト教を信教することは許されため、この追放令はキリスト教の禁令としては不徹底であり、また宣教師はバテレン追放令後にも関わらず日本に残っています(秀吉の滞在許可を得た少数でしたが)し、この禁令後も日本のキリスト教徒の数は増え続けています。(つまり、布教自体は実態として続けられ、(小規模ならば)黙認されたということです。)

 

 このような秀吉の曖昧なキリスト教禁令の状況下で、 慶長元(1596)年9月のサン・フェリペ号事件が起こります。

 

 サン・フェリペ号とは土佐にスペイン船が漂着した事件です。これに対して、秀吉はこの船にフランシスコ会の修道士たちが同船していた事をとらえ、漂着船の積み荷の没収を命じます。更に、同年12月に再び禁教令を公布の上、秀吉はフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑するように命じます。当時京都奉行の石田三成にも、この命令は伝えられます。

 

 なぜ、このような事件が起こったのか。一説としては、サン・フェリペ号事件の事件収拾のために派遣された増田長盛が、サン・フェリペ号の水先案内人から「スペインの国土が世界中に広がっているのは、まず宣教師を派遣して改宗させ、その後、侵入して武力で国を奪うためだ」という話をされ、驚愕をした長盛から秀吉にその話の報告が行われ、その報告を受けた秀吉が怒りキリスト教の弾圧を強めた、という説があります。

 しかし、この話は日本側の史料には一切見えず、これが原因とは考えられません。このような、キリスト教による侵略の危険性は天正15(1587)年のバテレン追放令の時点で知られていることですので、このことが改めてキリスト教の再弾圧に繋がるとは考えにくいです。

 

 結局の所、片岡千鶴子氏の講演を参考にしますと、漂着船の積み荷の没収(積み荷は、太田牛一の『雑記天正記』には「寄船の御道具およそ七十万石のつもり也」とあり、相当な財産であったことが伺われます)を正当化するために、秀吉は天正15年のバテレン追放令を口実として持ち出すことにしたと考えられます。

 そして、秀吉はサン・フェリペ号フランシスコ会の修道士が乗船していたことを「バテレン追放令違反である」として、サン・フェリペ号の積荷没収を強行し、キリスト教徒の再弾圧に方針を転換したというのが、事実ではないかと思われます。

 

 なぜ、フランシスコ会が標的になったかというと、①サン・フェリペ号に同船していたのがフランシスコ会の修道士であったことと、②バテレン追放令の前から日本にいて、バテレン追放令後は秀吉を刺激しないように大がかりな布教は自粛していたイエズス会の修道士に対して、その後に日本に来たフランシスコ会の修道士は秀吉の意図をつかみきれず、バテレン追放令を軽視してキリスト教の布教活動を公然と行っていたことがあげられます。

 

 現代でも、法令上は厳密的には違反でも、普段は大ざっぱに見逃され取締りをされない事象が、突然、権力側の恣意的な判断で厳格に適用され、狙い撃ちで逮捕・起訴されるという事があります。秀吉政権の恣意的運用を、現代の人間は笑えないのかもしれません。

 

 秀吉の「フランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛して処刑する」命令を受けた京都奉行の石田三成は、犠牲者の数をできるだけ減らそうと尽力しますが、京と大阪で外国人宣教師・修道士6名、日本人修道士と信者18名が捕縛されました。この時の犠牲者を減らすための三成の尽力について、片岡千鶴子氏の講演の質疑応答を引用します。

 

「質問者(1)

 ちょっとお尋ねしたいんですが、二十六聖人が殉教しましたんですが、ほかに当時キリシタンがたくさんいたわけですね。
 なぜ26人だけが特別に殉教しなければならなかったのか、その特別な理由は、どういうことだったのでしょうか。

片岡先生

 秀吉は先ず京阪地区のキリシタンのリストを作成させました。
 提出されたリストには4千人に上るキリシタンの名前がリストアップされており、その筆頭には高山右近をはじめ名だたるキリシタンの名前が上がっていました。
 当時の京都奉行に相当する権限をもっていたのは石田三成でした。
 三成は今回のキリシタンの逮捕を最小限度に抑えたいと考えていましたので、提出された名簿を見て大変怒り、どんどん名前を削って、今回はサン・フェリペ号に関わることであったので、ルソンから来た宣教師たちに絞って秀吉の面目が立つ程度までに減らしてしまいました。
 イエズス会の宣教師たちも殉教の時が来たと喜び勇んで、自ら名乗り出ようとするのですが、信徒たちが出来るだけそれを避けようとしました。
 当時イエズス会の宣教師たちは長崎の有馬領内などに避難し、表立った布教活動を避けていました。
 京阪地区にいたのは秀吉に滞在許可を得た少数の宣教師でした。
 石田三成は出来れば1人の逮捕者も出したくなかったのですが、24人の名簿になり、長崎への旅路の途中で2人が加わって最終的に26人になりました。

 石田三成は、関ヶ原の戦いで家康方に負けましたので、江戸時代では石田三成は悪者扱いですが、実際は優れた武将の1人であったと思います。
  最近研究者の中に見直しを試みる人が出てきたようですが、テレビドラマなどでも悪者扱いが常套手段になっていますので、私は残念に思っています。
 秀吉は二十六聖人に対して京都で両耳と鼻をそぐようにという残酷な命令を出していますが、石田三成の裁量で左の耳たぶを切るに止どめています。」

 

 この中にはイエズス会関係者も3名ふくまれており、三成は何とか除外しようとしたが果たせませんでした。この経緯についても、片岡千鶴子氏の講演の質疑応答を引用します。

 

「質問者(2)

 大変いい、良くまとまった、そして資料的にもいろんなものをよく揃えた講演会だったと思います。
 本当にうれしく思います。
 ひとつだけ質問したいことがあるんです。
 前からいろいろ話題にはされていることなんですが、確かにフランシスコ会員、船に乗っていた1人のフランシスコ会員も殉教しておりますが、フランシスコ会員が宣教を公けにやっていて、つかまったのは分かりますが、26人の中にイエズス会員が3人おるんですね。
 イエズス会員には指導があって、積極的に宣教しないようにしていたはずなんですが、このあたりの解釈はどうお考えになりますでしょうか。

片岡先生

 二十六聖人殉教事件が勃発した時、先ほどのご質問にお答えしましたように、石田三成は逮捕者を最小限度に抑えようとし、ついに秀吉を説いてルソン関係のフランシスコ会宣教師と関係の信徒に絞って行きました。
 二十六聖人中の3人のイエズス会員は逮捕された時、大阪にいました。
 大阪を奉行として権限をもって采配していたのは小出播磨守でした。
 最初はキリシタン全員の名簿を作成するという意図で動いていましたので、彼はイエズス会員が、日頃から宿にしていた熱心なキリシタン小笠原アンドレの家にも下役人を行かせました。
 実際にそこにはペドロ・モレホン神父とフランシスコ・ペレス神父がいましたが、主人の小笠原アンドレが役人に応対して神父は居ないこと、今家に居るのはイルマン・パウロ三木と2人の同宿ジョアン五島とディエゴ喜斎の3人だけであると説明したので、この3人が名簿に記載されました。
 大阪で捕らえられた人々が京都に送られた時、石田三成は今回の逮捕者をルソンから来たフランシスコ会関係に絞っていこうとしていたのにイエズス会関係者がいるのを見て驚くのですが、自分の権限外で逮捕されていますので、そのままになって26人の殉教者の仲間になりました。
 小笠原アンドレの家にいたペドロ・モレホン神父とフランシスコ・ペレス神父は、フロイスの記録によりますと明石掃部と宇喜多左近の機転で他の安全な場所に移されています。」

 

 また、秀吉は捕えられた24名の耳と鼻を削ぎ、市中を引きまわすように命じます。三成にできたのは、その命令を左の耳たぶを切り落とすことに止めることだけでした。

 

 翌年の慶長2(1597年)2月5日、24名は移送途中で加えられた2名の日本人とともに長崎で処刑されました。

 

(平成28年10月30日追記)

 

 跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』戎光祥出版、2016年、p363に以下の記述があります。

「慶長元年の二十六聖人殉教事件のさい、イエズス会のために力を貸したのは石田三成だった。このときの迫害はフランシスコ会の司祭たちが京都において公然と布教をはじめたことや、キリスト教がスペインやポルトガルの国王による侵略の手先になっているとの情報が秀吉の耳に入ったことを契機におこったが、秀吉は当初、「すべての伴天連らを死刑に処するように」と三成に命じた。三成は実行を約してその場を離れたが、翌日、秀吉に質した。「昨日殿下は拙者に対して、すべての伴天連たちを死刑に処するように命ぜられました。ところで現在拙者は、殿下が伴天連たちの名で誰たちを咎めているのかを知りたいのですが、ポルトガル船といっしょに来朝した伴天連たち含めてなのですか、もし差支えなければ、彼らによって犯された罪状をも明らかにするため、教示してほしいのです」。秀吉は処罰の対象がスペイン使節として来日したフランシスコ会司祭であり、ポルトガル系のイエズス会士は除外される旨を答えた。知らせを聞いたイエズス会の司祭たちは「一人の異教徒(石田治部少輔)が国王の面前において我らの弁護を引き受けそれをやりおおせた」ことに感嘆しあったという。」

 しかし、三成ら奉行衆は秀吉の意思をもちろんやすやすと変えられた訳ではなく、

イエズス会のためにひと肌ぬぐには、「関白殿の前で苦(境)に立つような」危険を覚悟せねばならなかった。石田三成バテレン迫害令の対象からイエズス会を除外させることに成功したが、処刑のため長崎に送られた人々のなかには、手ちがいから大坂で捕縛された三人のイエズス会修道士もまじっていた。同会のオルガンティーノから釈放のための助力を頼まれた三成は、「(イエズス)会の者は一人も大坂にいなかったと思っている国王(秀吉のこと-引用者注)に対して、拙者がこの話をするとしたら、おそらく彼は立腹してふたたび一同を死刑に処するよう命じられるだろう」との理由により、同情を示しつつも要請をことわった。フロイスによれば、そもそも「治部少輔(三成)や、政庁の他の人々は、フランシスコ会の司祭たちが死刑を免じられて、ただ追放刑を受けるように国王を説得し(得)ようと信」じていたそうだが、それもかなわなかったのだ。」(前掲書p365)

 

 秀吉の認識では、バテレン追放令により京坂には(バテレン追放令を守っている)イエズス会の修道士はいないはず、という認識なのでしょう。このため、大坂で捕えられたイエズス会修道士はバテレン追放令を守っていないことになり、この件で擁護しようとすると、かえって京都・大阪にもイエズス会修道士は他にもいたのではないかと秀吉に勘ぐられ、ふたたび一同を死刑に処するような命令になってしまうため、これ以上の説得はできないと三成は判断したものと考えられます。