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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

伊達政宗と石田三成について(1)

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 石田三成伊達政宗とは、三成の取次大名である佐竹義重・義宣と政宗が対立していた関係もあり、また「北の関ヶ原の戦い」で政宗が東軍についていることもあり、あまり仲が良くないように見受けられます。まあ、基本的にはその通りなのですが、調べてみると意外にいろいろ関係があることが分かります。

 

伊達政宗会津を巡る戦いから小田原参陣の経緯については、小和田哲男『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』中公新書を参考としています。)

 

 会津は代々蘆名氏が支配してきました。しかし、蘆名氏の第18代目当主の芦名盛隆が、23歳のときに天正12(1584)年家臣に殺され、長男の亀王丸も3歳で天正14(1586)年疱瘡で死去するという不幸が相次ぎ、蘆名氏は弱体化します。

 この後、常陸の大名佐竹義重の次男(佐竹義宣の弟)である義広が、盛隆の養女と結婚して蘆名氏の次代当主となりますが、年齢が若過ぎて家中をまとめきれず(義広は天正3(1575年生まれ)、伊達政宗に戦いを挑まれます。

 天正17(1589)年6月5日に、蘆名義広と佐竹等の連合軍は伊達政宗と擦上原で合戦におよびますが、この戦いは蘆名・佐竹等連合軍の大敗に終わり、義広は実家の常陸佐竹家に逃げ戻り、会津蘆名氏は滅亡します。

 

 しかし、この伊達政宗が擦上原の合戦で蘆名氏を滅ぼしたことを、豊臣政権は天正15(1587)年12月に出した秀吉の「関東・奥両国惣無事令」違反にあたるとみなし、政宗を糾弾します。

 

惣無事令」とは大名同士の戦いを「私戦」とみなし、これを禁止するという関白秀吉の命令です。ここら辺を、たまに誤解している人がいますが、ここで禁止されているのは「大名同士の戦い」です。 

 豊臣政権から「大名」とみなされなかった領主は、この「惣無事令」から外れてしまいます。つまり、秀吉から「大名」とみなされなかった領主は、その所領を安堵された大名に対して従属すべきであり、これに逆らって「独立」した者は、「大名に対する反乱」とされます。その戦いは「大名の反乱鎮圧」となり、これは豊臣公議の承認を得た「公戦」ということになるのです。

 結局、豊臣政権から「大名」として認定(所領安堵)されるか否かが、今後の戦国大名の生死を分けることになります。

 

 今回は、伊達政宗と蘆名義広はともに「大名」であると秀吉政権にはみなされていますので、「惣無事令」違反の私戦とされた訳です。

 

 秀吉の糾弾に対して、政宗は「自分は奥州探題だから、その権限で攻めた」という言い訳をしますが、この言い訳は秀吉には通りません。まずいと感じた政宗は秀吉側近の浅野長政豊臣秀次前田利家らに馬を贈り、誼を通じて秀吉への取り成しを頼みます。

 

 これに対して、秀吉の側近である石田三成は政宗討伐の準備を進めます。上記文献より以下に引用します。

 

会津旧事雑考』という史料によって、このころ(筆者注:利家が政宗から馬を贈られたことに対する礼状を書いた天正17(1589)年12月5日の頃、)石田三成が蘆名氏の旧臣金上氏らのもとに兵糧米・鉄・鉛などを送り、政宗との戦いの準備をさせていたことが明らかにされている。秀吉としては、蘆名氏遺臣を組織し、それに佐竹義重および上杉景勝を協力させ、蘆名領を奪回しようとしていたものと思われる。

 この書状の十三行目から十五行目のところに、蘆名義広側からの訴えを受けた秀吉が、政宗の行為に対し「逆鱗」したとあるように、秀吉の怒りは政宗に向けられていたのである。」(*1)

 

 これだけ見ると、石田三成が個人的にも伊達政宗を敵視していたように思ってしまう人もいるかもしれませんが、秀吉の対(未だ秀吉に従属していない)大名外交の基本は「和戦両様」です。あと、書状に秀吉が「怒っている」と書いてあっても、それは秀吉のパフォーマンスであり、本気で心底「怒っている」のかは分かりません。

 

 「和戦両様」外交の時は、「和」のルートを担う家臣と、「戦」のルートを担う家臣の2つの「手筋」が必要になります。対伊達政宗外交の時は、「和」のルートを担ったのが前田利家浅野長政で、「戦」のルートを担ったのが石田三成というだけの話で、これは秀吉の判断・命令によるものであり、三成の個人的な判断によるものではありません。

 三成は当時から対佐竹氏外交を受け持っており、佐竹氏を「取り成す」立場ですので、三成が佐竹氏の不利益になるような行動は基本取れません。このため、佐竹氏と対立する伊達政宗との外交においては、「戦」のルートを担うように三成は秀吉に命じられたのだと思われます。

 

 その後、秀吉の対北条征伐である小田原合戦がはじまります。(秀吉軍が京都を出発したのが天正18(1590)年3月1日)

 

 その少し前になりますが、「正月十三日付蘆名氏旧臣山内氏勝宛の石田三成書状(『新編会津風土記』所収文書)によると、秀吉は、「北条氏を成敗したら、そのまま黒川城まで進み、政宗の首をはねる」といっていたという。秀吉がその時点で、北条氏政・氏直のあとは政宗と考えていたことがわか」(*2)ります。

 これに対して、政宗は北条氏と連絡をとり同盟して秀吉と戦うような動きをしつつ、利家とも書状のやり取りをする等したたかな外交を展開します。

 

 この後、「利家は、二月二日付書状(「伊達家文書」)で、会津口から下野に出馬するように政宗に勧告して」(*3)おり、政宗の出馬(つまり秀吉への臣従)を促します。

 

 結局、政宗は利家の説得もあり、小田原への参陣、つまり北条氏との同盟破棄、秀吉への臣従を決意します。しかし、家臣に従属反対派がいたことなどにより、出発は大幅に遅れ6月5日にようやく小田原に到着します。小田原に到着した時に、政宗の遅参を詰問したのが前田利家浅野長政ですが、前述した通り利家と長政は政宗と書状のやり取りを行っており、秀吉に政宗の助命を取り成したと思われます。

 

 政宗は秀吉の謁見を許され、秀吉に恭順することになりますが、「惣無事令」違反の戦いで切り取った所領である、会津・岩瀬・安積の3郡は秀吉に没収されることになります。

 

 このように三成は、初め伊達政宗との戦の準備をしていた立場ですので、政宗とは仲良くなりようもないはずですが、ある時期から親密な関係になったことが以下の記述からうかがえます。

 以下は、慶長3(1598)年7月1日、秀吉が8月18日に亡くなる直前のことです。

 

陸奥米沢の大名伊達政宗朝鮮出兵には動員されなかったが、かわりに伏見城修築普請を課せられ、上方(畿内)で過ごしていた。(慶長三年)七月一日には九州出張中の石田三成に書状を送り、中央政局のあわたただしい様子を伝えた。(「諸家所蔵文書写」)。

 

 その内容は、「秀頼様はいまだ幼少なので、以後は家康と利家に預けて「後見」(「御うしろ見」)させ、どのようにでも取り立ててほしいとのことで、仲の悪い者たちも残らず仲直りさせ、一統の奉公を命じられた。また「秀頼様」を大坂に移し、北国・東国の大名はみな大坂に移すため、家などの引越料(銀子・俵粮)が与えられ、六月二十八日には家康から召集されて米・銀の「御朱印」を拝領した。さらに、「御諚」として仲直りが命じられ、逆らえずに一座一和となったが、心底から和談したとは思えない(「争心底和談可仕候哉」)。もし三成が上洛すれば、浅野長政との仲直りも命じられるはずだが、そのときは政宗も「愚存」を言上したいので、三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」というものである。」(*4)

 

 この背景として、伊達氏の「取次」であった浅野長政の政宗に対する「指南」に、政宗は深い遺恨を抱いており、文禄5(1596)年8月14日付で長政宛てに「絶交状」を叩きつけたことがあります。

 

 絶交状の内容は長政の取次・指南に対する政宗の恨みで9ヶ条にわたりますが、例えば、長政により「(自発的に)政宗が知行を秀吉にすべて進上する旨」の文書を無理矢理書かされ、その文書を返してもらっていないこと、自分の家来が木下勝俊に討たれ、長政に処理を頼んだのに何もしてくれなかったこと、などが挙げられます。(*5)

 

 このように政宗は、秀吉の取次である浅野長政と絶縁している状態でしたが、「御諚」として仲直りが命じられたということです。しかし、政宗にも政宗の言い分がありますので、三成にその「取り成し」を頼みたいという書状なわけです。

 つまり、「取り成し」役として政宗は三成に頼っている訳で、いつの間にか政宗と三成は親密な仲になっていることが分かります。

 

(平成29年1月18日追記)三成と政宗が親密な仲になったきっかけについて、以下に考察しました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 これは、取次の浅野長政と絶交するということは、秀吉政権とのパイプ役を失うということですので、政宗としては別ルートのパイプ役を探す必要があったということでしょう。

 天正18(1590)年の奥州仕置では、浅野長政石田三成が奥州に派遣され仕置を行っていますので、長政に頼れない時は、三成を頼るというのが東北大名の自然な考えだったのかもしれません。このため、文禄5年以降、政宗は三成との親交を深めることにしたのだと考えられます。

 

 次回のエントリーでは、関ヶ原の合戦前夜の伊達政宗と三成の交流について書きたいと思います。

(次回のエントリー→)伊達政宗と石田三成について(2)

 

 注

(*1)小和田哲男 2010年、p80

(*2)小和田哲男 2010年 p82

(*3)小和田哲男 2010年 p82

(*4)福田千鶴 2014年 p57~58

(*5)伊達政宗浅野長政宛て絶交状の内容は、「山本博文 2009年 p198~207」を参照しました。

 

 参考文献

小和田哲男『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』中公新書、2010年

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年

山本博文『天下人の一級史料-秀吉文書の真実』柏書房、2009年