古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

伊達政宗と石田三成について(2)

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 前回の続きです。(前回のエントリー→)伊達政宗と石田三成について(1)

 

(以下の家康の私婚違約事件の経緯については、白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年 p202~203を参照しました。)

 

 秀吉が慶長3(1598)年8月18日に亡くなった後、早くも家康は専断を始めます。それまで秀吉の許可を得ない大名同士の婚姻は、大名同士の勝手な同盟になるため、掟で禁止されていました。それにも関わらず、家康は他の四大老五奉行の許可を得ることなく、私的な婚姻を進めようとします。これは家康の他の大老・奉行に対するあからさまな挑発といってよいでしょう。

 

 家康が進めようとしていた婚姻は具体的には、

・家康の六男・松平忠輝伊達政宗の娘(五郎八(いろは)姫)

・家康の養女(松平安元の娘)満手姫と福島正則の嫡男正之

・家康の養女(小笠原秀政の娘)と蜂須賀家政の嫡男至鎮

 の婚姻です。

 

 慶長4(1599)年正月19日、これを他の四大老、(石田三成も含めた)五奉行がこの婚姻を秀吉の定めた掟に違反するとして三中老(中村一氏生駒親正堀尾吉晴)を家康の元に派遣し、家康を詰問します。

 これに対して家康は媒酌人が届け出たものだと思っていたととぼけ、かえって詰問状にある「家康の回答次第では、五大老の列から除外する」という言葉尻をとらえて逆に四大老五奉行の過言を責めて対決を迫ってきました。

 

 これをきっかけとして諸大名は二派に分かれ、それぞれ伏見城の家康と、大坂城前田利家の元に集結します。(下記のリストは、白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年、p202~203より引用。白川亨氏は、木村穀斎(高敦)(江戸中期の武士)『武徳安眠記』・渡辺世祐(明治時代の歴史学者)『稿本石田三成』を参考としたようです。)

 

(平成28年8月28日 追記①:結局、下記のリストは江戸時代に書かれた二次史料及び明治時代の書籍を元にしたもののようです。しかし、そもそもリストの内容自体が後世の史料によってバラバラなので、実際に二派集結自体が本当にあったのかなかったのか、あったとして下記のリストが正しいのか、も含めてよく分かりません。)

 

 伏見城の家康の元には、

福島正則池田輝政森忠政織田長益(有楽)、黒田孝高(如水)・長政親子、藤堂高虎、有馬頼則、有馬豊氏、金森素玄(長近)、新庄直頼、京極高次京極高知伊達政宗最上義光、堀秀治、大谷吉継、蒲生秀行、田中吉政、富田信高等

 

 大坂城の利家の元には、

 毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家石田三成浅野長政前田玄以長束正家増田長盛佐竹義宣立花宗茂毛利秀包小西行長長曽我部盛親岩城宣隆、原胤広、熊谷直盛、福原長堯、垣見家純(一直)、細川忠興加藤清正加藤嘉明浅野幸長、秀頼の近臣七組の頭等

 

が集まり、両者は一触即発の状態になります。追記②:というのも後世の二次史料によるものですので、実際にはよく分かりません。)

 

 その後、2月5日になって家康と利家ら四大老五奉行の間で誓詞が交換されて、一応事態は収拾されますが、まだ両者の和解には至りませんでした。(*1)(追記③:相田文三浅野長政の居所と行動」藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年によると誓詞が交換されたのは2月12日だとのことです。(元史料は『毛利家文書』)

 

 そのような状況の中、慶長4(1599)年2月9日、石田三成は大坂屋敷で茶会を開きます。その時の茶会の客は、宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄も参加し、和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。(*2)このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したそうです。

 

 徳川派・前田派の両者の対立を引き起こしたのは、家康の私婚違約事件によるものです。両者が対立している中、その当事者の一人である伊達政宗を呼んで茶会を開く三成の意図は何でしょうか。

 

 これは、三成が両派の対立を解消するため、和解の道を探っていたためだと思われます。前回のエントリーで書いたように、この頃は三成と政宗は親しい関係にありますので、政宗を通じて家康派との和解をはかろうとしていたのだと考えられます。

 ドラマなどでは、三成が反徳川派の急先鋒のように描かれますが、むしろ前田派の中では三成は慎重派・穏健派だったのではないでしょうか。これまでの「家康を常に敵視し、徳川打倒に固執し続ける三成像」は再考する必要があります。

 

 更に伊達氏と徳川氏の婚姻問題で関係してくるのは、三成と家康との縁戚関係です。

 三成の長女の夫は山田隼人正勝重という人物ですが、この山田勝重は、家康の側室の於茶阿の方(家康の六男、忠輝の生母)の甥であると白川亨氏は述べています。(忠輝にとっては従兄弟となります。)山田勝重は三成の家臣であり、関ヶ原の戦いの時は佐和山城で三成の父正継と共に留守を守っていました。佐和山城落城時に城から脱出し、諸国を流浪後、忠輝の家臣となります。(*3)

 

 つまり、忠輝の生母於茶阿の方を介して、三成と家康は縁戚となっているのです。

 そして、忠輝と政宗の娘が婚姻すれば、三成と政宗も縁戚関係になる、ということになります。

 

 政宗は三成を通して大老・奉行衆にこの婚姻を認めてもらえるように、三成を懐柔しようと考えていたのではないかと思われます。三成が政宗を茶会に呼んだということは、この婚姻の許可を前向きに検討していたということでしょうか。

 

 江戸時代の頃の書状になりますが、秀吉の正室北政所おね(高台院)は、伊達政宗松平忠輝と親交があったことが書状で分かっています。(*4)

 また、あまり知られていませんが、三成の三女(辰姫)は北政所の養女となっており(*5)、次女は、一時北政所のもとに侍女として仕え(*6)、その後北政所の執事孝蔵主の義甥にあたる岡半兵衛に嫁いでいます。(*7)このように、三成の一族は北政所と親密な関係にあります。

 

 以上から考えますと、北政所伊達政宗松平忠輝と親交を結ぶきっかけは、三成が介在していたのではないかと考えるのですが、深読みし過ぎでしょうか?

 

※ 以下もご覧ください。↓ 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 注

(*1)桐野作人 2012年、p38

(*2)白川亨 2009年、p120、元史料は『宗湛日記』

(*3)山田隼人正勝重については、「白川亨 1997年」p132~151を参照しました。

(*4)田端泰子 2007年 p238~241

(*5)白川亨 1997年 p60~68

(*6)白川亨 2007年 p72

(*7)白川亨 1997年 p52

 

 

参考文献

桐野作人『謎解き関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎』アスキー新書、2012年

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

(*上記の書(白川亨 2009年)で白川氏は「慶長4(1599)年正月19日には、石田三成は九州にいて大坂にはいなかった」という説を提唱されていますが、中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収)では、慶長3年12月24日には九州から大坂に到着しているようですので、従来の通説通り慶長4(1599)年正月19日には石田三成は大坂にいたという前提で筆者は考察しました。)

田端泰子『北政所おね-大坂の事は、ことの葉もなし-』ミネルヴァ書房、2007年