古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

村上春樹作品における「悪」について-第9章 「孤絶」について

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ジョージ・オーウェル『1984年』のネタバレを含む言及があります。ご注意願います。)

 

 2014年11月3日の毎日新聞のインタビューで、村上春樹は「孤絶」という言葉に触れています。

 

「(最新作の短編集「女のいない男たち」について)ここでは「孤絶」が一つのテーマになっています。女の人に去られた男の話が中心ですが、具体的な女性というよりは「自分にとって必須なもの」が欠如し消滅し、孤絶感を抱え込むことの表象だと思っています。若い時の孤独はあとで埋め直したり取り戻したりできるけど、ある年齢以上になると、孤独は「孤絶」に近いものになる、そういう風景みたいなものを書いてみたかった。僕ももう60代半ばになって、こういうものが少しずつ書けるようになってきたかなという気がします。」(*1)

 

 また、以下のようにも述べています。

「いったんどこまでも一人にならないと他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい。一番の問題は、だんだん状況が悪くなっていくというディストピアユートピアの反対)の感覚が、既にコンセンサスになっていることです。僕としては、そういう若い世代に向けても小説を書きたい。僕らが60年代に持っていた理想主義を、新しい形に返還して引き渡していくのも大変な作業です。それはステートメントの言葉ではなかなか伝わりません。軸のない世界に「仮説の軸」を提供していくのがフィクションの役目だと信じています。」(*2)

 

 このインタビューで、村上春樹が「孤絶」という概念を重視していることがわかります。(「孤絶」とはアーレントの用語で、英語でlonelinessのことです。(この用語、訳者によって訳語が微妙に違うのです(しかも、下記の他の訳語をlonelinessに当てはめている訳者がいて更に混乱します)が、(森川輝一 2008年)の訳を参考にしました。村上春樹の「孤絶」もlonelinessを指していると思われます。アーレントは孤独(solitude)、孤立(isolation)、孤絶(loneliness)をそれぞれ別の概念として考えています。)

 

 Loneliness(孤絶)とは、非常に説明しにくい用語ですが一言で説明するならば、人間が「すべてのもの、すべての人から見捨てられているという経験を実感する」(*3)ことです。「見捨てられている」というのが重要で、実際に近くに人間がいてもいなくてもこの「孤絶」は変わりません。むしろ、近くに人間がいた方がその人の「孤絶」は深まります。

 

 アーレント全体主義の起源 3 全体主義』より引用します。

 

「われわれが政治の領域で孤立と呼ぶものは、社会的人間関係の領域ではlonelinessと呼ばれる。孤立とロウンリネスとは同じものでない。(中略)孤立は人間生活の政治的領域に関係するにすぎないが、lonelinessは全体としての人間生活に関係する。たしかに全体主義的統治はすべての専制と同様、人間生活の公共的領域を破壊することなしには、つまり人々を孤立させることによって彼らの政治的能力を破壊することなしには存在し得なかった。しかし全体主義的支配は、統治形式としては、この孤立だけでは満足せずに私生活をも破壊するという点で前例のないものである。全体主義的支配はlonelinessの上に、すなわち人間が持つ最も根本的で最も絶望的な経験の一つである、自分がこの世界に全く属していないという経験の上に成り立っている。」(*4)

 

 また、以下のようにも述べています。

「非全体主義の世界のなかで人々に全体主義支配を受容れさせてしまうものは、普通はたとえば老齢というような或る例外的な社会条件のなかで人々の嘗める限界的経験だったlonelinessが、現代の絶えず増大する大衆の日常的経験となってしまったという事実である。全体主義が大衆をそのなかに追い込み、そのなかで組織した無慈悲な過程は、この現実からの自殺的な脱走のように見える。」(*5)

 

 上記から考えますと、(1)全体主義体制は体制下の人々を孤絶させるということ、(2)(現在、非全体主義世界にいたとしても)孤絶した人々は全体主義を受容する、というように「孤絶」と「全体主義」は相互関係にあることがいえます。人々の孤絶が全体主義の源であり、全体主義の帰結が全ての人々の孤絶であるということになります。

 

 前述したように、現代的に「全体主義」をとらえるならば、国家の全体主義だけではなく、オウム真理教のようなカルト宗教、宗教原理主義過激派組織、排外主義組織などを含む広範な概念として「全体主義」をとらえる必要があります。現代において「孤絶」が重大な課題と村上春樹が考えるのも、オウム真理教等の「全体主義」の「悪」を追ってきた氏としては当然の結論だと思われます。

 

(補足1)

 また、孤絶「lonelinessは孤独solitudeではない」(*6)です。アーレントとしては、孤独は必ずしも忌避すべきものではなく、

 

「孤独な人間は独りであり、それ故「自分自身と一緒にいることができる」。人間は「自分自身と話す」能力を持っているからである。換言すれば、孤独においては私は「私自身のもとに」、私の自我と一緒におり、だから〈一者のうちにある二者〉であるが、それに反してlonelinessのなかでは私は実際に一者であり、他のすべてのものから見捨てられているのだ。厳密に言えばすべての思考は孤独のうちになされ、私と私自身の対話である。」(*7)

 

と、「孤独」を人間が思考していくためには重要なものであると見ています。

 これに対して、孤絶は、「私のなかでは実際に一者であり、他のすべてから見捨てられて」います。

 しかし、孤独が孤絶になることの危険性もアーレントは述べています。

 

「孤独な人々には、彼らを二重性と曖昧性と疑惑から救ってくれる友情という救済をもはや見出し得ないときにはいつもlonelinessにおちいる危険があった。」(*8)

 

とあります。

 これに対して、村上春樹は上記インタビューで述べたように「いったんどこまでも一人にならないと他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。理想主義は人と人とをつなぐものですが、それに達するには、本当にぎりぎりのところまで一人にならないと難しい。」としていますが、上記の「一人になる」とは、アーレントの言うところの「孤独」であって、「孤絶」ではないと思われます。

 

 また、「いったんどこまでも一人にならないと他人と心を通わせることが本当にはできないと思う。」というのは、一人になって心の井戸を掘り「地下2階」の無意識(集合無意識)のレベルまで達して、自分を見つめ直さないと、本当の意味で他人と心を通わせることができない、という『ねじまき鳥クロニクル』以来の村上春樹の以前からの見解です。

ある意味、このインタビュー時点における現在の村上春樹の立ち位置は、ユング心理学とアーレント思想の融合した地点にあるのかな、と感じます。

 

(補足2)

「2+2=4」について、アーレントは興味深い記述をしています。

 

「否応の無い自明性の基本原則、2+2=4という自明の理は、絶対的なlonelinessのもとにおいてすらも枉げられることはあり得ない。(中略)だがこの〈真理〉は空虚である。いや、むしろこれは全然真理などというものではないのだ。なぜならそれは何ものをも啓示しないのだから。」(*9)

 

 これは、オーウェルの『1984年』を意識して書かれているのでしょうか。『1984年』では、終盤近くに全てに敗北した主人公が「2+2=5」と書いている描写を示し、

 

「『かれらだって人の心のなかにまで入りこめはしない』と彼女(筆者注:作中の主人公の恋人です)は言った。だがかれらにはそれができるのだ。」(*10)

 

と書かれています。

 オーウェルの視点では全体主義は、「人の心のなか」の「否応の無い自明性の基本原則」すら破壊するという描写なのです。

 

 オーウェルが『1984年』を書いたのは1949年、アーレントの『全体主義の起源』が書かれたのは1951年ですので、アーレントオーウェルの「2+2=5」を意識して上記の記述を書いている可能性があります。

 もし、意識して書いているのだとすると、これはアーレントオーウェルに対する反論ということになるのでしょうか?この辺の関係は不明です。誰か詳しい人がいたら教えてください。

 

  注

(*1)毎日新聞、2014年11月3日

(*2)毎日新聞、2014年11月3日

(*3)ハナ・アーレント 1974年、p320

(*4)ハナ・アーレント 1974年、p318~320

(*5)ハナ・アーレント 1974年、p323

(*6)ハナ・アーレント 1974年、p320

(*7)ハナ・アーレント 1974年、p321

(*8)ハナ・アーレント 1974年、p321

(*9)ハナ・アーレント 1974年、p322

(*10)ジョージ・オーウェル 2009年、p452

 

参考文献

A・サミュエルズ、B・ショーター、F・プラウト(山中康裕監修、濱野清志・垂谷茂弘訳)『ユング心理学辞典』創元社、1993年

大場登・森さち子『精神分析ユング心理学』NHK出版、2011年

河合隼雄『影の現象学講談社学術文庫、1987年

河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年

小山花子「美学観察者としてのハンナ・アーレント:『イェルサレムのアイヒマン』を中心に」(『一橋論叢 134(2)、2005年』)

https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15543/1/ronso1340200890.pdf

ジョージ・オーウェル高橋和久訳)『一九八四年[新訳版]』ハヤカワepi文庫、2009年

ドストエフスキー江川卓訳)『悪霊』(上・下)新潮文庫、1971年

ハナ・アーレント(大久保和郎・大島かおり共訳)『全体主義の起源 3 全体主義みすず書房、1974年

林道義『人と思想 59 ユング清水書院、1980年

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部)新潮社、1994年

村上春樹ねじまき鳥クロニクル』(第3部)新潮社、1995年

村上春樹スプートニクの恋人講談社、1999年

村上春樹海辺のカフカ』(上・下)新潮社、2002年

村上春樹村上春樹編集長 少年カフカ』新潮社、2003年

村上春樹アフターダーク講談社、2004年

村上春樹1Q84』(BOOK1、BOOK2)新潮社、2009年

村上春樹1Q84』(BOOK3)新潮社、2010年

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』文春文庫、2012年

村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年文藝春秋、2013年

村上春樹『女のいない男たち』文藝春秋、2014年

森川精一「『全体主義の起源について』――五○年代のアーレント政治思想の展開と転回」(『政治思想研究』2008年5月/第8号)

矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年

リチャード・J.バーンスタイン(阿部ふく子・後藤正英・齋藤直樹・菅原潤・田口茂訳)『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』法政大学出版局、2013年