古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

細川忠興と石田三成と柿

「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」というサイトに以下のような話がありましたので引用します。 

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-886.html (引用元)

  

石田三成細川忠興は、仲が悪かった。当の石田三成自身が

「幾らなんでも仲悪すぎじゃね?」と思うほど悪かった。


 そこで三成、殊勝にもこう思い立った。「そうだ!仲直りをしよう!」
 三成は前田玄以に仲介をしてもらい、忠興と一席を設けて仲直りをすることとなった。

 さて、その席でのこと。
 忠興が先に着座していると、三成が入ってきた。手に盆を持って。
 その盆には柿が載せてあった。

 そして仲直りの挨拶もせず、おもむろにその盆を忠興の前に置き


越中守は柿が好物だと聞いたので、持参いたした。それがしのことは気にせず、食して頂きたい。」


 忠興は真っ赤になって怒って出て行った。
 残されたのは、何で出て行ったのかまるで解ってない三成と、あまりの三成の行為に頭痛がしてきた前田玄以であった。」

 

といういかにも嘘っぽい話ですが、出典がありません。そこで、出典を探してみたところ、どうも『細川家譜』が元ネタのようなのですが、『細川家譜』に書かれている話は全然違う話です。

 

『細川家譜』の該当する箇所の記述について、以下のサイトに掲載されていますので、引用します。 

細川家譜--細川忠興譜 ・・ 8 - 津々堂のたわごと日録(引用元)

 

「(筆者注:慶長四(1599)年三月)廿六日内府向嶋ノ邸第 伏見城ノ出丸ノ心ニテ南ノ方ニ當ル ニ移居セリ 是ヨリ先キ三成以為ラク忠興ヲ我黨與ニ摟スシシテハ内府ヲ滅ス大事成難カルへシトテ百方盡力シ一日前田玄以ヲ招キ我等忠興ト不和ナル事甚謬レリ何卒和睦調フヤウ依頼スト頻ニ懇請シケレハ玄以来テ其趣ヲ述ケレ共忠興許容セス 玄以重テ云故太閤ノ洪恩忘却ナクハ私ノ恨ヲ捨石田ト和睦セラルへシト再三説諭シケル故佯テ之ヲ許ス 長束大蔵太輔是ヲ聞大ニ悦而申シケルハ忠興ヨリ石田へ行ンモ石田ヨリ忠興へ行ンモ如何ナレハ先ツ我亭ニテ共ニ會シ和議然ルヘシト玄以ヲシテ申入ケルユヘ日ヲ定メテ赴シニ三成は疾クヨリ来リテ手ニ盤上ノ乾柿ヲ捧ケ語リ接スルニ及ハス忠興ノ前ニ置キ前カタヨリ嗜好ノモノ故持チ参リタリ先ツ食セラルへシト申ケレハ即チ一禮シテ食シケリ 其座ニテ三成内府ノ専横ヲ數へテ云ケルハ此儘ニテハ天下穏ナラス終ニ内府ヲ主トスルニ至ルヘシ豈遺憾ニアラスヤ何卒秀頼ヲ翼戴セント欲スルニヨリ内府ヲ斃スヘキニ決シタリ太閤ノ洪恩忘レナクンハ偏ニ一味希フナリ秀頼へ忠節盡サルニ於テハ望次第何方ニテモ二ケ國ノ領知必周旋スヘキト誓言イタシケレハ忠興我カ不肖ヲ棄ス斯ル一大事ヲ依頼セラゝル事満足之ニ過ス 此上ハ一味致スヘキナリサテ内府ヲ討ツヘキ方略ハ如何ト問ケレハ三成斯ル時ノ為ト存シ太閤在世ノ内ヨリ内府ノ邸ヲ纒ヒ此方一味ノ軰ノミ比隣セシメタリ 乃チ今夜々討ニ究メ其手立ニハ宮部善祥坊・福原右馬助カ邸第高ミナリ此等ノ處ヨリ齊シク火箭ヲ射カケ焼立ル程ナラハ必ス辟易シテ避出ン其時井摟ヨリ悉ク鉄炮二テ討取ルヘシ彼僅二千ノ人數ト聞スレハタトヒ逃ル者アリ共味方ノ多兵ヲ以テ之ヲ鏖ニスヘシ足下ニモ出兵セラルへシ何ノ手間モ入マシモ合点ナキ躰ニモテナシ否左様ノ事ニテハ成リカタシ火箭ヲ放ツハ地ノ高下ヲ論セス 内府ノ方ニモ塀裏ニ走リ矢倉ナトヲ附ケ火箭ノ備モ兼テ有ルヘシ其上近邊諸将ノ方ヘハ常ニ間諜入置トノ事ナレハ今夜ノ巧ミモ疾ク知レテ此方ヨリ火矢ヲ十發射出ス時彼方ヨリハ百發モ射懸ヘシ 然ラハ敵ノ屋敷ヨリモ味方ノ屋敷早ク焼立ラルヘシ 内府ハ數度武名ヲ著シタル老功ノ勇士多ケレハ二千ノ人數心ヲ一ニシテ突テ出必死ノ働ヲナサハ輙クハ討得難シ 其内彼ニ親シキ諸大名聞付テ馳来ラハ却テ味方敗北セン事疑ナシ 假令一應勝利ヲ得ル共怯弱ノ巧ミナトゝ後日嘲ヲ受ンモ口惜キ次第ナリ去ナカラ夫程マテ思ヒ定メラレシ事ナレハ爰ニ一策アリ先ツ今夜ノ先鋒我等ニ委任セラレナハ無ニ無三ニ切入ルヘシ其上ニテ各ハニノ目ヲトラルへシ 左アラハ内府ヲ討取ル事アルヘシ假令忠興敗死ス共潔キ英名ハ後代ニ残ルヘシト申述ケレハ三成之ヲ聴カス是非々々焼立ント申ケレ共忠興同意セス互ニ諍論シケル故越中殿ノ如ク氣セキテハ如何ナリ殊ニ時刻モ移リタリ旁今夜ハ延引然ルヘシトテ各退散シケリ 小西行長此次第ヲ聞テサテ々々口惜キ事ナリ五奉行等世事ニハカシコケレ共軍事ニハ拙ナキ越中ニ誆誘セラレ最早内府ヲ討ン事思ヒモ寄ラスト頭ヲ掻テ悔ケルトナリ 忠興其夜父幽齋ヲ以テ事ノ由ヲ告ケ向嶋へ立退ルへシト申向ケレ
共内府答テ彼等何程ノ事仕出スヘキト申サレケリ 翌日忠興自カラ至リテ右ノ次第詳ニ物語シテ早々向嶋へ立退キ然ルヘキ由促シケレハ内府大ニ愕キ箇様ノ計ラヒナクハ乍チ命ヲ隕スヘキトテ急ニ向嶋へ立退カレケル」 

とあります。解説しますと、これは秀吉が死んだ後、家康の私婚違約問題で、徳川派と反徳川派(前田利家・奉行衆等)が対立していた頃の話で、2月5日には家康と利家ら四大老五奉行の間で誓詞が交換されて、一応事態は収拾されますが、まだ両者の完全な和解には至っていなかった頃のお話です。(『細川家譜』においては)石田三成細川忠興は仲が悪かったのですが、家康を打倒するために、前田玄以を通じて三成は忠興と和解して味方に引き込もうと考えます。

 

 しかし、上記の引用で分かるように『細川家譜』の記述と、「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」の逸話とは全然話が違います。

 

 石田三成は、確かに柿を持ってきて忠興にすすめていますが、別に忠興はそれで怒りもしていませんし、出て行ってもいません。柿もすすめられて食べています。そして、その後の話も聞いています。なぜ、上記のような話に改竄されたのか全く不明です。なにが出典か不明ですが、書いた人の悪意が伝わってくるデタラメな逸話です。

 

 さて、では元ネタの『細川家譜』の方は信頼できるかというとそんなことはありません。そもそも、江戸時代に作られた『家譜』の類は信憑性の薄い記述も多く含まれており、特に神君家康公に刃向った石田三成の記述が良く書かれることはほとんど無いに等しく、たいていの場合誇張・捏造してまで悪く書かれることの方が多いです。(大名家の『家譜』は幕府に提出しなければいけません。)このため、各大名家の『家譜』における石田三成の記述は、正直まず疑ってかかる癖がついてしまいます。そして、今回の『細川家譜』も読むとやはり疑問点が多く出てきます。以下に疑問点を述べます。

 

 第一に、細川忠興石田三成が仲が悪かったという話になっており、和解をしようということになっている訳ですが、いきなりそれまで仲の悪かった(とされている)忠興に「徳川家康暗殺計画」という大事を打ち明けるものでしょうか?このような大事は、普通は親しく信頼できる者の間でのみではかるものです。なぜに、さっきまで仲の悪かった大名に打ち明けなければいけないのでしょうか? 

 第二に、「家康暗殺計画」という大事を聞かされた忠興と父の幽齋は、家康にこの旨注進して、家康は急いで向島へ立ち退いたとありますが、これも意味不明です。このような「家康暗殺計画」を三成が計画していると露呈したら、家康はこの暗殺計画を最大限に利用し、大義名分を持って味方を集め三成に逆襲して打倒するでしょう。「暗殺計画」というのは、当然暗殺しようとする側に大義がなく、それに反撃する側に大義があるのです。このため、「暗殺計画」が漏れた時点で、三成から大義は失われ、家康は三成を打倒する大義を得ることになります。このようなチャンスを家康が逃す訳がありません。

 後に、家康は前田利長が「家康暗殺計画」を企てていた、と罪を着せ屈服させることに成功しています。 

 第三に、伊達政宗と石田三成について(2)でも、書きましたが、石田三成は2月9日に伊達政宗らと茶会を行っており、これは家康派との和解を進める一環としての行為だと考えられます。和解を進めているこの時期に三成が「家康暗殺計画」を立てるとは考えられません。

 

 歴史書を見ると、よくこの時期に石田三成徳川家康の暗殺を企てていたような記述がいくつかありますが、上記に書いたように本当に石田三成が家康の暗殺を企てて、それが漏れたら、家康が逆襲する大義名分を与えることになり、そうした機会を家康が逃す訳がありません(そして家康が逆襲した史実はない)ので、実際にはそうした話は全て根拠のない風聞にすぎません。(ただし、「風聞」自体はあった可能性があります。)しかも、おそらくその風聞は家康サイドが意図的に流した自作自演の風聞だと思われます。(そのような風聞を流すことによって、「このような噂があるのだから、身辺を警護せねば」という名目で兵や諸将を集めたりすることができます。)

 

 おそらく、この『細川家譜』の該当記述の頃に「徳川家康暗殺計画」の「風聞」があったとしたら、それは家康の向島転居の言い訳として使うためだと思われます。

 なぜ、徳川家康伏見城内の自分の屋敷から、伏見城外の向島の屋敷に転居したのか?これは実は、伏見城の家康の屋敷は三成の屋敷(治部少丸)(追記:治部少丸は、伏見城内中心部にあり、三成の伏見城の公邸・執務室にあたり、徳川屋敷の近くにありました。また、伏見城内の石田三成屋敷(三成私邸)は徳川屋敷の隣にありました。)の近くにあり、しかも三成の屋敷の位置の高さが家康の屋敷より高く、家康の屋敷の様子が分かってしまう位置にあったからです。(誰がこんな配置にしたのでしょう?秀吉だとしたら、かなり色々考えての配置だと思われます。)家康にしてみればこれほど居心地の悪い事はないでしょう。伏見の自分の屋敷にいる限り、ずっと家康は三成の監視を受けているも同然だからです。

 

 しかし、伏見城外である向島に転居するということは、前田派と徳川派が対立している時期に、まるで家康が逃げ出したかのような印象を与えます。いや、事実そうなのですが、ただ逃げ出すだけでは悔しいので、三成がまるで暗殺計画を企てているかのような負の印象を与えることをせめてもの反撃としたのだと思われます。

 

 結局『細川家譜』に書いてある記述は信頼できません。上記で書いたように三成の「家康暗殺計画」は事実無根でしょうし、そもそも本当に三成と忠興が仲が悪かったのかすら不明です。関ヶ原の戦いで三成と忠興は敵味方に分かれて戦っていますので、江戸時代の頃には「仲が悪かったのは当然だろう」という先入観があり、その先入観に基づいて『家譜』などは作られますので、結果と原因がひっくり返っているのですね。

 

 史実上、三成と忠興が、関ヶ原の戦い以前に仲が悪くなるようなきっかけは特にありません。仲が悪いような一次史料もないはずです。(三成は父親の細川幽齋とは、島津家との取次を二人で行っているなど繋がりはあります。まあ、同じ仕事やっているから仲良いとは限りませんが、仲が悪かったという情報もありません。息子の忠興との接点はそもそも薄いのではないでしょうか?)

 

((平成28年11月13日追記)

 上記で書いたように石田三成細川幽斎はともに島津家の取次を務めています。

 白川亨氏は、『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社、p63で、(注:石治少=石田治部少輔三成のことです)、

島津義久の(筆者注:京都へ の)滞在が天正十六年まで及んでいるが、細川幽斎は同年五月、島津家の老臣・新納忠元宛に、大要次の内容を告げている。「島津義久殿の在京久しく、窮屈な思いをしていると思うが、万事、石治少と相談の上、宜しく取り計らい、そのうち帰国できるようにする」と。さらに「島津義弘上坂のときも、石治少と共に才覚して首尾よく取り繕うようにする」と書き送っている。

 その他、当時の細川幽斎書状の多くには必ず「石治少と計らい・・・云々・・・」と記している(『島津家文書』)。

『島津家文書』で見る限り、細川幽斎が三成を如何に信頼し、頼りにしていたかが窺えるのである。

 後年、細川家は石田三成とは「元来、反りが合わなかった」としておるが、これらの書状を見ると誠に奇怪である。」

と述べています。)

 

 実際の話、細川忠興ははじめ前田派についていた(追記:前田利家の娘は、細川忠興の息子と婚姻しており、前田家と細川家は縁戚です)のですが、前田利家の死後は最早家康に対抗できる人物はいないと考え、早々に豊臣家を見限って家康についたというのが真相なのではないかと思われます。細川家は、節目節目で常に勝者の側について味方につく勢力を見誤らず、こうした権力の情勢分析は非常に得意な家だといえます。あまり個人的に仲良かった、悪かったで関ヶ原の戦いの敵味方になった原因を考えるのはちょっと歴史考察としては古いのかな、と思います。

 

 ※細川ガラシャの最期についての考察は下記をご覧ください。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com