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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

浅野幸長の能登配流について

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 浅野幸長が能登へ配流されたのは、従来の通説では文禄四(1595)年の豊臣秀次切腹事件に連座したため(幸長の正室池田氏の姉が、豊臣秀次の側室だったことから嫌疑をかけられた)とされています。しかし、浅野幸長が能登に配流されたのは6月、秀次が高野山に追放されて、ついで切腹に追い込まれたのは7月です。

 つまり、従来の通説によると順番的に幸長の能登配流の方が秀次事件より先行しているわけで、なぜ、幸長の能登配流のみが秀次事件に先立って行われたのか不明でした。

 

 ところが、相田文三浅野長政の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年 p325)を見ると浅野幸長の能登配流は文禄四(1595)年ではなく、文禄五(1596)年であり、そもそも幸長の能登配流は秀次事件とは無関係であり、父の長政の身上に関わる事件によるものであったことが分かります。以下引用します。

 

「(筆者注:文禄5(1596)年)4月10日)、長政の身上に関わる事件により、伏見で騒動が起きた。(『言経』)。

※これにともない嫡子幸長が領国を取り上げられ、長政も政治的な影響力を失ったとされる(1596年(9月18日付、都発信)12月28日付、長崎発信、ルイス・フロイス年報捕逸イエズス会』)。『加賀藩史料』にはこのさいのものと考えられる幸長能登行きの準備に関する文書が2通収められている(6月16日付三輪藤兵衛宛前田利家書状写 同月18日付三輪藤兵衛宛前田利政書状写)。従来幸長の能登行きは文禄4年の秀次事件に連座したものとされており、『加賀藩資料』も両文書を文禄4年に比定している。しかし、秀次事件は7月に起きており、それともなう幸長能登行きの準備が6月に行われているのは不自然であり、翌年の4月の事件に関わるものと判断できる。

(中略)閏7月13日の畿内地震では、いち早く(筆者注:浅野長政が)伏見城の秀吉のもとへ駆けつけた(上記「ルイス・フロイス年報」)。このためか、4月の事件後能登に蟄居されていた幸長が召喚され、8月1日には黒田孝高よりその祝いと伏見の新屋敷についての書状を受けている(同日付長政宛黒田孝高書状『小浜市史』諸家文書編1)。同14日には伊達政宗より絶縁状を告げられているが(同日付長政宛伊達政宗書状『政宗2』)、この間も伏見にいたものと考えられる。」

 (注:当時の書状には基本的には月日しか書かれず、年が書いてありませんので歴史学者は前後の文脈から書かれた年を推定する必要があります。)