古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成は(残念だが)「コミュ障」ではない

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 石田三成の最近の小説やゲームの描写を見ますと、「空気が読めない、意図せずして相手が腹を立てることを言ってしまう、態度が生意気・横柄(しかもそれに自分で気が付いていない)、が秀吉様への忠誠心だけは人一倍」といういわゆる「コミュ障」的な扱いが多いです。しかも、なんか「実は、根は良い奴なんだけど、誤解されやすいんだよね」という(好意的な)フォローつきで。

 

 こうした石田三成=「コミュ障」というキャラクター設定は、古くは司馬遼太郎の『関ヶ原』(この頃はもちろん「コミュ障」なんて言葉はない)、最近だとコーエーのゲーム「戦国無双」シリーズ等で見られます。

 

 しかし、史実の石田三成を調べていますと、三成は残念ながら「コミュ障」ではないと思われます。逆に、気配りの達人と言った方がよいです。むしろ、目立った戦功がないにも関わらず諸大名に対する気配りだけで五奉行の一角を占めるほどの出世を果たしたことに対する嫉視が、同僚の譜代大名たちから嫌われる大きな要因になったと思われます。(三成は「取次」として、有力な外様大名達を親豊臣大名にするという大きな役割を果たしていますので豊臣政権への貢献は絶大であり、彼の出世は当然なのですが、当時の多くの武将達にしてみれば「戦場での戦功」のみが、真の「功績」なのです。)

 

 いや、本当はこの石田三成=「コミュ障」という設定って、小説とか書くとするとおいしい設定なんですよね。これだけで小説上、強烈な個性の「キャラ」が立ちますし、自分は「コミュ障」だと悩んでいる人は結構多いので、そういう人たちの共感も得られます。(というか、筆者自身も自分は「コミュ障」だと自分で思って悩んでいましたので(最近はあきらめました)、それで「コミュ障」的な設定をされる石田三成に興味が出たのが、三成について調べようと思ったきっかけです。)

 

 しかし、実際に小説とかで「気配りの達人で、そのおかげで諸大名の人気が集まり、そのため大した戦功もないのに出世しました」という(史実通りの)石田三成というキャラクター設定だと「なんだこの野郎、分不相応に出世しやがって、(関ヶ原の戦いで)負けて当然だ、ざまーみろ」という感じになりますね。ある意味、石田三成が現代まで嫌われている大きな要因かと思われます。

 

 具体的に三成の「気配り」の実例をいくつか見ていきます。

 

1.上杉景勝が上洛する折、三成は景勝の上洛を出迎えるため、北陸道を北上し、加賀森本で景勝主従を出迎えています。そのまま三成は景勝主従と同行。秀吉との対面後、三成は大坂の屋敷に景勝一行を招き饗宴をはっています。(*1)

 この後、上杉家は強固な親豊臣大名となることになります。

 

2.博多の豪商、神屋宗湛を秀吉の茶会に招くお膳立てを整え(秀吉の九州島津攻略のため、秀吉としては博多の商人達との交流を深める必要がありました)、当日の茶会では三成自ら宗湛の食事の給仕を務めました。これは宗湛に対する最大級のもてなしと言ってよいです。(*2)

 

※詳細は、以下のエントリーを参照ください。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

3.島津義久が上洛する折の話を以下に引用します。

「さて義久は上京のために鹿児島をたち、途中筥崎(筆者注:福岡県)で秀吉の催した茶会に招かれ、ついで赤間ヶ関(筆者注:山口県)に着いた。一足さきに赤間ヶ関城に来ていた三成は、義久を出迎え、人質として薩摩から海路この地についた娘亀寿を落合わせた。義久の一行は高野山の木食上人を案内者として赤間ヶ関から瀬戸内海を航し、七月十日和泉(大阪府)の堺に到着した。堺の代官であった三成は、多くの小船を用意させて義久の船を出迎え、接待に努めた。

 義久は三成のとりなしで大阪城に赴いて秀吉に謁したが、秀吉は義久を歓待し、その在京料として一万石の土地を与えた。義久の滞京は一年余りに及んだが、その間三成は細川幽斎とともに義久のためになにかと面倒を見た。幽斎が十六年五月に新納忠元に与えた書簡のなかで、義久の近況を報告し、義久の滞京が久しくなり、窮屈であろうと思われるが、万事三成と相談して宜しく取り計らい、その中帰国できるようにしたい。また(筆者注:義久弟の)義弘上阪の際には、三成とともに才覚して首尾よく取り繕うであろうと述べている。義弘は六月上阪して、秀吉に謁し、その間屢々三成と会合して相談するところがあった。その結果義久も漸く帰国の許可がおり、九月十四日大阪を出発したが、そのとき質子亀寿も同行して帰ることを許された。これは当時の情勢としては非常な恩恵であって、三成の斡旋に負うところが多いのはいうまでもない。またこのとき三成の父正継は三成の代官として堺にあったので、義弘らの一行を厚くもてなした。義久は三成及び幽斎の尽力を深く感謝し、両人に対して起請文を捧げ、たとえ逆心の輩があってもそれに与せず、秀吉に対して毛頭別心なく忠功を励むこと、両人の御芳志は向後決して忘却しないし、御両人も御見捨てなきようお願いしたいこと、上京以来随分と心がけて行動したつもりであるが、田舎者のこととて不調法なこともあったであろうから、それについては何度でも御指南を仰ぎたいこと、などを誓った。これ以後義久及び義弘は三成を深く信頼し、領内の政治についても三成の意見を求め、慶長三年五月には義久・三成連署で、薩摩から大阪へ廻送した米の販売方法、販売代金の送金、呉服方の仕入れ方法、摂津・播磨両国にある島津氏の領地の免目録帳、飯米、塩、味噌、炭、薪、油等の台所方の入用についての小払帳目録の作製など、藩の財政処理に関する事項を定めている程である。」(*3)

 

 以上のエピソードを見て「いや、接待しているんだから、こんなもんだろ」と思う方もいるかもしれませんが、「コミュ障」だとこうした接待を滞りなく成功させることはできませんし、そもそも何かとんでもない粗相をしかねませんので、こうした接待役を任せられることはありません。

 

 結局、秀吉から有力大名の取次を次々と任せられ取次を滞りなく成功させ、それによって出世したのは三成の「気配り」の才能が高いと秀吉(及び取次を受けた人達)から評価されたためだと思われます。

 

 ということで、残念ながら三成は「コミュ障」ではありません。だから余計に周りから嫉妬され憎まれたということだと思われますが。

 

 (注)

(*1)中野等 2011年 p295

(*2)武野要子 1998年 p111

(*3)今井林太郎 1961年 p25~26

 

  参考文献

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年)

武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年

今井林太郎『人物叢書 新装版 石田三成吉川弘文館、1961年(新装版1988年)