古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第2章~古渓宗陳を讒言により配流させた?

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第1章~ 石田三成はなぜ嫌われまくるのか?に戻る

 

1.大徳寺古渓宗陳の筑前博多配流

天正寺創建計画の経緯については、高野澄『新 京都の謎』PHP文庫、2008年他の別記参考文献を参考にしました。)

 

 天正12(1584)年10月、豊臣秀吉織田信長菩提寺として京都船岡山天正寺の創建に着手し、大徳寺の古渓宗陳を開祖、造営の責任者に指名します。信長の菩提寺としては、大徳寺塔頭総見院天正11(1583)年に秀吉によって建てられています。

 しかし、天正寺は大徳寺の一部である総見院とは違って、信長ひとりだけのための寺として作られることになる訳です。また、現在の元号(「天正」)の名を冠した寺のことを「元号寺」といい、極めて格の高い寺ということになります。年号と同じ名を寺に下賜することは天皇のみに可能なことだとされます。このため、正親町天皇の親筆で「天正寺」の勅額が作られ、古渓宗陳に下賜されました。このように、創建計画は進んでいきます。

 

 なぜ、このような計画が立てられたかというと高野澄氏によると、「(筆者注:織田)信雄を(筆者注:徳川)家康から引き離すために、秀吉は「天正寺」をたてます、といって信雄の気を惹いた」(*1)ということです。当時、秀吉は小牧・長久手の戦い天正12(1584)年3月~12月)で織田信雄徳川家康連合軍と対立している状態でした。秀吉は、信長の菩提寺を建てる計画を立てることによって信雄の気を惹き、徳川家康と分断するために、天正寺創建を計画したということになります。その後、秀吉は信雄と単独講和を11月11日に結びます。

 

 ところが、秀吉は天正14(1586)年には東山大仏殿の造営に着手し、天正16(1588)年に生母大政所(なか)のため天瑞寺を創建する一方、天正寺の創建計画はいつの間にか立ち消えになり顧みようとしませんでした。(*2)これは、信雄と家康を訣別させて和睦し、その後信雄を臣従させたため、もはや織田家に気を使って織田信長菩提寺創建を急ぐ必要がなくなったためではないかと思われます。

 

 天正寺創建をいつまでたっても行わない秀吉と、梯子を外された形の古渓の間で何らかの衝突(おそらく、古渓が秀吉の行いを批判したのではないでしょうか)があり、古渓は天正16(1588)年9月、筑前博多に配流され、大同庵に謫居しました。

 

(平成30年1月21日追記)

(谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成戎光祥出版、2018年)所収)(p33~35)によりますと、天正寺建立のため、秀吉は天正12(1584)年、古渓宗陳に四千貫文を預けましたが、天正16(1588)年になると(東山に大仏殿を立てる計画に変更するため)計画を凍結し、3月に預けていた三千八百六十貫文(最初の四千貫文から少なくなっていますが、谷氏は、秀吉が実際に預けたのが三千八百六十貫文だったのだろうとしています。)に返還を求めます。

 預け金の既に相当部分が大工や鍛冶などの賃金に使われてしまったようであり、古渓は、何とか返済金を集めようとしますが、それでも不足分があり全て返還できなったため、失脚に至ったということになります。

 その預け金の返還を求める際の催促状が前田玄以増田長盛石田三成より発せられているため、谷氏は「三成が宗陳の失脚に全く無関係であったとはいえない」としますが、秀吉からの命令はほとんど奉行衆を通じて出されるので、これをもって「関係がある」としてしまうと、秀吉の下した判断・命令は、自動的に奉行衆はすべて関係していることになってしまいます。(実際「関係している」かといえば、関係しているという事になりますが。)

 このエントリーでは、「三成に、古渓宗陳を讒言により配流させようとする主体的意思はあったか?」を問題としています。

 秀吉との主従関係を前提とした職務としての奉行衆の言動と、主君秀吉自身の意思・言動と、奉行衆個人としての主体的意思がどうだったかは切り分けて考える必要があると思われます。)

(平成30年1月21日追記 おわり)

 

 上記をみれば、秀吉が自らの都合で信長の菩提寺天正寺を建てる計画を立てて、正親町天皇に勅額まで下賜されながら、その必要性が無くなると特に断りもなく創建を凍結するという極めて身勝手な行動を行ったため、開祖に指名された古渓と秀吉が衝突したことにより、秀吉の怒りを買い、預け金を返済できなかったことを口実に筑前博多に配流させられたという話なのでしょう。構図としては単純です。

 

 ところが、江戸時代の人達はなぜかこういった秀吉がらみのトラブルに関しては石田三成の名前を出さないと気が済まないらしいです。

 古渓宗陳の語録を書きとめたとされる『蒲庵稿』の「行状」には、この顛末について以下のように語られています。(以下、台明寺 岩人『島津家の謀略』南方新社、2007年より引用します。)

 

「十四年春秀吉欲建大梵刹干紫野西南船岡祝延国家無窮是厺歳七月秀吉以任関白謝 天子恩也而問佳名於師ニ云萬歳山天正寺記年号也 天子親書額而(其額今存総見院)開土地鳩材石之次関白与師同登船岡眺東山勝景曰彼有霊地規模南都東大寺創舎那大像使師開祖於ニ大寺乃与師到東山図地形築殿其造寺奉行石田治部少輔三成与師不合内抱妬心頻ニ讒之関白不察徒師子鎮西大宰府時十六年某月也以故天正寺不畢工而廃大仏殿」(*3)

 

 つまり、天正寺の創建にからんで、奉行の三成の讒言によって豊臣秀吉の怒りを買った古渓は筑前博多に配流されたと記されているのです。

 

 これだけみれば、古渓和尚の語録の『蒲庵稿』の「行状」にそう書かれているのだから、これが史実なのだろうと思ってしまう訳ですし、実際通説ではそのようになっています。

 

(台明寺岩人氏は、「秀吉の利休の催す茶会にはいつも陳列してある「橋立の茶壺」が欲しくて、利休の禅の師である古渓和尚を通じて、茶壺の無心をしていたのではないか。ところが、秀吉が繰り返し命じても古渓和尚が色よい返事をしなかったので、怒って流罪にしたのではないか」(*4)として、また小松茂美氏の見解に触れて利休の切腹も「橋立の茶壺」絡みではないかという指摘をしていますが、根拠が弱いように思われます。筆者としては、古渓和尚の配流はやはり天正寺創建絡みではないかと思います。)

 

 しかし、この『蒲庵稿』というのは、古渓自身の書いた一次史料ではなく、後世の大徳寺第百七十世住持・清巌宗渭がまとめ、書いたものです。(*5)

 

 清巌の生没年は天正16(1588)年~寛文元(1661)年。細川三斎(忠興)の帰依を受け、三斎の創建した大徳寺塔頭高桐院の第三世住職となる等、三斎と親しい関係にあります。また、清巌は古岳宗旦を祖とする大徳寺北派(北派には、第百十一世住持春屋宗園(後述するように石田三成と親しい関係にあります)、第百十七世古渓宗陳、第百五十三世澤庵宗彭等がいます)とは異なる南派の長老です。

 

 清巌が大徳寺の住持となったのは寛永2年(1625)年であり、『蒲庵稿』は書かれたのは、これ以降だと思われます。

 この時代の将軍は徳川家光、「石田三成奸臣論」が定着した時代であり、「秀吉がらみの事件は、すべて石田三成のせい」という先入観と偏見がはびこっていました。

 このため、清巌は当時の先入観から「古渓和尚が秀吉により配流の受難を受けたのは、三成のせいに違いない」と思い込んで「行状」をそのように書いたのではないかと思われます。

 しかし、三成と大徳寺との当時の親密な関係を知れば、古渓和尚の配流が三成の差し金だとは到底考えられるものではありません。以下、具体的に述べます。

 

2.石田三成大徳寺(春屋宗園、古渓宗陳等)、神屋宗湛との関係

 

 石田三成大徳寺(春屋宗園、古渓宗陳等)、博多の豪商である神屋宗湛との関係は以下のようなものがあります。

(1)大徳寺の第百十一世住持春屋宗園は、石田三成の参禅の師であり親しい関係にあります。石田三成浅野幸長森忠政の三将は、大徳寺の春屋宗園を開祖として大徳寺三玄院を天正17(1589)年建立しています。(白川亨氏は、当時浅野幸長は9歳であり、建立したのは父の浅野長政であるとしています。(*6)ただし、幸長の生年天正4(1576)年説を取ると、かぞえで14歳となります。しかし、14歳で実際の創建に関わったというのは微妙で、やはり実質的には父の長政が関わったと考えるのが自然でしょう。)

 

(2)春屋と古渓は同じ笑嶺宗訴を師としています。つまり、古渓は春屋の法弟にあたります。

 そして、古渓は千利休の参禅の師でもあります。このため、天正16(1588)年、古渓が博多に配流される直前の9月4日利休は、送別の茶会を開いています。このとき同席したのが春屋宗園・玉甫紹琮(古渓の法子)です。(*7)(ただし、台明寺岩人氏は、既に9月4日には古渓和尚は九州に下向しているとして、これは「古渓和尚想望茶会」であり、配流された古渓和尚を偲んでの茶会であるとしています。(*8))

 

 また、配流後許されて古渓宗陳が帰郷したのを祝って、天正18(1590)年9月14日、聚楽利休屋敷において、利休は古渓、春屋、玉甫を招いて朝会を開いています。(*9)

 このように、古渓宗陳、春屋宗園、千利休は親密な関係にあります。

 

(3)博多の商人神屋宗湛は天正14年12月に大徳寺で古渓の導きで剃髪出家しています。(*10)

 後に古渓が筑前博多に配流された時に古渓のために、宗湛は嶋井宗室らとともに、大同庵を建てて迎えます。そして、古渓の無聊を慰めたといわれています。(*11)この時期、古渓が連日のように宗湛を招いて茶会を開いているのが、『宗湛日記』に残されています。(*12)

 古渓は天正18(1590)年8月に許され、9月には大徳寺に帰っていますが、帰京する古渓宗陳に神屋宗湛は同行しています。(*13)

 このように宗湛と古渓は親密な関係にあります。

(平成30年2月18日追記)

 田中健夫『島井宗室』(吉川弘文館、1961年)p134~135に以下の記述があります。

筑前に下った古溪は、十一月十二日朝大同庵に宗湛ほか二人を招き、上方より到来の新茶で口切の茶会を催し、二十一日には小倉城主森吉成と宗湛を、二十六日にも舜蔵主と宗湛とをそれぞれ大同庵に招き茶会を行っている(『宗湛日記』)。利休と古溪、利休と宗湛の関係を考えれば、古溪は配所ではむしろ宗湛・宗室らの歓迎をうけたと思われるのである。天正十四年、宗湛が唐津から上京した折は、十二月三日雪中大徳寺総見院に至って古溪の歓待をうけて剃髪した。すなわち古溪は宗湛にとっては得度の師に当るわけである。天正十五年十月北野茶会のために上洛した折にも、その十四日宗湛は親しく古溪を訪問している(『宗湛日記』)。

 『石城志』は古溪は秀吉の命では大宰府に流すことになっていたが、宗室と宗湛とはかねてから古溪に帰依していたので、これをいたわり特に博多に庵室を設けたが、これが大同庵であるとしている。これは後の報光寺となったものであるが、古溪配流の陰には両人のそのような努力があったのかもしれない。」

 (平成30年2月18日追記 おわり)

 

 次に、三成と宗湛が親しい間柄にあることをみていきます。

 

 天正15(1587)年正月三日の秀吉の茶会に宗湛は招待されますが、このお膳立てを整えたのが、石田三成と堺の商人津田宗及でした。秀吉政権としては、九州攻略の拠点として博多を復興させる必要があり、そのため博多の豪商である宗湛らと協力関係を深める必要があったためです。

 

 当日の茶会では、宗湛はお飾りを一人で見ることを許される栄誉を預かります。そして、大名衆と一緒に食事を賜り、その給仕を石田三成自身がしてくれました。その後、宗湛は三好孫七(後の豊臣秀次)、豊臣秀長と面会し、千利休の茶会に出席する等しています。(*14)

 

 その後も、博多の復興のため三成と宗湛の協力関係は続き、三成と宗湛が何度も茶会で親しく同席しているのが『宗湛日記』の記述から分かります。(*15)

 

 このような三成と宗湛の極めて親しい関係を考えますと、白川亨氏の「恐らく博多に配流された古渓宗陳に、何かと力になるように依頼したのも三成であろう」(*16)という指摘ももっともだと思われます。つまり、博多配流という受難にあった古渓を、宗湛らと三成が連携して援助したのではないかと考えられます。

 

(4)古渓配流事件から6年後の文禄3(1594)年9月3日に、三成の母が死去し、9月22日に葬儀が行われますが、その時春屋が導師、古渓が脇導師、その他大徳寺の僧たちが列して、大徳寺三玄院で葬儀を行っています。(*17)

 

(5)慶長4(1599)年、三成が七将襲撃事件により隠棲中、居城佐和山城の城内に亡母の供養のために瑞嶽寺を建立した際、春屋を招き、師を開基としています。

その時、「春屋宗園はその法弟・薫甫紹仲・澤庵宗彭(筆者注:漬物のタクワンの語源となった沢庵和尚のことです)・江月宗玩を伴って佐和山に赴き、春屋宗園は開堂供養が終わると京都に帰り、代わりに法嗣・薫甫宗忠を住職として瑞嶽寺に残した。

 澤庵宗彭もまた但馬・出石時代の師である薫甫宗忠とともに佐和山に残り」(*18)ました。

 

(6)関ヶ原の戦いの後、処刑された三成の遺骸を引き取って三玄院に葬ったのは、春屋です。三成の墓は大徳寺三玄院にあり、墓塔を建立し供養を続けたのも春屋ら大徳寺の僧達です。(*19)

 

(7)澤庵宗彭は、その後、江戸時代になって豊臣秀頼細川忠興浅野幸長黒田長政の招きがありましたが、一切応じることがありませんでした。白川亨氏によりますと、三成に対する哀惜の念、関ヶ原の戦いの際に出馬しなかった秀頼、家康に膝を屈して三成を死に追いやった忠興、幸長、長政に対して許せない気持ちがあったのではないかとしています。(*20)

 

 上記のように三成と大徳寺の関係は、その死まで常に変化なく親密な関係にあり、大徳寺の古渓宗陳を三成が讒言して流罪に追い込んだという事件があったとは到底考えられません。

 

 そのような事件が仮にあったとすれば、三成と大徳寺の関係は相当に悪化することになり、その後に三成の母の葬儀が大徳寺で行われ古渓宗陳が脇導師を務め、隠棲中の三成のために瑞嶽寺に大徳寺の薫甫宗忠を派遣し、関ヶ原の戦い後に春屋宗園が敗者である三成の遺骸を引き取り、大徳寺の三玄院に葬るなどありえないことになります。

 

関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

(*1)高野澄 2008年 p66

(*2)白川亨 2009年 p203

(*3)台明寺 岩人 2007年 p46

(*4)台明寺 岩人 2007年 p63

(*5)白川亨 2009年 p202

(*6)白川亨 2009年 p204

(*7)白川亨 2009年 p207   

(*8)台明寺 岩人 2007年 p47

(*9)白川亨 2009年 p207

(*10)武野要子 1998年 p100~103

(*11)武野要子 1998年 p101

(*12)白川亨 2009年 p203

(*13)白川亨 2009年 p204

(*14)武野要子 1998年 p104~116

(*15)鞍掛伍郎 2012年 p205~208

(*16)白川亨 2009年 p204

(*17)白川亨 2009年 p208

(*18)白川亨 1995年 p116

(*19)白川亨 1995年 p287

(*20)白川亨 1995年 p117~119

 

 参考文献

鞍掛伍郎「数寄者としても優れていた 石田三成の愛した茶入」(別冊宝島編集部 編『悲劇の智将 石田三成』宝島SUGOI文庫、2012年

白川 亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川 亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

台明寺 岩人『島津家の謀略』南方新社、2007年

高野澄『新・京都の謎』PHP文庫、2008年

武野 要子『西日本人物誌 [9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年