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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その9 曹操が徐州虐殺をした理由

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 初平四(193)年、曹操は、父の曹嵩(ソウスウ)が徐州牧の陶謙の部下に殺されたことをきっかけに、徐州を攻めます。そこで、悪名高い徐州の軍民の大虐殺を行います。この徐州攻めの中で、曹操は各地で男女合わせ数十万人規模の住民を殺戮し、更に犬や鶏まで残らず殺したため、泗水の流れが堰き止められるほどであったといいます。

 

 これは、父が殺されたことの陶謙への復讐とされますが、なんかおかしいですね。曹操陶謙に恨みを持つのは、まあ分かりますがそれを何の関係もない徐州の民に向けるのは意味が分かりません。

 

 そして、こうした虐殺を起こすほどまでに陶謙に恨みを曹操は持っているはずなのに、例えば陶謙の子供たちを探し出して殺したとか、陶謙の墓をあばいて遺骸を晒したとかいう中国の歴史で親族を殺された人が相手に恨みを持って復讐するときに、よくやるエピソードを聞かないのですね。結局最後には徐州は曹操の領地になるわけですから、そういったエピソードがあってもおかしくないけれど、そのようなエピソードを聞きません。

 

 ということは、他の人が考えているほど、曹操陶謙を恨んでおらず、徐州を攻めた理由は父が殺されたことの復讐というのは口実であり、曹操は徐州そのものが欲しかったのだと考えられます。

 

 ちなみに、陶謙の部下が曹操の父曹嵩を殺した経緯にはついては、いくつかの説があります。

(以下の『三国志』の引用は、陳寿 裴松之(今鷹 真、井波律子訳)『正史 三国志1』ちくま学芸文庫、1992年からです。)

 

三国志魏志武帝紀」本文には、

 

「曹嵩は官を離れたのち〔故郷の〕譙(ショウ)に帰っていたが、董卓の乱が起きたときに瑯邪へ避難し、陶謙によって殺害された。」(p28)

 

 とあります。

 

 注の『世語』には

 

「曹嵩は泰山郡の華県に滞在していた。太祖(筆者注:曹操)は泰山の太守応劭に命じて兗州まで家族を送って来させることにした。応劭の兵がまだ〔華県に〕行きつかぬうちに、陶謙はひそかに数千騎を派遣して〔家族を〕逮捕させた。(中略)陶謙の兵はやって来ると、太祖の弟の曹徳を門の中で殺した。(中略)曹嵩は便所に逃げこみ、妾といっしょに殺され、一家全員が死んだ。」(p29)

 

 とあります。

 

 注の韋曜の『呉書』には、

 

「太祖は曹嵩を迎えにやったが、〔曹嵩の〕荷物を運ぶ車は百余台あった。陶謙は、都尉の張闓(チョウガイ)に二百の騎兵を与えて護送させたが、張闓は、泰山郡の華県と費県の間で、曹嵩を殺害し、財物を奪うと、そのまま淮南に逃げた。太祖は陶謙に責任を負わせ、そこで彼を討伐したのである。」(p29)

 

 筆者の見解を以下に述べます。

 

『呉書』の記述が一番『三国志演義』に近いですが(近いのでかえって嘘くさいとされる訳ですが)、実際の所『世語』にあるように、曹操は応劭に家族の護衛を命じているにも関わらず、陶謙の兵は先回りしているわけですから、陶謙に善意で曹嵩を護衛してあげようという意思があったとは思えません。もちろん、曹操の歓心を得るために、護衛を買って出た可能性もなくはないですが、おそらく、曹嵩を拉致して徐州に軟禁して、対曹操陣営のための人質にしようとしたと考えるのが自然ではないでしょうか。この説では陶謙曹操と敵対して事を構える予定であり、人質として曹嵩は利用価値があると考えたのだと思われます。

 

『魏書』の本文や、『世語』は曹嵩が実際に殺された事実から、陶謙の命令で兵が曹嵩らを殺したのであろうとしているようですが、陶謙が曹嵩を殺すメリットはなく、かえって曹操の恨みを買うデメリットがあるだけです。(もちろん人質にしても恨みは買いますが、利用価値はあります。)陶謙の命令(曹嵩を拉致して徐州まで連行せよ)に対して、部下の張闓は曹嵩の財物に目がくらみ、命令に逆らって曹嵩を殺し、財物を奪って逃走した、というあたりが真相かと思われます。

 

 話が横道にそれましたが、父殺害の復讐が、曹操の徐州の民虐殺の理由ではないならば、一体何が理由なのでしょうか?

 

 話は初平3(192)年にさかのぼります。青州の黄巾の残党の「軍勢百万」(p25)が兗州に侵入し、兗州刺史の劉岱はこれと戦って敗れ戦死します。陳宮兗州の名士らを説得し、兗州の名士らの推薦で曹操は劉岱の後任として兗州の牧を引き受けることになります。

 

 曹操は、その後青州の黄巾の残党らと激しく戦い、盟友鮑信の戦死もありましたが、やっとのことで敵を打ち破ります。『三国志魏志武帝紀」によると、

 

「黄巾を追って済北まで行くと、〔黄巾は〕降伏を願い出た。冬、降兵三十余万人と〔兵卒以外の〕男女あわせて百余万人を受け入れた。そのうちの精鋭を吸収して、青州の兵という称号をつけた。」(p26)

 

 とあります。しかし、降服した兵三十余万人と民百余万人(この数字が正しいかは分かりませんが)というのは、つまり飢えた流民であり、曹操青州の黄巾軍民百三十余万人を降伏させたのはいいものの、この百三十余万人を養わなければいけなくなりました。(おそらく、曹操が飢えた流民を養うというのが、降服の条件だったのでしょう)。兗州だけでは、百三十余万人の軍民を養う力はありません。養う力もないまま、曹操は目先の戦争を解決するために、この降服条件を許してしまいました。

 

 困っていた所に起きたのが、陶謙の部下の父曹嵩殺害事件です。曹操の思いついた解決方法は、この事件を口実に徐州を攻め、その民を虐殺してその土地を奪い、流民に土地を与えて耕させることでした。(屯田制の発想の原型は実はこの時に出来たのではないかと筆者は考えます)。このため、曹操は徐州の民を虐殺します。

 

 しかし、この曹操の蛮行にドン引きした陳宮や張邈(チョウバク)らが呂布を引き入れて興平元(194)年曹操に「反逆」(「武帝紀」p29)し、兗州の郡県はすべて呼応します。ここで、反逆と書きましたが、別に陳宮や張邈(チョウバク)は曹操の臣下ではなく盟友です。(曹操兗州の牧になったので、上司・部下の関係にはなるでしょうが。)せっかく、彼らが兗州の牧に推し立てたのに、推し立てた彼らの顔に泥を塗るようなまねをすれば、愛想を尽かされ離反されるのは当たり前でしょう。これを「反逆」とするのは、後世からの視点に過ぎません。

 

 この兗州の郡県の離反により曹操は徐州攻めをあきらめざるをえなくなります。曹操の徐州の民を虐殺することによって、土地を得ようという計画は頓挫します。そして兗州をめぐって呂布らと戦うことになります。この時「蝗が湧き起り、人民はたいそう飢餓に苦しんだ。呂布の糧食も尽き果てたので、両者とも引きあげた。」(「武帝紀」p30)とあります。

 

 結局、降服した青州の黄巾の兵三十余万人と民百余万人はどうなったのでしょう。曹操の死んだときに青州兵の記述がありますので、少なくとも青州兵自体は曹操の死(建安25(220年))まで残っていたことが分かりますが、実際にそこまで生き残った青州兵の数及び降服した民の数がどの程度であったかは不明です。

 

 普通に考えれば、ただでさえ余分な百三十余万人の流民が流入してきた兗州内で内戦が発生し、そこへ蝗害が発生して更に食料が激減した訳ですので、かなりの数の兵・民が餓死したものと思われます。

 

 裴松之は、「武帝紀」の注(p46~47)で官渡の戦いでの「武帝紀」の兵の数の表記(「一万に満たなかった」(p45))の数が少なすぎると疑義を示していますが、その疑義の一例として「ただ一度黄巾を破っただけで、降兵三十余万を受け入れており」(p46)という指摘をしています。他の指摘も色々しており、その他の指摘はもっともで、筆者も官渡の戦いでの曹操軍の数が一万足らずというのは低すぎる(裴松之の「記述する者が数の少なさによって見事さを示したいと考えたのであって、事実を記録したものではない。」(p47)という結論の通りだと思われます。)と思いますが、上記の裴松之の指摘からは、黄巾の降兵三十余万及び民百余万のかなりの数が兗州の内戦と蝗害で戦死・餓死しているのではないかという視点が見落とされています。

 

 一万足らずは低すぎにしても、官渡の戦いの頃までの曹操の支配地域は戦乱や凶作により相当に疲弊し、人口も激減しており、軍勢の数はその支配地域から通常予想される数より相当に低かったであろうことを考慮する必要があります。