三国志 考察 その16 曹操の清流派への転身①
以前のエントリー(三国志 考察 その14 曹操の祖父、曹騰の宮廷遊泳術 )で見てきたように、曹操の祖父の曹騰は4帝(順・沖・質・桓)に仕えました。また、梁冀と桓帝の擁立を画策するなど外戚の梁商・梁冀と結びつきは強く、このため費亭侯に封じられ、宦官としての最高位の大長秋(皇后の侍従長)にもなり、位特進を加えられ、その親族もその恩恵を受け富貴の身分になりました。
そして、梁冀誅殺の頃には梁冀から距離を置き連座を逃れるという巧みな宮廷遊泳術をみせています。(梁冀の誅殺の頃、既に曹騰は亡くなっている可能性もあり、梁冀と距離を取ったのは曹操の父曹嵩かもしれませんが。)
養子の曹嵩は霊帝の時に宦官に賄賂を贈って官位を買うような俗物で、後に銭一億万で三公のひとつの太尉の官位を買います。
つまり、曹家の振る舞いは、清流士人達の目からは「濁流中の濁流」のふるまいといえ、党錮の禁以降、清流士人が濁流勢力(宦官とその親族等)に弾圧されるに及び、曹家も清流士人から憎悪の対象になったであろうことは容易に想像がつくことです。
曹操が生まれてから20歳で任官するまでの後漢の動きを追ってみます。
曹操の生年は永寿元(155)年です。
延熹2(159)年7月に桓帝が外戚の大将軍梁冀を滅ぼします。(曹操5歳、年齢はかぞえです)
延熹3(160)年、この前後に祖父の曹騰が死去します。(曹操6歳前後)
延熹9~10(166~7)年、第一次党錮の禁。(曹操12~13歳)
永康元(167)年12月に桓帝が崩御し、霊帝が後を継ぎます。(曹操13歳)
建寧元(168)年、竇武・陳蕃らは宦官の撲滅を計ろうとしますが、逆に宦官の反撃を受け殺されます。(曹操14歳)
建寧二年(169)年、中常侍の侯覧が上奏して、虞放、李膺、杜密ら「党人」を逮捕して獄中で殺し、死者は百余人に及びます。(第二次党錮の禁)(曹操15歳)
そして、熹平3(174)年、20歳で孝廉(任用資格のひとつ)に推挙されて郎(各部局の属官)となります。
陳寿『三国志 魏書 武帝紀』及びその注を読むと、若い曹操の行動がいくつか書かれていますので下記に引用します。下記の1.~5.のエピソードの正確な年代は書かれていませんが、熹平3(174)年に20歳で任官する以前の10代後半の頃のエピソードと考えられます。(ページは、参照した『三国志1』(ちくま学芸文庫)の該当ページ)
1.「太祖(引用者注:曹操)は若年より機智があり、権謀に富み、男立て気取りでかって放題、品行をととのえることはしなかった。したがって世間には彼を評価する人は全然いなかった。ただ梁国の橋玄と南陽の何顒だけが、彼に注目した。橋玄は太祖に向かっていった、「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか。」(10ページ)
2.「『魏書』にいう。太尉の橋玄は人物を鑑別する能力があると評判高かったが、太祖を見ると評価していった、「わしはずいぶん天下の名士にあった。が君のような者ははじめてだ。君は自分を大切にしなさいよ。わしは年をとった。妻子をよろしく頼みたいものだ。」このことから名声はますます高くなった。」(10~11ページ)
3.「『世語』にいう。橋玄は太祖に向っていった、「君にはまだ名声がない。許子将とつきあうとよいだろう。」太祖はそこで許子将を訪れ、許子将は彼を受け入れた。それから名まえが知られるようになった。」(11ページ)
4.「孫盛の『異同雑語』にいう。太祖はあるとき中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入した。張譲はそれに気がついた。そこで〔太祖は〕庭の中で手にもった戟をふりまわし、土塀をのり越えて逃げ出した。人並みはずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった。」(11ページ)
5.(孫盛の『異同雑語』より)「あるとき許子将に、「わたしはどういう人間でしょうか」と質問したことがあった。許子将が返事をしないでいると、あくまでも訊ねた。許子将はいった、「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。」太祖は哄笑した。」(12ページ)
1.と2.を見ると若き曹操を高く評価したのが、橋玄と何顒だったことが分かります。
このうち橋玄の生涯の概略及び彼と曹操の関係については、石井仁『魏の武帝 曹操』(新人物文庫、2010年)に論じられています。
「橋玄も孝廉に挙げられ、地方官をつとめたのち、九卿の少府・大鴻臚などをへて、建寧三年(一七〇)八月、司空に昇任。翌年三月、司徒にうつり、辞職後尚書令に任官。光和元年(一七八)十二月、太尉を拝命し、みたび三公にのぼる。翌年三月、病気のため引退し、光和六年(一八三)、七十五歳で亡くなる。
若いころ、濁流勢力に敢然とたちむかっている。予州従事史のとき、陳国相羊昌の汚職を摘発し、いちやく天下に名を知られた。羊昌は、飛ぶ鳥もおとす大将軍梁冀の賓客だった。だが、不思議なことに、『後漢書』の列伝によるかぎり、橋玄と清流派をむすぶ接点はみあたらない。そもそも党錮に連座することもなく、霊帝のもと、三公を歴任したのである。」(53ページ)
「曹操が出会ったころ、橋玄は六十歳をすぎ、国家機密に参与する皇帝の秘書長-尚書令の要職にあった。」(54~55ページ)
橋玄は、桓帝が梁冀を誅滅した(159年)後、人心の一新をはかろうとした時に司徒の种暠に推薦され登用されています。种暠は以前のエントリー(三国志 考察 その14 曹操の祖父、曹騰の宮廷遊泳術 )でも触れたように、曹操の祖父の曹騰に高く評価され、『三国志』武帝紀注の司馬彪『続漢書』に「种暠は後に三公のひとつの司徒にまで出世しますが「『今日公(三公)になれたのは、曹常侍のおかげだ』と人に語った。」(9ページ)とある人物です。
つまり、曹家と橋玄とは种暠を通じて繋がっており、また下記の曹操の祭文を見ると、橋玄は曹操の幼少の頃から家族同然の親しい仲だったようです。『魏の武帝 曹操』より引用します。
「建安七年(二〇二)正月、ほぼ一年前官渡で袁紹を破った曹操は、故郷の譙県に凱旋する。その帰途、陳留郡浚儀県から使者をつかわし、太牢をもって橋玄の墓をまつらせた。太牢とは、牛・羊・豚をそろえた最高の供物。あわせて、戦勝報告ともいうべき祭文をたてまつる。
おろか者のわたしは、幼少のころ、堂室にまねかれ、大君子のあなたと交際させていただきました。わたしが地位と名誉を得られたのも、ひとえにあなたの鞭撻と支援のたまものです。「士は己を知るもののために死す」といった予譲の言葉(『史記』刺客列伝)を忘れたことはありません。あるとき、ふざけておっしゃいました。「わたしが死んだあと、墓のそばを通るようなことがあれば、一斗の酒と一羽の鶏をたむけてくれたまえ。もし、約束をやぶれば、三歩も行かないうちに、君は腹痛をおこすだろう。よくよく気をつけよ」。心を許した仲でなければ、どうして、こんなことを口にするでしょうか。今日、お供えするのは、祟りが怖いからではありません。すぎし日のあなたの恩顧がなつかしいからなのです。(『魏志』武帝紀注引『褒賞令』)
橋玄もまた、曹騰の恩顧をうけた士大夫であり、曹操は幼少のころから、かれの邸宅に出入りしていたのだろう。橋玄の「堂室」-私室にとおされたことは、家族同然の待遇を受けていたことを暗示している。曹操は、後世いわれるほど、政界で孤立していたわけではない。」(62~63ページ)
石井進氏は、种暠も橋玄も西北方面の対異民族総司令官といえる度遼将軍に就いていること、その他にも曹騰が朝廷に推薦した人物のうち、張奐もまた度遼将軍を務め、また張温は車騎将軍として涼州の反乱鎮圧で活躍していることに注目し、以下のように述べています。
「(引用者注:曹操は)曹騰恩顧の士大夫にかこまれ、英才教育をほどこされていたらしい。あえていえば、西北列将の後継者、将来の動乱を収拾する切り札として、大事に育成された人材だったのだ。」(63~64ページ)
筆者はこれまで、1.2.のような橋玄の曹操に対する評価は十代の若者に対する評価としては過大なものであり、橋玄が曹操を評価していたのは間違いないにしても、その評価の内容については後世の歴史家の創作ではないかと思っていました。こうした後に皇帝の父となるような英雄とされる人物の評価は、後から歴史家によって創作されてしまうことが多いためです。
しかし、石井進氏の指摘されるように、橋玄らが曹操の軍事能力の素質を高く評価し、西北列将の後継者、将来の動乱を収拾する切り札として考え育成していたのだとするならば、1.2.のような評価をするのも頷けます。当時の後漢は内憂外患の状態であり、宦官の横暴の「内憂」が強調されますが、羌や鮮卑等の異民族との戦いの「外患」も深刻なものでした。橋玄が「天下はまさに乱れんとしている。一世を風靡する才能がなければ、救済できぬであろう。よく乱世を鎮められるのは、君であろうか。」の「乱れ・乱世」とは、主に異民族との戦いを念頭においた発言であり、「才能」というのは曹操の軍事的才能のことを指しているのだと考えられます。
孫盛の『異同雑語』によると、曹操は「ひろく種々の書物を読んだが、とりわけ兵法好きで、諸家の兵法の選集を作り『接要』と名付づけた。また孫武の兵法十三篇『孫子』に注した。」(『三国志1』(ちくま学芸文庫)11ページ)とあります。
曹操が『孫子』の注をつけたのはもっと後の頃だと思いますが、若い頃から曹操が兵法に親しみ、その理解が非常に優れているのを見て、橋玄は曹操を高く評価したのではないでしょうか。
しかし、上記で述べたように、党錮の禁による宦官の士大夫に対する弾圧により、当時の士大夫の宦官への憎悪は激しいものがあり、宦官の家である当時の曹家の世評は極めて悪かったものと思われます。
当時の孝廉や茂才などの任用制度は世間の評判が高くなければ推薦されません。親(曹嵩)の財力や曹騰時代からの人脈に物を言わせて誰かの推挙を得ることも可能でしょうが、その場合は、他の濁流一族が一族のコネのゴリ押しで官位を得たと同じく、曹操もまた親のゴリ押しで官を得たとみなされ、「濁流」のレッテルを張られることになります。そうすると清流派士人たちの支持を得ることはできなくなります。
そして、いつまでもこの宦官とその親族・与党の横暴の世が続くとは曹操は思っていませんでした。いつか大きな揺り戻しが来て「濁流」は誅滅される日が来るのではないか、と曹操は考えたと思われます。後漢の歴史は繁栄を誇り横暴を極めた一族が、一夜にして凋落し誅滅されることの繰り返しです。富貴・横暴を極めた宦官らとその親族もまた一夜にして世の形勢が逆転して没落するのは世の流れとして十分に予想されることです。未来にあるかもしれない政変時まで世間で曹家が「濁流」と思われ続けられた場合、清流派の敵とみなされ一族誅滅の憂き目となる事態も有り得ます。
曹操としては、自分の代のうちに世間の評判を高め、曹家は「清流派」だとみなされるようにふるまう必要がありました。
このために曹操がとった行動が3つありました。ひとつめは、4.で書かれているような、中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入して戟をふりまわし逃亡するという所行です。曹操と張譲のあいだに何があったか史書には詳しく書かれていませんので、なぜ曹操がこのようなことをしたのか不明ですが、宦官の中でも権勢を振るう張譲に対する反感情が曹操にあったというエピソードでしょう。
しかし、この曹操の行為は子どもじみた振る舞いといえ、こうした所行で世評を高めることはできません。(孫盛の『異同雑語』からのエピソードですので、このエピソード自体が創作なのかもしれませんが。)
実際に曹操の世評を高めたのは次の二つの行動でした。ひとつは清流派の名士である何顒との親交です。もうひとつは3.で橋玄が助言したように許子将の人物鑑定を受けることでした。
まず、何顒との親交を見てみましょう。何顒という人物は前のエントリー(三国志 考察 その15 党錮の禁と、袁紹の「奔走の友」について)で見た通り、陳蕃、李膺と親しかった故に、党錮の禁で追われ、姓名を変えて汝南の間に逃亡し、その間に袁紹らと親しくなって「奔走の友」となり、洛陽に潜入して袁紹らと党錮の禁で弾圧された党人達を救援した人物です。
いつ、曹操と何顒は親しくなったのでしょう。1.で見たように曹操が若い頃「梁国の橋玄と南陽の何顒だけが、彼に注目した。」とありますので、何顒が曹操と親しくなったのは、彼が20歳で任官する前の10代の時代でしょう。つまり、曹操と何顒が親しくなった時期は、何顒らが洛陽に潜入して党錮の禁で弾圧された党人達を救援に奔走した時期だと考えられます。
『三国志 魏志』の袁紹伝では、「太祖(曹操)も若いときに彼と交際があった」(447ページ)とありますが、曹操が何顒以外の「奔走の友」(袁紹、張邈、呉子卿、許攸)と親しくなったのも同じ時期だと思われます。何顒らは曹操と会い、彼を高く評価します。『後漢書 党錮列伝』によると「初め顒は曹操を見、嘆じて曰く、「漢家将に亡びんとす。天下を安んずる者は必ず此の人なり。」操、是を以て之を嘉す。」(p224)とあります。
正直、上記の10代の曹操に対しての何顒の評価の言葉は、まるで未来を見て来たかのような過大評価で噓くさいので、後世の歴史家の創作と思いましたが、この評価を額面通り受け取るのではなく、ただの修辞だと考えればまあそのように言ったのかもしれません。
考えてみれば現代でも「このままではこの国は滅んでしまう」とかいう言葉を聞きますが、そう言っている人は具体的に何年何月にこういう原因で滅ぶと考えている訳ではなく、要はそれだけ危機的状況だということを強調するために言っていることの方がほとんどです。
また、前途有望そうな若者に「これからの日本を担うのは君のような若者だ」みたいに言うこともまあ聞かないことはありません。特にこれも具体的に例えば将来この人物が総理大臣になるだろうと考えて言っている訳ではほとんどありません。何顒の言葉もそのようなものだったのかもしれません。元々はその程度の評価が、曹操が未来の皇帝の父となることで、何顒の言葉が何かしら未来を暗示したように後世に取り上げられたというところが実体なのかもしれません。
しかし、その言葉の内容がどうであれ、清流派士人として高名な何顒らがこの時期に曹操と会い、曹操を評価したという事実自体が重要な訳です。この時期の曹操の活動について史書にはほとんど書かれていないのですが、私見では、曹操は「奔走の友」らの党人救援活動に協力したのではないかと思われます。
何顒の曹操に対する評価によって、曹操は清流派士人から評価を得ることに成功します。特に袁紹との親交は重要であり、これ以後袁紹は何かと曹操の面倒をみて庇護するようになります。
続いて許子将の曹操に対する人物鑑定を見ていきます。当時、無名(というより、「濁流」曹家というレッテルが張られ評判が低かった)だった曹操が、清流派士人の中で評判を高める方法として、まず何顒と親交し、その評価を受けることがありましたが、もうひとつが、橋玄が勧める通り許子将の人物鑑定を受け評価を受けることでした。当時許劭(子将はあざな)は若くして人物品評の才能が高いとされ、「天下の士を抜く(埋もれている人材を発掘する)を言う者、咸(み)な許郭(許劭と郭太)と称す。」(『後漢書 許劭列伝』245ページ)とまで天下の士人に称されます。このため、許劭から人物評価を受けることが、当時の士人の評判を高め名声を得る契機になりました。このため、曹操は許劭を訪問して、その人物評価を受けようとします。
許劭の曹操に対する人物評価については、次のエントリー(三国志 考察 その17 曹操の清流派への転身②~許劭は曹操をどう評価したのか?)で検討します。
参考文献
鶴間和幸『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国』講談社、2004年