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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その18 曹操の清流派への転身③

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 前のエントリー(三国志 考察 その17 曹操の清流派への転身②~許劭は曹操をどう評価したのか?)の続きです。

 

1.熹平3(174)年、孝廉に推挙される 

 曹操は熹平3(174)年、20歳で孝廉(任用資格のひとつ)に推挙されて郎(各部局の属官)となります。しかし、それからの曹操官吏としての人生は必ずしも前途洋洋とはいきませんでした。以下、中平5(188)年に西園八校尉の典軍校尉になるまでの曹操官吏人生を見ていきます。

 

 まず、孝廉として曹操を推挙したのは誰でしょう。石井進氏はこれを沛国の相王吉であるとします。(*1)孝廉を推挙するのはその国または郡の相・太守ですので、故郷が沛国譙である曹操が当時沛国の相だったと考えられる王吉の推挙で孝廉に挙げられたのは石井進氏の指摘通り間違いないでしょう。

 

 王吉は宦官中常侍で悪評の高い王甫の養子です。そして、本人は『後漢書 酷吏伝』に載る酷吏であり、疑獄にきっぱりと決着をつけるような優秀な人物ではありましたが、性は残忍でほんのちょっとした過失や数十年前の罪でも名簿に載せて処罰し、また人殺しは死刑にした上で屍を車上で磔にし、夏に腐乱するまで晒すなど残酷な刑を行いました。その任期で1万余人を殺し、郡(国)中は恐れおののいたとされます。最期は、養父の王甫の弾劾に連坐し、獄死します。

 

後漢書』の王吉のエピソードは悪いエピソードばかりではないのですが、そのあまりに厳しすぎ、残忍な統治のため、王吉が宦官の養子であるという出自と相まって王吉の世間の評判は極めて悪いものでした。曹操を孝廉に推挙するのは故郷の沛国の相と決まっているため、当時の沛国の相の王吉に推挙されたのは、めぐり合わせなのでしょうが、このような人物から推挙を受けて官吏デビューしたことは、曹操にとって決して名誉なことではなかったでしょう。『三国志 魏志 武帝紀』にも曹操を孝廉に推挙した人物は書かれていません。

 また、王吉が宦官王甫の養子であり、曹操もまた宦官曹騰の孫であるため、宦官出身の権門同士が馴れあって推挙したように世間では思われたかもしれません。

 

2.洛陽の北部尉になる 

 郎となった後、曹操は洛陽の北部尉(四百石)(洛陽北部地区の警察署長)に任命されます。曹操の選任された洛陽の尉は孝廉の初任官とされ、特に低い評価ではないのですが、曹操は洛陽令(千石)への転出を希望していました。橋玄・何顒・許劭に評価されている自分は孝廉の成績第一にちがいないという自負があったのだと思われます。曹操は「意識の高い若者」だったのです。この時曹操の任官先の選定にあたっていたのが、選部尚書の梁鵠(あざなは孟黄)と尚書右丞の司馬防(あざなは建公)でした。

 

曹操主観で)不当に低い洛陽の北部尉の任命になったことに対する曹操の恨み、特に選定した梁鵠に対する恨みは深かったようです。後に天下が乱れると梁鵠は、荊州牧の劉表のもとに身を寄せますが、劉表の死後その子劉琮は曹操に降服してしまいます。孝廉に挙げられてから30年以上たった荊州を攻略した直後の建安13(208)年、同年に孝廉に挙げられた旧友の蔡瑁(あざなは徳珪)に下記のようなことを言っています。蔡瑁荊州襄陽の有力な豪族です。石井仁氏の『魏の武帝曹操』から引用します。

 

「徳珪、覚えているか。孝廉に挙げられ、いっしょに梁孟黄に会ったときのことを。やつには人には見る目がなかったのだ。いま荊州にいるらしいが、いったいどんな顔をして君に会うのだろうか。(『襄陽耆旧記』)

 

(中略)まもなく、梁鵠はみずから体を縛って、曹操のまえに出頭する。下級武官-軍仮司馬につけられたうえ、ひたすら書をかかされ、こきつかわれた。」(*2)

 

 もう一人、曹操の任官の選定にかかわった司馬防には『三国志 魏志 武帝紀』の注の『曹瞞伝』に以下の話があります。(「公」も「王」も曹操のことです。)

 

「〔かつて〕尚書右丞司馬建公によって(引用者注:曹操は)〔尉に〕推挙された。公が王となると司馬建公を鄴に召しだし、ともに歓を尽くして飲んだ。〔公は〕司馬建公に向っていった、「わしを今日でもやはり尉にすべきかね。」司馬建公、「昔、大王さまを推挙いたしましたときには、尉にするのがちょうどふさわしかったので。」王は大笑いをした。司馬建公は名を防といい、司馬宣王(司馬懿)の父である。」(p107)

 

 洛陽北部尉となった曹操は都の犯罪をきびしく取り締まります。以下『武帝紀』注より引用します。(「太祖」とは曹操のことです。)

 

「『曹瞞伝』にいう。太祖は尉の役所に入るとまず四つの門を修理させた。五色の棒を作らせ、門の左右にそれぞれ十余本ずつ吊り下げ、禁令に違反する者がいると、権勢のある者でも遠慮せず、すべて棒でなぐり殺した。その後数カ月して、霊帝が目をかけていた小黄門の蹇碩の叔父が〔禁止されている〕夜間の通行を行ったので、即座に殺した。首都(洛陽)では夜間外出が跡を絶ち、禁令を犯す勇気のある者はいなかった。近習や寵臣たちはみな彼を憎んだが、しかしつけこむ隙がなかった。そこでいっしょになって彼を称揚し推挙し、そのために昇進して頓丘の令となったのである。」(p12)

 

3.頓丘の令⇒議郎になる 

 洛陽の北部尉から頓丘の令に昇進した後、曹操は中央に呼び戻され議郎(六百石)になります。

 しかし、光和元(178)年10月に霊帝の宋皇后が謀反の罪で廃位され、その一族が誅殺され、姻族に宋一族がいたため連坐して免職になります(曹操24歳)。また『武帝紀』注の『魏書』より引用します。

 

「『魏書』にいう。太祖の従妹の夫である讔彊(いんきょう)侯の宋奇が処刑され、連坐して免職となった。」(p12)

 

 ここで、面白いのは曹氏(おそらく曹操の父曹嵩が)が外戚として栄えるであろうと期待した宋氏と曹氏との婚姻を進め、曹氏の地位を高めようとしていたことです。こうした外戚との結びつきで家の栄達を計るというのは、いかにも曹嵩の旧世代的な考えですが、今回の宋皇后の廃位と一族が誅殺されることで、そのもくろみも外れることになります。

 

 その後、光和3(180)年6月、古学に明るいという理由でふたたび召し出され、議郎に復帰します(曹操26歳)。『武帝紀』注の『魏書』によると、この議郎の時に上奏を二回行っています。

 

 一度目の上奏は、「竇武らが正直(せいちょく)でありながらわなにはまって殺され、邪悪な人間が朝廷に満ち、善良な者は出世の道を閉されていると」(p12)述べたものでした。つまりは第二次党錮の禁の批判、竇武らの名誉回復と党錮の解除を訴えたわけです。(党錮の禁については、以前のエントリー(三国志 考察 その15 党錮の禁と袁紹の「奔走の友」について)参照)

 この上奏については、霊帝は採用できなかった」(p12)とあります。

 

 その後、二度目の上奏があったとされます。ふたたび『武帝紀』注の『魏書』より引用します。

 

「州や県の官吏のうち、政治に効果がなく、そのために住民から批判の流言や歌謡をあびている者を摘発して罷免するようにと三府(三公の政庁)に詔勅が下された。〔ところが〕三公は不正邪悪で、〔官吏たちは〕皆、官界で起用されることを願望し、賄賂が横行した。勢力のない者は道義を守っていてもおとしれられる場合が多かった。太祖はそのことを憎んだ。この年、天変地異があったために、ひろく政治批判を求めた。その機会に太祖はふたたび上奏して厳しく諫言した。その内容は貴族・外戚の意向に逆らわないことを旨としているというものだった。上奏文がたてまつられると、天子は心に悟り、それを三府に示して叱責した。流言を理由に出頭させられていた連中は、皆、議郎に任命された。これ以後、政治と教化は一日一日と乱れていき、乱暴者や狡猾な者がますますはびこり、社会を破壊する行為が数多くあった。太祖は匡正しえないと悟り、もう二度と献策しなかった。」(p12~13)

 

 上記の第二回目の上奏は光和5(182)年2月(曹操28歳)のことですが、この王沈の『魏書』の記述にはいろいろ疑問点があります。まず『後漢書』劉陶列伝にも同様の上奏の記述がありますが、ここでは曹操は司徒陳耽と上奏したことになっています。また、司馬光の『資治通鑑』の記述では陳耽の上奏はありますが、曹操の上奏の記述はありません。しかし、上記の『魏書』の記述では「三公は不正邪悪で」と上奏した陳耽もいっしょに非難されてしまっています。(ちなみにこの時の三公は司徒陳耽、司空張済、太尉許イクです。)

 

 上記の各書の記述を検討しますと、『後漢書』の記述のように司徒陳耽と議郎曹操が一緒に上奏したとは考えられません(地位が違いすぎます)ので、司馬光資治通鑑』の記述通り、司徒陳耽が単独で上奏したというのが正しいと思われます。王沈『魏書』の記述は、曹操を称えるために陳耽の業績をパクって曹操の業績としてしまった虚偽の記述と考えられます。『後漢書』の記述は王沈『魏書』の虚偽の記述に引き摺られてしまったではないでしょうか。

 この上奏の影響か、陳耽は3月に司徒を免じられ、その後中平2(185)年10月誣告にあって獄死します。(『後漢書 孝霊帝紀』)

 

4.黄巾の乱、騎都尉になり活躍

 中平元(184)年2月、黄巾の乱が起こります(曹操30歳)。曹操は騎都尉(比二千石)に任命され、潁川の黄巾を討伐します。曹操の武官としてのデビューであり、初陣です。

 曹操の活躍については、『後漢書 朱雋列伝』に記載されています。右中郎将の朱雋が長社で黄巾の賊波才を攻撃した際に、ちょうど合流し朱雋と協力してこれを打ち破る功績を上げています。この功により、済南国の相(二千石)に昇進します。

 

5.済南国の相になる

武帝紀』によると「(引用者注:済南)国には、十余りの県が存在したが、貴族外戚に迎合する長史が贈賄汚職が横行していた。そこで上奏してその八割までを免職した。衆をまどわす祭祀を厳禁し、悪人は逃亡し、郡内はえりを正した。しばらくして召還され東郡の太守に任じられたが就任せず、病気にかこつけて郷里に帰った。」(p13)とあります。

 注の『魏書』には以下の記述があります。

「『魏書』にいう。そのころ権臣が朝政を専断し、貴族・外戚はかって放題のことをやっていた。太祖は道義にはずれてまで迎合することができず、しばしば衝突したので、一族に災難をもたらすのを気づかい、けっきょく天子の側に留まることを要請した。議郎に任命されたが、つねに病気にかこつけ〔出仕せず〕、辞任して郷里に帰った。城外に家を建て、春と夏は書物を読み、秋と冬は狩猟に出かけ、自己の生活を楽しんだ。」(p14)

 注の『魏書』では「議郎に任命された」とありますが、『武帝紀』の記述通り「東郡の太守」が正しいと思われます。(『魏書』の記述は前の年代と混同されているような気がします。)

 

6.王芬の皇帝廃立計画

武帝紀』によると、「少しのち、冀州の刺史王芬、南陽の許攸、沛国の周旌らは実力者たちと連合して、霊帝の廃立と合肥侯擁立を計画し、そのことを太祖にうちあけた。太祖は参加を拒否し、王芬らはけっきょく失敗した。」(p14)とあります。

 これは、『武帝紀』の注『九州春秋』に「黒山の属が郡県を攻撃し圧迫している」(p14~15)とあるので、中平2(185)年2月ごろのことでしょうか。

 上記の廃立計画を検討しますと、

(1)  士大夫のあいだで皇帝廃立計画が出てくるほど皇帝・朝廷の権威が失墜したこと。

(2)  曹操も朝廷に対する不満分子と周囲から思われていたこと。(任官を受けずに故郷に引っ込んでいることからでしょう。)

(3)  おそらく「奔走の友」である許攸とのつながりで曹操は誘いを受けたであろうこと。

などが分かります。結局、曹操はこの誘いを断り、計画は結局失敗します。曹操が誘いを断ったのは、計画が不備で露見することを恐れたというよりも、帝の廃立というだいそれた計画そのものに拒否反応があったからではないでしょうか。この頃の曹操は意外にも、かなり保守的な考えだったのです。

 

7.西園八校尉の典軍校尉となる

 中平5年、初めて西園八校尉が置かれます。(以下の記述は石井進『魏の武帝曹操』を参考にしています。)西園八校尉は、上軍・中軍・下軍の三軍で編成されています。これは反乱が各地で頻発する現状を苦慮した霊帝が常備兵の整備の必要性を痛感して結成した軍といえます。この全軍を掌握するのは、上軍校尉・小黄門(宦官)の蹇碩となります。中軍校尉は袁紹、下軍校尉は鮑鴻です。三軍校尉以外の五校尉はその補佐だと思われます。曹操は、八校尉のうち典軍校尉に任命されます。

 今まで任官を断ってきた曹操が、典軍校尉の任命を断らなかったのは、任命されたのが武官であったこと(曹操は自分の軍事的才能に自信があり、武官であれば引き受けようと思ったのかもしれません)、おそらく親交のあった袁紹の推薦があったのだとも考えられます。袁紹は長らく官についていませんでしたが、この頃官に戻り大将軍何進の腹心となっており、清流派の「奔走の友」袁紹を重用する大将軍何進による朝廷改革に期待を抱いたというのもあるかもしれません。

 

 

 上記の官僚として曹操の一連の行動を見て、彼の「法家」思想が読み取られることが多いですし、実際に曹操の思想に「法家」の影響は大きいと思われますが、これにより曹操が既存の儒教思想と対立する思想を抱いていたと考えてしまうのは、少し違うかと思われます。渡邊義浩氏が述べるように、曹操の政治理念とされた「猛政」は『春秋左氏伝』を典拠とする儒教の枠内に止まっているものだと思われます。(*3)

 むしろ曹操の行動は、当時の後漢の清流派官僚の行動をなぞったものだといえます。この頃の曹操の行動をまとめると以下のようになります。

A.橋玄・何顒・許劭ら名士に評価してもらい自らの名声を高める。

B.官にあっては法を厳正に適用し、権勢・横暴を振るう宦官・外戚の親戚にも容赦しない。(むしろ、標的にして厳しく取り締まる。)

C.党人とされた清流派士人の弁護・救援を行う。(上奏や「奔走の友」との親交)

D.任地では汚職・賄賂を厳しく取り締まり、清廉な統治を目指す。

E.乱れた朝廷に迎合せず、迎合せざるを得ないくらいならば官を辞し、あるいは任官せず在野に留まる。

F.現在の朝廷に対しては批判的であるが、朝廷に対する忠誠心は高く、朝廷を打倒する、帝を廃立するなどの破壊的な思想は持たない。(多くの清流派官僚は誣告を受けて冤罪に陥れられても、官を辞する、逃亡する、あるいは従容と獄に入り、または自死するなどの行動を取り、朝廷に対して反逆や打倒・廃立等を目指すことはありません。そういった意味では清流派の思想は保守的な思想とえいます。) 

 

 上記のような曹操の行動は、典型的な清流派士人の行動であり、こうした行動を行うことにより、「曹操は清流派士人である」という周囲の評価が高まり、名声を高めます。この時代の行動により、曹操は曹家の濁流イメージを払拭することに成功したといえるでしょう。

 

 注

*1 石井仁 2010年、p71

*2 石井仁 2010年、p74

*3 渡邊義浩 2012年、p61

 

参考文献

石井仁『魏の武帝曹操』新人物文庫、2010年

陳寿著、今鷹真、井波律子訳『正史 三国志1』ちくま学芸文庫、1992年

范曄編、李賢注、吉川忠夫訓注『後漢書岩波書店

渡邊義浩『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』講談社、2012年