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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その24 後漢末の儒者、鄭玄と盧植について、ふと思ったこと。

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(『三国志』の引用は、(陳寿著、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫、1993年)、『後漢書』の引用は范曄編、李賢注、吉川忠夫訓注『後漢書 第8冊 列伝六』岩波書店、2004年によるものです。)

 

 渡邉義浩『儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源』講談社選書メチエ、2010年を読んで、後漢を代表する儒者である鄭玄と盧植について、ふと思ったことを書きます。(今回のエントリーは、彼らの儒教思想の内容について書くわけではありませんので、すいません。)

 

1.鄭玄について 

「鄭玄が生きた後漢末は、黄巾の乱が熾烈を極めていた。鄭玄の故郷である北海国も黄巾の勢力の強いところで、鄭玄は徐州への避難を余儀なくされている。建安元(一九六)年、鄭玄七十歳のとき徐州より北海国高密県に帰る途中で、鄭玄は黄巾の大部隊に出会った。黄巾は、鄭玄の名を聞くと拝礼し、その故郷高密県には侵入しないことを約束したという(『後漢書』鄭玄伝)。約束の有無はともかく、こうした説話は、鄭玄と黄巾の接触を示す。むろん、その思想的な接触は黄巾の乱が起こる以前、「黄老」を冠する反乱が頻発したことから始まっていたと考えてよい。そうした中で鄭玄は、黄巾の世界観と向き合わざるを得なかった。」(渡邉義浩『儒教と中国』148ページ)とあります。

 

 つまり、鄭玄は黄巾の乱(光和7(184)年)の頃に徐州へ避難し、その後に陶謙の保護を受け、徐州にいるときに曹操の徐州虐殺(初平4(193年)があり、陶謙の死後劉備が徐州刺史(興平元(194年))となり、建安元(196年)に呂布が徐州を乗っ取る頃まで徐州にいたことになります。

 

三国志 蜀書 後主伝 注『華陽国志』』に、

 

諸葛亮が答えていうのには、「(中略)先帝(引用者注:劉備)もまた、わしは陳元芳(陳紀)や鄭康成(鄭玄)との間を行き来していたとき、つねに教えを受け、治乱の道について知りつくしているといっておられたが、一度も恩赦についてお話になったことがなかった。」(90~91ページ)

 

とあり、これによれば劉備は鄭玄の教えを受けたことがあることが分かりますが、これは劉備が徐州刺史の頃の話でしょうか。

 

 後に、袁紹に賓客として鄭玄は迎えられます。袁紹は左中郎将や大司農に推挙しますが、鄭玄はすべて辞退します。建安5(200)年74歳で鄭玄は病死します。

 

 徐州虐殺を見た鄭玄が曹操を頼ることがないのは当然ですが、最終的に袁紹の元を頼ったというのは興味深いことです。

 

2.盧植について

渡邉義浩氏は、 

盧植にとって公孫瓚劉備は、孔子の子路にあたる。自分が大軍を指揮する際の部将を教育しているのである。」(渡邉義浩『儒教と中国』157ページ) 

と述べていますが、実際のところ、盧植による公孫瓚劉備の育成は、あまりうまくいっていないような気がします。黄巾の乱で中郎将として盧植は、張角と戦いますが公孫瓚劉備はその幕下に呼ばれていません。

 

 もっとも公孫瓚は、『後漢書 公孫瓚列伝』によると、中平中(一八四~一八九)張温に従って涼州の賊(賊とは辺章等)や張純と戦っています(辺章や張純の乱は黄巾の乱後)し、その前は遼東属国の長史として鮮卑と戦っています。黄巾の乱時は遼東でこの危機に乗じて攻めてくる可能性の高い鮮卑に備えていたのではないかと思われますので、盧植が呼ぶことはできなかったでしょう。(あるいは、鮮卑と戦ったエピソードが黄巾の乱と同時期?この辺、年代が書いていないので分かりません。)

 

 これに対して、劉備は『三国志 蜀書 先主伝』によれば黄巾の乱討伐に参加していますので、盧植劉備の才能を評価していれば呼ばれていてもおかしくはありませんが、劉備盧植に元に呼ばれたという記録はありませんので、結局盧植劉備を評価していなかったのでしょう。まあ、若い頃の劉備「読書がそんなに好きではなく、犬・馬・音楽を好み、衣服を美々しく整えていた。」(『三国志 蜀書 先主伝』26ページ)とありますから、学問に力を入れた様子はなく、盧植劉備に対する評価が低いのは仕方ありません。

 

 のちに公孫瓚は、「州里の善士の名の其の右に在る者は、必ず法を以て之を害す(郷里の立派な人物で名声が彼を上まわる者は、必ず法律を楯に取って殺害する)。常に言わく「衣冠は皆な自ずから職分富貴なるを以て(貴族たちはみな官職身分が高貴なので)人の恵みを謝せず」。故に寵愛する所は類(おおむ)ね多く商販の庸児(商売人びつまらぬ連中)にして、所在に侵暴し、百姓之を怨む。」(『後漢書 公孫瓚列伝』465ページ)とあるように儒教名士を弾圧して、商売人等を厚遇しますので、儒教名士の支持を失います。公孫瓚もまた盧植にとっては不肖の弟子といえるでしょう。盧植公孫瓚(やその部下になっていた劉備)を頼ることはありませんでした。(もっとも袁紹に招かれる前は、董卓を避けて幽州上谷郡軍都山に隠れていますので、実際にはその間公孫瓚が保護していたのかもしれませんが。この頃の盧植は世間との付き合いを断っていましたので公孫瓚との交流の記録はありません。)

 

 しかし、盧植門下から軍事能力が高い公孫瓚劉備が出てきたというのは面白い史実です。盧植は兵法も門下生に教えていたのでしょうか?

 

「初平二(一九一)年、冀州牧となって拠点を持った袁紹盧植を迎えて軍師とした。しかし、盧植を迎えた軍師とした。しかし、盧植は、初平三(一九二)年に卒しており、袁紹の軍師としての活躍は、ほとんどなかった。袁紹は、盧植を軍師として曹操と戦っていれば、あるいは盧植袁紹の優柔不断をよく補い、曹操を破っていたかもしれない。盧植は、そのくらい大きな才能を持った儒将であった。」(渡邉義浩『儒教と中国』157ページ) 

と、渡邉義浩氏は盧植を高く評価しています。

 

3.まとめというか、感想

 

 後漢末の三大儒者である蔡邕・盧植・鄭玄のうち、董卓に仕え王允に殺された蔡邕を除き、盧植と鄭玄の2名の袁紹に招きを受けて袁紹の元に向かった事実は、実は結構大きいのではないでしょうか。

 

後漢書』の記述では、盧植と鄭玄が袁紹を評価していたことはあまりうかがえませんが(鄭玄は官も辞退していますし)、結局袁紹が天下を取れなかったから、後世の伝でも彼らが評価していたと書かれないわけであって、現実問題として盧植と鄭玄をはじめとして当時の儒者達は、後漢の次の天下を安定させる英雄は袁紹であると認識しており、そうであるが故に、袁紹の支配地である冀州を安住の地として選んでいたということだと思われます。袁紹は、天下が取れなかったので後世に記されている評価は低い訳ですが、当時の評価は別のものだったと考えられます。