古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その25 劉備・諸葛亮の反曹操連盟

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(『三国志』の引用は、(陳寿著、裴松之注、井波律子訳『正史 三国志5 蜀書』ちくま学芸文庫、1993年)からです。)

 

 以下は、渡邉義浩『儒教と中国 「二千年の正統思想」の起源』講談社選書メチエ、2010年からの引用です。

 

諸葛亮は、郷里に大土地を所有する豪族層の出身である。しかし、諸葛亮は豪族として持っていたであろう経済力や軍事力は依拠せず、名声を存立基盤する「名士」として生きた。幼い弟均と共に故郷である徐州の「乱を荊州に避」けたためである。陳寿の『三国志』が曹操を憚って明記しない徐州の混乱とは、興平元(一九四)年、曹操が徐州で繰り広げた大虐殺を指す。諸葛亮は十四歳であった。

徐州牧の陶謙は、袁術・公孫讃と結び、袁紹曹操と敵対関係にあった。袁州に拠点を得た曹操は、迎えようとした父曹嵩を襲撃して、曹操を挑発したのである。これに怒った曹操は、徐州に進撃して官民を問わず老若男女を虐殺した。これにより、諸葛亮は故郷を追われた。徐州大虐殺により抱いた青年期の反曹の思いは、「漢」の復興という信念を揺るぎなきものとした。」(170~171ページ)

 

 一方、劉備曹操の徐州虐殺直後に徐州を救援に赴き、陶謙の死後その後を継いで徐州刺史となっています。

 

三国志 蜀書 先主伝』によりますと、

 

「曹公が徐州を征討すると、徐州の牧陶謙は使者を送って田楷に危急を告げてきたので、田楷は先主(引用者注:劉備)とともに陶謙を救援した。(中略)先主はかくて田楷のもとを去り、陶謙に身を寄せた。(中略)陶謙は病気が重くなると、別駕の麋竺に、「劉備でなければ、この州を安定させることはできない」といった。(中略)先主はかくて徐州を支配した。」(29~30ページ)

 

とあります。

 

 劉備はその後、呂布に徐州を乗っ取られるなど変遷を経て、その後呂布を倒すために一時曹操につくこともありましたが、董承の受けた密勅事件に関わり、徐州を奪って曹操に反抗します。その後敗れて袁紹を頼り、汝南で曹操軍と戦うもまた敗れ、荊州劉表を頼ることになります。

 

 曹操の徐州虐殺を目撃した劉備諸葛亮が、後に荊州で出会い、反曹操連盟(といってよいでしょう)を結成するのは歴史的な必然だったといえます。