古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」①

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1.はじめに 

 細川ガラシャ明智玉子)は細川忠興の妻で、関ヶ原の戦いのあった慶長5(1600)年の7月17日に西軍による人質要求を拒否して「自害」した女性として知られます。(この最期については自殺を禁じるキリスト教的視点から、実際に(物理的な意味の)自害だったのか、家臣に介錯されて亡くなったのか検討されることも多いですが、このエントリーの主題ではありませんので、ここではその検討はいたしません。) 

 ここでは「果たして、ガラシャに対して人質要求を行ったのは誰なのか?」ということについて検討します。一般的には石田三成が人質を要求したという話になっています。しかし、下記で検討した通り時系列的に考えるとこれはちょっと考えられないことなのです。 

『霜女覚書』という書付があります。これは細川ガラシャの侍女として彼女の死の直前まで側近くに仕えた霜女という女性がガラシャの最期を記した覚書であり、その最期を身近で体験した人物の書籍として貴重な第一級の史料です。 

 この覚書はその史料としての貴重性から、細川ガラシャの最期の描写としてほぼ史実として扱われることが多いです。しかし、この覚書は事件から約48年後の正保5(慶安元・1648年)2月19日付で当時の熊本藩主細川光尚(光尚はガラシャの孫です)の求めに応じて提出された記録であり、事件が起こった時期にすぐに書かれたものではありませんので注意が必要です。 

 けれども、細川ガラシャ関係の書籍を読むと、この記録が48年前に起こった事件の覚書のため取扱いには注意が必要であると断りつつも、実際にはほぼこの『霜女覚書』の記述を概ね史実として引用されていることが多いです。これは、やはりガラシャの側近くに仕えた侍女本人の目撃談より他に信頼性の高い史料など実際にある訳ではないので、「注意が必要」と言いつつ、結果はほぼ無批判に史実として採用されているということです。 

 

 以下では、『霜女覚書』の記述について、実際にこの通りだったのか、記憶違いはないのか検討していきます。 

 筆者としては、この48年間という時間によって彼女の記憶が薄れてしまい、記憶違いの起こった可能性より(その可能性はそれなりにありますが、これは具体的にどのような記憶違いか証明しようがありませんので検討は困難です。)、この48年間の間に世間的に外部から色々と新しい情報が入ってくることにより「記憶が塗り替えられた」可能性があるということに着目して、この『霜女覚書』を読み直してみたいと考えます。 

 また、こうした目撃談として気を付けなければいけないのは、こうした目撃談には①実際に本人が見た情報と、②周りから聞いた伝聞情報が混ざっているということです。

  ①の「実際に本人が見た情報」の中でも見間違い・記憶違いという可能性は当然ありますが、他にもっと有力な目撃情報がない限り、この実際の目撃者の情報がやはり史料として尊重されることになります。

 しかし、②の「周りから聞いた伝聞情報」については、本人がこの目で見た訳ではなく、この本人の聞いた伝聞情報自体が根拠不明のあやふやな情報である可能性があります。だから、この伝聞情報については本人の目撃談だから史実として信用できるという話ではなく、「当時、このような伝聞があった」という史料にしかなりません。

 こうした伝聞情報の場合、後に新規にもたらされた情報により「ああ、(その当時の情報としてはあやふやだったが)こういう事だったのか」と、本人の記憶が上塗りされる可能性があります。

 そして、こうした戦争時の記憶の「後にもたらされた情報」とは、戦争後に「後の公儀によってもらされた公式情報」の事が多いわけですから、戦争の勝者である「後の公儀」を正当化するための情報である場合があります。この場合、その情報は必ずしも正しいものとは限りません。

 

2.『霜女覚書』の記述について 

 以下より『霜女覚書』の記述について具体的にみていきます。冒頭から見ていきましょう。(引用は金子拓『記憶の歴史学 史料に見る戦国』講談社、2011年に全文の掲載と要約がありましたので、これによります。)

 

「しゆうりゐん(秀林院)(引用者注:秀林院=細川ガラシャ(玉子))様御は(果)てなされ候したい(次第)の事、

 ① 一、石田しぶのせう(治部少輔)らん(乱)のとし七月十二日に、おかさはらしようさい(小笠原昌斎)・河ぎたいわみ(北石見)両人御だい(台)どころまてまいられ候て、わたくしをよ(呼)ひ出し、申され候は、しふのせいかたより、何もひかし(東)へ御たちなされ候大名衆の人しち(質)をとり申候よしふうぶん(風聞)つかまつり候か、いかゝ候はんやと申され候ゆへ、すなわちしゆうりんゐん(秀林院)様へそのとをり申あけ(上)候、しゆうりんゐん様御意なされ候は、しぶのせうとさんさいさま(三斎様)(引用者注:三斎様=細川ガラシャの夫忠興)とはかねかね御あいた(間)あ(悪)しく候まゝ、さためて人しち取り申はし(初)めに、此はう(方)へ申まいるへく候、はしめにてなく候はゝ、よそのなみ(並)もあるへが(ママ)、一はん(番)に申きたり候はゝ、御へんたう(返答)いかゝあそはされよく候はんや、しようさい・いわ見ふんへつ(分別)いたし候やうにと御意なされ候ゆへ、すなわち其とをりを、わたくしうけ給、両人に申渡し候事、(*1)」

 

 ①の金子氏の要約

「七月十二日、石田三成が関東に下向した大名衆から人質をとろうとしている噂を小笠原・河北両人が玉子(秀林院)に伝え、そうなったときの判断を仰いだ。玉子はふたりに対応を考えるように命じた。霜はこのやりとりを取り次いだ。(*2)」

 

 ①についての筆者のコメント 

 第一に、冒頭に石田しぶのせう(治部少輔)らん(乱)」とあります。これは当然、現代では「関ヶ原の戦い」と呼ばれる西軍(総大将:毛利輝元)と東軍(総大将:徳川家康)の一連の戦いを指しているわけですが、この戦いは江戸時代においては、おそらく霜女だけではなく、一般的な呼称として「石田治部少輔の乱」として呼ばれていた訳です。 

 実際には、「関ヶ原の戦い」は総大将毛利輝元をはじめとする、三大老・四奉行の連合軍が、徳川家康に戦いを挑んだ戦いであり、石田三成が総大将な訳ではありません。ところが、戦後処理の一環として、石田三成が首謀者・実質的な総大将として祭り上げられ、戦争の責任を一身に負わせられるスケープゴートの役になりました。 

 これは、石田三成をこの戦いの実質的な総大将であり総責任者とすることによって、総大将の毛利輝元の責任を軽減させることを輝元に匂わせることにより、すみやかに輝元を大坂城から退去させて、戦争を早期に結着させるための家康の計算でした。 

 このため徳川幕府の公式見解においては、関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成でなくてはいけないのです。だから、霜女もこの徳川時代における一般的な名称(公式見解)として「石田しぶのせう(治部少輔)らん(乱)」と言っているわけです。

 

 何が言いたいかというと、この覚書に出てくる「しふのせいかた(治部少輔方)」(その後の表現では「彼方」となっていますが)というのは(「かた」と付いている通り)石田三成本人を指しているのではなく、現代で言うならば「(関ヶ原の戦いの)西軍方」を指している程度の意味なのです。だから、この人質作戦が実際に石田三成本人の指示によるものかは『霜女覚書』の記述からはわかりません。

 

 第二に、①の日付は「七月十二日」になっています。この日付の意味は重要です。

 石田三成大谷吉継と共に佐和山城で決起したのが、7月11日とされます。

(*3)

そして、その翌日の7月12日付で大阪の奉行増田長盛より、会津の上杉征伐のために東国に下り江戸にいた徳川家康に、石田三成大谷吉継に不穏な動きがあると以下のような一報があります。

(*引用史料は、家康の侍医板坂卜斎の覚書『慶長年中記』の一部です。((*4)からの孫引きです。)下線部が長盛の書状部分です(下線部引用者)。史料⑪とは引用先の番号です。永井直勝は家康の家臣です。)

 

史料⑪『慶長年中記』巻一 

 一、十九日申刻増田右衛門尉(長盛)より永井右近(直勝)方ヘ来ル、其状二曰、

 

 一筆申入候、今度於樽井、大刑少(大谷吉継)両日相煩逗留、石治部(石田三成)出陣事申分候而、爰許雑説申、猶追々可申入候、恐煌謹言、

 七月十二日      増田右衛門尉長盛

  永井右近大夫(直勝)殿

 

 此状を右筆部にて右近披見候て、いな状を越被申候、可懸 御前へ持参、上意に、其状を写し先手へ遣ハし候へと被 仰出候二より俄かに百姓共に代官衆被申渡、江戸より宇都宮迄一里飛脚を置候、

  一、廿日大坂に被居候大名、生駒雅楽頭・蜂須賀阿波守・徳善院・長束大蔵・羽柴下総守・新庄駿河守・拓植大炊介・浅野弾正少、此外所々より雑説被申越候、又ハしつまり候との状来、いつれも十二日・十三日・十四日之状、刻附ハなし、此状の分にては落着思召しに不叶によって、いつれも写し先手へ遣候へと日夜被 遣候、(*4)

 

 石畑匡基氏によると、この石田三成大谷吉継の不穏な動きの報告は増田長盛だけではなく、「史料⑪によると、七月二十日には前田玄以長束正家を含む大坂にいる諸大名から「雑説」の旨が到来し、どの書状も十二~十四日付であったとされており、長盛と同内容の書状を他大名も家康が送付していることがわかる。」(*5)(*徳善院=前田玄以、長束大蔵=長束正家です)とあり、このことから、まず7月12日の時点で大坂在住の諸大名の中では石田三成大谷吉継が不穏な動きをしているという「雑説」が公然と広まっていたことが分かります。(ゆえに、この『霜女覚書』も7月12日から始まります。) 

 また、豊臣公議を代表する三奉行の増田長盛前田玄以長束正家がこの「雑説」を大老家康に報告しており、この時点では少なくとも外見的には三奉行は家康を敵としては扱っておりません(三奉行が家康を敵として公然に名指すのは7月17日に「内府違いの条々」を出してからです。そして、まさに同じ17日に細川ガラシャは最期を迎えます。)。 

 一方、石田三成大谷吉継は上杉征伐のための動員命令に従わずに(三成は謹慎中ですので、息子の重家が兵を率いていくことになっていました)、特に理由も言わず(吉継の方は病と言っているようですが)に兵を居城佐和山城に入れて籠るという、豊臣公儀に逆らう姿勢を見せる不穏分子として扱われていたのです。 

 そして7月12日の時点では石田三成佐和山城におり、その後もしばらく佐和山から動いていません。その後に動きがでるのは、7月18日に上京して豊国神社に参拝した時からです。(*6)ガラシャが最期を迎える7月17日に三成は大坂にはいません。実際には三成が大坂に入城するのは7月30日になってからです。(*7) 

 あるいは、「確かに三成自身は佐和山にいたかもしれないが、大坂に兵を派遣して人質を取ろうとしたのでは?」いう意見もあるかもしれませんが、それも有り得ません。元々この時期に三成は奉行職を解かれ佐和山で謹慎中ですから、人質を取るような権限はありませんし、上記で書いた通り、(外見的に)奉行衆をはじめとして大坂の諸将(家康と意を通じている武将もいるでしょう)から不穏な動きを見咎められ警戒されている状況であり、こんな状況で兵を大坂に派遣した日には、明白な公議に対する反逆のしるしと見なされ攻撃される大義名分を与えるだけです。 

 仮に、三奉行と三成が事前に密かに通謀していたとしても(筆者としては、実はその可能性が高いと考えていますが)大坂には親徳川の大名もいる訳で、上記で見たように他の大坂城の諸将からも三成の動きが監視され、動向を家康に報告されている状況なのです。三奉行が三成と謀って「密かに」三成の兵を大坂に入れようとしても、たちまちのうちに他の諸将に見咎められ家康に報告がいっていたでしょう。このようなリスクの高い作戦を三奉行が取るとは考えられませんし、そのような記録もありません。 

 つまり、三成が7月12日から17日にかけて、(細川ガラシャも含む)大坂城の大名家族の人質作戦をしようというのはそもそも無理な話なのです。ところが、多くの細川ガラシャ関係の研究書は、おそらくこの『霜女覚書』を参考文献として、そのまま覚書の「しふのせいかた(治部少輔方)」を石田三成本人と直訳して、「石田三成による人質作戦によって、細川ガラシャは悲劇的な最期をとげた」という記述になってしまっているのです。

 

 第三に、この『霜女覚書』の記述を見ると、霜女の記憶が塗り替えられていることが分かります。関ヶ原の戦いから48年後の未来に生きる霜女にとっては、徳川幕府による公式見解である「関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成」であることはあまりに自明なことであり、人質作戦を行ったのも首謀者である三成に違いないということも、考えるまでもない自明な話だったわけです。 

 このためこの「三成が首謀者」という前提が、当時の実際の事実と矛盾していた場合でも、公式見解と矛盾しないように記憶が塗り替えられているわけです。(これは霜女が嘘を言っている訳ではありません。人間の記憶というものは曖昧なもので、事件の後から「事実はこうだったんだよ」と言われてしまい、それが世間で公の事実とされてしまうと、後から入った情報により記憶が捻じ曲げられてしまう可能性のあるほど脆いものです。)

 

 例えば、「しぶのせうとさんさいさま(三斎様)(引用者注:三斎様=細川ガラシャの夫忠興)とはかねかね御あいた(間)あ(悪)しく候まゝ、さためて人しち取り申はし(初)めに、此はう(方)へ申まいるへく候と、三成と忠興はかねがね仲が悪いから、さだめて初めに人質に取りにくるであろうと秀林院が言ったとありますが、繰り返しになりますが、そもそもこの時点で三成は人質作戦の指示をする立場にいませんので、こういった三成と仲が悪いという基準で人質が選ばれる根拠はどこにもありません(ただ、忠興は慶長4(1599)年の三成に対する七将襲撃事件の一将ですので、少なくとも慶長4(1599)年以降、三成と「御あいた(間)あ(悪)し」いこと自体は確かだと思われます。)。

 また、上記で見たようにこの7月12日の時点では三成は佐和山で不穏な動きをして大坂の諸将(外見的には三奉行も含め)から警戒されている立場ですので、この時点で三成が公儀の代表のような顔をして人質を取る指示をできる立場だという認識は、細川ガラシャも含め諸大名の家族にあるはずがないのです。 

 ところが、関ヶ原の戦いの後「石田三成がこの乱の首謀者」という公式情報が浸透したため、その戦後の公式情報に霜女の記憶も引き摺られ、「人質作戦の指示者は乱の首謀者である三成であることは自明」という前提に記憶が塗り替えられてしまっているのです。

 このため、実際にあった秀林院の発言(どんな発言だったか分かりませんが)を、未来で得た知識とつじつまが合うように記憶を塗り替えた可能性が高いのではないかと思われます。

 

 では、実際にはどういうことだったかというと、この時に集められた人質とは他の諸大名に「石田三成大谷吉継の決起に同調させないように」という名目(口実)で集められたものだと思われます。大坂で石田三成大谷吉継の不穏な動きの「雑説」が広まり、三奉行をはじめとする大坂在住の諸大名から家康へ報告が送られたタイミングで取ろうとした「人質」とは、この名目(口実)以外には考えられません。

 

 誰が人質を取ろうとしたのですが、これはこの時点で大老家康の留守を守って豊臣公儀を代表し、大坂城の兵を掌握しており、人質を取る権限があるのは、三奉行以外有り得ません。三奉行は三成の佐和山決起を口実に諸大名の家族から人質を取ろうとしたのですね。(三奉行のうち誰が主導的な役割を果たしたのかは不明です。)

 関ヶ原前夜の三奉行の行動として、実に興味深いものといえます。

 

 次回のエントリーでは、「この『人質作戦』は、なぜ行われたのか?」について検討したいと思います。 

 ↓次回のエントリーです。

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 注

(*1)金子拓 2011年、p82~83

(*2)金子拓 2011年、p87

(*3)桐野作人 2012年、p76(桐野氏によるとこの日付を示す元史料は『落穂集』であるようです。)

(*4)石畑匡基 2014年、p46

(*5)石畑匡基 2014年、p47

(*6)桐野作人 2013年、p75

(*7)中野等 2011年、p306

 

 参考文献

石畑匡基「増田長盛と豊臣の「公議」-秀吉死後の権力闘争-」(谷口央編『関ヶ原合戦の深層』高志書院、2014年所収)

金子拓『記憶の歴史学 史料に見る戦国』講談社、2011年

桐野作人『謎解き 関ヶ原合戦 戦国最大の戦い、20の謎』アスキー新書、2012年

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年所収)