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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

真田昌幸・信繁と石田三成・大谷吉継について

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 大河ドラマ真田丸』の時代考証担当者でもある丸島和洋氏の『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年を読了しました。以下、真田昌幸・信繁が石田三成大谷吉継と関連する部分の抜粋を引用します。

 

「実際、昌幸は第一次上田合戦を間近に控えた段階で、上杉景勝を含む複数のルートから、羽柴秀吉への接近を図っている。その秀吉は、天正一三年(一五八五)七月に関白に任官し、旧主織田氏に代わって名実ともに新たな天下人になった。(中略)

その秀吉からの回答は第一次上田合戦には間に合わなかったものの、天正一三年一○月、昌幸は秀吉からの支援の確約を得ることに成功した。取次役は石田三成で、豊臣政権下での昌幸父子の動向を考える上で無視できない。」(p151~152)

 

「豊臣政権は諸大名を統制するにあたり、秀吉側近の奉行衆を「取次」として仲介にあたらせた。取次というのは普通名詞で、一般に客なり目下の者が訪問した際に、主人への仲立ちをする人物を指す。

しかし、豊臣政権の「取次」は、ただたんに秀吉の命令を大名に伝えたり、大名の要望を秀吉に上申するだけではない。大名の領国仕置を支援したり、大名が秀吉の機嫌を損なうことなく振る舞えるよう助言するという、極めて重要な役割を果たす存在として、大名ごとに設定された秀吉の側近家臣であった。こうした「取次」という助言・後見役が存在したからこそ、各地の戦国大名は「豊臣大名」という、ある程度、均質な存在へ移行していくことができたのである。(中略)

 真田家の場合、豊臣政権との最初の連絡役を担った石田三成が「取次」をつとめたとみてよい。真田家宛ての豊臣秀吉朱印状を取り次いでいるのは石田三成だからである。石田三成と真田家を結ぶ書状は、関ヶ原関係を除けば実は信幸宛てのものばかり残されているが(五章で後述)、これは真田家全体の「取次」が三成であったためである。」(p177~179)

 

「さて、真田昌幸大老徳川家康による上杉景勝討伐に従うべく、会津に向かって陣を発した。そこに七月十七日付で、家康の違約を非難する石田三成を除く三奉行の連署状が届けられた。大坂での挙兵と大老毛利輝元・奉行石田方(いわゆる西軍)参加を求められたのである。返事は二一日付で、それを石田三成が受け取ったのが二七日というから、即決で返書をしたためたことがわかる。

その返書の中で昌幸は、事前に相談がなかったことを三成になじったようだから、日頃の関係がいかに深いものであったかよくわかる。昌幸の娘趙州院殿が嫁いだ宇多頼次は、石田三成の父正継の猶子となっている。つまり、石田三成は昌幸の「取次」であっただけではなく、縁戚でもあったのである。」(p193~194)

 

 ちなみに、丸島和洋氏の前掲書の194ページの系図によりますと、宇多頼次は宇多頼忠の子となっていますが、この宇多頼忠は石田三成の正室皎月院殿の父です。(丸島氏の系図でも書かれています。)

 

(ただし、橋場日月氏によりますと、宇多頼次の父は宇多頼忠ではなく、宇多頼忠の兄の尾藤知定であるとしています。(*1)この辺、研究者によって見解が違いどちらが正しいのか分かりません。)

 

「昌幸の返書を受けて三成は諸大名の去就が判断できない段階では漏らすわけにはいかなかった、貴方については心配はないと思ったが、挙兵がうまくいかないのでは貴方だけに打ち明けても意味がないと考えた、しかし、今は後悔していると懸命に弁明している。三成にとって、昌幸は会津上杉景勝への連絡を果たす上でも重要な存在であった。三成が提示した条件は、小諸・深志(松本市)・川中島・諏訪の宛行だから、信濃の北半分を与えるというものに近い。その後、三成は毛利輝元らと協議し、甲斐・信濃二国と条件をつりあげた。

昌幸の西軍加担の理由はいろいろ推測できるが、自身と三成・上杉景勝、次男信繫と大谷吉継の人間関係が大きく影響したことは想像に難くない。また、領国を拡大したいという夢もあっただろう。」(p194~195)

 

「年次はわからないが、(筆者注:真田信繁は)正室として豊臣政権の奉行人大谷吉継の娘を妻に迎えた(『当代記』『左衛門佐君伝記稿』)。大谷吉継の出自は豊後説・近江説など諸説あったが、近年の研究により、青蓮院門跡坊官泰珍の子息で、母は豊臣秀吉正室北政所(於禰)に仕えた女房「東殿」であったことが明らかとなった。吉継の「吉」も秀吉からの偏諱であろう。つまり大谷吉継は、加藤清正福島正則にも劣らないほど秀吉に近い家臣であったのである。天正一七年一二月という早い段階で、越前敦賀五万石を与えられたのは、その象徴であるといえるだろう。このような重要人物の娘を、信繫は正室に迎えたのである。もちろんこれは秀吉の許可を踏まえたものだろうから、信繫が秀吉から眼をかけられていた様子がうかがえる。」(p209)

 

 上記の石田三成大谷吉継真田昌幸・信繁の関係を考えると、真田昌幸・信繁が関ヶ原の戦いの時に西軍についたのは必然だったといえます。

 

 次回は石田三成真田信之(信幸)の交友について書きます。

 

※次回のエントリーは下記をご覧ください。

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)橋場日月 2004年、p65

 

 参考文献

橋場日月『知れば知るほど面白い・人物歴史 丸ごとガイド 真田幸村 戦国を生きた 知将三代』学習研究社、2004年

丸島和洋『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年