古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ『真田丸』 第15話 「秀吉」 感想

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 真田丸第15話「秀吉」感想です。

 

(といっても、このブログは戦国時代ジャンルでは石田三成研究がメインのブログですので、感想も三成中心になってしまうことをあらかじめお断りしておきます。)

 

※ 前回の感想です。

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 この回から、三成の親友、真田信繁の正室の父である大谷吉継が登場します。石田家と真田家の縁戚関係についてはこのドラマでは触れないと思われますので、信繫は吉継との舅婿関係が要因で西軍につくストーリーとなるのでしょう。

 

 さて前回にも書いた通り、上杉景勝が上洛した天正13年(1585年)6月の2か月後、8月の時点での景勝宛て三成と増田長盛の連名の書状に、真田昌幸は「表裏比興」の者だから(徳川と真田との戦に)一切手を貸すな、という有名な書状があります。この「表裏比興」という評価は秀吉の意見の伝言であり、三成の意見ではありませんが、三成も秀吉の意見に同意していたのかもしれません。

 

 今回のドラマでは既に6月に上洛した景勝に対して、秀吉は、真田昌幸は再三の上洛命令に従わないので、上杉は徳川と真田との戦に一切手を貸すな、と言い放っています。一方で、秀吉は信繫には親しく扱い、真田の抱き込みを図ろうとします。信繫が景勝に付いていき上洛・上坂したのはフィクションですが、秀吉の基本的な外交方針は「和戦両様」であり、この強気と懐柔を切り分けた秀吉の対応はフィクションとしても違和感はありません。

 

 昌幸が上洛命令になかなか従わないのを不審に思う方もいるでしょうが、実際史実でもなかなか昌幸は上洛しません。研究書を読んでも、なんでこの時期昌幸は秀吉の上洛命令に従わないのかよく分からないのですね。脚本家の三谷さんとしても、理由づけに苦労したものと思われます。

 

 筆者の想像ですが、天正地震後、秀吉は家康との和睦に動きだします。その和睦のネタに、真田家の北条家への沼田領引き渡しが出てくることは必定です。昌幸としてはあっさり上洛=秀吉に臣従すると、(秀吉と家康の和睦の取引材料として)沼田領を召し上げられてしまうだけなので、沼田領に対してなんらかの確約がない限り上洛したくないという意思なのでしょう。

 

 昌幸というと、「表裏比興」の者というイメージが強いですが、その実、沼田領を召し上げようとする家康に対して反発して手切れを行い、徳川の大軍を迎え撃つ(第一次上田城合戦)など、家の生き残りだけを考えるならば無謀なことを行っている人物です。きわめて自尊心が高く、反骨精神に富んだ人物であることが分かります。昌幸のような弱小大名が関白秀吉の命令に従わないのは無謀以外の何物でもありませんが、唯々諾々と命令に従い、言うがままに沼田領を召し上げられるのは昌幸の武家の意地として認められないことだったのでしょう。このため、昌幸は交渉を引き延ばします。

 

 さて、前回では信繫に対して冷たい振る舞いをしていた三成が、今回はうって変わって信繫に対して親しげに振る舞うという描写があり、そして信繫がそれを不思議がって吉継に聞くというシーンがあります。これに対して吉継は、「三成が素っ気なかったのは信繁を低く見ていたからであって、急にそぶりが変わったのは、秀吉が信繁を気に入ったので、三成も大事な人と認識したからだ」みたいな解説をします。

 

 なんか、この解説ってどうなんですかねー。これだけだと単純に上司が態度を変えると態度を変える部下ってことですから、かえって感じ悪いですね。吉継のフォローはフォローになっていません。

 まあ、この信繫の上洛自体がフィクションだからどうでもいいのですが、このドラマの三成の性格設定はどんなものなのかと思いますね。今後もこういった性格設定で進むのかというとげんなりしますね。

 

 史実の三成は「取次」のスペシャリストです。三成の他者への振る舞いは「取次」としての職務に忠実に行っています。ですので、相手に対して冷たく振る舞う事には職務的に必然的な理由があり、親しく振る舞うのにも「取次」の職務として必然だからそのように振る舞っているのです。職務において態度が自身の好悪の情に振り回されるような人間ではありません。あるいは、上司の感情をそのままコピーしているわけでもありません。

 

 だから、「秀吉が信繁を気に入ったから」態度を変えるというのは単純化し過ぎなのです。はじめに信繫に三成が冷たく振る舞うとすれば、それは秀吉の外交方針として必然的な理由があったからであり、その後に親しく振る舞うとすれば、これもまた秀吉の外交方針として必然的な理由があったからです。冷たく振る舞うのも親しげに振る舞うのも「取次」の「仕事」であって個人的な感情に態度が左右するような人間には「取次」はこなせません。

 

 では、はじめに三成は信繫に冷たい態度をとったのか?これは、まず景勝に対するメッセージということなります。つまり昌幸は上洛命令に従わない不遜の輩で、秀吉としては昌幸を不快に思っているので、上杉は真田に肩入れするな、というメッセージです。景勝の前で信繫を無視するのは、豊臣家は真田家を不快に思っているよ(だから味方すんなよ)、と上杉家にメッセージを送っているわけですね。これは秀吉の「和戦両様」の「戦」のルートです。(実際に真田と戦うのは徳川ですが。このルートは秀吉の家康に対する「和戦両様」の「和」のルートに通じるのでややこしいです。)

 

 一方で、秀吉は家康との交渉の駒として、真田家を抱き込みたいというのがあります。徳川との和睦交渉がうまくいかず、再び戦となったときに徳川に勝ったことがある真田の存在は大きいです。真田家の去就に対する近辺大名への影響も大きいでしょう。このため、秀吉としては(上杉の陪臣としてではなく、直接コントロールできる直臣として)真田家を従属させたいという意思もありました。(これは真田家に対する「和」のルートです。)

 

 このため、今回のフィクションのように、信繫が景勝と共に上洛したようなことが本当にあったらとしたら、秀吉としては直接真田家を抱き込む絶好のチャンスですから、この機会を逃すわけがありません。この場合はまず信繫を抱き込む必要がありますので、秀吉方の信繫の対する態度は職務として「親密」なものになるでしょう。

 

 ややこしいのは、こうした「和戦両様」の交渉は、普通は「和」のルートと「戦」のルートは二つの手筋、別々の家臣が行うのですが、真田家に対しては三成が一人で「和」「戦」両方のルートをこなさねばならなかったことです。

 

(これはおそらく史実でもそうだと思われます。前述したように景勝に対する「昌幸は『表裏比興』だから手を貸すな」書状は三成と増田長盛の連名の書状です。

 一方でその後三成が真田家の取次を行っていることを考えると、おそらく豊臣家と真田家の当初の外交段階から三成が真田家の「取次」を行っていた(書状を見ると他の人物も行っておりますが。三成の真田方へのはじめての書状は天正十三年(1585)十月十八日付矢沢頼綱(当時景勝に臣従)宛の書状です。)と思われます。)

 

(このドラマでは)三成は、最初の信繫との接触では、当初「戦」ルートの交渉役として真田家を上杉家から切り離すためのメッセージとして信繫に「冷たい」態度をとり(これは景勝へのメッセージ)、その後、秀吉が信繫の人品を直々に見極め、「これは真田家とは交渉可能だ」と判断を「和」主流に変えたため、今度は「和」ルートの「取次」職務として信繫に「親しい」態度を取った事になります。一人でこのような態度を行ってしまうと、まるで人格が分裂しているかのような印象になってしまいます。(だから普通は「和」・「戦」のルートは通常別々の人物が行うのです。)

 

 吉継がこうした外交の内部事情を当の信繫にべらべら話す訳がありませんので、吉継の信繫に対する説明用としてはドラマの説明でよいのかもしれませんが、問題なのは視聴者も吉継の説明で納得してしまいかねないことと、また三谷さんがそこまで深く考えず、本当にドラマの吉継の説明通りに三成の性格設定を考えているのではないかという懸念があります。どっちなのか、ちょっと不安の残る回でした

 

(平成28年4月26日 追記)

 真田丸紀行で、「石田家は浅井家の家臣の出」と言い切っていましたが、石田家が浅井家の家臣だったことを示す文書等の証拠はありません。もっとも近江の石田村は浅井家の勢力圏ですから、その地侍である石田家も戦のたびにかり出されたのかもしれず、そういった意味では浅井家の「被官」だった可能性は高いですが。

 なんか、紀行でそのことを強調されると、このドラマも従来の俗説通り、北政所派と淀殿派の争いがあり、それが関ヶ原の戦いに結び付くようなストーリー展開にするつもりなんじゃないかと不安になります。(近年の研究では、北政所=親家康(東軍)派というのはほぼ否定されており、関ヶ原の戦いでは北政所淀殿は協力して事態に対処していたという見解の方が有力です。)

 

※次回の感想です。↓

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