古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ 『真田丸』 第17話 「再会」 感想

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 ※ 前回の感想です。↓

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(平成28年5月4日 追記1)

(下で、今回を「ダメダメ回」としましたが、見直してみてちょっと考え直しました。もしかしたら、今回は伏線ばらまき回で、次回が伏線回収回なのかもしれません。そうすると、次回を見ないとトータル的には評価できないのかもしれませんので、評価は保留にします。一番下の(追記2)で今後の推測を書きます。ただ、第一印象は書き残しておきたいので、今回のエントリーはこのまま残します。)

 

 『真田丸』第17話「再会」感想です。

 

 前回は単体のドラマとして見ると面白い回でしたが、今回はダメダメ回でしたね。お話になりません。

 

 前回も書きましたがそもそも信繫は上杉景勝に付いて大坂には行っていませんので、大坂編の描写は完全なフィクションであることに注意が必要です。

 

 さて、今回のオリジナル展開、前回で伏線であるかにみえた茶々とのシーンはあっさりスルーです。

 そして、片桐且元は浜松に行き、徳川家康に真田攻めを許す秀吉の書状を届けますが、わずか数日(一日?)後、秀吉は徳川の真田攻めを止めます。且元もびっくりしますが、こちらもびっくりです。何がしたいのかさっぱりです。

 

 史実における秀吉・家康・真田の動きをみていきましょう。

 

 まず、ドラマではまるで真田と秀吉は没交渉であるかのように描かれていますが、実際には天正十三(1585)年閏八月に行われた上田合戦の後の九月末から十月初旬頃に、真田昌幸は秀吉に好詛を結びたい趣旨を認めた書状を送っています。これに対して秀吉はこれを喜び、十月十七日付けで昌幸に返書をよこしています。そして、「秀吉はその二日後の十月十九日に条目を送り、①家康は天下に対して表裏を構え許し難いので、成敗するつもりである、②家康討伐のため来年一月には出陣するので、その際には参陣すること、③信濃と甲斐のことは、小笠原貞慶・木曾義昌と相談し、計略を進めること、などを伝え」(*1)ています。この時点で昌幸と秀吉は徳川打倒のための協力関係にあります。信濃の過半の国衆は秀吉方につき、また十一月十三日家康の重臣石川数正が秀吉の元へ出奔し、家康は窮地に陥ります。

 ところが、十一月二十九日に天正地震が起こり、これで大打撃を受けた秀吉は家康と即時開戦に踏み切ることができなくなり、秀吉は徳川の和睦路線に変更せざるを得なくなります。

 その後、秀吉は翌天正十四(1586)年四月に妹旭姫を家康の正室とします。これで、秀吉と家康の和睦が成立したといえます。そして六月には上杉景勝の上洛があります。この景勝の上洛の時に昌幸の扱いについて、秀吉は小笠原貞慶・木曾義昌とともに家康の麾下に編入するとの意向を提示し、景勝の内諾を得ています。

 秀吉は昌幸にも上洛を求めますが、昌幸は上洛に応じず、人質も出さず秀吉の怒りを買う事になります。

 

 上記の流れを見れば、なぜ昌幸が上洛になかなか応じないのか分かるでしょう。前に徳川についたときの二の舞を恐れていたのです。昌幸は家康のために北条と戦ったにも関わらず、その後家康と北条は、あっさり和睦をしてしまい、褒賞が与えられるどころか、沼田の引き渡しを要求される始末だったわけです。これは家康が特にタヌキだというのではなく、結局大大名の弱小大名に対する扱いなんてこの程度のものなのでしょう。

 上記でみたように、秀吉と昌幸は打倒徳川のために協力関係にあった訳ですが、その秀吉もあっさり徳川打倒をあきらめ、和睦に向かいます。そうすると、今まで徳川打倒のために働いてきた昌幸のはたらきは無視され、今度は秀吉が徳川との和睦のために昌幸に沼田の引き渡しを要求することが十分に考えられます。秀吉が昌幸を家康の麾下に編入するとの意向を示したということは、領地の差配を家康の意向に委ねた、という可能性を強めます。

 

 結局、弱小大名は戦の時は大大名に利用するだけ利用され、手打ちとなれば恩賞は反故にされ、土地の召し上げまで要求される立場に過ぎません。ふざけるな、と昌幸は思ったのです。秀吉は「表裏比興」と昌幸を言いますが、「表裏比興」はどちらだ、と吐き捨てたい気持ちだったでしょう。ここら辺の自らの誇りのために危機に陥っても大大名とも対決する昌幸の自尊心の高さと反骨精神が描けなければ、昌幸の実像を描くことはできません。

 また、今までの昌幸の行動を見ていれば、何の成算もなくこのような行動をとるとは考えられず、水面下で各方面と色々と(上洛の条件を釣り上げるための)交渉をしていたことが考えられます。少なくともこのドラマのように秀吉方や上杉と没交渉で、何の手も打っていないというのは考えられません。

 

 ドラマでは、上田合戦以後の昌幸と秀吉の関係が一切描かれていませんので、なんで昌幸が上洛をなかなかしないのか不明で、昌幸が、時局の見えないただの間抜けにしか見えません。真田が主人公のドラマでここまで昌幸を貶めるドラマは見たことがありません。しかも、昌幸を貶す理由は、おそらく脚本家の史料の読み込み不足によるものだと思われます。これでは、昌幸が間抜けなのではなくて、脚本家が間抜けにしか見えません。

 さらに、参考文献で示したように、この辺の事情はこの大河ドラマ時代考証担当の平山優氏の著作にすべて書いてあることなのです。脚本家が時代考証担当の著作を読んでいないとは考えられませんが、読んでも頭に入らなかったのか、あえて史実を無視してドラマの筋を改悪したのか不明です。(なんとなく後者のような気がしますが。)どちらにしてもお話になりません。

 

 さて、秀吉は上洛命令を聞かない昌幸を怒り、八月三日、景勝宛てに「昌幸は『表裏比興』なので、家康に命じて成敗することにした、一切支援するな」という書状を送り、八月六日には家康に昌幸成敗を認める条目を送ります。しかし、そのわずか一日後の八月七日には家康に真田昌幸との問題の仲裁をするので、家康に出馬を延期するように求めています。

 おそらく、今回の片桐且元と家康のシーンはこれを再現したものでしょう。 

 ただし、重要なところが改悪されています。この八月七日の書状は「出馬の延期」を求めたもので、「征伐の取りやめ」を求めたものではないのです。九月二十五日に秀吉は景勝宛てに真田征伐を取りやめにした書状を送っていますので、九月二十五日の時点では確かに真田征伐を取りやめにしていますが、八月六日からは二ヶ月近くたっています。おそらく、秀吉ははじめから真田征伐に本気ではなかったと思われますし、実際に真田征伐は取りやめになっていますので、「延期」でも「征伐取りやめ」でもどちらでもいいではないかと思う人もいるかもしれませんが、書状を送った一日後に正反対の書状を送るのではさすがに支離滅裂で、このドラマの秀吉の行動では家康に「秀吉は頭がおかしいのではないか」と思わせる効果ぐらいしか期待できません。 

 秀吉が当初から本気で真田征伐を考えていなかったのは、後の秀吉の言動から明らかですが、当然このネタを手掛かりに各大名相手に何かの効果を期待しているから、このような行動を取っているのであって、無意味な行動を秀吉は取りません。

 

おそらく、

① (本気で真田征伐をする気はないにも関わらず)八月六日の書状で、徳川の真田征伐を認め、家康の顔を立てる。

② しかし、家康がこれを本気にして直ちに真田に攻めかかられても困るので、わずか一日後に「自分が仲裁するから、出馬を延期せよ」と一旦保留にする。

③ その後一ヶ月以上の間、おそらく上杉景勝からの真田赦免の「取り成し」があり、上杉の「取り成し」を聞く形で、「真田の征伐を取りやめる」として、上杉の顔を立てる。(だから、九月二十五日書状は上杉宛てなのです。)

④ 秀吉は、この真田(とその後ろにいる上杉)と家康の争いを「仲裁者」として仲裁することに成功し、「仲裁者」としての名声を高める。

 

という効果をねらったものでしょう。八月三日の「表裏比興」書状から、九月二十五日の「真田征伐取りやめ」書状まで二ヶ月近い時が流れているのです。その間豊臣、上杉、徳川の間で水面下の交渉がされていたと考えるのが自然です。(昌幸は景勝に取り成しを依頼していたのではないかと思います。)大名同士のすべての交渉の書状が現代に残っているわけではありませんし、すぐに破棄された書状も多いでしょう。

 

 現代に残っている書状だけを見るといかにも唐突に見える展開も、その間に水面下の交渉や調整があったと考えるのが自然です。この現存する「史料」と「史料」のすき間を推理・想像するのが歴史小説家や歴史ドラマの脚本家の醍醐味といえるのですが、今回は、残念ながらそのまま繋げてしまうと支離滅裂になってしまう史料を、時系列を無視して繋げて、訳の分からない展開にして、説明になっていない説明でお茶を濁すというどうしようもない話になっています。もし主人公に花を持たせたいなら、この「水面下の交渉」で信繫を活躍させる手があったでしょう。ドラマの信繫は右往左往するばかりで、こちらも主人公としては間抜けとしか言いようがありません。

 

 ちなみに、天正十四(1586)年十月に家康は上洛し秀吉に臣従、翌年の天正十五(1587)年三月に昌幸は上洛し、秀吉に臣従します。

 この後を書くと長くなりますので、次回以降の感想の時に書こうと思いますが、結論からいえば、昌幸の要望はほぼ秀吉に認められたといってよいと思います。弱小大名で秀吉に刃向うようなまねをした「表裏比興」の者としては過分な扱いといえます。

 

 ドラマで昌幸は「真田の値打ちを高く売るのだ」みたいなことを言っていますが、結果的に上洛の延引で真田はその値打ちを高めたといえます。つまり、昌幸は賭けに勝ったのです。今回のように昌幸を間抜けに書いてしまうのは、いかがなものかと思いますが、またどんでん返し(実は昌幸と秀吉は密かに通じていて猿芝居をうっていたとか)があることを期待しましょう。そういう展開がないと説明できないほど、今回の昌幸の扱いは酷いです。

 

 さて、今日の三成です。あの正則・清正・信繁・三成・吉継の絡みはいかにもテンプレ通りでげんなりします。ちなみに言うまでもないことですが、三成が秀吉母を人質にすることを進言するというのは、フィクションですので、ここら辺の絡みも当然フィクションです。

 

 よく、三成は「誤解されやすい性格」と評されますが、この性格そのものがフィクションです。江戸時代に形成された三成像は「神君家康公に刃向った傲岸不遜の不届き者」というイメージが先にあり、その虚構のイメージに従って逸話が作られているので、はじめから虚構の性格であり、実際の史実の三成の性格ではありません。

 

 これに対して当時の一次史料などをあたっていくと、三成は「傲岸不遜で性格が悪い」ようなイメージからは似ても似つかわぬ性格であることが分かります。結局、江戸時代の逸話の三成は虚構の上に虚構を重ねたものに過ぎません。ところがこうした逸話の三成を「こうした逸話が作られているくらいだから、そういう側面もあるのでは?」と認めてしまうと、史実の三成の性格と矛盾してしまいます。この逸話の虚構の三成の性格と史実の三成の性格が相矛盾せず共存しているのだという説明をどうしてもしたい場合出てくるのが「誤解されやすい性格」という奴です。このマジックワードを使えば、どんな相矛盾した性格でも説明できます。

 

 そして、今回のドラマでも「誤解されやすい性格」である三成という「虚構の三成」が描かれるのでしょう。今回のドラマで三成の実像が少しは描かれるのではないかという淡い期待はもうなくなりました。今回も虚構の三成の上書きがされるだけでしょう。こうした色々な作家や脚本家の虚構の上書きによって、虚構の三成像というのが確固たるものになっていくのでしょう。関ヶ原の戦いから四百年以上も経っているというのに、溜息が出てきますね。

 

(平成28年5月4日 追記2)

 見直して思ったのですが、やはり「昌幸と秀吉が通謀していて息子達(信繁・信幸)の目も欺いて猿芝居している」のかなあ、という感じがします。そう考えるとつじつまが合うというか、そうでないとかなり支離滅裂なドラマになってしまいます。第16話でかなり緻密な構成のドラマを作った三谷氏が次の回で粗雑な話を作るのも考えにくいです。

 

 そう考える理由を下に挙げます。

① まず、上で「このドラマでは上田合戦以後、史実では真田と豊臣は協力関係であったのに、それに触れていないのはおかしい」と書きましたが、よくよく考えてみるとこのドラマの世界線では、真田一族は石川数正を調略して豊臣方に引き入れるという大金星をあげているのですね。つまりはこのドラマでは史実よりも真田と豊臣との結びつきは強いと考えるのが自然です。(その繋がりは隠されていますが。)で、その昌幸と秀吉の連絡ルートを担っているのは、(このドラマでは)三成なんでしょうね。(信繁と数正を三成が引き合わせたのが伏線になります。)

(そうすると、昌幸と三成相婿説がこのドラマではあるかもしれません。近年の研究では、昌幸・三成相婿説については否定的なのが有力ですが(私も、おそらく三成の父正継の養子となった石田(宇多)頼次(彼の実父宇多頼忠(その兄尾藤知宣説もあり)は、三成の正室の父であり、三成と頼次は二重の意味で義兄弟でした)と、昌幸の娘、菊姫が婚姻したことが、後の世に「昌幸妻が宇多頼忠の娘だ」という話に誤伝したというのが真相だと思います。)石田頼次と菊姫はこのドラマにはおそらく出演しないと思われますので、石田家と真田家の縁戚関係を示すために、昌幸・三成相婿説(「薫(昌幸の妻)とうた(三成の妻)は姉妹」という説をこのドラマでは出してくるかもしれませんね。)

② 上で、三谷氏が時代考証担当の著作の内容が頭に入っていないのではないかと書きましたが、今までの「真田丸」のシナリオは他の大河ドラマに比べてもおそらく一番時代考証担当の著作を読み込んで作られています。今回だけ読み込まずに書いているというのは考えにくいです。(ちょっとやり過ぎ感がありますが、秀吉の家康に対する1日で手のひら返しは時代考証担当の著作が反映されているのでしょう。)

③ なんか、昌幸が真田存亡の危機にあるのに余裕がある感じです。(普段からこんな感じだともいえますが。)結局この存亡の危機も芝居だという話なのでしょうか。右往左往しているのは事情を知らない息子達のみです。多分息子達は且元と同じく「腹芸ができない」と思われたので事情が話されないのでしょう。というか、前まで「策士」だった昌幸がいきなり時局の読めないアホになるのも一貫性がなくおかしいです。

④ 「真田の値打ちを高める」と昌幸は言っており、実際の史実でも上洛延引により真田の値打ちは高まっています。普通ならよくある歴史ドラマの「事後予言」だという感じですが、このドラマの場合は、この上洛延引が(昌幸と秀吉による)芝居であり、その後の秀吉の真田に対する過分の扱いもこの芝居の恩賞だという暗示なのかもしれません。

⑤ 三成が信繫と信幸との書状を遮断し続けるのも、これで説明がつきます。はじめは真田に事情が伝わらなければ秀吉にとっても信繫の役割の意味がないだろ、と思ったのですが、なんのことはない、既に秀吉と昌幸の間にはホットラインができており、事情を知らない息子達に勝手に動かれても困るので書状を遮断し続けたということなのでしょう。「もっと物事の裏側を読め」という三成の信繫に対する忠告は、一般論ではなく、このやり取りが秀吉と昌幸の芝居だということを暗に匂わせたのかもしれません。

⑥ 上記の猿芝居で、(このドラマでは)秀吉は家康に恩を売り、家康の上洛を引き出す要因のひとつになります。真田に対する秀吉の過分の扱いは、この芝居に協力してくれた恩賞ということになります。

⑦ 以上の推測が正しいなら、後の名胡桃城の一件も秀吉と昌幸の陰謀ということになってしまうのでしょうね。史実を捻じ曲げてでも昌幸の陰謀ということにしてしまう三谷脚本ですので、おそらく名胡桃城の件もそうなるんでしょう。今回(と次回)はおそらくその暗示という意味ということでしょうか。

 

 ・・・・・・という推測が正しいことを祈ります。そうでないと、本当に支離滅裂なシナリオということになってしまいますので・・・・・。

 

※以下のエントリーで、「真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?」について考察してみました。

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

平山優 2011年、p214

 

参考文献 

平山優『真田三代』PHP新書(2011年)