大河ドラマ 『真田丸』 第19話 「恋路」 感想(ではない)
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※前回の感想です。↓
真田丸第19話『恋路』感想(ではない)です。
今回は面白かったです。フィクションとしては。
前々回、前回とかなり辛辣な意見を書きましたが、これはこのドラマを歴史ドラマ(時代考証にそれなりに忠実なドラマ)として期待していたからでしょう。実際、第一部青春編の段階では、時代考証をそれなりに意識していたような気がします。
しかし、大坂編に入ってからは、ほぼオリジナル展開で三谷氏の好きなように書いていると思います。まあ、それがダメという訳でもないでしょう。シェイクスピアの史劇も、吉川英治の『宮本武蔵』も、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』も、史実からは(作者が意図して)かなり逸脱した作品ですが名作となっています。それこそ池波正太郎の『真田太平記』もフィクション描写は多かったです。
だから、「史実からずれている」という批判は、「歴史ドラマは史実になるべく忠実であるべきだ」という筆者の個人的な思いから出ている訳ですが、元々、大河ドラマってフィクションばかりだし、別に三谷氏の書き方は古今東西の歴史ドラマ・小説の書き方から逸脱している訳もありませんので、目くじらを立てることはないのでしょう。
ただ、「フィクションドラマとしては面白い」って、別に感想とか考察とか書く気がわかないのですね。感想はネットであふれていますし、そこら辺の好意的な批評と正直感想はほとんど変わりませんので、あえて書く必要もないかな、と思います。
しかし、考察となると結局脚本家はドラマ世界の神であり、ドラマをフィクションと割り切って、史実の縛りからはずれれば好きなように書けるため、どんな展開になっても「そりゃ、脚本家がそう考えてつじつま合わせたんでしょ」としか言いようがなく、考察になりません。(個人的にはそういう展開は白けます。)
筆者としては、脚本家の「史実とのせめぎ合い」を期待していたのですが、今までの大河ドラマを考えると期待する事自体が無意味だったと思います。ここまで見て、歴史の新解釈とか伏線とか実在の歴史上の人物の実像に迫るとかいったことを期待するようなドラマではないことが分かりましたので、期待した方が間違いだったのでしょう。
問題は、ドラマ見て「これが史実」だと思う人がいるかもしれないということですね。いや、大河ドラマってフィクションですよ。もう、史実とドラマの違いをごちゃごちゃ書くまでもなく(以前は書こうかと思っていました)、これで良いかと思います。最近は大河ドラマを鵜呑みにする人も少なくなっているでしょう。
前回でも書いたように、今後はドラマと同時代の史実を考察していくような形にしていきたいと思います。
ちなみに、今回について言えば天正十五(1587)年3月1日に豊臣秀吉(石田三成・加藤清正も)は九州征伐に出陣しています。だから、この時期に信繫が大坂にいたとしても、秀吉も三成も清正も九州に行っていて大坂にはいません。
しかし、このドラマの描写では秀吉らはまだ九州征伐には出陣していないようです。前回、昌幸が家康に挨拶に行ったのは3月ですから、時系列が不明です。が、別に今回の大坂のシーンの描写は元々すべてフィクションなので、どうでもいいことです。(考察する意味がないというのは、そういう意味です。)
※以下のエントリーで、「真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?」について考察してみました。↓
※次回の感想です。↓