古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

聚楽第落書事件について

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以下は大河ドラマ真田丸』第20話感想の補足です。(追記あります。)

ドラマの感想は以下です。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 

 今回の大河ドラマ(『真田丸』20話)の聚楽第落書事件の件であまり秀吉のフォローなどしたくないのですが、感想等をみると単純に秀吉が狂っているような感想があるようなので、捕捉します。秀吉が恐ろしいのは、単純に狂っているのではなく、頭脳は死の直前までずっと明晰で、なおかつ病んでいるところです。

 今回の事件の黒幕は少なくとも(下手人を匿った)「本願寺」だと、秀吉は初め考えたのは間違いないでしょう。なんかドラマでは、本願寺は普通のお寺で、困った人を分け隔てなく匿うアジール(避難所・聖域)のように描かれていましたし、中世では確かに寺は基本的にはアジール的な役割を果たしていました。

 しかし、比叡山を焼き討ちした(規模については議論がありますが、信長が比叡山を攻めたのは間違いのない史実です)、旧織田家家臣団の一人である秀吉が、そうしたアジール理論に配慮する訳がありません。また、旧織田家家臣団はかつて本願寺と血みどろの合戦を10年に渡って繰り返し、降伏した者も含め本願寺信徒を殺しまくっていたのが史実です。

 その後信長の時に、和睦したとはいえ(本願寺が退去した石山本願寺の跡地が大坂城になります)旧織田家家臣団である秀吉にとって本願寺とは旧敵であり、いつ敵になるか分からない油断のならない相手であることは間違いありません。

 

 あと、「たかが落書き」なのかすら不明です。というのは、落書の内容はすぐに消されてしまったので、実際の内容は実は不明なのです。現在、この時の落書としてよく取り上げられるものは『武功夜話』という書物に残された落首(ドラマで書かれたのもおそらくこれを元にしていると思われます)ですが、武功夜話』は偽書説もあり、偽書でなくても江戸時代後期に書かれた書物とされ、信憑性に乏しいものです。

 だから、いたずらというレベルではなく、脅迫状的な深刻なものであった可能性があります。その脅迫状を聚楽第、いわば現代でいえば国会議事堂とか、首相官邸にあたるところに堂々と書かれてしまうというのは門番にとって大失態な訳で、この失態で門番が処刑されることについては、例えば信長の基準であれば仕方のないことです。当時の基準でも残虐な方だと思いますが、秀吉が突出して残虐な訳ではありません。

 脅迫状であった場合、そもそも落書と笑える話でなくなります。厳しい警備(だったのか知りませんが)を潜り抜けて聚楽第の壁に書いた(実際には、門に貼りだしたようです)としたら、豊臣方に内通者がいたという可能性が高くなりますし(今回のドラマで、容疑者の尾藤道休は門番だったということになっていますが、実際の史実では牢人です。)、その後の調べで容疑者は、旧織田軍の旧敵(仇敵)である本願寺に匿われているのです。これは、秀吉(をはじめとする旧織田軍)に恨みの残る本願寺が、牢人たちを集めて復讐をしようという計画を建てて、その一環としてこの落書を書いているのだと秀吉は疑ったのだと思われます。

 ドラマでも刀狩りの話が出ているように、秀吉の身分統制令で武士にも農民にもなれない人間達が、大量に牢人となって、都や大坂に溢れていたと思われます。当然、この牢人達は秀吉政権の政策に不満な人間達です。そうした秀吉政権に不満な牢人たちを匿っているのが、旧織田家家臣団の旧敵である本願寺である訳で、その本願寺に匿われた牢人が聚楽第落書の容疑者なのです。秀吉にしてみれば「本願寺は牢人たちを集めて、積年の恨みを果たすべく、自分に反逆するつもりなのでは?」と疑う話になります。

 しかし、犠牲者が多く凄惨だとされる今回の事件、本当に本願寺が黒幕だったと秀吉が確信した場合は「犠牲者が少なすぎる」のですね。これは秀次事件でも同じで、秀次が本当に反逆事件を起こしたのなら、もっと処刑される人数が多かったはずです。逆に「犠牲者が少ない」ことが、本願寺や秀次が実際にはそのような反乱を計画していなかったことの証拠と「解釈」されているのが現状です。

 おそらく、調べで本願寺は尾藤道休らを匿ったのは本当だが、事件の黒幕ではないことが分かったのでしょう。しかし、それでおさまりがつかないのが秀吉です。今回の件はそうでないかもしれないが、そもそも秀吉政権の不満分子を、本願寺が匿う事自体に問題がある。そうやって(元々秀吉政権に不満であろう)本願寺が不満分子の牢人を集める・匿うことによって、やがて本願寺が、秀吉不満分子が集結するアジト・拠点となっていくのではないかと考えたのでしょう。そういった事態が起こらないように、今回みせしめとして厳しく残酷な処分(天満森本願寺の近隣で捕えられ処刑された住民達とは、おそらく本願寺信徒でしょう)を下し、牢人たちを匿う事を本願寺に禁じることによって、将来的に本願寺が秀吉不満分子のアジトとなることを防いだ、というあたりが秀吉の考えかと思います。

 

 あれだけ信長を悩ませた本願寺の扱いが、秀吉の時代には平和なお寺の扱いとされ、実際にも本願寺が真っ向から秀吉政権に武装して立ち向かったことがないのは、ちょっと疑問でした。しかし、この事件において秀吉は本願寺に対して過酷なみせしめ処分を行い、更に「勘気の牢人を抱えないこと」などの寺内掟五カ条を本願寺に突き付けています。(*1)秀吉の、この一連の本願寺弾圧政策により、本願寺は事実上完全な「武装解除」を余儀なくされた、ということになります。

 

(追記1:この事件はフォローしようのない秀吉の残虐性を示した事件です。なぜ、上記のような事を書いたかというと、秀吉には秀吉なりの思考回路で、残虐な処分を命じた訳であり、なぜこのような事件が起こったのか考察するには、秀吉の思考回路を読むより他ないためです。秀吉の思考回路を肯定している訳では全くありませんので、念のため。)

(追記2:この事件では、増田長盛石田三成は奉行として事件の処理を粛々と行うことを秀吉に命じられます。

 また、この時には三成の縁戚(妻の伯父)である、九州征伐の時に失態を起こして豊臣家から放逐された尾藤知宣が本願寺に逗留しており、一時捕縛されました。しかも、この事件の犯人とされたのは尾藤道休。名字が一致しているのは偶然とは考えられず、知宣と道休は親族である可能性を疑われても仕方ありません。道休が知宣の親族ということになると、三成も道休の縁者ということになり、知宣も三成もまとめて処分(処刑される)ことになります。三成はこの事件の時に、死の際にいたといってよいでしょう。

 結局、道休と知宣は無関係(親族ではない)という事にされたのか、知宣は「この時」は処刑を免れ、三成も連坐して処刑される事はありませんでした。

 三成と尾藤(宇多)氏との関係については、今後のエントリーで詳しく書いていきたいと思います。)

 

 注

(*1)福田千鶴 2007年、p87

 

 参考文献

福田千鶴ミネルヴァ日本評伝選 淀殿-われ太閤の妻となりて-』ミネルヴァ書房、2007年