読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

史実とフィクションのあいだ

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

 今回の大河ドラマの何がモヤモヤ、イライラするかって、正直に言ってまったく史実に準拠していないフィクションの連続なのに、どうも三谷氏は「史実準拠です!」みたいに本気で思っているようなふしがうかがえることです。

 

 幸村ではなく、信繫という本当の名前を使っているのもそうだし、時々妙に史実を反映した言葉が出てくるとか、本当に三谷氏的には史実に依拠しているつもりなのでしょう。しかし、実際にやっているのは三谷氏の創作エピソードばかり、信繫、昌幸、景勝、三成らの登場人物の人物造型もすべて三谷氏の創作です。

 

 こういうのって、どこかで見たな、と思ったのですが、現代の歴史作家が書いてしまうオリジナル『三国志』に似ているのかな、と思います。今更現代の作家が『三国志演義』の焼き直しを書いても仕方がないので、だいたいの場合、陳寿の『三国志』をベースに書いていくわけですが、結局、じゃあ陳寿の『三国志』通りに書いているのかというと、そうでもなく作家の独自の解釈、独自の創作エピソード満載で書いていることが多いです。まあ、作家なんだからそうなるでしょう。

 

 だから、「〇〇版『三国志』」ということなら、それはそれでよいのですが、その作家さんが「『三国志演義』は通俗的で陳腐でフィクションだ。自分の『三国志』こそが「史実準拠」の(真の)『三国志』だ!」みたいなドヤ顔をされると、「おいおい、お前の作品だってフィクションだらけじゃないか。これでよくも『史実準拠』だなんて言えたもんだ」と思ってしまいます。

 

 別に三谷氏がフィクションを書きたければそれでよいのですが、なんか現代の作家の『三国志演義』に対する低評価のように、例えば『真田十勇士』とか『忍び』のエピソードに対する低評価みたいのが、うかがえるのですね。「あんなの荒唐無稽なフィクションじゃん」みたいな。「いや、三谷氏のドラマだって全編荒唐無稽なフィクションじゃないですか」とツッコミたくなります。

 

 池波正太郎氏の『真田太平記』には直接真田十勇士は出てきませんでしたが、架空の忍びが複数出てきて大活躍でした。NHKドラマの『真田太平記』も原作と同様に大活躍だったと思います。本作でも佐助という忍びは出てきますが、かなり地味な扱いです。

 

 忍びは諜報活動が命で、昌幸はその諜報活動を駆使してしたたかに乱世を生き残ったというのが、忍びを大事にする真田家の歴史的イメージの大前提なのですが、今回三谷氏は史実を歪めてまで、大坂編から昌幸を「最新の情報に疎く、時流を読めない愚鈍な男」という架空の人物造型として書いてしまったため、こうした忍びの諜報活動とかはこの人物造型からはずれてしまうのでバッサリ切られてしまっています。これは三谷氏の「忍び」に対する軽視な訳です。「忍び」の活躍を軽視するのが「史実準拠」だと思っているのです。

 

 なんか、三谷氏は、荒唐無稽とされる「真田十勇士」や「忍びの活躍」という真田家物語の呪縛から必死に逃れることが「史実準拠」だと思っているふしがあるのでしょうね。現代の歴史作家が『三国志演義』の呪縛から逃れたくて、『演義』の主人公である劉備諸葛亮をディスり、曹操を称揚すれば「史実準拠」になると思い込んでいる傾向にあるのに似ているな、と思います。「史実準拠」と思っているつもりが、ただ単に別の荒唐無稽のフィクションを書いているのに過ぎないのに気が付かないのでしょうか?

 

 信繫にしても、昌幸にしても、景勝にしても、三成にしても、早くも暗雲がたちこめた政宗にしても、皆、史実の人物とは全く違う三谷氏の架空のオリジナルキャラクターに過ぎません。こういうのって、何を批評しても「しょせんは全部フィクション、三谷氏のオリジナルキャラクター」ということですので、白けてしまうのですね。たとえ、この先どんなに感動的なエピソードがあったとしても「しょせんは全部フィクション」だということになりますので。

 

 まあ、肩の力を抜いて「しょせんはフィクション」という生暖かい目で見ていくしかないのかな、と思いました。歴史上の人物だと思うから腹が立つのであって、このドラマに出てくる登場人物はすべて三谷氏創作のオリジナルキャラクターだと思えば、それなりに面白いドラマだと思います。