千利休切腹の謎(?)
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天正19(1591)年2月28日、秀吉の命令により千利休は切腹しました。
タイトルを「千利休切腹の謎(?)」としましたが、千利休の切腹に謎なんてありません。千利休に切腹を命じたのは秀吉であることに間違いはなく、切腹を命じた理由も史料上はっきりしています。これを後世の人達の「願望」や「妄想」がそれを謎にしてしまっただけです。
ある人は、「こんな程度の理由で秀吉が切腹を命じるはずがない」と言い、ある人は「利休が権力闘争に負けた結果だった」と言います。また、ある人は「秀吉との芸術観の相剋」と言い、最近の珍説では「利休は北条に鉛を密売していた」なんてのも飛び出しました。悪いのですが、それらのすべては「利休をもっと大きな偉大な存在としたい」「なんか陰謀とか謎とかあった方がドラマとして面白い」「何が何でも歴史を〇〇派と〇〇派の権力闘争劇にしたい」といった「願望」と「妄想」がゴールにあって、その結論から「説」を自分の説に組み立ててしまっています。(ただ、「秀吉との芸術観の相剋」というのは広い意味ではその通りです。これについては後で述べます。)
こういうのは、歴史研究者としては厳にやってはいけないことですが、千利休の切腹については、研究者でもこの罠に陥ってしまう人がいます。こうした「願望」と「妄想」を呼び込むだけ、千利休の切腹は「面白くしがいのある」テーマなのでしょう。
現在ある史料だけで、利休の罪状ははっきりしています。
桑田忠親氏の『千利休』宮帯出版社には、以下のように書かれています。
「それならば、秀吉が利休を処罰するに至ったほんとうの原因は何か。大体、次の二件の罪状が原因となったのである。その一件は、やはり、大徳寺山門の金毛閣に利休の雪見姿の木造を安置させたこと、もう一件は、茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと、以上の二件である。」(*1)これは、桑田忠親氏に限らず、表向きの理由として一般的な見解です。
上記については同時代の日記や書状に記載があります。前者については、『晴豊公記』や『伊達家文書』所収の伊達家家臣鈴木新兵衛書状に記載がありますし、後者についても『晴豊公記』『多聞院日記』に記載があります。(*2)
正直に申し上げて、以上の二件で史料的には罪状は明らかです。史料的に明らかなものを「いや、こんな程度の理由で秀吉が利休に切腹を命じる訳がない。他に何か『本当の』理由があったはずだ」と思うから、本当は謎がないのにミステリーになってしまいます。そして、明らかにされている史料を否定する以上、その謎の答えは永遠にわからず、(新史料が発見されない限り)永遠に答えの出ないミステリーになります。
史料に残っている罪状を否定するということは、真の「罪状」は、秀吉の内心にしかないことになるので、これは永遠に謎です。逆に永遠に謎なのですから、誰もが自分の願望や妄想通りに「これが真相にちがいない」と好き勝手なことが言えてしまいます。これでは百家争鳴の上、しかもこの諸説には何の根拠もないので、論争にきりがありません。
ここはもっと史料を重視して、史料に沿って「罪状」を解釈すべきなのでしょうか。
さて、現代の我々が(*1)の罪状に納得できないのは、つまりは、あの茶道の大成者である(偉大なる)千利休を切腹に追い込むには、あまりにも罪状が軽すぎるということでしょう。しかし、これは現代的な視点であって現実にはたとえば、秀吉は、天正十八(1590)年、利休の一番弟子の山上宗二の鼻と耳を削ぎ打ち首にしています。この山上宗二の打ち首の罪状にしても諸説ある(まあ、山上宗二は当時北条の元にいましたので、それだけでアウトなのかもしれませんが)のですが、はっきりしません。山上宗二の罪状云々より、どちらかいうと茶人などは、独裁者秀吉の気に入らぬことがあれば即打ち首になるような、吹けば飛ぶような立場にすぎないのだ、という理解の方が重要です。千利休の処分も一介の茶人・町人に対する処分に過ぎず、秀吉が気に入らないという理由で殺せるほど生殺与奪の権は秀吉に握られていたのです(これは秀吉の子飼いの家臣も同じ立場です)。こうした「独裁政権」に対する理解がないと、「この程度の罪状で切腹になるはずがない」という、現代の法治国家におけるような解釈をそのままあてはめるような解釈になってしまいます。
ここからは、筆者の私見です。(ということは他の諸説と同じ程度の信頼度ではないかと言われそうですが、筆者の私見は従来の史料からのみの解釈であり、史料に書いていないことから想像を広げた解釈ではありません。)
上記(*1)のうち、重要なのは、「茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと」なのではないかと思われます。私曲とは何か。それは千利休が「侘び茶」で推奨・珍重していた茶器を高値で売りつけたということです。利休が「侘び茶」で珍重していたものとは、例えば漁師が使っていた魚籠を花入としたり、朝鮮の名もなき陶工が作り農民が使っているような井戸茶碗であったりします。あるいは、そのようなレベルのものを「新作」として陶工に作成させています。
つまりは、原価としてはとても安い物を高価な価値を持つ物として利休は高値で売りつけていたのです。
これはまさに「芸術」の根源に関わる話ですが、金銭的にたいした価値ではないものに「芸術性」を見出すことそのものが、既にひとつの「芸術」といってよいのかもしれません(現代芸術にはそのようなものがあります)。しかし、利休は「茶人」であると同時に「商人」でもあります。「芸術」も「ビジネス」が絡むと途端にうさんくさくなります。
現在でも古物商が、たいして価値のないものを「高い価値がある」といって売りつけたらどうなるでしょう。これは単純に「詐欺、イカサマ」でしょう。秀吉は、おそらく従来から「利休は『侘び茶』などといって安物の茶器を珍重しているが、実のところ、これって安物を高値で売りつける詐欺・イカサマビジネスなんじゃね?」と思っていたのかもしれません。しかし、別にこれを不快に思っているのではなく、むしろこの問いを利休本人に突き付ける機会がないか、突き付けたら利休がどういう反応を示すか、内心ワクワクしていたような気がします。こうした他人に自分の死を賭けさせて、人間の本音を引き出そうとするというのは、まさに残酷なる独裁者の楽しみといえるでしょう。
従来から利休はそのような事をやっていたのにも関わらず、急に秀吉が利休に厳しくあたり始めたのは、桑田氏も指摘するとおり、利休の最大の庇護者であった秀吉の弟秀長の死(*3)によるのでしょう(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日)。弟がいる間は、利休に対して少しは配慮していた秀吉もその死をもって、満を持して利休に(前から考えていた)難問を押し付けることを実行に移したのです。
これに対して母の大政所、妻の北政所なども「「利休のために命乞いをするから、関白様に、謝罪するように」」(*4)と利休の助命を取り成します。これに対して、秀吉も利休が詫びを入れてくるならば、助命しようと考えたという説もあります。
しかし、利休が詫びを入れるという事は、つまりは自分の私曲(不正)を認めたということなります。謝罪し、許しを請うことは、それは利休の「侘び茶」というものがつまりは「イカサマ・詐欺ビジネス」に過ぎないと利休本人が認めたことになり、それは「茶人=芸術家」としての利休の死を示します。また、「イカサマ・詐欺ビジネス」をやっていると世間の評価が定着してしまえば、「商人」としての信用を利休は全て失うことになります。利休が許しを請うという事は、生命的に生きながらえることができたとしても、「茶人=芸術家」、「商人」として社会的に利休は死んだことになってしまいます。
利休としては、自らの矜持として「茶人」としての自分を守らねばならず、守るためには死ぬしかなかったのです。利休の切腹によって、秀吉による「利休の『侘び茶』の実態は、イカサマビジネスなんじゃね」という問いかけを跳ね返し、かくして利休の「茶道」は「芸術」に昇華されたといえます。
秀吉を「芸術を解せぬ俗物」という解釈は従来からありますが、秀吉は「芸術」と「ビジネス」の間の「うさんくささ」を敏感に感じてとっており、独裁者らしい残酷な問いを持って、利休に「お前の『茶道』は『芸術』か『ビジネス』のどちらなのか」を利休に突き付けたといえるでしょう。これは利休に対する「急所」を突いた問いといえます。
この時、利休が泣いて許しを請い、それによって利休の命が生きながらえた場合、利休の「侘び茶」は秀吉によって「イカサマビジネス」のレッテルを貼られ、消滅していたかもしれません。そして、茶道の歴史は今とは大きく違っていたのではないでしょうか。
このように、千利休切腹事件の真相は、秀吉の独裁者ならではの動機であり理由なのであり、独裁者秀吉以外の意思が介在する余地はありません。(あえて入れるならば、秀長の死でしょうか。)
秀吉がその死後、(自身が利休を死に追い込んだにも関わらず)利休のことを追慕したような史料の記載があり(*5)、不思議に思う方も多いです。ですが秀吉は、利休が茶人としての矜持を守るために切腹したのを見て、はじめて利休を第一級の茶人として認めたのではないかと思われます。
(補足1:「侘び茶」は村田株光より始まり、千利休が大成させたといいます。利休が「侘び茶」を創始した訳ではないので、念のため。また、「侘び茶」という用語自体は江戸時代から使われた言葉らしいのですが、他に形容する言葉もないのでそのまま使いました。)
(補足2:大河ドラマ『真田丸』の「千利休が北条に鉛を密売した」「茶々が利休に木像を作らせた」「石田三成、大谷吉継が利休切腹を画策した」というのはすべてフィクションです。)
次回は千利休と石田三成について書きますというか、千利休の切腹に石田三成は何の関係もないことについて書きます。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)桑田忠親 2011年、p120~121
(*2)桑田忠親 2011年、p121~122
(*3)桑田忠親 2011年、p124~125
(*4)桑田忠親 2011年、p97
(*5)桑田忠親 2011年、p116~118
参考文献