古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

秀吉の三つの遺言状

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 豊臣秀吉の遺言とされるものは「覚書」も含めると3つあります。

 

 ひとつは、浅野家に伝来した「太閤様御覚書」、ひとつは早稲田大学に所蔵されている「豊臣秀吉遺言覚書書案」、ひとつは「豊臣秀吉自筆遺言状案」(山口・毛利博物館蔵)です。それぞれ順に見ていきます。

 

1.「太閤様御覚書」(浅野家文書) 

 

 この覚書は、五奉行のひとりである浅野長政が、秀吉の遺言を聞き取ったものを覚書として残し、代々浅野家に伝えられたものとされます。

 

「太閤様御覚書」の全文については、阿部正則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)から引用しました。

 

「大閣様被成御煩候内二被為 仰置候覚

①一内府久々りちきなる儀を御覧し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼様を孫むこになされ候之間、 秀頼様を御取立候て給候へと、被成 御意候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、 度々被 仰出候事

②一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事

③一江戸中納言殿ハ 秀頼様御しうとになされ候條、 内府御年もよられ 、 御煩気にも御成候者、 内府のことく、 秀頼様之儀 、 被成御肝煎候へと 、 右之衆居申所にて被成 御意候事

④一羽柴肥前殿事ハ、 大納言殿御年もよられ、 御煩気にも候間 、 相不替秀頼様御もりに被為付候篠、 外聞實儀忝と存知、 御身二替り肝を煎可申と被 仰出 、 則中納言二なされ 、 はしたての御つほ、 吉光之御脇指被下 、 役儀をも拾万石被成御許候事

⑤一備前中納言殿事ハ 、 幼少より御取立被成候之間 、 秀頼様之儀ハ御遁有間敷候條 、 御奉行五人にも御成候へ、 又おとな五人之内へも御入候て 、 諸職おとなしく 、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと 、 被成 御意候事

⑥一景勝、輝元御事ハ、 御りちぎに候之間、 秀頼様之儀御取立候て給候へと、 輝元ヘハ直二被成 御意候、 景勝ハ御國二御座候故、 皆々二被為 仰置候事

⑦一年寄共五人之者ハ、 誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、 さけさやの躰にて罷出、 双方へ令異見、 入魂之様二可仕候 、 若不届仁有之而きり候ハゝ 、 おいはらとも可存候、又ハ 上様へきられ候とも可存と、 其外ハつらをはられ、さうりをなをし候共、 上様ヘと存知、秀頼様之儀大切二存知 、肝を煎可申と、 被成 御意候事

⑧一年寄為五人、 御算用聞候共、 相究候て、 内府、大納言殿へ懸御目 、 請取を取候而、 秀頼様被成御成人、 御算用かた御尋之時、 右御両人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事

⑨一何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと、 被成 御意候事

⑩一伏見ニハ内府御座候て、 諸職被成御肝煎候へと 御意候 、 城々留守ハ徳善院、長東大蔵仕、何時も内府てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、 無気遣上可申由、 被成 御意候事

⑪一大坂ハ 秀頼様被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、 御城御番之儀ハ 、 為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可申由、被成 御意候事

右一書之通 、年寄衆、真外御そはに御座候御女房衆達 、御聞被成候 、 以上」(*1)

 


 従来、この覚書で「年寄」とされているのは「五大老」のことを指していると解釈されていました。例えば桑田忠親氏の「太閤の手紙」(1959年初出)では、そのような解釈に基づいた現代語訳になっています。

 

 しかし、近年の研究では、この「年寄」というのは、五大老ではなく、五奉行のことであるとされています。と書くと、半分しか正しくないのですが・・・・・・。(以下参照)

 

真田丸』の時代考証担当である丸島和洋氏は、下記のインタビューで

「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行と呼び、自分たちこそが年寄、おとな(老)だと主張。豊臣政権の家老は自分たちで、家康たちは役人にすぎないという意味を込めて、そういう言葉の使い方をしていた」

と述べています。

 また、

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」

 

とも述べています。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/subject/subject37.html

 

 これは丸島氏の見解というだけでなく、現在の歴史研究者の方達の主流な見方といってよいといえます。

 

 阿部正則氏はこの「太閤様御覚書」(浅野家文書)について前掲の「豊臣五大老五奉行についての一考察」(この論文が、「五奉行=年寄」であるという指摘をした最初の論文だとされています。)で、以下のように指摘しています。

 

「第一条の条文解釈は 、 年寄を大老とした場合には「大納言殿年寄衆五人居申所にて」の部分が「大納言殿と大老衆五人が居るところで」という解釈を余儀なくされ 、不自然な感じを受ける 。 第二条の「内府年寄五人居申所にて」の部分も 、内府と年寄五人は別のものと考えた方が解釈しやすい。内府(徳川家康)・大納言(前田利家)と年寄五人は別の存在と考えられる。

 第六条には「景勝ハ御囲二御座候故」とあることから、景勝が会津に在国中であることが明らかである。 とすれば、通説の場合「年寄五人居申所にて」(①・②)と矛盾する 。上杉景勝と年寄五人は別の存在として考えなければならない。

 第八条では 御算用の事は年寄五人で究めることが記されているが 、 内府・大納言は 、年寄五人の上に位置づけられるべきではないだろうか。」(*2)

 

 

 特に、蔵入の算用は、奉行衆の仕事ですので五大老が行うというのはやはり不自然です。やはり、この「覚書」に関しては少なくとも「年寄=五奉行」とするのが正しい解釈となります。

 

 このように、少なくとも五奉行自身は、自らを「年寄」と称していたことが近年の研究で明らかにされています。この『覚書』は「浅野家文書」であり、五奉行の一人である浅野長政が記したものですので、ここでの「覚書」の「年寄」とは「五奉行」であり、「年寄=五大老」と訳するのは間違いとなります。

 

 この事をふまえると、現代語訳は以下のようになります。(現代語訳は、桑田忠親氏の「太閤の手紙」講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)、p293~295の訳を参考にしていますが、桑田忠親氏は「年寄」は「五大老」と訳していますので、ここでは「年寄」をそのまま「年寄」に直しています。(*原文の「年寄」「おとな」とは「五奉行」のこと、「奉行」は「五大老」のことになります。)


「『太閤様御覚書』

一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。

一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。

一つ、江戸中納言徳川秀忠)殿は、秀頼様の御舅の間柄になったので、親の家康殿が年をとられ、わずらいがちにでもなった時は、家康殿と同様に、秀頼様のことを面倒見て頂きたいと、右之衆(年寄のこと?)のいる所で仰せになった。

一つ、羽柴肥前殿(前田利長)殿は、親の利家殿が年も寄られ、わずらいがちになっても、相変わらず秀頼様のお守役に付けることにしたから、忝く思って、世話をやいてほしいと仰せられ、これを中納言に進め、橋立の茶壷と吉光の脇差を下され、祝儀として十万石も与えられた。

一つ、備前中納言宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。

一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。

一つ、年寄五人は、たとい誰であっても、御法度に背くような事をしでかしたら、さげ鞘の恰好でやって来て、仲違いした双方の者に意見し、仲よくするようにしてほしい。それでも万一不届きな者があったならば、刀を抜いて斬れば、太閤様に対して追腹を切ったと思っている。また、太閤様に斬られたとも思うがよい。たとい秀頼様に面をなぐられ、草履を直しても、それを太閤様のやったことだと思い、大切に扱い、世話をやいてほしいと仰せられた。

一つ、年寄五人で蔵入の御算用を処理することにきめたから、家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をとっておき、秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、御両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。

一つ、どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように、と仰せられた。

一つ、伏見城には家康殿が居られて、庶務を世話やかれたい、と仰せになった。留守役は前田玄以長束正家がつとめるが、家康殿が天守までも上ると云われたら、心配なく上げるようにと、仰せられた。

一つ、大坂城には秀頼様が居られるから、利家殿がお守役として、すべてについてお世話願いたいと仰せられた。御城番のことは、皆で協力して勤めてほしいと仰せになった。そうして、もし利家殿が天守までも上りたいといわれたならば、心配なく上って貰うように仰せになった。

以上十一ヶ条にわたる御遺言は、年寄衆その外、お側にいられる女房衆まで聞き取ったのである。」

 

2.早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案

 

 この全文は、清水亮氏の「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』(柏書房)、2011年)にありましたので引用します。

 

「【釈文】

    覚

一、内符(徳川家康

  利家(前田)

  輝元(毛利)

  景勝(上杉)

  秀家(宇喜多)此五人江被仰出通(御脱力)口上、付縁辺之儀

                         互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ

           中納言徳川秀忠)御下候事

一、奉行共五人之内徳善院(前田玄以)・長束大(長束正家)両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、

  内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

 (慶長三年)八月五日

 

【現代語訳(本文のみ)】

    覚

一、内府(徳川家康

  利家(前田利家

  輝元(毛利輝元

  景勝(上杉景勝

  秀家(宇喜多秀家

 

 この五人へ太閤様から仰せ出された通り、太閤様の口頭に従って五大老同士の縁組みのことについては、五大老が互いお申し合せになって行うべきこと。

一、徳川家康殿は三年御在京なさる事。付則。領地でやるべきことが有る時は、徳川秀忠がお下りになること。

一、五奉行の内、前田玄以長束正家を一つの番として、残る三人の内一人ずつ伏見城の留守居をすること。

 徳川家康殿が全体の留守居として責任を持つこと。

一、大坂城については、右の奉行の内、残る二人ずつ留守居をすること。

一、秀頼様が大坂城に御入城なさったあとは、諸侍の妻子を大坂へ移すこと。」(*3)

 

 

 時々、この「覚書」を持って「秀吉は家康に死後の体制を全権委任したのだ」と主張する方がいらっしゃって「なんでそんな主張になるんだ」とびっくりすることがあります。どうも詳しく聞いてみると、どうやら①「この『覚書』こそが、秀吉の真の『遺言』であり、浅野家文書の『覚書』は全部デタラメ」、②「この『覚書』の内容が秀吉の『遺言』の全部」という解釈をされているようです。

 

 なるほど、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、かつ、この「覚書」が秀吉の遺言の全部だとするなら、家康のみ「全体の留守居として責任を持つ」という役割を与えられ、他の四大老及び五奉行の役割(五奉行の留守役の当番以外に)には全く触れられていないから、「秀吉は家康に全権委任した」という解釈になるかもしれませんが、そんな訳ないじゃないですか。

 

 清水亮氏の前掲書によりますと、

「「遺言覚書」(筆者注:2.の早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案)のこと」は、秀吉の遺言の全貌を記していません。浅野家に伝来した豊臣秀吉遺言覚書(筆者注:1.の「太閤様御覚書」(浅野家文書)のこと)のは、十一ヶ条にのぼる秀吉の遺言を書き上げており、現存する秀吉の遺言覚書では最も詳細な内容を示しています」(*4)

 

とあります。

 

ここで、清水氏は1.と2.の遺言覚書を比較して、1.と2.には共通の内容の文言の一致(1.の④・⑩・⑪の部分等)があることから

「「遺言覚書」と『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書とが共通の情報源に基づいて作成されたことは明らかです。すなわち『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書の書止文言に書かれた「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」が、双方の情報源であると推測されます。」(*5) 

としています。 

また、

「秀吉の遺言は、相手の構成を変えて度々行われていたのであり、「浅野家文書」の豊臣秀吉遺言覚書の全容は「五大老」を交えず「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」のみに伝えられたと考えられます。文書が浅野家に残っていることからみて、「年寄五人」(「五奉行」)の一員である浅野長政が作成したものと考えてよさそうです。」(*6) 

ということで、浅野家文書の「覚書」が秀吉の遺言の全貌を記しているのに対して、この早稲田大学所蔵の「遺言覚書」は秀吉の遺言のうち主に家康の役割に関する部分を切り出して書いてあるだけで、遺言の全貌は記していないのです。

 

 また、この2.の「覚書」では、「五奉行=奉行共」という呼称になっています。『浅野家文書』の1.の「覚書」のように「五奉行=年寄」という呼称ではありません。

 つまり、丸島氏が前掲のインタビューで

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」 

と述べているように、

「「遺言覚書」を作成者は徳川家康の「五奉行」に対する認識を察知し、それに寄り添おうとしていると考えられます。」(*7)

 

 そして、清水氏は

「以上の検討から、「遺言覚書」は徳川家康に宛てて、彼の職務を知らせるために作成された文書の控えであったことが明らかになります。「遺言覚書」の原本は徳川家康に送付されたとみるべきです。そして、「遺言覚書」の作成者は、秀吉の遺言に立ち会った「年寄衆・其の外御そばに御座候女房衆達」の中で家康と政治的に近い者であることもまた導きだせるのです。」(*8) 

としています。

 

 この2.の「遺言覚書」の作成者についてですが、清水亮氏はこの後、史料の出どころが「宮部文書」であることを確認し、

「宮部長熙もしくは継潤であったことが確実」(*9) 

であるとしています。

 

 ちなみに、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、宮部文書の「覚書」こそが正しいという説は、第一に、(*5)で書かれているように、この宮部文書の「覚書」と浅野家文書の「覚書」とは共通の部分があり、その記述の根拠は同一の「年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候」ものであると考えられることから成り立ちません。(むしろ、「宮部文書」の「覚書」は、「浅野家文書」の「覚書」の信憑性を補強するものになります。)

 

 第二に、基本的に秀吉死後の五大老五奉行の動きは、利家の死まで浅野家文書の「覚書」の通りの体制で動いており、これに対して家康が「聞いていた遺言と違う」と抗議した例も聞きませんので、基本的にやはり「浅野家文書」の「遺言覚書」が秀吉の意思・発言に沿ったものだと思われますし、家康も「宮部文書」の「遺言覚書」が家康宛ての「抜粋」に過ぎないということは承知していたということになります。

 

3.豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)

 

 この豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)とは、

「死期の迫った秀吉が、五大老に対し息子の秀頼の将来を託した遺言。徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家、五人の大老に秀頼の成り立ちを繰り返し頼み、このほかには思い残すことはないと結んでいる。末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする。秀吉は八月十八日、数え年六歳の秀頼を遺して没した。」(*10)

 

というものです。大河ドラマ真田丸』の31回で出てきたのは、この遺言状です。以下が釈文です。(この釈文は、東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年より引用しました。)

 

「[釈文]

返々、秀より(筆者注:秀頼)事、

たのミ申候、五人

のしゆ(筆者注:五人の衆=五大老の事)たのミ申候〱、

いさい五人の物(筆者注;五人の物=五奉行の事)二申

わたし候、なこり

おしく候、以上、

 

秀より事、

なりたち候やうに、

此かきつけ候

しゆとして、たのミ

申し候、なに事も 此ほかにわおもひ

のこす事なく候、

かしく、
八月五日 秀吉御判

いへやす(筆者注:徳川家康

ちくせん(筆者注:前田利家

てるもと(筆者注:毛利輝元

かけかつ(筆者注:上杉景勝

秀いへ (筆者注:宇喜多秀家

 まいる

御自筆御判御うつし」(*11)

 

 

「五人のしゆ=五人の衆=五大老」、「五人の物=五奉行」です。これによって、秀吉自身は「五大老」とも、「五奉行」とも、「五年寄(どちらに対しても)」とも誰に対しても言っていないことが分かります。

 

 簡潔な文なので、現代語訳はいらないかと思います。内容も「秀頼のことを頼む」という一点に絞られています。八月五日とは、秀吉の亡くなる十三日前です。まさに秀吉が最期の力を振り絞って書いたのが、この遺言状です。

 

 大河ドラマ真田丸』はもともとフィクションなので言うまでもないかと思いますが、この遺言状を家康が無理矢理書かせるというのは当然ありえません。また、三成が無理矢理書き換えさせるということもありえません。全てフィクションです。「以上」

 

 で、問題終了かと思ったら、丸島和洋先生が、ツイッターで以下のように書いてあるのが気になってしまいますね。

 

https://twitter.com/kazumaru_cf/status/762271890593329152

「秀吉自筆遺言状をめぐるお芝居。「毛利家文書にある写」をみると、本文と追而書のうち右側余白に書かれた部分までが「秀頼のことを五大老に頼む」という内容、追而書後半の行間部分が「詳しくは五奉行から聞け」という内容で、綺麗に分かれていたという次第です。」

 

 つまり、本文は(以下改行を省きます)「秀より事、 なりたち候やうに、 此かきつけ候  しゆとして、たのミ 申し候、なに事も 此ほかにはおもひ のこす事なく候、 かしく、」で、「しゆ」とは「五人の衆=五大老」のことですね。

 

 追而書は、まず「返々、秀より事、 たのミ申候、五人 のしゆたのミ申候〱」までが右側の余白部分に書かれています。

 

 そして、右の余白部分で書き切れなかった「いさい五人の物二申 わたし候、なこり おしく候、以上、」本文の行間部分に入っていると。

 

 で、本文の行間部分に書かれている「いさい五人の物(筆者注:五人の物=五奉行の事)二申 わたし候、なこり おしく候、以上、」をドラマのように五奉行の誰かが秀吉に無理矢理書かせたと、おっしゃりたいのでしょうか?(まあ、そこまで書いていませんが。)

 

 なんか、大変申し訳ないのですが、研究者の先生としてはご発言がちょっと軽い感じがいたします。古文書の追而書は、まず、右側余白に書くことが多いのですが、そのスペースで足りないと、本文の行間に書き込むのは普通にあることなので、書き込むスペースが足りないから本文の行間に書くのは別に不自然なことではないのですね。というか、ご本人が前掲のインタビューで

「追而書というのは、長くなると右端の余白に収まらなくなってしまいます。その場合にどう書くかというと“本文の行と行の間に小さく書いていく”という方法を取ります」

 

と解説しているではないですか。

 

 ドラマの演出と合わせて、特に不自然ではないものを、まるで不自然であるかのようにほのめかして言ってしまうと、「どうも秀吉の遺言状は不自然な部分があるらしい」という誤解が一般の方に広がってしまうのではないでしょうか。こういうツイートって非常に疲れます。(多分、先生的には、「ドラマ『真田丸』の演出は、これだけ細かいところにこだわっているのだよ」ということを説明したかっただけなのでしょうけど、誤解する人はそれなりにいるかもしれませんので、なんだかなーという気分になります。)

 

 あと、

「末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする」(*12)

 

とあるので、この(山口・毛利博物館蔵)の遺言書の原本は自筆遺言状だということです。だから、ドラマ『真田丸』においても、無理矢理にでも秀吉自身に書かせているし、秀吉自身が書いたものでないといけないのですね。

 

(追記1:「浅野家文書」の「遺言覚書」は基本的には信用できるものの、残念ながら、もし仮に江戸時代に、部分的に浅野家自身による一部改竄があったとしても、誰にも分かりません。(関ヶ原の戦いの時に東軍についた浅野家が、江戸時代に徳川家に有利になるように覚書の記載を改竄する無言の圧力があったとしても不思議はありませんが、実際に改竄されていても他の文書がない以上、検証しようがないでしょう。ここら辺は確かに今後の課題として残るかと思います。ただし、遺言の部分的な抜書きに過ぎない「宮部文書」遺言覚書が正しく、全般的な遺言の覚書である「浅野家文書」が間違っているという見解はやはり無理です。)

平成29年5月21日追記)

 上杉景勝は、「3年の間は在国してもよいとの許可を秀吉から得た」と唱えて、慶長5年(1600年)の家康上洛要請を拒みます。(尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年、p267)

 また、宇喜多秀家は、慶長4(1599)年9月に、家康から「太閤様御置目」を根拠に、秀家の大坂から伏見への異動を強制されます。これに対して、宇喜多秀家は、自分は前田利家とともに大坂在留を指示されていたと反論しますが、結局家康の要請を受け伏見に異動します。(大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2010年、p122)

 これらに関する秀吉の『遺言』は、「浅野家文書」の「遺言覚書」には載っていませんが、上記で書いた通り、関ヶ原以後の浅野家が徳川家康に不利になるような遺言覚書を記載する訳がありませんので、景勝・秀家に対する上記の秀吉の遺言が事実であったとしても、この覚書には省かれていることになります。

 

(追記2:いわゆる「五奉行」の序列は書状の書かれ方から、1.前田玄以(60)、2.浅野長政(52)、3.増田長盛(54)、4.石田三成(39)、5.長束正家(37?諸説あり)(カッコ内は、秀吉没年の年齢(慶長3(1598)年当時、かぞえ年))とされます。ドラマ等では、まるで石田三成五奉行筆頭のように描かれる事が多いですが、年齢からいっても序列4位なのは当然のことです。)

 

 注

(*1)阿部勝則 1989年、p63~64

(*2)阿部勝則 1989年、p64

(*3)清水亮  2011年、p299~303

(*4)清水亮  2011年、p304

(*5)清水亮  2011年、p306

(*6)清水亮  2011年、p308

(*7)清水亮  2011年、p309

(*8)清水亮  2011年、p309

(*9)清水亮  2011年、p310

(*10)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*11)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*12)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

 

参考文献

阿部勝則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年所収)

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1258&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

桑田忠親『太閤の手紙』講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)

清水亮「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』柏書房、2011年所収)

東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年