古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ『真田丸』第34話「挙兵」感想 の前に・・・・・・

 

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※前回の感想です。↓

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 大河ドラマ真田丸』第34回の感想を書く前に、第33回、第34回で「三成による家康暗殺計画」なる、なんとも珍妙な説(これをメインストーリーにしてしまう大河ドラマが、2016年の現代にお目にかかることになるとは思いもよりもしませんでした)が出てきましたので、歴史の復習用にこの時期の主要人物の動きを抜粋してみます。 

 藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年という、織豊期の主要人物の居所・行動を当時の主要な一次史料等を元に記した便利な書籍がありますので、秀頼大坂城移行(慶長4(1599)年1月10日)から、七将襲撃事件(同年閏3月4日)までの各武将のタイムスケジュールを記してみましょう。(ページ数は前掲書のもの)

 

慶長4年(1599)

1月10日に大坂城へ移る秀頼に従い下向し(徳川家康)(p116)

1月10日、秀頼が伏見城から大坂城へ移り(『言経』)、利家もこれに従ったとされる(「高徳公記」)。以後、閏3月3日の逝去までの間、大坂屋敷が本拠となる。(前田利家)(p218)

1月12日頃には伏見に戻った。(徳川家康)(p116)

1月14日、三成と上杉景勝が豊臣蔵入地となった越前府中領大井村の百姓に条規を与える(『史料綜覧』)(石田三成)(p306)

1月18日5人の奉行人連署伊達政宗に対して、大坂のでの鉄砲使用を制限している。(『伊達』)(浅野長政)(p327)

1月19日には前田利家を擁し、他の奉行衆とともに、家康が秀吉の遺命に背いたことを責める。(『言経』)(石田三成)(p306)

同日で、筑前国内に慶長3年産米の年貢について指示を発している。(「朱雀文書」)。(石田三成)(p306)

1月19日、家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①

1月20日に伏見毛利邸で諸大名が集まり談合(毛利輝元)(p231)

1月23日秀元への国割について増田長盛石田三成から連署奉書を得、同日この事案について秀元へ書状を発する。(「長府毛利家文書」)(毛利輝元)(p231)

1月24日他の大老と家康が秀吉の遺命に反することを責める(『言経』)。(毛利輝元)(p231)

1月28日(伏見→大坂)(徳川家康)(p117)

1月29日伏見在(徳川家康)(p117)

2月2日 秀吉の死の公表に伴い、伏見城において他の奉行とともに出家した「『言経』」(浅野長政)(p327)

2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされた(『毛利』)。(浅野長政)(p327)②

2月29日には伏見の家康邸を前田利家が訪ね、(徳川家康)(p116)③

3月11日に、今度は家康が大坂の利家邸を訪問している(前田利家)(p218)④

3月11日には、家康が大坂の前田利家を見舞う予定があり、幸長・加藤清正細川忠興がその旨を大坂の長政に告げている(9日付長政宛細川忠興等書状写『綿考』)(浅野長政)(p327)

3月11日大坂在(徳川家康)(p117)

3月19日には伏見向島に移徙していた家康は、(徳川家康)(p117)

閏3月上旬、大坂屋敷で病により死去した。3日亡くなったとする記載と(「高徳公記」『加訂加能』捕遺495)、4日に亡くなったとする記載がある(「鶴田家文書」)。(前田利家)(p218)

閏3月3日付で大老連署の知行充行状を発する(『毛利』)。(毛利輝元)(p231)

 

閏3月4日 七将襲撃事件

 

 ご覧の通り、一次史料に家康暗殺計画なんて記載はありません。

①1月19日に家康に対する私婚違約詰問事件の当日が緊張のピークで、翌20日から既に和解が目指されています。

②その後、2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされています。

③その後2月29日には伏見の家康邸を前田利家が訪ね、(徳川家康)(p116)

④3月11日に、今度は家康が大坂の利家邸を訪問している(前田利家)(p218)

 

で、この問題はひと段落します。このように1月20日以降は事態の安定に向かっているので、この間に家康暗殺計画なんてものも、時代の流れ的にありえません。

 

 また、一般的には反家康の急進派とされる石田三成でさえ、下記のエントリーに書いた通り、↓

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大坂屋敷で、宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄)を招いて茶会を開きます。和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したそうです。

 宇喜多秀家小西行長、神屋宗湛、は三成の盟友(兄の正澄は当然)だからいても当たり前ですが、当然この時期に茶会を行ったのは伊達政宗を招くためです。

 

 三成と伊達政宗は、一般的には漠然と仲が悪いイメージがありますが、実際にはこの時期は、政宗は「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」、親密な仲になっています。(詳細は下記のエントリー参照。)↓

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 家康の私婚違約事件の渦中にいる伊達政宗(そもそも伊達政宗の娘と、徳川家康の息子の婚約(他2件)がこの違約事件の発端です)(当然徳川派)と親密な仲にある三成が招いて茶会を開き、なんとか両派の和解を模索したというのが、この茶会の目的でしょう。

 

 つまりは、後世の書物で反家康の急先鋒とみなされる三成ですら、この時期は両派の和解に動いていた。大河ドラマの『真田丸』の「三成による家康暗殺計画」は、一次史料にも記載のない(あれだけ、ドラマのように派手に動いていたら、当然一次史料に記載があるでしょう。)、一次史料の時代の流れにも合致しない。

 あと、当然暗殺計画など起こせば、三成は普通に処分(悪くて死罪、甘い処分で謹慎・配流)されていたでしょうが、史実では、このドラマのように謹慎などされていませんし、七将襲撃事件は暗殺計画とは別の理由(もともと存在しないのだから、理由になるわけがありません。)です。

 

 このようにドラマで描けば嘘に嘘を重ねることになる訳で、かえって「やはり三成による『家康暗殺計画』などなかったのだ。存在するとしたら、このドラマのような史実に反したデタラメな展開にしかならないしね。」という、かえって三成による『家康暗殺計画』なるもののデタラメっぷりを強調する皮肉な展開になったといえます。

 

 で、普通はこれで終了のはずなんですけど、このドラマではもはや定番となってしまった、時代考証担当による後解説無理矢理フォロー劇場によりますと、三成による『家康暗殺計画』は『当代記』に記載があるぞ、ということだそうです。あと干し柿のエピソードは、『細川家譜』を参考にしていますね。(『細川家譜』にも三成が忠興に家康暗殺計画の協力をもちかける逸話が入っています。)

 

・・・・・・これについては前のコメント欄↓

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でも指摘したのでその記載をそのまま再掲します。

 

「今回、三谷さんが(私は、三谷さんではなく、三谷さんのあまりの初めのデタラメシナリオにびっくりした時代考証担当さんが、後付で補強のために持ってきた史料だと思います。多分、三谷さんは『当代記』とか知らないでしょう。)参考にしたとされる資料は『当代記』及び『細川家譜』です。

『細川家譜』のデタラメぶりは、私は下記のエントリーで、指摘しました。↓

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 しかも、三谷さんのストーリーは『細川家譜』とすら全然違うストーリーです。どうみても、私が最初に紹介した2ちゃんの出典不明の与太話の方をソースにした話でしょう。大河ドラマで2ちゃんをソースにする脚本家って前代未聞です・・・・・。(まあ、これは私の推測で、推測が間違っていることを祈ります。さすがに・・・・・・。)

『当代記』は、寛永年間(1624年~1644年)頃に成立したとされる史書で、編纂者は姫路藩松平忠明と言われるが不詳だそうです。松平忠明徳川家康の養子、徳川の重臣奥平信昌の実子で、当然『当代記』は徳川史観で脚色された後世に書かれた二次史料であり、(追記:三成あるいは西軍関係については、という意味です。)信憑性・客観性にそもそもの疑問があります。

 しかも、『当代記』には、実際に家康暗殺計画があったとはしておらずその「物言(うわさ話)」があったとしかありません。

 徳川時代に書かれた、家康寄りであることが当然の作者による、その二次史料にすら「物言(うわさ話)」としか書いていない与太話を元に、今回のストーリーをでっち上げた、いや、多分元ネタですらなく、三谷氏がゼロからでっちあげたストーリーを補強する史料を時代考証担当が必死に探して見つかったのが、この程度の与太話しかなかったのです。

 いや、二次史料だから嘘とも限らんだろうという意見もあるかもしれないですが、その二次史料が(追記:その二次史料自体にも「物言(うわさ話)」としか書いていない)与太話にすぎない上に、複数の一次史料からほぼ確定される史実の流れに対して今回のストーリーは、そもそも全然合っていないのですね。お話になりません。」

 

 補足するなら、「物言(うわさ話)」自体はあったかもしれません。ただし、その「物言(うわさ話)」を広めたのは当の家康自身であると考えるのが合理的でしょう。この時の家康は五大老五奉行の中で、そのうち自分以外の九人に弾劾されるという総スカン状態だったのです。後世の我々は勝者家康のイメージで見てしまうので、家康はこの頃も余裕綽々だったように思ってしまうのですが、結構この状態ってきつく、家康は追い詰められた状態にあったのです。

 

 そこで、家康は、豊臣の非主流派となってしまった面々に声を掛け多数派工作をしようとします。(基本的に家康の諸大名の釣り方は、各家に徳川家との縁組を呼びかけるというやり方です。違約事件の発端の福島家、蜂須賀家、伊達家は当然、その後も黒田家、加藤(清正)等と婚姻を結んでいきます。「豊臣恩顧の大名達がなぜ、東軍(家康派)に?」って不思議がる必要なんてなかったのですよ。もともと彼らは「徳川ファミリー」なんですから。」)

 この時に、気をつけなくてはいけないのは、伏見で勝手に徒党を組んだり、兵を動かそうとしたりすると、そのこと自体が「反乱計画あり」とみなされ、かえってこれを理由として、逆賊として討たれる危険性があります。ましてや、今家康は四大老五奉行から弾劾されている真っ最中なのです。

 

 このため、家康は「反家康派の石田三成による『家康暗殺計画』の物言(うわさ話)」ありと自ら自作自演の嘘の噂話を流し、そのような噂話があるならば、身辺を警護せねば、という理由で諸将を集めたり、兵を動かそうとしたりできるようにしたんですね。このように、徒党を組むこと自体が目的なので、噂話が事実無根で全然かまわないのです。

 

 当時の人達は、この家康の自作自演の「噂話」とやらに付き合う必要がありませんので、一次史料にはなく、徳川時代に書かれた徳川よりの二次史料に書かれているというのは、そういう可能性が高いのだと思われます。

 

 参考文献

藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年

 

※第34話感想のエントリーです。↓

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