古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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(☆本エントリーは、①~⑨までの一連のエントリーとなっています。(このエントリーは①です。)各エントリーのリンク先を以下に示します。↓)

豊臣秀次事切腹事件の真相について①   ②   ③   ④   ⑤   ⑥ 

 豊臣秀次切腹事件の真相について ⑦~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(上) ⑧(中) ⑨(下) )

 

 

 

 関白豊臣秀頼切腹事件の真相について、矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA)を読んだ感想を中心に考えたことを以下に書きます。

 

 矢部健太郎氏著の『関白秀次の切腹』はタイトルのとおり、関白であった豊臣秀次切腹の真相を追ったものです。著者の矢部健太郎氏は國學院大學教授、専門は日本中世史の方です。本書においては当時の史料を読み込み、秀次の切腹の理由について詳細に検討されています。

 

 秀次はなぜ切腹したのか?いや、従来の通説ですと「秀吉はなぜ秀次を切腹させたのか?」ということになるでしょうか。著者は、従来の通説に疑問を呈し、「秀次の高野山行は自らの意思による出奔」「秀次は秀吉の命令により切腹したのではなく、自らの意思で切腹した」という説を呈示します。

 

 本書の特徴は一次史料と二次史料を厳密に分けて考察しているところでしょう。この事件の難解な点は、そもそもの豊臣政権の後付公式発表が実際の現実と違うのではないかと考えられる点、また江戸時代以降に作られた『甫庵太閤記』等の(意図的に)虚構を多く含んだ俗書が人口に膾炙し、通説として考えられてきたことにあります。この点、筆者は当時の一次史料を丹念に解きほぐすことによって真相に近付こうとしています。秀次切腹の真相については、今後は賛同するにせよ、批判するにせよ、矢部氏の説を検討しないと解明することはできないかと思われます。

 筆者は、概ね矢部氏の説に賛同しますが、矢部氏の説だけでは全貌が解明できないところもありますので、後ほど個別に検討していきたいと思います。

 

 いくつか秀次切腹事件については論点があります。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

 

 以上の論点について、矢部氏が本書でどのように説明しているか順に検討します。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か? 

 豊臣秀次切腹の真相について検討する際に、一般的な関心があるのは「秀吉と秀次の不和の原因は何か?」ということですが、矢部健太郎氏はこの点以下のように述べます。

 

「確かに、秀頼誕生によって秀次が不安を感じるというのは正論である。秀吉としては、何らかの形で政治の全権を実子に譲りたいと考えるのが当然だからだ。関白職は秀次に譲られたものの、政治的な権限の大半はなお秀吉が握っていたから、それを直接秀頼が継承することは可能だった。一方で、関白職は「豊臣宗家」が摂関家であることを示す重要な身分標識だから、やがて秀吉はその地位に就けようとするだろう。いずれにせよ、このまま関白職にあり続ければ何らかの問題が生じることは容易に予測できる。それが秀次のおかれた状況であった。

 では、逆に、秀吉・秀頼側から秀次側の状況をみてみるとどうだろうか。

 最も大きな問題は、秀次には秀次の一族があったといことである。聚楽第には大勢の妻・側室が住み、子宝にも恵まれていた。秀吉がそうであったように、秀次もまた実子には深い愛情を感じていただろうから、その地位を実子に継承させたいと思っても不思議ではない。そのためには当然秀頼の存在が邪魔になるし、仮にその継承劇が秀吉死後に行われた場合、秀頼の立場が守られる保証はどこにもない。老年を迎えた秀吉は、次なる家督継承者が誰であるのか、秀吉自身が保有している権限は誰に譲られるべきか、自らの存命中に広く人々に周知する必要があった。これが、秀吉・秀頼側から秀次側の状況をみた場合の心理分析である。

 こうした両者の状況を踏まえた場合、最も望ましいのは秀次自身が率先して関白職を辞することであった。ただし、その場合には秀頼の幼さが問題となってくる。文禄二年に生まれたばかりの秀頼には、天皇後見役としての関白への任官はまだ早い。秀次としては、どのように対処すべきか悩みを深める一方だったのである。

 対して秀吉側では、密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。「殺生関白」など秀次の残虐な一面は今に伝えられているものの、そうした行為を実際に裏付ける良質な根拠は残っていない。一方で、「豊臣宗家」の跡目争いや秀次に関するゴシップが巷に広がりつつあった可能性も否定できない。そのような不穏な情勢の中、ついに石田三成ら秀吉側近の「奉行衆」が聚楽第に出向き、謀反の疑いで秀次を尋問するに到ったのである。」(*1)

 

とあります。

 

 また、藤田恒春『豊臣秀次』2015年、吉川弘文館によりますと、(文禄四(1595)年七月十五日が、秀次が切腹した日です。)

 

「さて、文録四年に入って両者(筆者注:秀吉と秀次)の関係はどうであったのだろうか。正月十二日より秀次は聚楽第から大坂に下り、十日ほど在坂している。十八日ころ伏見より下坂した。秀吉と会ったものと思われるが、目的は明らかではない。三月八日には秀吉が聚楽第に秀次を訪ねている。四月十八日、秀次は伏見へ下向している。五月四日より伏見へたびたび下向し、二十一日には能を舞い、秀吉と北政所の御成があった。関白就任後、例のない頻度で伏見へ下向している。秀吉に呼ばれた場合もあろうし、秀次の意思で行った場合も考えられる。用件はまったく推測の域をでないが、実子秀頼をえた秀吉が禅譲をはたらきかけるためではなかったか。両者が相会いして政情を話し合うことは考えられず、実子を楯に秀次へ攻勢にでたと考えても見当はずれではないように思われる(『言経卿記六』)。

 六月に入ると、十四日には秀次は「御くわくらん(霍乱)心にて、けんさく(曲直瀬玄朔)御みやく(脈)にまいりて御くすりまいる)と煩っていたが、十九日には伏見へ下り二十日には曲直瀬玄朔も伏見へ下向している。二十八日までに聚楽第へ戻っている。病気にもかかわらず、このときに伏見へ下向した理由が大きな謎であり、秀次事件の伏線となるのではないかと推察される。」(『言経卿記』六)。」(*2)(下線・太字は筆者)

 とあります。

 

 つまりは、文禄四年に入って何度も秀吉と秀次の間に何かの話合いが持たれ、その内容は不明ながら、秀次の回答が秀吉の意にそうものではなかったため、その後の事件へ繋がっていたということでしょう。藤田氏は、この話し合いの内容を「用件はまったく推測の域をでないが、実子秀頼をえた秀吉が禅譲をはたらきかけるためではなかったか。」としています。

 

 上記の2つの著作の感想を述べます。

 第一に、矢部健太郎氏にしても、藤田恒春氏にしても、秀吉と秀次の確執の原因は、秀頼誕生による後継者問題という見解で一致しています。これは両氏に限らずこの時代の日本史学者での一般的な見解といっていいでしょう。応仁の乱の原因を考えるまでもなく、実子がなかなか生まれず(あるいは生まれてもすぐに亡くなってしまい)近親者(弟とか、甥とか)を後継者としてしまった後に実子が生まれてしまうことによる後継者トラブルというのは戦国大名でよくあるオーソドックスなトラブルと言ってよいです。この見解を否定する理由はなく、やはり一般的な見解のとおり、秀吉と秀次の確執の原因は、秀頼誕生による後継者問題という見解でよいかと思われます。

 

 問題なのは、既に秀次は「後継者候補」ではなく関白に就任し、「豊臣政権」の二代目社長に正式になっていることです。現在の豊臣政権は実質的には太閤秀吉会長が豊臣政権のほとんどの実権を握っているのは誰もが知っていることですが、このままいけば秀吉会長が亡くなった後は、名実ともに関白社長の椅子に座っている秀次が豊臣政権の全実権を握ることになります。その秀次が、秀頼成人後に大人しく後継を譲るか、秀吉は疑念を抱きます。誰しも自分の実の子が可愛いものであり、障壁である自分(秀吉)が亡くなれば、生前にいくら約束しようが秀次は、秀頼ではなく自ら(秀次)の子を後継に据え、秀頼は排除される(下手をすると暗殺等されるのではないか)と、秀吉は不安になりました。

 秀吉からの秀次へ妥協案(日本国を五分して、五分の四を秀次に、残りを御拾に与える(*3)、御拾と秀次の姫との婚約を決める(*4)はいくつか出されますが、最終的に秀吉は秀次を豊臣政権から排除する(関白を辞任させる)ことが、後継者問題を結着させる唯一の解決策だと考えるようになったということでしょう。

 

 第二に、従来の見解では、やたらこの事件を石田三成ら奉行衆の暗躍や讒言に結び付けようとする見方がありますが、結局のところ、これは豊臣政権失墜の理由を三成ら奉行衆に責任転嫁するための、江戸時代に作られた俗書による家康側の宣伝を基にした偏った見解に過ぎません。

 

 後継者問題は、独裁者秀吉による豊臣政権の中でも、最も秀吉の専権事項といってよい問題です。秀次切腹事件は秀吉と秀次自身の意思により行われたものであり、他の者の介在する余地はありません。

 

 後継者問題という、秀吉のまさにこの豊臣家という「家」に関わる命令に逆らうような所行を奉行衆は出来る訳もなく、秀吉の命令に従わざるを得ません。別に秀吉は奉行衆だからといって信用していません。現在奉行衆が秀吉に忠誠を尽くしているのは理解していますが、秀吉死後になれば、当然現在の関白秀次の権力が大きくなり、秀吉自身の権力は消滅してしまう訳ですから、その時に奉行衆がどのような行動を取るのか、遺言通りの行動を取るのか、未来のことは不明なのです。常識的に考えれば、現在権力のある人間になびくというのが普通の人間の人情でしょう。そのようにはならないように、秀吉は生きているうちに色々な保険をかけていかなければいけません。(後に奉行衆も書かされる起請文もそのひとつです。)

 

 こうした状況下に、下手に秀次を擁護するような発言をすれば、そのような発言をした者は秀吉・拾(秀頼)に対する忠誠を疑われ粛清されても仕方ありません。奉行衆にとっても、後継者問題は下手な発言が命取りとなる命がけの問題だということを理解する必要があります。

 

 次回は文禄四(1595)年六月の曲直瀬玄朔の「天脈拝診怠業事件」及び七月三日にあったとされる「奉行衆」による詰問について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p57~58

(*2)藤田恒春 2015年、p175~176

(*3)藤田恒春 2015年、p141

(*4)藤田恒春 2015年、p143

 

 参考文献

藤田恒春『人物叢書 豊臣秀次』吉川弘文観館、2015年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年