古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

なぜ、徳川家康・秀忠は豊臣家を滅ぼし、豊臣秀頼を殺したのか?

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 よく、「なぜ、豊臣家は滅んだのか?」という問いが立てられ、当時の豊臣家の内情を調べてその原因を探ろうとすることがたまに見受けられるが、実際にはこの問いの立て方自体が誤りである。別に豊臣家は自壊したのではなく、徳川家康・秀忠親子が、その意思と行動によって豊臣家を滅ぼしたのである。だから、この問いは「なぜ、徳川家康・秀忠は豊臣家を滅ぼしたのか?」に変えられるべきである。この問いの主語はあくまで、徳川家康・秀忠親子であり、「なぜ?」を問いたいなら、徳川家康・秀忠親子の内心を探るしかない。問いかけの対象を主体ではない豊臣家の人々に向けても不毛である。

 

 戦争になったから、というのも無意味である。戦争になって負けても、領地が(減封されるかもしれないが)安堵されることもあるし、領地を失って大名としては滅んでも命だけは助けてもらえることもあるし、逆に一族皆殺しにされることもある。その判断の主体はあくまで勝者側の判断であり、勝者側の責任であり、その判断に対する「なぜ?」は、勝者に向けられるものである。

 

 戦に敗北すれば、必ず殺されるというものでもない。思えば、織田信長は将軍足利義昭を追放したが、殺しはしなかった。豊臣秀吉は主家である織田信雄を最終的に改易にしたが、殺しはしなかった。これらと比べるとき、残虐といわれる織田信長豊臣秀吉に比して、徳川家康・秀忠親子の人格がどういうものか分かる。残虐といわれる織田信長豊臣秀吉よりも、更に劣ると言わざるを得まい。戦いに完全に勝利し、敗者に対する生殺与奪の権を握った時に、その人間の本当の人格がにじみ出るといえるだろう。

 

 さて、徳川家康・秀忠親子の内心などは分からないが、なぜ家康・秀忠は豊臣家を滅ぼすという判断に至ったかについては、似たようなケースである「なぜ、豊臣秀吉は北条家を滅ぼしたのか?」への回答から類推することが可能である。その理由は、要は「次の大きな敵がいない」からである。

 

 長宗我部家や島津家など、秀吉との戦に敗れた他の大名は減封されながらも所領を安堵されたのに対して、北条家のみは所領をすべて取り上げられ滅亡したことを疑問に思うむきもあるが、四国攻めや九州攻めと、関東の北条攻めは事情が違う。四国攻めや九州攻めは、まだ他に片づけなければいけない次の敵がいたので、完全に滅ぼすことにこだわって時間を無駄に費やすより、早く降服してくれれば条件付きでも秀吉は許したのである。

 

 しかし、北条攻めでは、奥州の伊達政宗も降参してしまい、日本国内に「次の大きな敵」はいない。だから、秀吉はじっくり北条を滅ぼすことができた。つまり、伊達政宗が秀吉に降参したことが「北条家を滅ぼしてよい」と秀吉に判断させた大きな理由だろう。逆に政宗が降参せず秀吉と戦おうとしていたら、秀吉は次の戦に備えるために、北条家と早期に講和して、いくらかの所領を安堵した可能性が高い。

 

 このケースから類推するに、徳川家康・秀忠が豊臣家を滅ぼそうと判断したのは「豊臣家の他に次の敵は出てこない」と考えたからであろう。実際に、秀吉の従兄弟の福島正則も含め、他の大名で豊臣家の味方をした大名はひとりもいなかった。味方をしないまでも「この期に反乱を起こそう」という勢力はいなかった。(たとえば、島原の乱のような反乱が大坂の陣の時と同時期に起これば、それは家康・秀忠の判断に影響を与えただろう。)この時点で豊臣家の滅亡は決まってしまったといってよい。

 

 その後に、豊臣家が善戦しようが、真田幸村が言ったとされる策を取ろうが、家中が一致団結しようが、秀頼殿が自ら出馬しようが、徳川家の圧倒的物量の前にいずれは負ける。「次の敵はいない」と徳川家康・秀忠が判断し、豊臣家は滅ぼすと決断した以上、その後に、豊臣家がどんな行動をしても無駄である。それを、豊臣家が他に何か「より良い」行動をすればもしかしたら豊臣家は滅びなかったかもしれない、と思うのは幻想である。

 敗者をどう処遇するかは、あくまで勝者の判断にゆだねられ、勝者の判断は外的な要因に左右される。

 

(「豊臣秀頼は自刃したのであって、殺されたのではない」とかいうツッコミはなしでお願いします。)