古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「三成は「関ヶ原」で軍陣を指揮するために生まれてきたわけではない」~中野等『石田三成伝』感想

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 中野等氏の『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)を読了しました。印象に残った箇所はいくつもありますが、エピローグの以下の記述が、とりわけ印象に残りました。(中野等氏は九州大学院比較社会文化研究院教授で、日本近世史を専門とされている方です。)

 

「関連して、これまでの三成評伝の多くは「関ヶ原」合戦に大きな比重をおいて記述されてきたように見受けられる。しかしながら、改めて言うまでもないことであるが、三成は「関ヶ原」で軍陣を指揮するために生まれてきたわけではないし、それを見越してそこに至る人生を費やしたわけではない。また本編で明らかにしたように、三成は「単独」で家康に抗ったわけでもない。」(前掲書 p542~543)

 

 三成をめぐる言説・小説・ドラマなどは現在でも「それ(「関ヶ原」)を見越してそこに至る人生を費やした」かのような解釈に基づくものが多いのですね。「関ヶ原」という宿命的な結末が三成にあり、その結末に向けて生きてきた、家康と対決するという結末が三成の人生であるという、結末から逆算したようなストーリーが多い。

 

 これは、江戸時代の史書、軍記物、物語がほとんどそのようなストーリーで書かれたためです。良きにつけ悪しきにつけ(もちろん、「悪しきにつけ」の方が圧倒的に多いのですが)、石田三成が神君家康公に刃向かった人間として描かれ、そして三成が家康を敵視したのは昔からという話になっています。こうした、江戸時代の史書、軍記物、物語の影響によって、石田三成のイメージは定着し、三成の人物像の見直しが進む現在においてすら、「それ(「関ヶ原」)を見越してそこに至る人生を費やした」三成像が多いのです。

 

 しかし、別に三成は昔から家康を個人的に敵視していた訳ではありませんし、

(これについては下記で言及したように、三成は真田信幸や伊達政宗を通じて家康との交流ルートを図っていました。↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

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(しかし、(おそらくは秀吉によって)三成は家康との公的な交流を実質阻まれていた史実もあります。↓)

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 また、そもそも関ヶ原の戦いの総大将は石田三成ではありません。

(これについては、下記で言及しました。↓) 

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 良きにつけ悪しきにつけ定着している三成の虚像から離れて、同時代の史料によって三成の実像を洗い出す作業が今後進んでいくかと思います。

 

 中野等氏の『石田三成伝』は、同時代の史料が豊富に紹介されており、同時代の史料によって三成の実像を洗い出そうとしている書籍です。石田三成の実像を知る上で必読の書籍といえるでしょう。