古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について⑥~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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豊臣秀次切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

 ※前回のエントリーです。↓

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 前回の話の続きです。 

 さて、ここまで以下の3つの論点を検討しました。矢部健太郎氏の説には同意できるところも多いのですが、やはりしっくりこない点もあります。

 今までの各論点の矢部氏の説と、筆者(古上織)の私見をまとめてみます。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

 

→矢部氏の説:政権交代説(秀吉個人が原因ではなく政権の要請)、きっかけは「天脈拝診怠業事件」)」(*1)(「密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。」)(*2)

 

→古上織の私見秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画の露呈。

 

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

 

→矢部氏の説:「関白職剥奪の根拠はなく、出家・出奔ともに秀次自身の意志に基づく行動」(*3)

 

→古上織の私見秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

→矢部氏の説:「無実であることを=身の潔白を証明することため、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。」(*4)

 

→古上織の私見秀吉の処罰が秀次の予想していたものより重かった(秀次は、無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した)ため絶望して、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。

 

 さて、第4の論点「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」に移ります。

 文禄四年八月二日、京都の三条河原で秀次の妻子三十余名が公開処刑にされます。なぜ、秀次の妻子は処刑されることになったのか?

 正直に申し上げて、この論点についての秀吉の判断は不可解であり、どんな方が説明されても理解できたことがありません。

 

 矢部氏の説ですと、

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

 

→「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」(*5)

 

ということになりますが、これも正直理解できません。

(というか、矢部氏説は「秀次は無実」なのに対して、古上織の私見では「秀次は有罪」ですので、この時点で見解が分かれてしまいますが。)

 

 いや、「謀反事件」ならば家族が連座することは確かにあるでしょう。しかし、その場合も男子は殺されるが、女子は出家になるあたりが(当時の世間的な感覚としても)妥当ではないでしょうか。

 残虐な殺戮劇が多かった戦国時代においても、小さな娘も含め妻子皆殺し(秀次の妻子の中でも例外的に生き残った人もいるようですが)というこれだけ残虐非道な事件はあまりないかと思います。

(ただ、じゃあ「まったくない」か、というとそんな事もなく、織田信長は裏切った荒木村重の一族・妻子122人を皆殺しにしていますし、武田勝頼新府城を放棄して逃げるときに、裏切った武将の家族を焼き殺していますが。)

 

 これだけ残虐な処刑にする理由は、秀吉自身が残虐だからとしか言いようがなく、この残虐さに現代的な視点から合理的な説明をつける事は困難かと思います。

 

 矢部説への感想を以下に述べます。

 

 まず、矢部氏の説ですと、もともと秀次は無実であるが、秀次が秀吉の謹慎命令に逆らう形で、「無実」を訴えて自分の意思で切腹してしまった結果、その「無実」の訴えを認める訳にはいかない秀吉政権が、「謀反」事件を仕立て上げた、ということになります。

 

 秀次が(秀吉の命令ではなく)自身の意思で切腹した見解には同意ですが、前回述べたように、秀吉は、厳しい処罰感情を持って秀次重臣切腹命令を出している訳で、この事件についての秀吉政権の認識は、本当は「謀反」事件だったのだと思われます。

 

 しかし、これを「関白秀次謀反事件」と政権が公言してしまうと、関白が太閤に謀反を起こそうとしたという重大な危機事態を公表してしまうということになってしまうので、秀吉政権は大混乱になってしまいます。

 

 そこで、はじめ秀吉政権は、「不届きなこと」(不相届子細)(「文禄四年七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状」)(*6)という曖昧な説明でこの事件はあまり大した事態ではないと対外的にはアピールをして、秀次には高野山にしばらく謹慎させるという「穏便」な処置を行うことによって、事態の収拾をはかろうとしたのだと思われます。

 

 ところが、秀次が高野山切腹をしてしまったがために、もはや「穏便」な処置がとれなくなってしまったのですね。

 

 高野山で謹慎していた秀次が7月15日切腹したということは、高野山から京都の東寺を通じて翌日には京中に広がりました。『御湯殿殿上日記』によると、秀次の切腹の理由は「むしつ(無実)ゆへ、かくの事候のよし申しなり、」(*7)と書かれています。これは、京都に急報を伝えた高野山の僧たちの見解を書いたものとされます。(*8)

 

 そのように「自分は無実だ」と秀次自身が高野山の僧に言って切腹したのか、特に何も言わなかったのかは不明ですが、対外的には「謀反の噂」で秀吉に疑いをかけられたことによって、秀次は高野山で謹慎しているわけです。

 秀吉の疑いに対して「自分は無実である」という抗議のために、秀次は切腹したと少なくとも高野山の僧には解釈されたということです。

 

 これは、かえって秀吉の処罰感情を悪化させました。 

 

①そもそも、秀吉の「温情」で秀次は切腹すべきところを、高野山での「謹慎」にすませているのです。そして、「秀次高野山住山」令にも「出家の身だから刀・脇差を携帯するな」(*9)とあり、これは切腹を禁止する趣旨でもありました。

 このため、秀次の「切腹」とは、切腹を禁じる秀吉の命令に逆らい、秀吉の「温情」に仇をなす行為であり、秀吉としては許すべからざる行為でした。

 

高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられました。この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したことになります。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉の判断・処分は間違っていたということを認めることになってしまいます。そして、秀吉は自分の判断・処分は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと思っていました。

 

 上記の秀次のメッセージを認めてしまうと、「秀吉は間違った判断で秀次を謹慎処分にして、自殺に追い込んだ」という話になってしまいますので、秀吉としてはこのストーリーを世間的にも認める訳にはいきませんし否定するより他ありません。

 

 秀次の高野山行時に「不届きなこと」(不相届子細)な曖昧な表現で説明し「穏便」にすませる予定だった事態は、秀次の切腹により穏便にすませる訳ではいかなくなり、「秀次の『謀反』があった」と公表せざるをえなくなりました。

 

 秀吉の温情による謹慎処分すら認めず、かえって秀吉の判断は間違いだと否定して、抗議の自殺をするという「究極の反抗」をした秀次に対して、秀吉は激しく憎悪することになります。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺でした。青厳寺は秀吉の母大政所の菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」(*10)と矢部健太郎氏は述べています。

 

④中世において「切腹」は色々な意味合いがあります。命令による切腹は名誉の「刑罰」ですが、自らの意思でする切腹は、その時々の状況で「謝罪」「殉死」「無実の訴え」「抗議」等、色々な意味合いがあります。

 その中で、矢部健太郎氏は、もうひとつ「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」でもあったとする」清水克行氏の研究があるとしています。(*11)

 

 秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があります。そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになります。

 

⑤前述した織田信長にせよ、武田勝頼にせよ、一族・妻子皆殺しという処分は、自分に裏切って反逆するとこうなるという「見せしめ」という意味を示します。これは、このように家臣や諸大名に「見せしめ」という恐怖を植え付けないといつ裏切られるか分からないという君主の他者に対する不信感の表れです。このため、「恐怖」をもって他者を支配するしかないと考えるのです。(勝頼の場合は、最早「みせしめ」をしてもどうしようない状態でしたので、やけくそという感じですが。)

 

 また、過酷な「みせしめ」処分は、最も身近な秀次にすら裏切られたのだから、最早誰も信用できないという秀吉の「怯え」のあらわれともいえます。(こうやって、他者に向けて「みせしめ」処分をして、他者を恐怖感で縛らなければ、他者を支配し従属させることができないという、自らの力への自信のなさと他者への怯え。)

「天下人」秀吉の残虐性とは、他者に対する不信と怯えの裏返しです。秀次切腹により、秀吉の人間不信と怯えは更に深まることになりました。

 

 上記のような理由で、秀吉は「謀反を起こしたものはこうなる」という見せしめの意味で秀次の妻子三十余名を処刑します。しかし、謀反事件の処分としては、当時の事件としても過酷なものであるといえます。

 

 矢部健太郎氏は、秀次の妻子を処刑した理由を、「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」としますが、秀吉が本心では「秀次は無実」だと思っていたとしたら、謀反事件の処分としても、当時の世間の感覚でも更に過酷な処分をする必要はないのですね。むしろ、(「謀反事件」の体裁のみを整えればよいのですから)もっと軽い処分をしていたでしょう。

 

 秀吉が、「謀反事件」としても、なぜ普通に考えられるようなものより過酷な処分をしたということは、「秀次は実際に謀反を起こそうとしていた」と秀吉は確信していたからだとしか考えられないのですね。

 

 そして、一旦は肉親の情で温情的な処分をしたにも関わらず、それを「抗議」や「復讐」の意味での「切腹」をさせられるという最悪の形で返されれば、秀吉にしてみれば、まさに恩を仇で返されたのも同然、しかもこの事件のために秀吉政権は大混乱で崩壊の危機、秀吉の秀次に対する怒りは計り知れないものになったということになったのではないしょうか。 

 

(上記のように説明しても、多分よく理解できない方のほうが多いと思います。ただ、正直、元から残虐な性格で、常人ではない秀吉の思考回路を考察している訳なのですから、世間的に常識的な解答が出る訳がありません。

 

「常識的な解答」ではないから納得できないと言われても、秀吉自身が常識的な人間ではないからどうしようもありません。しかし、秀吉が常識的な人間ではなくても、秀吉は秀吉なりに(秀吉の主観的には)合理的な行動・判断をしているはずですので、現代の我々でも、秀吉の思考回路を考察することがなんとか可能なのです。)

 

 次回は、秀次切腹事件時の石田三成らの動向について検討します。

※次回のエントリーです。↓

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(*1)矢部健太郎 2016年、p300

(*2)矢部健太郎 2016年、p58

(*3)矢部健太郎 2016年、p300

(*4)矢部健太郎 2016年、p301

(*5)矢部健太郎 2016年、p301

(*6)矢部健太郎 2016年、p69~70

(*7)矢部健太郎 2016年、p213

(*8)矢部健太郎 2016年、p213~218

(*9)矢部健太郎 2016年、p175~177

(*10)矢部健太郎 2016年、p184

(*11)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年