古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について⑦~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(上)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

※前回のエントリーです。↓

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 最後に、3回に分けて豊臣秀次事件における石田三成ら奉行衆の動向を見ていきます。

 

(※下記でいう「奉行衆」とは、前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成長束正家らのことを指します。そして、今回の秀次事件の「穏便」処分方針を進めたのは奉行衆の中でも、後述するように増田長盛石田三成が中心だったと考えられます。)

 

(1)文禄4(1595)年7月3日 

前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成聚楽第の秀次を詰問。

詰問の内容は「御謀反の子細御穿鑿これあり。」(『大かうさまくんきのうち』)(*1)

 

→太田牛一『大かうさまくんきのうち』は二次史料ですので、『大かうさまくんきのうち』はあまり信用できないとなりますと、この7月3日の奉行衆の詰問自体あったか不明となりますが、矢部健太郎氏も中野等氏も、この日の詰問はあったことが前提として記述がされていますので、『大かうさまくんきのうち』のこの記述は信頼できるということだと解されているということだと思われます。

 

「御謀反」の内容については、豊臣秀次切腹事件の真相について⑤~秀次は、実際に「謀反」を企てていたのではないか?~「むほんとやらんのさた」とは何か。で検討しました。

 

(2)文禄4(1595)年7月8日  

 豊臣秀次高野山行。

 

(3)文禄4(1595)年7月10日 

小早川隆景宛四奉行(長束正家増田長盛石田三成前田玄以連署副状

(秀吉の朱印状の副状)

 

「◇このたび、(秀吉が)関白(秀次)殿を不意の御覚悟によって高野山にお遣しになりました。それだけのことであり、ほかの子細はありません。その旨(秀吉の)御朱印が出されますのでご諒解いただき、下々へもよろしくご説明ください。万一根も葉もない噂がたったりしては問題であるとの配慮から、このように仰っています。」(*2)

 

→同様な朱印状・副状は島津義弘にも七月十日付で送られており(内容は「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すようなこともないので、気遣いなきように」との文面」(*3)、各大名に、秀次の高野山行事件は大事には至らないので安堵するようにとの朱印状が送られ、諸大名の動揺を防ごうとしていたことが分かります。

 上記の書状を見ても、秀吉政権(秀吉&奉行衆)に秀次切腹を命令する意図はなく、なるべく事件を「穏便」に処理しようとしていたことが分かります。

 

(4)七月十二日付「秀次高野山住」令発出

 

 七月十二日付「秀次高野山住」令が出されます。参照)

 この命令は、矢部健太郎氏が指摘している通り、秀次に(切腹ではなく)しばらく高野山への謹慎することを命じる文書といってよく、この文書においても、秀吉政権の秀次への切腹命令及びその意思はなかったとことが裏付けられます。 

 

 そして、「秀次高野山住」令が高野山の蓮華定院にあった由来から、この文書は高野山の秀次の元に到達しており、そもそも秀吉政権から高野山に派遣された三使(福島正則・福原長堯・池田秀雄)は、この「秀次高野山住」令を高野山と秀次に伝達し、遵守させることが目的であったと考えられます。

 

 三使のうち、福島正則は言うまでもなく秀吉の従兄弟であり、賤ケ岳七本槍等の活躍で知られる猛将、福原長堯は、石田三成の妹婿であり石田三成ら奉行衆に近い人物、池田秀雄は、「近江の戦国大名六角氏の家臣から信長に仕えるようになり、本能寺の変では明智光秀に属したものの、後に秀吉に許されて家臣となったという。まさに経験豊富な「老臣」で、すでに七〇歳前後だったと思われる。」(*4)とあります。

 

 矢部氏は、この三使の構成、特に「正則の名が列せられたことは何とも不思議」(*5)としています。筆者も同意します。

 

 今まで秀次事件は、「秀吉奉行衆」がこの事件の処理をしていたのです。(1)7月3日の秀次詰問も、(3)七月十日付秀吉朱印状・奉行衆の副状も、奉行衆の意向が強く反映されたものでした。(3)の朱印状・副状を見れば(4)七月十二日付「秀次高野山住」令も奉行衆の意向が反映されたものと解されるでしょう。奉行衆の意向は、今回の事件を(秀次の切腹ではなく)秀次の高野山謹慎処分で処理する方針であり、その奉行衆の方針を秀吉は承認していた訳です。

 

 しかし、この流れから見ればこの三使の選出のされ方は確かに不思議です。この事件の処理の仕上げともいうべき「秀次高野山住」令の伝達及びその遵守をさせるという使者の役目は、これまでもそうだったように、本来奉行衆が主導してやるべきものです。

 

 ところが、ここへ来て福島正則、池田秀雄という奉行衆からは縁遠い人物が三使の二人につけられ、かろうじて奉行衆に近い人物は福原長堯のみという、異常な事態になっています。(しかも、後に見るように、秀次が切腹をした七月十五日には福原長堯は高野山にいなかった可能性があります。)

 

 そもそも、この三使は誰が選出したのか?奉行衆ではありえません。奉行衆が選出するならば自らが行くか、あるいは三人とも奉行衆に近い人物で固めたでしょう。となれば、この人選は秀吉自らが選んだものといえます。

 

 なぜ、秀吉は、三使の人選をこのようにしたのでしょう。

 

 一瞬、秀吉は7月12日付で(切腹ではなく)秀次の高野山謹慎の命令を出したにも関わらず、一方で同時に秀吉はそれと相反する密命(秀次をやはり切腹させよ)を二使(福島正則、池田秀雄)に伝えた、という可能性も考えたのですが、同日に相反する命令を出すとは、いくらなんでも秀吉の人格が分裂していて考えられませんし、命令として支離滅裂です。(秀吉が秀次の謹慎命令を思い直して、やはり切腹させることにしたのなら、「高野山住山」令を撤回して改めて、切腹命令を出せばよいだけです。)

 

 では、なぜなのか?

 これまで奉行衆は、秀次に対し「寛大な処置」をすること(本来なら切腹をさせるところを、謹慎処分に止めた)を秀吉に説き、秀吉はその処置を認めました。確かに、現役の関白が秀吉に対して謀反を起こしたというのを政権が公的に認めてしまったら、豊臣政権の大混乱は避けられません。 

 また、奉行衆が秀次を「穏便な処置」にすべきと説いたのは、秀次を欠けば豊臣政権において、秀吉と秀頼のあいだの「つなぎ」がいなくなり、秀吉がすぐに死去した場合、幼い秀頼がトップでは豊臣政権を支えきれずに、豊臣政権がガタガタになって崩壊するおそれがあるからです。(実際に、ガタガタになり崩壊しました。)

 だから、豊臣政権を支える秀吉奉行衆としては、秀次の存在は「つなぎ」として、どうしても必要であり、秀吉としても、その時点では奉行衆のその意見を聞かざるを得ませんでした。つまりは、奉行衆発案の、この「高野山謹慎処分」は秀次が将来的に政権復帰することを予定した処分な訳です。

 

 しかし、この「穏便な処置」である奉行衆の案というのは、将来的に「秀頼を確実に秀吉の後継に据える」という秀吉の思いからすれば、非常に心もとないものでした。

 また、この処置は、奉行衆が秀次のために秀吉に「取り成し」をして寛大な処置を勝ち取り、秀次に恩を売ったということになります。「寛大な処置」を「取り成し」てくれたことに対する秀次の感謝は当然(秀吉にではなく)、奉行衆に向かうことになります。これにより、「奉行衆」と秀次の間が将来的に親密になってしまう可能性が出てきてしまったのですね。

 

 秀次の謹慎処分がいずれ解かれ、秀次が将来的に復帰した場合、秀吉の死後に奉行衆も含む残された秀吉の家臣たちがどのような行動を取るのか、秀吉には不明です。 

 自分(秀吉)の死後に、秀次が後見役として豊臣政権の実権を握ることになるとすると、結局その時点での豊臣政権の実力者NO.1は秀次になってしまいます。権力を握ったその時こそ、秀次は御拾ではなく、自分(秀次)の子を擁立しようとするのではないか?

 仮にそうした事態になった時に、奉行衆達は秀次の暴走を止められるのか?というか、強きになびくで、秀次の味方になる可能性すらあるのではないか?奉行衆が、秀次が親密となることによって、秀吉死後に御拾ではなく、秀次、あるいは秀次の子を擁立する可能性も出てきました。奉行衆と秀次を近づけすぎたことに、秀吉は不安を感じます。

 

 このように誰もかれも疑っていくと、そもそも秀次が政権復帰できる目を与えておくと、結局秀頼は排除されるのではないか、という考えになります。現在秀吉に絶対の忠誠を誓っている奉行衆にしても、秀吉死後、政権に復帰する秀次に対して将来的にどう転ぶか信頼できません。

 

 秀吉は、秀次の処遇を奉行衆に制御させることに不安を抱きました。あくまで、秀次の処遇を決める権限(生殺与奪の権)は、秀吉自身が握っているのではなくてはいけません。

 

 このため、今まで奉行衆に仕切らせてきた秀次の処遇を改め、秀吉みずからが秀次の処遇を仕切れるように変えるため、秀吉によって三使が選ばれました。

 

 まず、自分(秀吉)の意思をストレートに秀次に伝える役目として最適だと考えたのが従兄弟であり、自分の言う事は忠実に聞き、奉行衆からは距離があると考えられる福島正則だったのでしょう。

 

 次に、池田秀雄がなぜ選ばれたのかは不明ですが、おそらく奉行衆とも近くなく、また影響力もなく、自分の主張も言わない人物だと秀吉に思われたためではないかと思われます。

 

 そして、三成に近い福原長堯を混ぜたのは、奉行衆に近い人物を混ぜることによって、表面上(今まで秀次の処遇を仕切っていた)奉行衆に対してもバランスを取るような体裁を整えるためでしょう。

 しかし、福島正則と福原長堯では、秀吉政権での格が違いますので、この人選ではやはり福島正則の意見・判断が一番通る構成になっています。そして、秀吉の意を通じた正則の意向が通るであろうこの三使の構成が、秀吉が自分が一番コントロールできると望んだ構成だった訳です。

 

(5)文禄4(1595)年7月12日

「七月十二日付で石田三成増田長盛がいち早く起請文をしたため、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う。」(*6)

 

→秀次の高野山事件の政権動揺を防ぐために、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う起請文を各大名に提出させることが計画され、「秀次高野山住」令と同日の7月12日に、まず奉行衆の石田三成増田長盛がいち早く起請文を提出することが求められました。

 

 なぜ、いち早く起請文の提出を求められたのが奉行衆の中でも、この二人だったのか?それは、この二人がこれは「秀次事件」の処理(秀次への「寛大」な処遇)をしてきた中心人物だったからでしょう。

 

 秀吉は、この二人が「秀次事件」の処理・「取り成し」を通じて、秀次サイドと将来的に親密な関係を構築する可能性に不安を抱き、まず真っ先にこの二人に起請文を持って改めて御拾への絶対的な忠誠(将来、もし後継者争いが発生しても、必ず御拾を守り後継者とさせることに全力を尽くすこと)を誓わせたということが考えられます。

 逆にいえば、これは他の人間に先んじて御拾の絶対的守護者となるように、絶対的な宣誓を誓わされたということです。この事は、宣誓をした人間にとって特別な意味を持つでしょう。三成は、この宣誓に生涯縛られ続けることになります。(長盛がどう受け止めたのかは、よく分からない所がありますが。)

 

(6)文禄4(1595)年7月13日付 五奉行による「秀次切腹命令」

は、豊臣秀次切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)で記載したように、矢部健太郎氏の指摘通り小瀬甫庵の創作した偽文書です。 

 

 

(7)文禄4(1595)年7月15日

 秀次が高野山切腹して果てます。

 この時、「『川角太閤記』では、翌十五日の午前八時頃に福島正則と池田秀雄の二人だけが秀次のもとに現れ、秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えたという。」(*7)とあります。

 

→『川角太閤記』も二次史料ですので、そのまま鵜呑みにできないのですが、矢部健太郎氏が指摘するように、本来同一目的で派遣された三使のうち福原長堯が15日には別行動をしていたという記述は興味を引きます。(*8)

 

『川角太閤記』の記述を信用するならば、福原長堯は何かの理由をつけて(例えば「ひと足先に伏見へ報告に向かえ」などの指示をされ)高野山から遠ざけられたという推測ができます。

 

 なぜ、福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?そして、誰がその指示をしたのか?

「誰が」ということならば、おそらくその指示をしたのは三使の中で最も地位が高いと考えられる福島正則だと思われます。

「なぜ」ということについては、福原長堯が「これから起こること」に邪魔だったからということになるでしょう。

 

 しかし、福島正則、池田秀雄が、「秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えた」という『川角太閤記』の記述には疑問があります。 

 

 まず、秀吉が「秀次高野山住」令を出しつつ、同時に正則・秀雄には、秀次切腹の「密命」を下したという解釈は、前述したように無意味で理解不能な行為ですので、可能性は極めて低いと思われます。

 

 また、秀吉の真の「御意」を偽って、秀次の切腹を「けしかけた」という可能性もほとんどありえないと思われます。「三使」は秀次死後に加増されるので、なにか動機がありそうにみえますが、これは結果論であって、秀吉の真の「御意」を偽ったことが秀吉に露見されれば、加増どころか秀吉の怒りを買って処断される可能性が高いです。彼らがそのような危険を冒して秀吉の真の「御意」を偽るような動機は史料からは全く見出せません。

 

 しかし、奉行衆の目論見に反してはいるが、「秀次高野山住」令とは矛盾しない、秀吉の「御意」をこの二使が秀次に告げたという可能性はあります。

 二使が、秀次に告げたことは、秀次が最も気になることでありながら、「秀次高野山住」令には一切書かれていないこと、すなわち「秀次はいつまで高野山に謹慎し続けなければいけないのか?」ということでしょう。

 

 二使が告げた「御意」とは、秀次が切腹を決意するほど絶望的なものだったといえます。それは、たとえば「秀次の赦免は許さない。残る余生を高野山で謹慎して暮らせ」などの「社会的な死」の宣告だったのではないでしょうか。

 

 以前の回で、秀次切腹当日(七月十五日)の三使の動きについて、3つのケースが考えられると矢部氏が述べていることを紹介しました。

 

十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

 

 そして、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*9)としています。

 

 以前の回では検討しませんでしたが、ここではあえてどの可能性が高いか検討してみましょう。

 

 まず、①の「十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。」という可能性は低いでしょう。おそらく三使のうち、「穏便な処置」を望む奉行衆に近い福原長堯の存在は理由をつけてその場から排除されたという可能性が高く、『川角太閤記』の記載はそれなりに信用できると思われます。

 

 次に、③「十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。」という可能性ですが、これでは十五日に秀次が切腹を決意した理由が不明になります(やはり何かの「きっかけ」があったと思われます。そして、その「きっかけ」が二使の宣告という事になります。)ので、これもまた可能性は低いと思われます。

 

 そう考えると、やはり②「十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。」という可能性が一番高いと思われます。

 

 問題は、二使が秀次の「社会的な死」の宣告をした後に、秀次の切腹に立ち会っていたのか?ということです。

 

 三使の命令は、「秀次高野山住」令の伝達とその命令を遵守させることですから、その命令に反する秀次の切腹を黙って見ていて、立ち会ったというのも考えにくいです。

 

 もちろん、二使が内心では秀次切腹を望んでいて、あるいは秀次の意思を尊重して、秀吉の命令には反するが、秀次切腹に同調して立ち会った、という可能性もなくはないですが、ちょっとこれも不可解です。

 

 これは想像するしかないのですが、たとえば、秀次が「しばらく側近のみと話したいので席をはずしてほしい」等と述べて、二使は秀次の願いを聞き、しばらく席を外していた間に秀次たちは切腹したという可能性もあるのかな、と思います。秀次の監視が三使の使命のひとつですので、普通では考えられない大失態ですが、案外大事件というものは、こういった「普通では考えられない大失態」によって起こるのかもしれません。

 

 次回は、秀次切腹後の石田三成の動きについて検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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(*1)小林千草 1996年、p148

(*2)中野等 2017年、p257

(*3)中野等 2017年、p70

(*4)矢部健太郎 2016年、p94

(*5)中野等 2017年、p95

(*6)中野等 2017年、p258

(*7)矢部健太郎 2016年、p223

(*8)矢部健太郎 2016年、p224

(*9)矢部健太郎 2016年、222~226

 

 参考文献

林千草『太閤秀吉と秀次謀反 『大かうさまぐんき』私注』ちくま学芸文庫、1996年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年