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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について⑨~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(下)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

※前回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 最後に、秀次家臣の保護に奔走する石田三成の動きについて検討します。

 

 秀次切腹事件においては、多くの秀次家臣達が連座させられ、切腹に追い込まれました。その中で三成は秀次の家臣を保護しました。

 豊臣秀次には配下に「若江八人衆」と呼ばれる重臣がいましたが、石田三成はその「若江八人衆」の大部分を匿い、自らの臣下に引き受けています。

 

 三成に召し抱えられた「若江八人衆」のうち、舞兵庫は、秀次の後見役であった前野長康の娘婿です。初めは前野忠康と名乗っていました(通称は前野兵庫助)。前野長康は秀次事件の際に連座して、切腹に追い込まれています。秀次の死後、忠康は舞に姓を変え、三成に五千石の高禄で召し抱えられます。その後、関ヶ原の戦いで先鋒として活躍するも討ち死にしたといわれます。(*1)

 

 その他の「若江八人衆」のうち、大山伯耆、森九兵衛、大場土佐、高野越中、牧野成里は、三成に家臣として召し抱えられ、いずれも関ヶ原の戦いで奮戦します。残る「若江八人衆」のうち、安井喜内前田玄以、のちに浅野幸長に仕え、藤堂玄蕃藤堂高虎の従兄弟)は、藤堂高虎に仕えています。

「若江八人衆」のうち、六人が三成の家臣となり関ヶ原の戦いで三成と共に戦ったということなります。(*2)

 

 これまで見てきたように、石田三成ら奉行衆は秀次事件についてはなるべく穏便な処理にとどめようとして事態の収拾をはかっており、想定外の秀次切腹後も三成は秀次の家臣の保護のために奔走しました。秀次切腹事件を三成ら奉行衆の企みとする俗説がありますが、そうした俗説は誤りであることは明らかでしょう。

 

 注

(*1)石田世一 2016年、p158~160

(*2)石田世一 2016年、p163

 

 参考文献

石田世一「第十章 舞兵庫 三成に恩義を感じて奮戦した武将」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年所収)