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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

賤ヶ岳の戦いのときの石田三成

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 賤ヶ岳の戦いのときの石田三成の動きはどうだったか?

 その前に、羽柴秀吉柴田勝家賤ヶ岳の戦いに至るまでの動きをみてみましょう。

 織田信長の死後、羽柴秀吉柴田勝家と対立し、戦うことになります。 

 まず、柴田勝家が雪で兵を動かすことができない間に秀吉は美濃国近江国を制圧し、その後天正十一(1583)年2月には、勝家と結ぶ滝川一益を攻めるため北伊勢に向かいます。そして2月26日から一益の武将佐治新介の守る伊勢亀山城を攻め、3月3日これを落とします。

 

 この間に、柴田勝家が動き出します。3月3日に佐久間盛久を先鋒大将とする柴田軍が越前北ノ庄を出発し、「三月七日には柴田軍は木之本付近まで進んできた。その後、少し後退して柳ヶ瀬付近が柴田軍三万で埋めつくされることになるが、このしらせを伊勢で聞いた秀吉は、亀山城に押さえの軍勢を置き、急いで江北に兵を返し、十七日には木之本付近にもどり、柴田軍と対峙する形を作っている。」(*1)(下線筆者)(木之本も柳ヶ瀬も近江です。)

 

 その頃、石田三成近江国浅井郡尊勝寺の子院称名寺に充てて発した文書が残されています。

 

「   尚以、筑州より御直礼にて被仰候之間、為我等不□□候、已上

 柳瀬二被付置候もの罷帰候とて、御状御使者口上趣、具申上候処、一段御満足之儀候、重而も彼地人を被付置、切々被仰上尤存候、尚而可申承候、恐々謹言

                 石田左吉

天正十一年)三月十三日        三也(花押)

 称名寺 貴報

◇(探情のため)柳瀬に派遣していた者が戻ったとのことで、御状ならびに御使者の口上を細やかに申し上げました。(秀吉も)大いに満足しております。重ねて、かの地に人を置かれ、頻繁に報告されることが、いかにもよろしいかと存じます。

     なお、筑州(筑前守秀吉)が直接御礼を述べると思いますので、私からは控えます。」(*2)

 

 上記(*1)でいう、「しらせ」こそが、(*2)でいう称名寺が「柳瀬に派遣していた者」が、秀吉にもたらした報告のことを指していると考えられます。この「しらせ」により、伊勢方面にいた秀吉は、柴田勝家の南下を受けて伊勢から近江木之本へ移動します。(*2)の書状はその間のもので、書状の「柳瀬(柳ヶ瀬)」とは(*1)の通り勝家の本陣です。

「三成は、称名寺とその配下をつかって柴田勢の動向を探ってたわけである。秀吉自身の長浜から木之本への移動も、こうした情報を基にした作戦であった。ここで秀吉は、柴田勢を牽制する多くの城柵をつくることになる。これらの城柵配置も、このような探情の成果に拠ったのであろう。」(*3)と中野等『石田三成伝』にあります。

 

 この後、四月二十一日に賤ケ岳で秀吉は柴田勝家を破り、勝家の本拠越前北ノ庄を攻めて、勝家を自害に追い込みます。

 この時、石田三成(かぞえで)24歳。この時期の三成は、秀吉の側近くで、諜報・情報収集の役割を担っていたことが分かります。

 

 注

(*1)小和田哲男、2006年 p75~76

(*2)中野等、2017年 p16

(*3)中野等、2017年 p18

 

 参考文献

小野田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

中野等『石田三成吉川弘文館、2017年