古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

権勢(のない?)石田三成~毛利家臣児玉元兼の脇差所望エピソードについて

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1.毛利家臣児玉元兼の脇差を秀吉が所望するエピソードについて

  「彼仁当時肝心之人」  

 中野等『石田三成伝』で、以下のような記載があり、興味深かったので紹介いたします 

『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門の項にこのような話があるということです。以下、長くなりますが、引用します。

 

「関係史料のなかに「高麗」(朝鮮出兵)への言及があることから、天正末年頃の話と考えられるが、毛利輝元の重臣児玉元兼(三郎右衛門尉、のちに若狭守)が「貞宗」の脇差を所持していると人伝に聞いた秀吉が、これを強く所望するということがあった。輝元が在国する佐世元嘉(石見守)に充てた書状(『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門)には、「児三右持候さたむねの脇差之儀、石治少聞及、所望候、関白様へ申上候物候て、被召上さうに候間、其内とり度との事候、高麗さしたて不入候ハゝ、取返わきさし差上せ候様に申遣之由被申候」とある。これによると、件の「貞宗」は、もともと毛利家から児玉家に下賜されたもののようであり、元兼としては容易に承服できなかったようである。なかなか要求に応じない元兼に業を煮やした輝元は、元兼の嫡男元忠(小次郎)に充てて次のような書状を発する。

 

   彼仁当時肝心之人にて、中〱不及申候、大かたニ心得候てハ、可為相違候、

   三郎右申聞候、少も不可有疎意候、

脇差の事、切々被申候、延引候て、もし被腹立、はや不入なとゝ被申候てハ、大無興にて候間可相尋候、児肥可申談候、為此申聞候、かしく

 

天正十八年)八月廿四日    輝元公御判

 児 小次

◇例の脇差について懇ろに依頼がきている。これ以上長引いて、万一立腹されて、もう要らないなどと言われたら、大きく機嫌を損ねたことになるので、(状況)を問い合わせている。「児肥」が話をするので、よく相談するように。

 彼の人が現在、非常な重要な人物であることは、最早言うまでもないことである。いい加減に考えていたら大間違いである。三郎右衛門尉元兼とよく話し合い、少しも疎んずることのないように。」(*1)

 

 元兼の貞宗の脇差は、この後関白秀吉に進上されることになりました。

 

 上記でみられるように、大大名である毛利輝元が三成を「彼仁当時肝心之人」と書いており、中野等氏は「三成は、秀吉側近の重要人物として、その権勢は日に日に強まっていくという感がある」(*2)としています。

 

 しかし、正直に申し上げて、これ、そういう三成の権勢を示す逸話と言い切れるのか?という気がします。

 

 考えてみれば、天下人関白秀吉が脇差を所望しているのだから、配下の毛利家家臣としては一も二もなく進上すべき話でしょう。

 それを元兼がごねて、引き延ばしていること自体がかなり失礼な話な訳です。輝元は、それで秀吉が「もういらないわ」と怒りだすのを心配しているのですね。

 

 結局、元兼がごねているのは、使者の三成の知名度が当時の毛利家臣にとっては低く、「誰そいつ?」状態だったからでしょう。それゆえ、軽く扱われてごねられている訳です。それで困った輝元が、「あの人(三成)軽輩そうに見えるけど、『彼仁当時肝心之人』だよ」と説明しているのですね。輝元は、それを「最早言うまでもないことである。」と書いていますが、本当に言うまでもないことだったら、そもそもこんな書状書く必要ありません。

 

「いい加減に考えていたら大間違いである。」というのも、元兼が、実際に「いい加減に考えていた」という事の裏返しですね。

 

 上記の逸話から分かるのは、確かに当時の三成は秀吉の側近として急速に権勢を高め、京坂に在住する大名にはそれは理解されていたが、在国する家臣達からの知名度は低く、ゆえに軽く扱われた、という話になるかと思われます。要は、三成の権勢と知名度は全国区ではなかったという話ですね。(また、三成が毛利家の取次になるのは、もう少し先の話です。)

 

2.今井林太郎氏『石田三成』の記述について

 

 そういえば、なんか似たようなエピソード、昔読んだことがあるな、と思って調べてみると、今井林太郎氏の『石田三成』に似て非なるエピソードが紹介されています。上記とまったく同じ書状を元にしたエピソードなのですが、上記の書状を今井林太郎氏は、関白が秀次の頃の書状だと解釈し、「この脇差のことは、既に秀次の耳にも入っているので、秀次がほしいといい出すかも知れない。それ故その前に手に入れたいと申し入れたことがわかる。」(*3)としています。この今井氏の解釈では、関白秀次に先んじて、三成自身がその脇差を所望しているという話になってしまっており、「こういう傲慢な態度が、多くの人の反感を買っていたことはいうまでもない」(*4)と今井氏は述べます。

 

 しかし、この今井氏の解釈と結論は誤りです。中野等氏が述べている通り、関係史料のなかに「高麗」(朝鮮出兵)への言及があることから、この書状の年は天正十八(1590)年に比定され、この時の関白は当然秀吉になります。この脇差は、秀吉が所望し、秀吉に進上されるものであったことは、上記で述べた通りです。

 

 また『荻藩閥閲録』巻一七 児玉三郎衛門の項にある、文禄四(1595)年十一月八日毛利輝元の児玉元兼宛文書にも、「先年吉光脇差、是又太閤様へ進上候、」(*5)とあり、(中野等氏は、この文書の「吉光」は輝元が「貞宗」を誤ったもののようだとしています。また、文禄四(1595)年の太閤はもちろん秀吉です。)脇差は秀吉に進上したものだと分かります。 

 

(今井林太郎氏の石田三成記述は、全体的には三成に好意的である事を、念のため追記します。)

 

 注

(*1)中野等 2017年、p136~137

(*2)中野等 2017年、p136

(*3)今井林太郎 1961年、p222

(*4)今井林太郎 1961年、p223

(*5)中野等 2017年、p137

 

 参考文献

今井林太郎『石田三成吉川弘文館 1961年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館 2017年