古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第4章 文禄の役における黒田官兵衛の秀吉叱責は、三成の讒言によるものではない

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※以下の記載は、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社、2014年)を参照したものです。

(以下のページ記載については、上記書籍の参照ページです。)

 

黒田家譜』によると、朝鮮出兵文禄の役)の際に、「三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。」(p173)などの記述があります。その結果、秀吉は激怒し、危うく黒田官兵衛は死罪に問われそうになりますが、かろうじて赦免され剃髪して隠居に追い込まれた、という話です。

 

 さて、この話は事実なのでしょうか?この件については、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」に詳細に記されていますので、以下引用・参照します。

 

 黒田官兵衛は、文禄の役で朝鮮に渡海しますが、病を得て一時(天正二十・文禄元年(1592年)9月末)日本に帰国します。そして、文禄二(1593)年には、病も癒えたようであり、秀吉の命令を受けて再び官兵衛は、二月中旬、浅野長吉とともに再び朝鮮に渡ります。両者とも北上はせず、しばらく釜山付近にとどまります。(p168~169)

 

「さて、漢城をめぐる戦線は膠着し、厭戦気分も拡がるなか、明軍は捏上(でっちあげ)の勅使を小西行長の陣営に投じる。日本側はこれを明軍降伏(詫び言)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えた。石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かう。朝鮮半島を南下してきた奉行衆は官兵衛・浅野長吉と面談する必要を感じたようであり、梁山での合流と決した。」(p170)

 

 しかし、梁山の会見については「(前略)浅野長吉(弾正)のみが出向いたようである。一方の官兵衛は朝鮮半島での処置について秀吉の指示を仰ぐため肥前名護屋城に戻ることとなる。この間の経緯について、フロイスの『日本史』は次のように記している。

 

 関白(ここでは秀吉)は朝鮮に使者を派遣し、黒田官兵衛殿がその武将たちをもって赤国(全羅道)を攻略し、ついで越冬のための城塞工事に着手するように、と命令した。だが、朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であったので、彼らは官兵衛を他の重臣とともに、関白の許に派遣してその意向を伝えることにした。」

 

 ここでいう「赤国(全羅道)」とは具体的には晋州を指す。晋州は慶尚道に位置しているが、当時日本側は何故かここを全羅道に属していると認識していた。沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。五月二十一日、官兵衛は名護屋に到着するが、こうした行動は軍令違反ととられてしまう。秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返されてしまう。」(p171)とあります。

 

「この晋州城は天正二十年(文禄元年)十月に長谷川秀一・細川忠興らの軍勢が攻め落とすことができなかった。こうした経緯もあり、この時期の秀吉にとって晋州城の攻略は何よりも優先される軍事上の課題であった。官兵衛はこの晋州城攻略に何らの手配も施さないまま、名護屋に戻ったとみなされたのである。先に述べたように、官兵衛には官兵衛なりの理由もあったのであるが、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたのである。」

(p172) 

 

 また、「さらに、厳罰をもって臨もうとする秀吉には、官兵衛を他の諸将に対する「見せしめ」にする意図があった。」(p172)ともしています。

 

 以上のように、「いずれにしろ、官兵衛が秀吉の逆鱗に触れたことは事実であり、この背景について『黒田家譜』などは、三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。しかしながら、長吉が梁山に乗り込んで三成等と会談は行ったわけであり、秀吉による叱責の理由も既述した通りである。『黒田家譜』の挿話は、後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない。」(p173)としています。

 

 その後、日本勢は文禄二(1593)年六月末に晋州城を陥落させます。しばらく秀吉の官兵衛に対する怒りは解けず、死を覚悟した官兵衛は、八月九日付で息子長政に「遺言」と評すべき「覚書」を与えます。また、八月上旬頃までには剃髪し如水と名乗りますが、程なく許されて助命されました。これについては、本来であれば如水(官兵衛)は「成敗」すべきであるが、引き続き朝鮮に在陣して城普請等を進める黒田長政の奉公にも支障が生じるであろうから助命することとした、と八月十日付の長政宛秀吉朱印状で、秀吉は告げています。(p173~174)

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