古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第9章 蒲生家と石田三成の繋がりについて

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1.蒲生氏郷死去

 文禄三年十月蒲生氏郷が死去すると、嗣子鶴千世(のちの秀行)が跡を継ぎますが、しかし、鶴千世は年少(十二歳)であり、遺跡をめぐる問題を生じます。

 中野等氏の『石田三成伝』によると、

「家康は、秀吉の命によって、氏郷の没後間もなく娘を鶴千世に娶らせている。この婚姻は相続を条件とするであったと言われ、ようやく鶴千世の家督継承をみるが、蒲生家をめぐる混乱はこれでは収まらなかった。既述のように、この間に会津蒲生領では検地が実施されたが、それにともなう出米(石高の増加)の申告があまりに過少であり、また、洪水にともなう荒高の処置にも疑念がるとして、秀吉みずからが蒲生家年寄衆を糾弾する事態に至ったのである。

 蒲生家の年寄衆は五月吉日付で連署して、前田玄以・浅野長吉に「会津知行目録」を提出した。秀吉はこれにいちいち批評を加えた上で、「知行方之儀、年寄共如此不相届仕様、無是非次第候」と断じた。蒲生家は改易とされ、鶴千世には当面近江国で堪忍分二万石を与える、との処断がなされた。」(*1)

 この、秀吉の処断命令の写しは、諸大名に充てて発せられ、奉行衆の連署状も添えられていました。署名した奉行衆は、前田玄以・浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家の五名です。

 

 これは、「秀吉の希求する領国構造を実現できなければ、大大名であっても改易のやむなきにいたるという、過酷な現実を全国に知らしめるに充分な効果を」(*2)持ちました。

 しかし、「事態は三転し、六月二十一日になると、この改易処分は急遽撤回される。蒲生鶴千世の岳父となった家康の、秀吉に対する説得が奏効したものと言われている。」(*3)とされます。

 

 こうして、この時は鶴千世(秀行)の、会津領継承は波乱を含みながらも認められることになりますが、結局、慶長三(1598)年正月、蒲生秀行は蒲生の家中対立に対する家中取締不始末を理由として、会津九十二万石から宇都宮十八万石へ減封されます。

 

2.蒲生騒動

 この、秀行の宇都宮減封の原因となった蒲生家中の対立は「蒲生騒動」と呼ばれています。

 この蒲生家中の対立は、氏郷の生前の文禄二(1593)年頃からあり、白川亨氏によると、「名護屋出陣中、国元の仕置奉行で米沢城代・七万石の筆頭仕置奉行・蒲生四郎兵衛郷安派と中山城代・一万三千石・蒲生左門郷可派との家中を二分しての対立抗争があり。その時は白石城代・四万石蒲生源左衛門郷成の調停により一応収拾」(*4)されました。

 しかし、「慶長三年の内紛は、秀行の寵臣で仕置奉行の亘利(綿利)八右衛門を蒲生四郎兵衛が斬った事件があり、それに反発した蒲生左門が蒲生源左衛門等とともに、秀吉に訴えて蒲生四郎兵衛を追放する事件があった。

 蒲生秀行もまた怒って、蒲生四郎兵衛を斬らせようとするが、四郎兵衛は追われて石田三成を頼った。秀行から相談を受けた徳川家康もまた、四郎兵衛を石田三成に預けようとするが、秀行は四郎兵衛を憎んで拒否し、加藤清正に預ける、という、いわゆる蒲生家のお家騒動があった。

 それに対し秀吉は、蒲生秀行の家中取締不始末を理由として、慶長三年正月、会津九十二万石を没収して、宇都宮十八万石に転封する左遷命令を発した。」(*5)

 このお家騒動の際に、蒲生四郎兵衛郷安が石田三成を頼ったことから、このお家騒動→蒲生秀行減封処置は、三成を画策したものだとする説があります。(『蒲生盛衰記』『続武者物語』等)(*6)

 

 しかし、以下の事実によって、上記の説は否定されます。

1.蒲生四郎兵衛郷安を石田三成が匿おうとしていていますが、蒲生秀行の岳父徳川家康も同じように郷安を石田三成に預けようとしています。

 この事件では三成と家康は、蒲生騒動の事態を収拾するために、協力して事に当たっているのであり、秀吉の処置の裏に三成の画策があったという事はありえません。

2.三成は、減封されて録を失った蒲生家臣団を自分の家臣に引き入れることになります。これを三成による蒲生家臣団の吸収ととらえる向きもありますが、この騒動で三成が加増されたわけでもなく、旧蒲生家臣団を石田家に引き入れたのは、リストラされて困っている蒲生家臣団と、減封されて家臣をリストラせざるを得ず困っている蒲生家から家臣を迎え、救済するための処置といえます。

 この時、蒲生家から三成の家臣となった主なメンバーは、蒲生郷舎(今回の騒動の一方の発端となった蒲生左門郷可の次男)、蒲生大膳、北川平左衛門、蒲生大宅炊助、蒲生頼郷等であり、多くの元蒲生家臣が三成を頼り、関ヶ原の戦いでは三成の家臣として奮戦しています。

 特に、蒲生左門の息子である蒲生郷舎が、三成の家臣となったことは、この騒動で、三成がどちらの派にも肩入れしていた訳ではないことが分かります。

 3.関ヶ原の合戦後、蒲生秀行は、三成の娘婿(次女の婿)、岡重政を登用し、2万石の筆頭仕置奉行として重用します。(*7)三成が蒲生家を陥れ蒲生減封を画策したと、秀行が思っていたとしたらこれは考えられないことです。むしろ、減封となり家臣の処遇に困っていたところを助けてくれた三成への秀行の感謝が感じられます。     

 また、秀吉が蒲生氏郷を争乱の地である東北会津九十二万石を与えたのは、その大任を果たす器量があると見込んだからであって、その息子であっても年少で器量が不確かな秀行に当然に与えられるものではありません。年少の秀行には荷が重い大任であり、そのため秀吉が一時会津領を取り上げようとしたのは、むしろ当然のこといえます。

 家康が岳父となり後見をすることで、とりあえず秀吉は秀行の会津後継を認めたものの、結局、家中の統制すらままならない秀行に会津九十二万石の大領を治める能力はなく、蒲生騒動をきっかけに、身の丈に合った宇都宮十八万石に移したのは、秀吉なりの考えがあってのことだと思われます。

 

 前回のエントリーも併せ、以上のように見ていきますと、三成が蒲生氏郷を毒殺したとか、蒲生秀行の減封を画策したということはありえず、むしろ三成と蒲生家・蒲生家中の繋がりを考えると、三成と氏郷・秀行は親しい間柄にあったのではないかと思われます。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p246~247

(*2)中野等 2017年、p248

(*3)中野等 2017年、p248

(*4)白川亨 1995年、p157

(*5)白川亨 1995年、p157~158

(*6)白川亨 1995年、p158

(*7)白川亨 2007年、p122

 

 参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年