古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第11章 「地震加藤」はなかった?~文禄の役の加藤清正の一時帰還について

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地震加藤」という話があります。以下に概要を述べます。

 

 文禄の役の時、加藤清正小西行長石田三成の讒訴により、叱責を加えるために秀吉に呼び戻され、伏見の私邸で蟄居することになります。しかし、文禄五(1596)年閏7月13日に起こった慶長伏見大地震の際に、清正は秀吉の元に真っ先に駆けつけ、その捨て身の態度に感服した秀吉が怒りを説いた、というような話です。

 

 この「地震加藤」は歌舞伎や落語にもなり、人々の間に流布された話ですが、この話は史実なのでしょうか?

 中野等氏の「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戎へ光祥出版、2014年所収)に、この点についての検討がされており、結論としては「清正の帰国について、むしろ明使節の来日とそれを迎える儀式・饗宴への参列という事情を勘案すべき」(*1)、「こうしてみてくると、上述した「地震加藤」の逸話も史実ではなさそうである。清正の日本への帰還が小西や石田らの讒訴によるという説も併せて再考を要するのでは無かろうか。」(*2)としています。

 

 上記の結論の論拠として、中野氏は以下のように述べています。

 

1.文禄五年(推定)の五月十一日付相良頼房宛て島津忠豊書状に、加藤清正帰国予定の旨が記載されている(「仍主計頭(加藤清正)殿近日御帰朝之由風聞候」)が、特に讒訴による召還等を思わせるような記載はない。(*3)

 

2.秀吉が叱責を加えるために清正を日本に召還したという説は、キリシタン史料や朝鮮側の史料、さらに『清正記』や『清正高麗覚日御帰朝』などにはみえるが、菅見の限り(1.の史料も含め)一次史料から確認されるものではない。

3.この年の五月二日付島津忠恒島津義弘書状に、明の勅使を迎えるために、朝鮮に在留している諸将にも帰国命令が出されていることを示す旨が記されており、朝鮮に在陣する清正の帰国も明の勅使を迎えるためによることが考えられる。(結局、忠恒自身の帰国は延期になってしまいましたが。)(*4)

4.閏7月13日に起こった大地震を国許に伝える清正の第一報は地震から2日たった15日付で発せられ、その書状を見ると、

① 特に、清正が伏見に真っ先に駆けつけて秀吉を保護したなどの記載は一切見えない。

② 小麦の売買や唐船のルソン派遣、検見の実施など在地支配の詳細を伝えており、逼塞を命じられた様子は微塵も伝わってこない。

③ 地震発生時の清正居所については「伏見ニハいまた造作無之候あひた」とあり、この時期、いまだ伏見には清正の屋敷もできてはいないと述べており、この時伏見に清正はいなかったことが分かる。(中村等氏は、袖書きで今日から胡麻を取り寄せようとしている記述から、消去法で清正の居所は大坂であった可能性が高いとして、第一報を発するのが当日ではなかったのも首肯されるとしています。(*5)

 

 上記の中野氏の記述を考えますと、やはり「地震加藤」の逸話は史実ではなく、虚構である可能性が高いかと思われます。

 

 注

*1 中野等 2014年、p176

*2 中野等 2014年、p178

*3 中野等 2014年、p175~176

*4 中野等 2014年、p176

*5 中野等 2014年、p175~178

 

 参考文献

中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戎光祥出版、2014年所収)